霧崎洵と鮎川哲也
神山雪
第1話
世界ジュニアが開催されたエストニアのタリンから帰ってきて3週間経った。
その間にシニアの世界選手権が終わり、4月になり、群馬でも桜が乱れ出した。今年は世界国別対抗戦がないから、世界選手権がシーズン最後の試合となった。
ただ、大体のスケーターには縁がない。縁があるのは、一握りのトップスケーターだけだ。
……その噂を聞いたのは、朝練のためにウォームアップしたリンクサイドだった。
「え、星崎雅ってカナダに行くんだ!?」
「今日朝のニュースで言ってた。神原出雲のいるトロントのクラブに行くらしいよ」
女子部員が何人か固まって話していたのだ。
いいなー、羨ましいー!という声があがる。神原出雲が所属しているトロントのスケートクラブは、世界屈指の名門として有名だ。……その羨ましい、は、世界トップの環境で練習できることなのか、神原出雲という日本のエースと練習できることなのか、どっちなのだろう。
星崎雅。
精度の高いトリプルアクセルと躍動感のある演技で、平昌五輪に出場したスケーター。先日の世界選手権でも3位と活躍していた。
……その名前を聞くと、俺は少しだけ平静ではなくなる。
汐音と同じ、トリプルアクセルを飛べる数少ない女子選手。
汐音のトリプルアクセルが蝶のようなら、星崎雅のトリプルアクセルは雄大な火の鳥だ。
トリプルアクセルは神からの贈り物。……そんなものではなく、ただ鳥か空を舞うように。ナチュラルにそれが飛べるから飛んでいる。
なんでもないことのようにトリプルアクセルを手中に収めている彼女の演技を見ると、僅かな苛立ちも感じてしまうのは否めなかった。
そして。
……もし汐音が生きていたら、彼女のようにオリンピックに出場するような選手になっていただろうか。
彼女の名前を聞くと、苛立ちと同時にそんな詮無いことを考えてしまうのだ。
「星崎雅って言ったら、鮎川哲也と付き合ってるって噂あったよね」
「ああ、あったあった」
「やだなあ。あたし、てっちゃんのファンだから。誰が相手でも付き合ってほしくない」
「カナダに行くってことは、別れたんじゃないの?それか、ガセネタだったんだよ」
……盛り上がりに程よくイラつきながら、俺は靴紐を強めに結んだ。他人の話で盛り上がっている場合じゃない。氷上に一歩足を踏み入れる。てっちゃんて。お前は鮎川哲也の友達か何かか。
平昌五輪、男子シングルフリー。
頭に鮎川哲也の演技が再生されそうになって、必死で抑えた。
彼に会ったら聞きたいことがある。そんな機会、来ない確率の方が高いかもしれないが。
……まさかそんな話を聞いた一週間後、本人を見かけるとは思ってもいなかった。
✳︎
土曜日の4時過ぎ。練習帰りの時だった。
高崎駅の東口を出たところに、その人はいた。
細身の背中。癖のない黒髪に、北国生まれらしい白い肌。整った顔立ちに……右足につけたギプスと松葉杖。
何故こんなところに、という疑問が頭の中に漂っている。
10秒か、20秒か。俺はその人を見つめてしまっていた。静かにベンチに座る姿は、トップスケーターにもアスリートにも見えない。普通の学生のようだ。彼はスマートフォンを扱うでもなくコーヒーを飲むでもなく、ただじっと高崎の街並みを眺めていた。
「霧崎君、だよな?」
視線に気がついたのか、彼が先に口を開いた。
静かな海のような声だった。
平昌五輪フィギュアスケート男子シングル日本代表。
18歳の若きトップスケーター。
鮎川哲也の真黒い瞳が、俺を見上げていた。
東京行きの新幹線までは30分ぐらい時間があるらしい。暇つぶしに店に入るのも早い時間に駅に入るのも億劫だった。適当にベンチを見つけて座っていたところ、俺に発見された。こういうことはよくある、と彼は苦い笑いをした。
「霧崎君の世界ジュニア見たよ。素晴らしかったし、魂を感じた。特にフリー。……クリスのトリスタンとイゾルデより、君のエリザベートの方が圧巻だった」
横浜の病室で見ていたようだ。昔の自分みたいだった、と鮎川哲也は付け足した。
