正午の海
サトヒロ
1
ぼくと冬木は渚にいた。
風はなかった。真夏の太陽が激しく照りつけている。焼けつく暑さの中で光が蒸されてばらばらになり、視界はどぎつく煌めいている。
ぼくは高校時代の最後の夏を、冬木と千葉の海岸で過ごしていた。ぼくたちの周りには人影はなかった。遠くの海岸に、子供たちの姿が微かに見えるだけだった。
ぼくはポロシャツを投げ出して海に向かって駈けだした。波打ち際に浮いているボートを目指している。
冬木が追ってきて、ぼくの背中を突いた。ぼくは反転して尻もちをついた。彼は大口を開けて笑っている。僕も声を上げて笑った。
「陸の上では、俺のほうが強いんだ」
「そのとおりさ」
「怒らないのか」
「ああ」
ぼくは笑い続けながら頷いた。
二人は笑い続けた。
並んでボートまで歩く。
彼は鮮やかなアロハシャツを着、黄色いサングラスをかけている。
「海は、いい」
彼が息を弾ませながら言った。
ぼくは目を閉じて大空を見上げた。視界が赤く染まった。真っ白い太陽が、狂ったように身震いしているに違いない。
海は白波が美しく平和だった。
いかにも海が物静かだったので、彼はそう思ったのだろう。ぼくは太陽のほうが好きだ。海は得体のしれない不条理の寄せ集めのように感じられる。
ぼくはボートを海に向かって押し出した。
冬木は海のほうから引っ張った。
ボートは緩やかに潮の中に引きずりこまれていく。
彼はボートに這い上がった。
ぼくは勢いよくボートを海へ押し出していく。そして水しぶきの中を、若い小鳥のようにボートに飛び乗った。
「さあ、漕げ、山猿め」
ぼくは大声を上げた。
冬木は苦笑すると、ゆっくりとオールを回し始めた。ぼくはボートの中で大の字になった。
「いつ、泳ぎを教えてくれるんだ。約束しただろう、俺と……」
彼はぼくに顔を近づけて訊く。あまりにも太陽が眩しかったので、ぼくは答えることができなかった。
「おい、聞いているのか」
「水に慣れたか?」
「ああ」
「じゃあ、飛び込んでみろ」
「俺は泳げないんだ。分かっているのか」
「図体がおおきくても、まるっきり、駄目だな」
太陽は素晴らしい……。
ぼくは呟いた。
少しでも目を開けると、太陽が落ちてきそうだった。ぼくは目だけで笑っていた。
「あと二日で、俺たちの休みは終わりだ。プールで会う約束をしているんだ」
「草川、という、名だったな、その人」
「知っているくせに、もったいぶるな」
「綺麗な人だったった。瞳がいい。硝子のようだった」
「頭もいい。顔をいい。それにカネもある」
「すばらしい人だ」
「俺は、失いたくないんだ」
「分かっている。俺は、おまえの親友だから……。その気持ち、よく分かる」
「まさか、妬いているんじゃないだろうな」
「おまえが、彼女と楽しそうに泳いでいるのが、目に浮かぶ」
「そうか」
「おまえは、馬鹿みたいに笑って、彼女も楽し気にお前を見詰めている」
「そうか」
ぼくは瞼を微かに開けた。
冬木は満足そうに笑みを浮かべている。
「俺たちの違いと言えば、おまえが一歩先に、彼女に会ったというだけだから」
ぼくは呟いた。
そして、ゆっくりと上半身を起こした。
冬木はサングラスを外し、ぼくを見詰めていた。
ぼくは意識的に微笑みを浮かべた。
「そんなことは、たいしたことではない。おまえは満足できないし、俺も同じだ」
「俺は、満足している」
「考えてもみろ」ぼくは言った。
「おまえは泳げないし、彼女の前で、ぶざまな姿をさらけ出すに違いない」
冬木は眩しそうにぼくを見詰めている。
「もし、俺が裏切って、あの人と愛しあったら、おまえどうする」
冬木の顔が歪んだ。
「もし、そうなっても、俺は幸せになれない」
ぼくはそう言って、微笑を浮かべ何度も首を横に振った。
「俺は、今でも、幸せだ」
彼の言葉が太陽の光の中に消えていく。
太陽があまりにも激しくて、ぼくは体をボートの底に沈めた。じっと冬木を見詰める。ぼくは多分笑っていただろう。苦笑していたのかもしれない。その時、ぼくは、彼に対して悪意はなかった。だから、何も装う必要はなかったのだ。
ぼくは草川という女性には、一度しか会っていない。知っているのは、外見だけで、他のことは何も知らなかった。
「おまえ、あの子に気があるのか」
ぼくは冬木を見詰めて首を横に振った。
「でも、あの人は、綺麗すぎる」
「おまえは、馬鹿なのか」
「わからない」ぼくは言った。
「太陽が、激しすぎるんで……」
ぼくは冬木と悪ふざけをしていたのかもしれない。彼がむきになっていくのを、楽しんでいたのかもしれない。
ぼくは何も考えたくなかった。
太陽に顔を向けたままきつく目を閉じていた。顔中が熱かった。青く澄んだ大空と、白い太陽と、静かな潮の流れが想像できた。
ぼくは暑さに耐えかねて、海の中へ飛び込んだ。
冷たい潮がぼくの体を包み込んだ。
海の中から顔を出すと、空がぼくの頭上を閉じこめてしまった。
その空を切り裂くように、ぼくは叫んだ。
「飛びこんでみろ」
冬木の顔はひきつっていた。
「二、三度、水を呑んだら、助けてやるよ」
「何を言っているんだ、おまえは……」
「俺は、そうやって、教えられたんだ。一番の近道だ。ネチャネチャしていたら、いつまでたっても、泳げないぞ」
ぼくは海面から顔だけを出していた。
「笑うな」
冬木は怒鳴った。
ぼくは微笑んでいたらしい。平静な顔をしようとするほど、笑みがこぼれてくる。
「おまえは、どっちみち、海で死ぬんだ」
「おまえは、馬鹿だ」
ぼくはボートに這い上がった。
「俺が、漕ごう。おまえと入れ替わる。もう少し、浅いところに、行こう」
ぼくはそう言って、身を屈め立ち上がる。冬木もアロハシャツを脱ぎ、腰を屈めて立ち上がった。ぼくは彼の手を取った。
その瞬間、彼を海に突き落とした。彼は人形のように固まって、海の奥へ沈みこんでいった。
激しく揺れるボートの中で、ぼくはすばやく体を落とした。
冬木がもがいていた。
ぼくは微笑を漏らした。
彼は叫んでいた。声は聞こえなかった。
彼はひたすら救いを求めていた。
冬木の体が、顔が、眼が、海の色に深く染まりながら、潮の中に溶けこんでいく。
ぼくは楽しかった。そして笑っていた。
ぼくは立ち上がった。
そのとき、何か視野が異常なほど明るく、そして黄色くなるのを感じた。
太陽に顔が傾くと、正午の太陽が一斉にぼくに殺到し、次の瞬間、体中の力が抜けていった。
失っていく意識の中で、ぼくは呟いた。
「ふ・ゆ・き……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます