最終話

 ここは、遠い昔に、僕が麻生来未あそうくるみと出会った場所だ。


 瞬く間に終わってしまう、一夜の夢の様なはかない人生の中で、無条件に自分の味方でいてくれる人と出会える事は、とても幸せな事だと思う。


 僕にとってのその人は、麻生来未であったのだから、尚の事、僕は幸せ者だ。


 今まで、僕という人間は、僕一人によって構成されているものだとばかり思っていた。


 でも、それは大きな間違いであったのだ。


 ようやく分かった。


 麻生来未は僕の一部であるのだと。


 そしてまた、この僕も、麻生来未の一部を構成しているのだ。


 一人だけれど独りじゃない。


 彼女に出会えて、本当に良かった。


 心から、そう思う。


 だって、僕はずっと、世界に一人りきりだったのだから。


 親も友達もチームメイトもいたけれど、それでもやっぱり、僕は一人ぼっちだった。


 人に紛れて、精一杯、一人ぼっちじゃない振りをしていたけれど、本当は、ずっと寂しかった。


 心から信頼出来る人と、一緒に笑ったり泣いたりしたかった。


 でも、僕には、そんな人と出会う事なんて絶対に出来ないと勝手に諦めて、心の中に誰も踏み込んで来れない様に、分厚い殻を作って、その中にこもって、震えながら体育座りしていたのだ。


 その殻を、思いっきり握りしめた拳で粉々に砕いたのが、麻生来未であった。


 生まれたての雛鳥が、世界で最初に目にした者を親だと思い込む様に。


 僕の心は、太陽の様に眩しい笑顔を浮かべる麻生来未の姿に、あっという間に奪われてしまった。


 分厚い殻を力一杯殴った彼女の拳は、相当傷んだに違いないのに、そんな痛みなど微塵も感じさせずに、麻生は、ただひたすらに、その温かな愛で僕の心を優しく包み込んでくれたのだった。


 彼女がいたから、僕はまだ、この世界に立っていられるのだ。


 だけど、もう……。


 いつの間にか、街に夜のとばりが下りていて、空には星が瞬いている。


 僕は、昔から、星空を見上げるのが怖かった。


 どんなに手を伸ばしたって、あの光り輝く星に、僕の手は絶対に届かない。


 人間が永遠の命を手に入れられないのと同じ様に、僕の手が、あの星に触れる日は永遠に訪れないのだ。


 そう思うと、胃がキュッとなって、なんとも言えない恐怖に包まれた小さい頃の僕は、堪らず叫び声を上げてしまうのであった。


 流石に、もう叫んだりはしないけれど、それでもやっぱり、星空は今でも怖い。


 空に向けていた視線を下に移すと、眼下に広がる夜の街には、色取り取りのネオンが光り輝いている。


 それはまるで、夢の世界であるかの様に、幻想的な風景であった。


 またしても、目の前の景色がぼやけたかと思うと、混ざりあって溶けていった。


 どうやら、僕の涙腺はバカになってしまったらしい。


 『本当にごめん。でも、僕は、あまりにも弱い人間なんだよ』


 誰にともなく独りごちた後で、僕は向かうべき場所へと足を踏み出した。


 夜の街を歩きながら、今までの人生の道のりを振り返ると、やはり、麻生来未の事ばかりが頭を過ぎる。


 今日までの15年間は、あっという間に過ぎてしまったけれど、麻生との思い出だけは、なぜだか時間軸を無視して、どこまでも無限に広がっていくみたいだ。


 それでも、今までの人生を一瞬とするならば、僕が思いのほか長生きをして、90歳まで生きられたとしても、あと五瞬で僕の命は終わるのだ。


 要するに、僕の余命はあと五瞬。


 僕は、余命五瞬の高校生なのである。


 ほうとうに、あっという間の人生だった。


 名残惜しいくらいに、あっという間であったけれど、でも、僕はこの人生に思い残す事は何も無い。


 心残りがあるとするなら、一つだけ。


 『やあ、こんばんは。こんな時間に、こんな所で奇遇だね』

 

 夜のグラウンドの真ん中に、僕の心残りが立っていた。


 『どういう事?』


 麻生来未が、震える声で尋ねてくる。


 『どういう事って、何が?』


 『もう猫殺しは起こらないって言ったじゃない』


 『言ったかな?そんな事』


 重い沈黙が夜のグラウンドを支配した。


 生温かい夜風が気持ち良くって、僕は、心地の良い沈黙に身を委ねる。


 『ここには猫が横たわっている』

 

 今にも夜の闇に吸い込まれてしまいそうなか細い声で沈黙を破った麻生は、【それ】を指差す。


 『あぁ、本当だね。ピクリとも動かない。夜行性だっていうのに、こんな時間に眠っているのかな?』


 『死んでるよ。だって、腸が引きり出されてるんだから』


 相変わらずのか細い声で発せられた【だって腸が引き摺り出されてるんだから】という言葉に、僕は思わず吹き出しそうになる。


 【ダッテチョウガヒキズリダサレテルンダカラ】


 あぁ、こいつは良いや。


 最高にウィットに飛んだブラックジョークじゃないか?