「……どうしてこんな所にいるんですか」
頭の中に漂っていた純粋な疑問が難なく出てきた。
彼の練習拠点は横浜。関東と言えど距離はある。ギプスや松葉杖が語るように、平昌五輪で負った怪我も良くはなっていないだろう。移動は骨が折れるはずだ。
鮎川哲也はボディバッグの中からチラシを出して、俺に渡した。チラシには、和装を上品に着こなした若い女性が写っている。
「この人にお礼を言いに来た。在来線で来ようとしたんだけど、先生に止められた。でも新幹線で来てよかった」
水に浮いた花のような、澄み切った音を思い出す。
群馬を拠点に活動する箏曲家、高月澄花の演奏会のチラシだった。日付は今日で、会場は高崎市文化会館。
邦楽には詳しくないが、高月澄花の名前だけは知っている。
平昌五輪が開催された昨シーズン、鮎川哲也のフリーは高月澄花の曲だったからだ。テレビ放送を見ていると作曲家の名前は出てくる。それで彼女の名前を知った。
「……在来線で来ようとしたって、馬鹿ですか。それに人が作曲したものを滑るのは普通でしょう? その度に、いちいちお礼参りにでも行くんですか。」
チラシを返しながら放った自分の言葉に後悔する。
鮎川哲也は俺の言葉に気を悪くした風を見せずに、続けた。
「俺はこの人の魂を借りたから。人がどういう思いで曲を作ったのか。滑る時には必要になる時もある。……だから平昌の時、あの状態でも滑りきることが出来た」
魂なんて単語を、簡単に使ってくる。さっきの俺に対しても。
思い出す。平昌五輪、男子フリー。最終グループの6分間練習で、それは起きた。
その日は土曜日で、部室のテレビで数人の部員と一緒に見ていた。
あの瞬間。
隣で見ていた洸一さんの顔が青ざめるのがはっきりとわかった。似たような事故で、洸一さんは選手ではなくなったから他人事ではないのだ。
いや、洸一さんだけではない。あの事故はどんなスケーターにでも起こりうる。あの瞬間を見て、凍りつかないスケーターなんていない。
そんなあり得てほしくない事故が、一番起こってほしくない場所で起こった。
「1つ聞いてもいいですか」
「なんだ?」
「なんで平昌の時のフリー、ベースを取って主旋律だけにしたんですか」
俺は聞きたかったことを鮎川哲也に投げつけた。
「ベース?……ああ、十七弦箏のことか」
鮎川哲也のフリー。
箏曲家の高月澄花作曲の「てのひらの青」。
彼女が作曲した主旋律と、ベース……鮎川哲也が言うところの十七弦箏の二重奏の曲は、流れる水のように美しかった。箏曲に詳しくない俺でも、箏ってこんな音も出せるのかと驚くぐらいに。
だから余計に気になった。
「どうしてそれが気になったんだ」
「不完全じゃないですか。二重奏なのにわざわざベースを取るなんて」
ベースと主旋律が寄り添う事で完璧な曲だったのだ。流れのある主旋律を、ベースがしっかりと支える。ピアノ編曲版のロンド・カプリチオーソみたいに。
それなのに、彼は平昌五輪のフリーでは独奏部分だけの編曲に変えてきた。
わざわざ取るなんてあり得ない。
「……霧崎君は俺の演技を見てどう思った? それが答えになるかもしれないな」
彼が逆に問うてきた。
事故の後、棄権するかと思われた鮎川哲也は、頭に包帯を巻いて4番滑走で氷上に現れた。
あの4分半は異様だった。
「あれは……」
手拍子どころか拍手すら起こらない演技なんて初めてだった。会場にいる観客も、テレビを見る俺たちも無言だった。
彼が発する音を少しも聞き漏らさない、というように。
あの演技は賞賛、バッシング、指導者の責任を問う声等、様々な声が飛び交った。それでも共通した意見がある。
彼の滑りは音だ。
ジャンプが全て3回転以下でも、あの時の鮎川哲也の滑りは美しい、と。
「率直に言ってもいいんですか」
「当たり前だ。俺が聞いたんだから」
なら遠慮せずに言わせてもらう。
「……傲慢だと」
素直に言えと言ったのはこの人だ。だから素直に言った。この人が傷つこうが構うものか。言葉を続けさせてもらう。
