最後も飲み物を奢りたい
――そんなこともあったな。
頭を掻こうと右腕を上げるが狙いがずれて頭頂部に触れる。
なんだか皿を気にする河童のようだ。
架空の生物を連想するというのもおかしな話だが、それが一連の動作から導き出された思考回路の解である。
笑おうにも風が喉頭を通り抜けることもなく、もはやため息のやり方など忘れてしまった。
電気信号が正しく伝わっていない。
この目に映るものは変換された映像か。
それとも認識された光景か。
それは過去の記憶だったのか。
録画されたデータの再生だったのか。
もはや区別がつかない。
あれを仕組んだのが吉田であったことは事実として認識している。
今や結婚する必要もなければ、男女の区別すら存在しない世界においてあのような行為に対する意味などあったのだろうかと疑問に思ったこともある。
――人類として最後の務めを果たしたんですよ。
なぜかその言葉だけは今なお記憶に刻まれている。
それこそが、己が人間であったことの証左だと言わんばかりに。
我々が仕組んだことは非常にシンプルである。
一つ。
人々をマインドコントロールすること。
これは世の中の風潮をある方向へと導くという程度のことだ。
一つ。
人間の意識を脳から取り出し、移植すること。
電気信号すべてを解析し、そっくりそのままコピーすることに成功した。
一つ。
人間の意識を電脳空間に移すこと。
たとえ肉体は滅んでも、意識はずっと電脳空間に残り続ける。
増え続ける人口に対し地球の資源は浪費されていくばかり。
月への移住、火星への移住と様々な案が出されたが、どれも実行するのは非現実的だった。
圧倒的に資源が足りない。
何十何百億という人間を宇宙へ送り出すことなど不可能だ。
そこで秘密裏に計画されたのが「肉体を捨て、精神で生きる」電脳空間移住計画だった。
巨大な電脳空間を用意して、そこに全ての人間を移住させる。
肉体の死から解き放たれた新世界である。
詳しい仕組みは理解していないし、理解する必要もないのだが、太陽が存在する限り半永久的に電力供給がなされ電脳空間は維持されている。
仮に供給が途絶えてしまっても、予備電源で何十年と稼働し続ける。
その間に専門家たちが対策を講じることになっている。
さて。
では今ここに存在する我というこの機体は何であるか。
『電脳空間を維持する装置の監視者』という表現が適切であろう。
現実世界である外部から異常がないか監視するため、電脳空間から意識を切り離してアンドロイド型の機体に移送している。
はて。
現実世界とはおかしな表現だ。
ここはもはや現実ではないのだから。
今や人々にとって現実とは電脳空間、あちら側なのだ。
こちら側は抜け殻、荒廃した世界。
否、もはや終焉を迎えてしまった世界なのだ。
緩やかに衰退していく世界の監視者。
もしこの機体の通信が途絶えたら、直ちに別の監視者がやってくるらしい。
しかしかつて一度もそのような事態に陥ったことがないため、本当に現れるのかどうかは不明である。
他からの救助要請も一度もなかった。
果たしてどれだけの年月が過ぎたのだろう。
五年か、五十年か、五千年か。
もはや自分が何者であったかという記憶すら薄れていく。
目の前にある鉄塊は記憶が焼き付けた残像か、そこにまだ実在するの物質か、それすらわからない。
それでもかつての記録を辿って解を導くとするならば。
――今日もまた、誰もいない自販機の前で待っている。
誰かにコーヒーを奢りたいのだ。
コーヒーを奢りたいだけのお話 いずも @tizumo
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