第4話 ぬくもり

 真っ白になったくしは、外気にさらされひどく冷たい。おれは「それ」を抱いたまま、参道のすみにひざをついた。


「死なせるために、からだを与えたのか?」


 桧皮葺ひわだぶき本殿ほんでんを見上げる。皇后きさいの梅と飛梅とびうめの鋭利な枝先が、屋根の両端を覆い隠すように広がっていた。銀色を帯びた表皮が冬の冴え冴えとした陽の光をはじいて、全体が白く光を放っているように見える。


「あんまりだ……」


 涙が頬を伝って、ぽたりとくしの上に落ちた。

 いいや、彼にひどい仕打ちをしたのはおれのほうだ。このくしが願ったのは祖母と共にくことだった、かみさまはそれを叶えようとしただけだ。幸せのかたちは、おれが勝手に決めていいものじゃない。寂しいからくなといって無責任に彼を連れ出し――悲しませてしまった。


 風が強くなってきている。ぬれた頬が冷え、ひりひりと痛んだ。しきりに本殿ほんでんの裏側に茂る背の高いくすのきが揺れ、参道に散らばる細かな砂が、つむじ風のかたちになってまきあがってゆく。



 ――面倒ごとですのに。


 ――なあに。袖振そでふり合うも、というやつさ。



 おれは顔を上げた。

 かすかに、花の香りがする。

 あたりを見渡しても境内けいだいには誰もいない。もちろんこの季節だ、花なんか咲いてはいないはずだ。


 ――ああ、ようやく聞こえたようだ。


 櫛を胸ポケットにしまい、立ち上がった。

 目眩めまいがする。激しい頭痛からくる、船酔いのような不快感。からだの重心が定まらない。


 ――おぬし、名は?


「名、前?」


 ――そうだ。おぬしの名乗なのりが必要だ。


 低い男声が、あまい香りと共にからだの中に流れ込んでくる。自分の意思では止められない。


古賀こが伊織いおり



 ――古賀こが伊織いおり、とらえた!



 強い風が吹いたとき、おれはついに、目を開けていられなくなった。







 空が不思議な色をしている。

 太陽が地平線にかかるときにだけ見られる、穏やかな薄い紫色が広がっている。


「起きたか」


 おれは声のしたほうへ身をよじり、からだを起こそうとひじをついた。たたみが一枚かれていて、その上に寝かされていたらしい。ふちから先には白い石畳が伸びている。


太宰府だざいふ、の境内けいだい? でも……」


 緑色の十二単じゅうにひとえを着た子どもがふたり、音を立てずに駆け寄ってきて、おれの背中に手をえ、からだを起こしてくれた。

 ふわりと、またあのあまい花の香りがただよう。


「ここは、なんだ?」


 目をおおうようにこめかみを押さえた。両隣にちょんと正坐したこどもは、同時に「飛梅とびうめさまの神域しんいきでございます」と言って頭を下げた。双子だろうか、彼女たちはしぐさまで瓜二つで、日本人形みたいに整っている。


 皇后きさいの梅は薄紅を、飛梅とびうめは白を、葉脈ようみゃくのように細く広がる枝先までいっせいに花開かせている。その周りをかこっているはずの柵は跡形もなく消えていた。

 二本の見事な梅の木の奥にはやはり桧皮葺ひわだぶき本殿ほんでんがあって、屋根の向こうにはたっぷりと葉を茂らせたくすのきが、満開の桜や、紅や黄に色づきはじめたかえでの葉と共に揺れている。寒くもなく、暑くもない。この場所には、四季が散り散りになってとどまっている。



「こちらに呼ばぬことには、おぬし、われらを感じとることすらかなわぬ」



 低くんだ男の声だ。

 飛梅とびうめの下にはいつの間にか、丸みのある白い烏帽子えぼしを身につけた男が立っていた。しゃくで口元を隠しながら、咲き誇る白梅はくばいをうっとりとながめている。男のまと装束しょうぞくは花と同じ、つややかな白。平安時代の束帯そくたいに似ているけれど、それよりも古い時代のものだろうか、すっきりからだに沿っている。


「いのちをつないで細く長く生きてきたが、付喪神つくもがみが消えてゆくさまは、はじめて見たよ」


飛梅とびうめの、かみさま、ですね」


「いかにも」飛梅とびうめは銀色の目を細めた。


「なぜ、おれを?」


「そうだなあ、おぬしと話してみたかったのさ」


 彼はてのひらの中で、透明なガラス玉をもてあそんでいた。玉の中では煙のような白いものが、ぐるぐると動き回っている。


「あのくしに会いたいか?」


「――まさか、それは」


 飛梅とびうめはにやりと口角を上げた。


(あいつだ。捕まってるのか?)