「あの時のあなたの演技。主旋律に合わせて滑るのではなく、なくなったベース部分を滑ってましたよね。それは、主旋律の美しさを際立たせるためですよね。自分がベースになればその音はいらなくなるから。自分の滑りを影にして音を際立たせるなんて、傲慢もいいところだ」
あの滑りは、綺麗なものを大事に抱え込むてのひらで、光を際立たせる影だった。
だから俺は、能天気に賞賛する意見に苛立ちを感じた。
そして、わざわざ影を選んだ彼の選択に、余計に不可解さを感じた。
「……凄いな。どうしてそこまでわかったんだ?」
鮎川哲也は否定しなかった。俺は自分の推測が正しかったのだと知り……。言葉が詰まる。
どうしてわかったのか。
亡くなった妹。汐音はいつも明るかった。
自分が妹の影だったから、なんて言えるわけがない。
「なんで十七弦を外したか、は、君が言った通りだよ。あの主旋律は手のひらに落ちた水。俺が1番大事にしているものだから、それを抱きしめたまま滑りたかった。……それで十七弦を抜かしていたら、確かに傲慢だよな」
春の風が吹いた。方角的に、榛名山ではなく赤城山から。赤城おろしという季節は過ぎたが、4月だからかまだ冷たい息を孕んでいる。
彼が負けず嫌いだというのは有名だ。だが、話を聞くと随分とロマンチストだなと感じた。
「でもそんな傲慢な自己満足が許されるのも、フィギュアスケートの特権だ。霧崎君にも、似たようなときがあるんじゃないかな」
赤城山からの風が、俺と鮎川哲也の黒髪を撫でた。
「エリザベート」
鮎川哲也が呟いたのは、俺のフリーの曲だった。
俺の眉間がぴくりと反応する。
「君の演技、ルドルフの時も好きだったけど、世界ジュニアで衣装が変わったからびっくりしたよ。でも俺が1番好きなのは最後の締めくくりかな。死の影を乗り越えて生を掴んだように見えて。クワドがなくても、君は君の世界を作ってしっかり滑れるスケーターなんだな。あのプログラムは、君という滑り手じゃないと成立しないだろうな」
日が傾いてきた。自分の話をされるとは思わなかった。
核の部分を突かれた気がした。
自分の世界を滑る。
魂と己の技術との対話。
それが心地よく許されるのが、フィギュアスケートの特権だと。
……エリザベートにして下さいと朝霞先生に言った自分の声を思い出す。
「……時間、大丈夫なんですか?」
自分の話から逸らさせたかった。
俺の声に、鮎川哲也は腕時計で時間を確認し、松葉杖を使ってゆっくり立ち上がった。膝と足の甲が痛むらしく、わずかに顔を歪ませる。
「いい時間を過ごせた。流石に冷えたみたいだ。右足が痛い」
「億劫がらないで、どこかで休んでいれば良かったじゃないですか」
「やだよ。意外に人混みだったし。松葉杖で駅の中歩き回りたくないだろ。高崎って結構都会だな」
……横浜に住んでいる人間が何を言っている。だが、松葉杖で歩き回りたくないという意見は、非常に頷けた。
「次に会うときは試合かもな。その時は、全力で君を叩き潰すから」
話したのは、10分か、15分か。
別れ際に鮎川哲也は手を差し出してきた。左手で申し訳ないけど、と言いながら。
「……次に会うときが氷の上なら、あなたは俺の敵です」
言いながら、俺は、彼の意外に骨ばった手を握り返す。彼はアスリートらしく、強気な笑顔を見せた。その言葉が聞きたかった、と言いたいような。
鮎川哲也はそのまま背を向けて、高崎駅の中へと吸い込まれていった。
松葉杖に慣れた様子が、痛ましく感じられる。
ああなってまで滑りたいものがあるのは、幸福なのだろうか。そう考え始めて……考えるのをやめた。
幸福に決まっている。
怪我をしていようが次に会う時が氷上なら、彼は俺の敵だ。
この邂逅は誰にも話さない。
茜色になった高崎の街をしばらく眺め、俺は榛名学院へと引き返していった。
霧崎洵と鮎川哲也 神山雪 @chiyokoraito
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