第2話 歳時記

「おまえたちは変なことにこだわるなあ」


 紅梅色こうばいいろの目を細めて男は笑った。

 たたみの上に置かれたライトの柔らかなオレンジ色が、彫像ちょうぞうのようになだらかなその肌をぬらしている。


「呼び名がないと不便なんだ、おれが」


歳時記さいじき』の春の項目を読み進めてゆく、そのおれのとなりで、男もおれを真似てごろりと布団にうつ伏せになっている――実際のところは少しだけ浮いているんだろう、彼は自分の本体である象牙ぞうげくしにしかれられないから。

 肩からなだらかに下がる腰までのラインに並行して、真珠色の髪がふわふわとただよっている。彼のまわりにだけ重力がないみたいだ。


「名などなんでもいいよ。『くし』でも『うめ』でも『象牙ぞうげ』でも」


 足をぱたぱたさせながら、男はどこか楽しそうに言った。たしかにそれらは男の本体をかたち作る要素だけれど、名前にするにはひどく味気ない。


しずかの本だ」


 枕の上のこの『歳時記さいじき』も、そしてライトの向こうに積まれた『美しい鉱物』や『植物図鑑』も、葬儀のあとに慌ただしく行われた形見かたみ分けで、象牙ぞうげくしと共に、おれのものになった。


 本に触れようと枕の先に伸ばされた指先はするりと表紙をすり抜けてしまった。彼はふうとため息をついて、わずかに肩を落とした。

 くし――という繊細な工芸品の付喪神つくもがみだからだろうか、男の指先は長くしなやかだ。性差を感じるほどではないけれど、どこか頼りなく、か細い。見た目の歳はおれと同じかすこし下ぐらいなのに、ふしの目立つおれの指とはちがう。


「読みたいなら読んでやるけど」


「ほんとうか」


「いいよ。どれにする?」


伊織いおりが読んでいるものを見せてくれたらそれでいい」


 おれたちはごそごそと肩を寄せた。

 弟がいたらきっと、こんな感じだろう。


「おまえは春っぽいデザインだし、春の名前がいい気がするんだよ」


「じゃあ、やはり『梅』じゃないか?」


「『梅』って感じじゃないだろ、おまえは」


「『梅って感じ』、なんだそれは」


「品のよさそうなおばあちゃんとか、梅干しっぽくはないってこと」


 男は「よくわからない」と言ってちいさく笑ったあと、くあ、と猫のようにあくびをした。


「眠いなら、先に寝てろ」


「うん。伊織いおり、手を貸しておくれ」


「ん」


 生まれたばかりの付喪神つくもがみは、ひとの体温を好んだ。祖母の葬儀が終わった三日前のその夜、眠りに落ちてゆく感覚が恐ろしいと言うから、なだめるようにくしの側面をでてやった。それがはじまりだ。以来、彼が寝つくまではてのひらを貸してやることにしている。

 ひらひらした袖先から落とされたくしを軽く握ってやると、彼はむずがゆそうに微笑んだ。


(まあ、そのうち慣れるだろ)


 祖母からもらった『歳時記さいじき』は、主立った季語きごには写真がえてあった。現代文の授業でしか俳句に馴染みがないおれにも、祖母の目が見ていた季節のうつろい、その美しさのはじっこを、垣間かいま見た気がした。


「ああ、ここは……懐かしいなあ」


 隣で目をとろりとさせながら、男は穏やかにそうつぶやいた。


「どちらもき通ったきれいなかおりがする、枝振りの見事な木だよ。しずかに連れられてよく行ったんだ」


 太宰府だざいふ天満宮――その本殿ほんでんを、少し離れたところからあおぎ見るように撮られた写真だ。左には淡い紅色の皇后きさいの梅、右にはかの有名な飛梅とびうめと呼ばれる白梅はくばいが写っている。


「はじめてこの飛梅とびうめを見たとき、しずかはたいそう驚いていたっけ……」


「へえ?」


「ずっとあかい梅だと思っていたんだとさ」言葉と共に長い睫毛まつげふち取られたまぶたが伏せられてゆく。「どうしてなのかは、知らない……けれど……」


 あかい目が閉ざされたとき、すう、と男は一度長く息を吐き出して、やがてすやすやと規則正しい寝息をたてはじめた。


太宰府だざいふ飛梅とびうめか)


 目を閉じた男は、白梅はくばいせいだと名乗ってもきっと誰も疑わないだろうけれど。

 歳時記さいじきを閉じ、象牙ぞうげくしをそっとその上に置いた。


 半月を少し横に長くしたかたちの、古いくし

 右から左へ腕を伸ばすように削り出された白い象牙ぞうげの枝先に、たったふたつ咲くあかい梅の花。そのあかはライトの明かりをはじいて、川底にゆれる雲母うんものようにきらきら光っている。


(あれ……)


 よく見ると、花びらの先がわずかに欠けて、象牙ぞうげの白がむき出しになっているところがあった。ルビーかなにかが埋まっているんだと思っていたけれど、どうやら違うようだ。


「おまえ、これ」


 左隣を向き息を飲んだ。

 本来なら男のからだに隠れて見えないはずの、机と椅子の脚がうっすらと見える――男のからだが、のようにけている。


 かたちあるものは、いつか壊れる。

 祖母の遺体を前にして、痛いほど思い知ったはずだった。


(おれは何も、学んでない)


 生まれたばかりの付喪神つくもがみの終わりだって、そう遠くはないかもしれないのだ。

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