第5話
部屋の明りを点けたまま寝てしまったので、なんだ目がしょぼしょぼする。
壁にかかった時計を見ると、既に午前六時である。明るいのは照明のせいだけではない。小鳥の鳴き声が朝を主張している。
依子はまず顔を洗った。次いでトイレに行って用を足して、うがいして歯を磨いて再度顔を洗って、やっぱり目がしょぼしょぼするので目薬を差して、でもって朝食まではまだ時間があるから明りを消してもうちょっと寝ようかと奈未がしがみついていた毛布をめくった。
「そろそろ起きなさい。私はまだ寝るけど」
奈未はそろそろと上半身を持ち上げて、そして急に咳こんだ。何の前触れもない、急な咳だった。しかも止まる気配がない。
時間にしたら一分くらいなのだが、奈未の咳は永遠に止まらないのではないかと思えた。そして急に口を押えると、そのまま走ってトイレに駆け込んだ。
依子の頭は一気に覚めた。
昨日の夕食になにか悪いものでも混っていたのだろうか。でもその割には自分は何ともないし……。まさか、つわり? あの女、お兄ちゃんが嫌がるのを無理矢理襲って孕まさせたのか!
五分たったが、奈未はトイレから出てこない。依子はドアを叩いた。最初は遠慮がちに、でも返事がないので強く。仕方がないのでドアを引っ張ったら、鍵はかかっていなくて、ゆっくりとドアは手前に開いて、それに張りつくようにずるずると奈未の身体が倒れてきた。
「ちょっと、奈未! しっかりしなさいよ。奈未!」
顔をさすってみた。頬を叩いてみた。でも何の反応もない。病弱だとか、余命いくばくもないとか、そんな言葉が頭の中を走りまわり、悪い方向へと考えが行ってしまう。意味の無い考えが浮ぶばかりで、どうしたら良いのか全く思い付かない。
途方に暮れているところに、玄関が開いて満が帰ってきた。
「おー、ずいぶん早起きだなあ。こっちはすっかり徹夜だよ」
「それよりもお兄ちゃん、大変よ、奈未が倒れちゃって、気を失っているっていうのか失神っていうのか意識不明っていうのか分からないけど、そういう状態なのよ」
満は無言で近付いて、まず奈未の口の周りの汚れを拭き、口に手をかざしたり、心臓の辺りを触ったり手首を握ったりした。
「呼吸はしているから喉がつかえてはいないみたいだ。脈拍もしっかりしている。でも病院には連れていった方がいいな」
「そ、そうよね病院よね。ええとお湯を沸かすのかしら」
「お前はいいから、奈未の荷物をまとめておいてくれ。連絡は俺がやっておく」
——三十分後、満と奈未は救急車で運ばれていった。
残された依子は、その時になって音楽祭当日であることを思い出した。
午前中は吹奏楽部の演奏で盛り上がった。
真由美たち文芸部の即売会は、隣で同じように即売会を開いた漫研に客の多くを持って行かれたが、そこそこの売上ではあったようだ。
兄からの連絡は正午を過ぎても入らない。便りが無いのは良い便りなんてのは大嘘で、電話の一つもいれてくれれば良いのにと兄を怨む。
奈未のことが心配な反面、本音を言うと自分の今日のステージのことが気になって仕方がなかった。もしかしたら自分のためにぎりぎりでも駆けつけてくれるんじゃないかという期待と、無理だろうという諦めと、奈未の身体より自分の都合を優先させてしまう自己嫌悪が依子を包む。そして最後にはステージの上で一人で立ち尽くす自分の哀れな姿をイメージしてしまい、手の平にしっとりとした汗を感じてしまうのだった。
午後になって弦楽部とマンドリン部と箏曲部と続き、最後にギター部の出番となる。午後の前半は地味ではあるが、演奏としてはなかなかのもので、どの演奏も半ば感心と感嘆が混じった拍手を受けた。
そしてギター部、孝治たちのステージである。
とたんに会場に落ち着きがなくなる。特に黄色くてさわさわした声が広がっていく。
小豆色の
ドラムの連打が響き、ギターがかき鳴らされた。歓声が上がった。
「うーん」
ステージ脇でその演奏を聞きながら依子は唸った。
予想より上手かった、いや上手くなっていたのだ。地道な練習はまんざら嘘でもなかったらしい。多少は彼らに対する評価を変えなければならないかもしれない。
それでもお兄ちゃんにはかなわないけどね。
やっぱり兄と一緒のステージに立てるチャンスを逃すことになったのは残念だった。折角「格好の良い兄」という貴重な状態を、みんなに披露する機会だったのに。
ギター部のステージは続く。陳腐な表現ではあるが、観客はもう乗りに乗っていた。
三曲ほど演奏し、最後にはグランドピアノの生演奏を交えたバラードまで弾きこなしてみせた。
「さあみんな! 俺たちの演奏はこれで最後だけど、ギター部はまだ終わっていないよ! ギター部の隠し玉! ヒイラギ・ウクレレ・ヨリコのパフォーマンスを聞いてくれ! サンキュー!」
孝治はそのまま走ってステージを去り、依子の肩を叩いて横を通りすぎた。通り抜けざまのその顔は「がんばれよ」という感じの爽やかなものだったが、今の状態の依子には敗北感を与えるだけだ。
兄は来ない。それでもステージには立たなければならない。
舞台係に背中を押されて、ウクレレを片手にとぼとぼとステージ中央まで歩いていった。スポットライトが目に眩しい。
この光は慘めな自分を照す光なのね。
幕が上がって、拍手が起こっても、気分はいっこうに盛り上らなかった。
観客の視線が痛い。あんな前振りをされてしまっては、逃げ出す訳にもいかないじゃないか。痛い痛い、視線が痛い。その痛さに耐えきれず、とりあえずウクレレを構えて音を出してみた。
ポロロン
どうしよう。このまま「禁じられた遊び」で胡麻化そうかな。なんだか疲れちゃった。
ポロロン
鳴らすコードも自然とマイナーの暗いものになる。
ポロロン
「こんなはずじゃあ……なかったのよ……」
ついつい言葉が口から漏れてしまっていた。
ポロロン
「待っていたのに……夢見ていた……のにぃ〜」
会場から小さな声がする。「演歌?」「演歌みたい」
ポロロン
「あなた〜は〜、あの女性の元に〜行ってしまったの〜」
ポロロロン
「でもね〜分かっていますぅ分かってい〜ま〜す〜うぅ」
ポロロンロン
「あなたは〜わたしだけぇの〜ものでは〜ないことぉを〜」
ポロロロンポロロン
「だけどぉ〜だ〜け〜どぉ〜」
ポロロン
「いつか、いつかぁ〜」
ポロン
「戻ってき〜て〜欲しいのぉ〜よぉ〜」
——バタンッ!
