第4話
音楽祭前日の昼休み。依子はいつもと同じように教室で真由美と机を合わせて弁当を広げていた。関係する部活の生徒は、大抵部室で練習しながら食事をとっているから、教室にはところどころに穴が開いたようになっていた。
「妹ってのも大変なのね」と言いながら、真由美は弁当のカラアゲを口に入れた。
「そうなのよね。自分だけが妹だと思っていたら、実は実妹がいましただなんて、ドラマみたいな話しよね」
一応親友である真由美には事情を説明したけど、さすがに奈未が長く生きられないかもしれないということは話していない。
「この後は、家庭裁判所に持ち込んだりするのかしらね」
「妹権を巡って裁判するっての? それも良いわね。私の勝利だろうけど」
「こんなの過去の判例があるのかしら。そもそも妹権って、基本的人権に含まれてたっけかなあ」
真由美は二つめのカラアゲを取ろうとして、やっぱり思いとどまって、今度は依子の弁当のソーセージに箸を伸ばした。
「依子のお弁当って、自分で作っているのよね」
「そうよ。お兄ちゃんにも作って持たせているの。偉いわね、私。やっぱりお兄ちゃんは私のものね」
「手作り弁当って、餌付けとマーキングが同時に出来て便利ね」
「敵が現われた以上は、なりふりかまってられないわ」
「でも依子は他の男子にも目をやったほうがいいんじゃ、あら、」
真由美が見上げたその先は教室の後ろのドアで、女子のザワザワ声の発信源だった。そのざわめきは水面を波が伝わるがごとくに依子のほうに近付いてくる。
孝治だった。
「よう、ウクレレ。音楽祭の準備はどうだ?」
む。そんな事を言うためにわざわざ来たのか。
でも今の依子は平気である。兄という心強いパートナーを得たから、恐いものはない。挑発するように目を細くして答えてやった。
「ふふん。楽勝よ。楽みにしていなさいね。泣くんじゃないわよ」
「おおっ、ここに来て強がりか? 可愛いくないねえ、依子ちゃんは」
「名前で呼ばないでよ、気持ち悪い」
孝治は大仰に肩をすくめてみせた。会話に参加したくて仕方がなかった真由美が、そのタイミングを見て口を狭んだ。
「松代君は、練習バッチリなの?」
周囲に適度な距離をとって囲んでいた女子も、聞き耳をたてる。
「おうよ! こうみえても地味な努力は惜しまないのさ。練習すれば練習しただけ上手くなるからね。派手なステージと地味な努力が調和したところに、真の美学があるんだよ。趣味だからって、手は抜かないぜ」
練習してもヘタクソだけどね。依子は口に出さずに毒づいた。
「明日は絶対見に行くわね」
真由美はそんなこと気にもかけずに、幸せそうに孝治との会話を続ける。
「オッケー。絶対来てくれよ。観客は多いほうがこっちも演る気が出るからな。待ってるぜい」
孝治の声はわざらしく大きい。もちろん周囲の女子が聞いているのを意識してのことだ。
女子の間からひそひそ声が上がる。「行くわよね」「もちろん」とかそんな感じだ。
その声は孝治にも届いており、満足した孝治は「じゃあな」と愛想を振りまきながら帰っていった。
「ちょっと依子、本当に大丈夫なの?」
「ばっちりって言ったでしょ。秘密兵器があるんだから」
「じゃあ準備はもう必要ないのね」
「あったりまえ」
「それなら、文芸部の展示の準備、手伝って」
「何それ」
「音楽祭の会場に便乗して、同人誌を売るの」
「いいよ」
軽い気持ちで返事した。
結局、真由美の手伝いが終ることには、既に辺りは暗くなっていた。依子と真由美は二人で並んで学校を後にした。同じ文芸部でも、耽美系小説を創る部隊というのがいるらしく、その人達は店舗の装飾の準備が終らず、見回りの教師に追い出されるギリギリまで粘った上に、当日の夜明け前に登校して準備しようと企んでいるようだった。
真由美の書く作品は、本人の妄想癖に反して意外とあっさりとした歴史物で、学内よりも外部での評価が高いらしい。そんな訳だから、真由美としてはそれほど学内での宣伝に力を入れていないのだった。それでもこの時間だ。