 小学生の時、同級生の母親のお葬式で大爆笑した時を思い出す。


 笑ってはいけないとなると、より一層、笑いを抑えられなくなるんだよな。


 死って最高に面白いジョークだよね。


 『そうか、死んでるのか。本当にそうなら残念だな。僕はただ眠ってるだけだと思うけどね。腸が、プッ、フフッ、ヒッ、引き摺り出されちゃってるけど』


 『本当に残念だなんて思ってるの?』


 麻生は、僕の目を真っ直ぐ見つめる。


 『どういう意味?』


 『これ見てよ』

 

 麻生の指し示す先には、猫の腸が転がっている。


 『これが何か?』


 『アンドウスバルに殺されたっていう文字になってるよ』


 『だから?』


 『君がったの?』


 ほとんど夜の闇に吸い込まれてしまった麻生来未の言葉は、しかし、何とか僕の耳まで届いた。


 『猫が殺されていて、腸が、フフッ、ヒッ、引き摺り出されていて、その腸が【アンドウスバルに殺された】という文字になっていたから僕が猫を殺した犯人なのかって?』


 面白い。面白過ぎる。

 

 あまりに面白いものだから、爆笑してしまいそうになるのを必死に堪えて、僕は、何とか先の言葉を続ける。


 『君のその原理でいくと、冤罪えんざいを作り上げるのはとっても簡単だね。殺した奴の腸を引き摺り出して、その腸で、罪を被せたい相手の事を犯人なのだと告発する文を作れば良いんだから』


 麻生は、相変わらず僕の目を真っ直ぐ見つめている。


 『フフッ、フフフッ、ウフフフフッ。ゔぁ〜い。そうだよぉ〜ん。僕が殺したんだよぉ。それで腸を引き摺り出して文字を作っのぉ。あまった腸は、ポッケに入れてあるんだ。ほらっ』


 僕は、猫の腸をポケットから取り出すと、それを生のまま口に放り込んだ。


 『うぅ〜ん。ヤミーヤミーヤミー。とぉ〜っても美味しいなぁ。ガムみたいに噛みごたえもあるし、ほらっ、こっちのポッケにも入れてあるんだ。君も食べるかい?』


 麻生は何も答えずに、僕を見つめる。

 

 『いらないの?美味しいのに。じゃあ、これも僕が食べちゃうよ。エイッ、パクリ。あぁ〜うぅ〜んめぇ〜やぁ〜』


 麻生が凍りついた様な表情をしているものだから、僕は一つ、面白い話をしてやる事にした。


 なんたって、麻生来未には、太陽みたいな笑顔がとっても似合うのだから。


 『猫をさ、殺す時に、極力傷をつけたく無いから喉を潰して窒息死させるんだけどさ、喉を潰した瞬間、猫が、ミッて言うんだぜ。ミッだよ?パンダの赤ちゃんと一緒。ミッ。プッ、ハハハハハッ』


 あれっ?


 僕、今すべった?


 めちゃくちゃ面白いと思うんだけど、今のお話。


 『どうして?』


 『どうしてって、何が?』


 『どうして猫を殺したの?』


 麻生の声は、99%夜の闇に吸い込まれてしまったけれど、僕の耳は、残りの1%を聞き逃さない。


 なんたって、僕は彼女を愛しちゃってるからね。


 『そりゃあ猫ちゃんが大好きだからだよ。決まってるだろ?この世界はさぁ、猫ちゃんが生きていくには、あまりにも残酷過ぎる。だから、心安らかに眠っていられる、あっちの世界に連れていってあげたんだよ。僕って優しいだろう?』


 なぜだか、麻生は言葉を失っている様だけれど、そんな事よりも、猫の腸マジ美味。


 皆も、良かったら食べてみると良いよ。


 ちなみに、生でチュルッといくのが、僕のお勧めの食べ方でございます。


 『この世界はねぇ、強くなくちゃあ、生きていられないんだよぉ。生きていたいんなら死に物狂いで強くならなくちゃあならない。こんなイカれた世界で、小ちゃくて弱い猫ちゃんが生きていられる訳ねぇ〜だろぉ〜がよぉ。だから殺してあげたのぉ。アレッ?分からないかなぁ?1+1=2なのと全く同じ理論だよ。あぁ〜、猫の腸うぅ〜んめぇ〜』


 なんで麻生は、あんな顔で僕の事を見ているのだろうか?


 お腹痛いのかな?


 あっ、そうか、生理なのか。


 『つまらなそうな顔をしているから、君に一つ、とても面白い手品を披露しよう』


 僕はエナメルバッグから、この日の為に買っておいたサバイバルナイフを引っ張り出す。


 『なにするの?』

 

 麻生は、すがる様に、怯えた目を僕に向けている。


 『手品だよ。マジック。大丈夫、とぉ〜っても面白いんだから。まぁ、見ていてよ』


 僕は、サバイバルナイフを頸動脈けいどうみゃくに押し付けてから、大きく息を吸い込んだ。


 あれっ?空気って、こんなに美味しいかったっけ?


 もっと早く、気付ければ良かったな。


 『このナイフをこうするだけで』


 押し付けたナイフを思いっ切り引くと、首から漫画みたいに血が吹き出した。


 マジック大成功!!イェーイ♪


 『ほらっ、こんなに簡単に、人間の命が終わりまぁ〜す』


 麻生が慟哭どうこくする。


 今日の彼女は、どこか、情緒がおかしいみたいである。


 やっぱり生理なのだろう。


 グラウンドに背中から倒れ込んだ僕の目に満天の星空が広がるけれど、不思議と、もうそれを怖いとは思わなかった。


 いや、むしろ……。


 『世界って、こんなに綺麗だったんだ』


 視界がどんどん狭まって、意識もだんだん遠のいていく。


 どうやら僕の命は、もう終わるみたいだ。


 『やっべぇ、勃起しちゃった』


 僕の目に最後に映ったのは、この冷酷無比な競争社会の真ん中で、小さな女の子の様に泣きじゃくる、僕の最愛の人であった。


 ありがとう。


 どうか君の人生が、幸せで一杯に溢れますように。


 『おやすみなさい』


 今度はいい夢が見られますように。



          完

 

 


 


 

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競争社会って疲れますよね?あれっ、僕だけですかね? GK506 @GK506

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