音楽堂の後部の扉が、もの凄い音を立てて開いた。
入口の中央には、スーツの男が仁王立ちになっている。
と思ったら、その男は凄い勢いでステージに向ってきた。しかも大八車を引いて脱兎のごとく迫ってくる。係の学生の制止を物ともせずに、客席の脇をすり抜けて舞台まで一気に駆け抜けた。
大八車の上には太鼓やらシンバルやらがくっついた怪しげな機械と、アコーディオンと、小柄な少女が座っている。
「奈未じゃないの! ってことはこっちの人って」
黒いスーツに赤いシャツに紺色のネクタイ。髪の毛はオールバックにしておまけにサングラスまでかけている。
「お兄ちゃん? どうしたの、その服」
「どうもこうも、俺は学会発表するときはこんな感じが正装だが?」
唖然としている依子を後目に、奈未は慣れた感じでピアノの椅子に座り、スタンダードなジャズを弾き始めた。会場の雰囲気がふっと柔くなる。満はステージ中央で、一見ガラクタの機械を設置し始めた。
「な、なにその機械」
「パーカッションを足だけで叩けるようにしてみた。おかげで昨日は徹夜だけどな」
四つのフットペダルが、それぞれシンバルとカウベルとボンゴとバスドラムに連動している仕組みのようだ。満は準備を終えるとアコーディオンを正面に抱え、さらに依子のマイクをひったくって
「さて諸君。今日は妹のために集まってくれてありがとう。
ああ、ありがとう、ありがとう。
ちょっとトラブルはあったが、まあ気にしないでもらいたい。
さて、ありきたりではあるが、言わねばならないだろう。
ショウタイムだ!」
奈未のピアノが激しくなった。タンゴ? いやこれもつなぎの演奏でしかない。そうして奏でられたイントロは、
——アステカを翔ぶ
満のアコーディオンとパーカッションがかぶさる。
依子はウクレレの弦に指を走らせた。
依子の心は遥か天空を翔んだ。
音楽祭の後、依子の高校にはにわかラテンブームが沸き起こった。依子はこれを機会にギター部を去ろうかとも思ったけど、極めて紳士的に敗北を認めた孝治の態度を見て、もう少し彼らと付き合ってみても面白いかと思い直した。
ただ孝治の「あの時ピアノを弾いていた美少女を紹介してくれ」という懇願については、
「何のこと? あの時ステージにいた
と、すっとぼけた。嘘はついていない。
奈未がいきなり演奏できたことについては、要するに彼女が通う大学というのは音大で、更に奈未はピアノ科の学生ということだった。聞いたことのある曲なら簡単に弾きこなすし、彼女が兄の自作の曲を知らないはずはないのだった。
更にその奈未が倒れたことについては、実は病弱というのは嘘ではなく、結構頻繁に気を失うことがあるのだそうだ。
「それまで緊張していたのが、前の晩のあんたとのやりとりで気が緩んだのよ」
と小声で弁明していた。
「でも、あんまり長く生きられないんじゃないの?」
「確かに五歳の時には二十歳までしか生きられないって医者に言われたけどね。十歳になったら三十歳まで、十五歳になったら四十歳まで、この前の検診では五十歳までって言われたわ。そろそろ妥協点かしらね」
ということだそうだ。
学外者を舞台に上げたことについては、部の顧問に呼び出されたが、「あれは誰だ」の問いに「兄です」と答えたところ、それを聞いていた年寄りの物理教師が間に入って取り持ってくれた。どうやら満は古参の理系教師の間では、良い意味で有名人らしい。
兄についてもう一つ。
音楽祭が終わってからというもの「あの時ステージでアコーディオンを演奏していた素敵な男性を紹介してくれ」という女生徒が、ひっきりなしに依子の元を訪れた。
その度に依子は同じ質問をすることにしている。
「もし仮にね、三台のビデオを持っていて、三台とも予約が十六件できるミツビシ製のデッキで、予約が全部アニメの放送の録画で埋まっていて、それを見ることだけが毎日の楽みっていう男子がいたとしたら、付き合いたいと思う?」
この質問で間違いなくすべての女子が逃げていく。
当たり前だ。
紹介なんかしてやるものか。お兄ちゃんは私たちだけのお兄ちゃんなんだから。
ウクレレで翔ぶ 木本雅彦 @kmtmshk
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