象牙の櫛の付喪神

戸谷真子

第1話 寝ずの番

「もう少しはやく、会いたかったなあ……」


 ひつぎの木目を、象牙ぞうげ色の指先で男はするりとでた。まるで親が子を愛おしむように。

 真珠のように光沢のある白い髪がその頬にかかったとき、同じ色をした長い睫毛が伏せられていった。涙がなだらかな頬を伝ってゆき、あごの先からぽたりと落ちる。









 祖母のひつぎの上に、ふわふわと丸い光が集まってゆくのを、おれは静かに眺めていた。もしかしたらそれは祖母のかたちになって、またおれに微笑みかけてくれるんじゃないかと、淡い期待をしていたからだ。

 けれど現れたのは作り物のようにきれいな男の姿だった。男はごく薄い灰色に染められた中華風の着物の上に、ひらひらとした丈の長い白い羽織をまとっている。


 不思議と、怖いとか逃げだしたいとか、そういう風には思わなかった。目の前の男が泣いていたから。


 やがて男は顔をあげて、こじんまりとした花祭壇を振り返った。真ん中には、控えめに微笑む祖母の遺影がある。


「ばあちゃんを、天国に連れて行ってくれるのか?」


 おれがそう言うと、男はゆるりとこちらに向き直った。


「驚いた。伊織いおりにはおれが見えるのか」


「名前を?」


「知っているよ。おまえは、このしずかの孫だろう。いまは線香を絶やさぬように、ずのばんをしている」


「それくらいしか、できないから」


 学ランの襟元をくつろげ、パイプ椅子に深く腰かける。椅子の軋みが狭いホールに響いた。


しずかはおまえをいっとう可愛がっていたね」


「あんたは、ばあちゃんの、なに? ――守護霊? ってやつ?」


 浮き上がり、男はひつぎを越えておれの目の前にふわりと降り立った。


「おれはしずかくしだよ。見たことがあるだろう? 半月のかたちを少し長くしたような、象牙ぞうげくし。小さな紅い花をつけた梅の枝がってある」


 祖母がとても大切にしていたものだ。目尻の上がった男の目にはあのくしに咲く紅梅と同じ色の虹彩が宿っている。


「この国のかみさまは、百年のあいだ大切にされてきた道具にいのちをくださる。おれは外国とつくにの生まれだし、しずかに出会ってから百年には少し足りなかったけど……」


「それでも、会いにきてくれたのか」


「うん。しずかを見送りたかった。駄目でもともと、祈ってみたんだ。彼女のところに行かせてくれってね」


 霊的なものは信じていなかった。十八年間見たことがなかったからだ。でも、いま目の前には人間離れしたこの美しい男がいる。


「ありがとう、来てくれて」


 幽霊でも精霊でもかみさまでも、なんだっていい。男が祖母の友人であることには違いない。


伊織いおり、おれが見えるのなら頼みがある」


「頼み?」


「この身をひつぎの中に入れておくれ」


 男はおれの前に膝を折り、たもとから象牙ぞうげくしを取り出した。白色の長い髪が大理石の床にとろとろと広がってゆく。


「うちは土葬じゃないぞ。そんなことしたら、あんた、燃えてしまう」


「わかっている。でも、しずかはもういない。いのちが続いても悲しいだけだ」


 差し出された象牙ぞうげくしを手に取った。

 その歯はひとつも欠けていない。


「ばあちゃんはあんたを大切にしていた。燃やせばきっと、おれはたたられるな」


たたりなんか」


「あんたみたいなのがいるんだ、ないとは言いきれないだろ」


 神妙な顔をして、男は黙り込んでしまった。


「おれはいま、なにもかもどうでもいいと思ってる。こころにぽっかり穴が空いた感じってこういうことなんだろうな。でも、だからって自分の手でいのちを奪うのはごめんだ。……」


「すまない、泣かないでくれ」


 男の長い指先が頬に触れる――。

 しかし予想に反して、それはおれの顔をすり抜けていった。


本体じぶん以外には触れられないみたいだ」


 男はてのひらを見つめ、不思議そうにそう零した。


「そうか……」


 くしを学ランの胸ポケットにしまい、おれは立ち上がった。

 ひつぎの前で線香を何本か手に取り、蝋燭の火に傾ける。細かな作法があった気がするが、忘れてしまった。先端に移った火をふうと吹き消すと、白檀びゃくだんのかおりの白煙がふわりと広がって、すぐに消えた。


「これはあんたのわりに」


 香炉の灰に線香を立てる、その様子を男は食い入るように見ていた。やがて彼はゆるりと立ち上がり、ひとこと祖母の名前を呼んで、おごそかに手を合わせた。

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