第3話 両の眼

 最後に博多はかた駅まで出向いたのは県大会のときだった。じっとしていても髪の隙間から汗が流れてくるような過酷な蒸し暑さの夏の日。弓と矢筒やづつを背負い、ボストンバッグを脇に抱えながら雑踏ざっとうをかきわけ、だだっ広い駅の構内を肩から抜け出したところでようやく呼吸いきを整えられる。


 今は十一月半ば。平日でもやはり行き交うひとは多く、空気はじっとり水気をはらんでいる。改札を出たときには薄手のマフラーの下に少し汗がにじんでいた。


「とても速かったなあ」


 横にふわふわと浮いている付喪神にとっては、さほど不快な空間ではなさそうだ。

 さっきも彼は、快速列車の四角い窓に切り取られた景色が田園からビルの群れに移り変わってゆくさまを、子どものように目をきらきらさせながら眺めていた。


「楽しかったならよかったよ」


「うん、人間のいとなみが見えるのがおもしろかった。実り豊かな田畑でんぱたも、いろんなかたちの住まいもね」


「これからバスに乗るよ。さっきよりもっと、ひとの暮らしが近くなる。そしたら、すぐに太宰府だざいふだ」


 スマホで路線情報を確認しながらそう言うと、男は隣でだまりみたいに「わあ」と笑った。

 友人から「今日も休みなのか」とメッセージが届いていたけれど、見なかったことにした。





 路線バスの最前列、ひとりがけの座席につき、フロントガラスから左の窓いっぱいにかけて広がる駅前の風景を眺める。昔ながらの街だからだろうか、道路が狭く、向かい合う高層ビル同士の距離が近い。どこか押し潰されそうになる。

 付喪神はバスの運転が気になるのか、運賃箱をすり抜けて、運転手に重なりながらその手元を観察している。

 窓枠にひじを預け、おれはぼんやりと昨晩のことを思い返した。




 声をらげて、眠る男を起こした。

 もやのようにけてしまった男のからだが、そのまま薄暗い闇に混じって消えてしまうんじゃないかと思ったからだ。

 告げても、彼はどこか他人事のように「そうかあ」と言って笑うだけだった。


「驚かないのか?」


「もともと百年をてこの姿を得たわけではない。しずかと共にくために、動けるようにしてもらっただけだ。だから……」


 おれの表情をうかがいながら、横たわったまま男は続けた。


「だから、きっと長くはもたないんだろう」


「いいのか、おまえはそれで」


「わるくはないさ」男は紅い目を擦りながらうそぶいた。「こうして伊織いおりと話せたし、本だって読めた」


 腹の奥から怒りのようなものがき上がっては、言葉になる前に沈んでゆく。


「たしか人間は、別れの前に思い出をつくる」


「どこでそんなことを」


しずかとおれの秘密だ。なあ伊織いおり、別れがけられないのなら、そのときまで楽しく過ごそうじゃないか?」


 その口もとには体温の通わない笑みが浮かんでいた。






「このからだを得る前は、眠っているような心地でね。両のでものを見ているというのとは違って――しずかのこころが高まったとき、彼女のその感情や、彼女を取り巻く風景の一片ひとひらが流れてくるような感覚、だった」


 太宰府だざいふ天満宮には、思わず見上げるほどに立派なくすのきがいたるところに鎮座ちんざしている。ひとたび冷たい風が吹くと、濃い緑の葉を茂らせた枝が一斉に揺れ、あらゆる雑音が打ち消されていった。加えて今の季節には、その一面の緑を燃えるように紅いかえでの葉がふちどっている。

 見開かれた男の目の表面にも、その様子が艶やかに映し出されていた。


 今はどう感じるかだなんて、くまでもない。


「もっと見たい。行こう、伊織いおり


「おい、待て」


 両腕をひろげて、彼はふわりと風に乗った。


「いおりー、走れ!」


 真珠色の髪が、白い衣が、ひらひらとたなびく。

 紅い欄干らんかんの橋を抜けたとき、鳥居をくぐったとき、紅葉の浮かぶ手水舎ちょうずやのまわりをくるくると回ったとき、男の目はみるみる輝きを増していった。


(おまえに、もっといろんな景色を見せてやりたい)


 けれど、本殿へ続く楼門ろうもんの朱塗りの柱をくぐるころ――。彼の足先は、そのかたちを留めていられなくなった。


伊織いおり、連れてきてくれてありがとう」


 本殿ほんでんを見上げながら、男は言った。


「間に合って、よかった」


 左には皇后きさいの梅、右には飛梅とびうめ。すっかり葉は落ちてしまっている。けれど澄みきった青空の下、見事な枝振りを保つその姿には神性しんせいすら感じられる。

 境内けいだいにはめずらしく、誰もいない。くすのきがざわざわと揺れる音だけが聞こえる。――静謐せいひつ


しずかが好きだった場所だ。こので見られて、とても嬉しい……」


 男はこちらを振り返り、子どものように笑った。


「まだ、見せたいものは、たくさんある」


 おれはジャケットの胸ポケットから、縮緬ちりめんのはぎれで包んだ象牙ぞうげくしを取り出した。二輪の梅の花からはいつの間にか紅いきらめきががれ落ち、白い象牙ぞうげがむき出しになってしまっている。


「結局、伊織いおりには、つらい思いをさせてしまうね」


 悲しげにゆがむ男の目からも、とうに紅が抜け落ちていた。足先から上へ、上へ――そのすがたが、冷たい空気のなかに溶けてゆく。


「待て――待ってくれ」


伊織いおり、ありがとう。ごめんな」


「いくな!」


 くしを持ったまま、おれは彼に歩み寄り、そのからだをかきいだいた。

 その瞬間、男のすがたは散り散りになり、吐息のように、ふっと消えてしまった。

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