2
黄昏の海で、ぼくは意識を取り戻した。
ボートの中には、ぼく一人。そして、冬木が残したアロハシャツと黄色のサングラス。
周囲を見渡す。海岸が見えない。どのくらい流されたのだろう。上半身を起こし、膝を抱える。
背中が燃えるように熱い。頭痛が激しい。
何があった?
ぼくは記憶を辿る。
潮の流れの中で、ぼくはボートに揺られている。
何があった?
緩やかな半円形の水平線の彼方へ、太陽が身震いしながら落ちていく。
紅色の空、光輝く海、死との境界線を仕切る一本の線が、鮮やかにときめき、そして消えていく。
海は無彩色の世界に沈んでいく。
ぼくは自問を止め、長い間瞼を閉じていた。
体を冷やす風が流れ始めたころ、ぼくは目を開けた。星が出ていた。これほど無数に輝いている星空を見たのは、子供のころ以来だ。
夜空は恐ろしいほど沈黙していた。
それなのに、海は呟き続けている。
冬木がいない。
冬木は死んだ? 海に落ちて、死んだ。
どうして? ぼくがボートから突き落としたから。
どうして? 泳ぎを体験させるため。
冬木は死んだ? ぼくが助けなかったから。
どうして? ぼくが意識を失ったから。
どうして? わからない。
北斗七星を捜した。柄杓の形。子供の頃、山奥の宿で、一度だけ捜した記憶がある。その頃は、星空に何の感情も湧かなかった。今は繊細な希望を星たちに向けている。
やがて、柄杓の形を示す七つの星が浮かんできた。そして、北極星を捜し当てる。小さな星、か細い光を放つ星。
その星は、たった一つの希望の象徴だ。生きることへのただ一つの方途だ。
北極星にボートを向け、漕ぎ始める。
だが、ボートは進まない。ボートは暗い海原を揺れているだけだ。
疲労が不安をかきたてる。疲労がぼくの体を覆っていく。この努力は、徒労かもしれない。
ぼくは、このままボートの中で朽ち果てていくのかもしれない。冬木の憎悪を浴びながら、ぼくはボートの中で干からびていくのかもしれない。不安が恐怖に変化していく。ぼくは、今何に救いを求めればいいのだ。
回想がぼくを絶望の淵へ引きずりこんでいく。
ぼくの責任でないことを、ぼくの責任であれ、と囁きかけてくる。ぼくの力ではどうすることもできない心の中の何かが、ぼくを責め続ける。
冬木はぼくに語りかける。おまえは俺をころした、と。
わからない、とぼくは答え続ける。おまえは、おれを殺した、と彼は責め続ける。
そうだ。ぼくが意識を失ったのは、太陽のせいだ。
おまえを殺したのは、太陽だ。ぼくではない。断固として、ぼくではない。
ボートは波に揺すられている。
肉体を蝕む無気力さが、ぼくにまとわりついてくる。
太陽と海の呪いなのかもしれない。そして、その呪いを導いているのは、冬木のぼくに対する憎悪なのだ。
今はただ自分自身の存在を確かめ、納得を得たいだけなのに。太陽と海と冬木が、ぼくを裁こうとしている。
これは、死後の世界なのか。暗く不気味で、しかも神秘的だ。
自分の死を意識している。
自然のように思えた。
ボートを漕ぐのを止めて、仰向けになって空を見上げる。
自問自答が、徒労に思えた。
ぼくは狂ってしまったのか。
早く夜が明けてほしい。
天空の四分の一を土星が占めている。その彼方に木星の赤い目玉が見える。
怖ろしい光景だった。
土星が徐々に地上に落ちてくる。リングがぐるぐる回りながら落下してくる。そして、その背後から木星の鮮やかな縞模様が大きくなってくる。
地獄に落ちていく。
ぼくは夜空に向かって悲鳴を上げる。
ぼくは絶叫した。
ぼくが殺したのではない。太陽が殺させたのだ。
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