 白い煙はたしかに意志をもって、ぐるぐると回りながら抜け出る方法を探している――ように見えた。じっと見ていると、ガラス玉は男の装束の中に隠されてしまった。


「できるとも。だが古来こらいより神頼かみだのみには対価が必要だ。知っているだろう」


「おれのいのちと、引き換えに?」


 腰を反らせ、飛梅とびうめは高らかに笑った。


「ひとの子のいのちなど腹の足しにもならぬよ。そうさなあ、まずは……」


 とん、と砂の地面を蹴り、男はふわりと浮き上がった。そしておれの前にゆっくりと降り立ち、そのまま片膝かたひざを折る。


「おぬしの生きざま、見せてみよ」


「なっ……!」


 しゃくあごを持ち上げられ、男の右の長い指がひたいに触れる。手をあげようにも、両腕はすでに十二単じゅうにひとえの子どもにめられていた。ふたりは見た目に反して、岩のように重い。


 ずぶずぶと音を立て、男の指が入り込んでくる。皮膚を、骨を越え、脳の奥をえぐられる。痛みは――ない。


「気質は善良ぜんりょう。悪事を見逃せぬ正義感の強さが、たまに周囲との軋轢あつれきを産むことがあるが、気の置けぬ友人は決して少なくはない」


「やめ……ろ」


 脂汗あぶらあせにじんでゆく。飛梅とびうめは、ふんと鼻を鳴らした。


「十二のころからずっと弓術きゅうじゅつをやっているのだな? この土地の同年代には敵なしか。ほう、その戦歴を評価され、すでに最高学府さいこうがくふへゆくことが決まっている……」


 つぽんと音を立て、飛梅とびうめの指がひと息に引き抜かれた。それに引きずられてぐらりと上半身が揺れる。熱い胃液がのどまでせり上がっては落ちてゆく。


「おぬしの支柱しちゅうのようなものだな、弓術きゅうじゅつは。それに打ち込むことで、この性質が強固にかたち作られてきた」


 飛梅とびうめは立ち上がり、甘やかな目を細めて微笑んでいる。


「その弓術きゅうじゅつを差し出せば、あの象牙ぞうげくしにひと目会わせてやろう」


「そんなものはいくらでも」


 差し出したところで、またいつものように練習すればいいだけだ。飛梅とびうめを見上げると、「ああ」と言って彼は首を横に振った。


つるを引きしぼり、矢をる技術をもらうのではない。弓術きゅうじゅつを通しておまえが得たもの、そのものだ。いだこころ、鍛錬たんれんたのしむ感性、健康な肉体、集中力、正義感――」


「おれの、人格」


 口に出すと、こわばっていたからだから力が抜けていった。同時に、おれの両腕を絡めとっていた左右の子どものからだが離れ、彼女たちはまばたきのうちにすがたを消した。


「そうとも言えるかもしれぬ。――覚悟はあるか?」


 一度それらを差し出したあとまた弓を取ったとしても、得られるものはきっと違う。目に映るものをどう感じるかも変わるだろう。いいや、もしかしたらおれは、おれでなくなるかもしれない。

 飛梅とびうめとおれのあいだを、白梅はくばいの花びらが混じる風が吹き抜けていった。


「いえ……」


「やはり惜しいか、当然だ」


「あのくしは、祖母に会いたがっていました。六日前に亡くなった祖母です。おれにじゃなくて、祖母に会えるようにしてやってください」


「おぬしはそれでよいのか?」


「はい。おれのエゴで、悲しませてしまったから」


 背筋を伸ばして上体を折り、深く頭を下げた。

 そして顔を上げ、飛梅とびうめを見据える。弓をとったそのときから、毎日のように坐礼ざれいを繰り返してきた。きっと、この日のために。

 彼はどこかもの悲しげに微笑んだ。


見事みごと


 流れるような仕草でふところからガラス玉を取り出した飛梅とびうめは、それを指先でふわりと宙に放つ。

 くるくると回りながら薄紫の空を写しとったガラス玉は地に落ち、やがて砂が風に流れるように消えていった。

 自由になった白い煙が、細く長く、立ちのぼってゆく。


(今度こそ、ばあちゃんのところへ行け)


 煙を目で追う気にはならなかった。

 下を向いてまばたきをすると、太腿ふとももの上に置いた手の甲にぽたりと涙が落ちた。



「よほど、現世うつしよを去りたくないと見える」



 顔を上げた。

 白い煙がおれの目の前にとどまったまま、揺れている。とっくに、空に混じって消えてしまっていてもおかしくはないのに。


「このくしの意に反してまで、おぬしの願いを叶えることはできぬ」


 おれは膝立ちになり、両手を伸ばした。

 れられないだろうというのは、わかっていた。ただ――そうしたかった。


「『紅でも白でも、花がなくとも、そこにるだけで素晴らしい』」


 つぶやき、飛梅とびうめはふうと息を吐き出した。


「かつて貰ったことばへ、ささやかな礼をするとしよう」


 風が吹いた。無数の白梅はくばいの花びらが大きく円をえがき、おれたちのまわりを取り囲んでゆく。


「名は現世うつしよにその身をしばる。象牙ぞうげくし付喪神つくもがみよ、おぬしには『梅ヶ枝うめがえ』の名を与える」


 飛梅とびうめのことばと共に、花びらが煙に混ざり合ってゆく。そして、見覚えのあるすがたを、かたち作っていった。

 ゆるくうねる真珠色の長い髪、そでの長い、ひらひらとした白い羽織。髪と同じ色の睫毛まつげ縁取ふちどられたまぶたが、ゆっくりと持ち上がっていく。

 飛梅とびうめと同じ銀色に変わった目のなかには、今にも泣き出しそうなおれの顔が映っていた。その目の持ち主もまた、そっくり同じ表情かおをしている。


伊織いおり!」


 考えるよりも先に、おれの腕は彼を抱き寄せていた。


「この伊織いおりはなかなかにい男だ。新しいあるじに寄り添い、ながく生きるがよい」


 彼――梅ヶ枝うめがえの返事を待たず、飛梅とびうめは再度、ふっと息を吐き出した。

 とたんに白い花びらがおれたちのまわりに舞い上がり、視界をおおい尽くしてゆく。

 飛梅とびうめのすがたが見えなくなる、目を開けていられなくなる。その刹那、――彼のとなりに丸い光が集まって、女性のすがたをかたち作っていくのが見えた。


しずか


 梅ヶ枝うめがえの声が、風の中に溶けていった。








伊織いおり伊織いおり


 名を呼ばれて、はっと目を開いた。

 おれは飛梅とびうめのまわりを囲むさくの前に立っていた。あたりは仄暗ほのぐらく、すでに陽は落ちている。

 肩のあたりにふわふわと浮いている梅ヶ枝うめがえを見て、ほっと息をついた。


 彼はもうけてなどいなかった。それどころか薄い闇の中でも、真珠のように緑味みどりみつやを持つ白い髪や、きらきらとした銀細工のような目からは、生気せいきいて出ている気さえする。


「おまえ―― 梅ヶ枝うめがえ、よかったのか」


伊織いおりをひとりにはできないだろう」


「ありがとうな」


 胸ポケットの上から象牙ぞうげくしに触れると、ひらひらしたそでで口元を隠しながら、梅ヶ枝うめがえはむず痒そうに笑った。


「いいんだ。伊織いおりと一緒にいろんなものを見るんだ。それで――」


「うん」


伊織いおりくときには、今度こそ、おれもついて行くから」


 梅ヶ枝うめがえの声は、かすかにふるえていた。「おまえがそうしたいなら」と答えると、彼は笑って、ふわりと飛梅とびうめのまわりを一周し、そのままの勢いでぎゅうとおれの背中にきついてきた。


さわれるようになってる」


 胸のあたりに回された梅ヶ枝うめがえの手にれると、背後でびくりと彼のからだがねた。


伊織いおり、あったかいな」


 背中にほおせる梅ヶ枝うめがえほのかに温かい。

 おれは見事な枝振りの飛梅とびうめの木に向かって、小さく頭を下げた。


「帰ろう、梅ヶ枝うめがえ。また来ような」


 梅の花が、かすかに香った。



〈完〉

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象牙の櫛の付喪神 戸谷真子 @totanimako

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