「思ったより遅くなっちゃったけど、依子、大丈夫? 道、暗くない?」
「大丈夫よ。距離的には大したことないし。マユも気をつけてね」
「うん、じゃあね」
いつもの角で二人は別れ、依子は実家と反対方向へと歩く。
明日は音楽祭で体力勝負だから、晩御飯は元気が出るようなものにしよう。お兄ちゃんには頑張ってもらわなきゃ。そんな事を考えながら、アパートに向かった。
日はとっくに沈んでいるというのに、アパートは暗かった。兄はまだ帰っていないのだろうかと思いつつ、一応声だけはかけてみる。
「お兄ちゃん、ただいま」
「おかえり」
「うわ」
奈未の声だった。暗い部屋で、閉めた窓を背もたれにして足を投げ出している。
「あんた、まだいたの」
「そうよ」
「何しているのよ、電気も点けないで」
「何って、いつも通りよ」
「いつも通りって、これじゃあ引きこもりみたいじゃない」
「することがない時はこんな感じよ」
変な女。
そう思いながらも、斜め隣りの壁を背中にして、依子も暗闇に中に座り込んでみた。
目が慣れてくると、外からの鈍い光りを受けて部屋のなかの景色が浮んでくる。この部屋は満の趣味の物で溢れかえっている。見る者が見たら異様な世界だが、既に慣れっこの依子には、愛着がある部屋だ。
「お兄ちゃんは?」
「まだ。遅くなるって電話があった」
「そう」
暗い部屋は、時間の流れも鈍くなってしまったかのような気分だ。それとも、同じ部屋にいる奈未が時間を一生懸命引き留めてでもいるのだろうか。
「奈未、あのさあ」
「お姉さんって呼んでもいいのよ」
ふざけるな。
「あんた、どうしてお兄ちゃんにつきまとうの? 親が離婚しちゃったのなら仕方がないじゃない。別に向こうの家に不満があるわけじゃないでしょ?」
「……奈未は、ねえ、」
随分と間が空いてから返事があった。
「お兄ちゃまのお嫁さんになるの」
「はあ?」
「お兄ちゃまと結婚するのよ。だから一緒にいるの」
「あんたねえ、血ぃ継がっているんでしょうが。そういうのは、私みたいな義理の妹が言う台詞なの」
「お兄ちゃんを奪ったくせに」
「親の再婚なんだから、仕方がないでしょうが」
「じゃあ返してよ」
何を言い出すんだろう。
「妹として過ごした十年間を奈未に頂載よ。
本当は奈未が妹として十年過ごすはずだったのよ。そうしていれば、お兄ちゃまはただのお兄ちゃまだったはずなのに。毎日飽きるほど顔を合わせる、ただのお兄ちゃまだったはずなのに。それなのに十年間、たまの機会に会うだけなのよ。
そんなの他人と一緒だわ。赤の他人の、そこらにいる普通の男の子と一緒だわ。
そんなの……、好きになったって仕方がないじゃない。
だのに、血が継がっている兄妹なんて言うのよ。ひどいわよ」
最後のほうは声がかすれていた。
奈未は本気なのだ。
依子が「お兄ちゃん大好き」なのとは全然違う意味で、兄のことが好きなのだ。
でもやっぱりそういう気持ちは依子には分からない。兄はあくまで兄でしかないし、兄を好きなのとそこらの男子を好きなのとは違うと思う。ただ、それが一緒になってしまったら、なんか辛そうだなという気はした。
不思議な気分だ。奈未は妹の立場を争うという点でも、兄に女として好意を持っているという点でも、自分にとっては敵も同然である。しかしその敵に同情している自分がいるのだ。昨日の電話の内容も効いているのかもしれない。
いずれにせよこれは奈未自身の気持ちの問題だし、相談するにしても依子が相談できる相手は当の兄しかいないが、その兄も今はいない。じゃあとりあえず。
依子は立ち上がった。
「晩御飯の準備する」
「え?」
「明日、お兄ちゃんには頑張ってもらなくちゃ。あんただって、お兄ちゃんの格好良いところを見たいでしょ」
「じゃあ、奈未も作るの」
「いいわよ、あんたは。どうせ料理できないんでしょ」
「あら、出来るわよ。結構上手なのよ」
「そんなこと言って、『鴨とフォアグラのテリーヌ』みたいな役に立たないお嬢様料理しか作れないんじゃないの?」
「私が誰のために料理を覚えたと思っているのよ」
面白い、受けて立ってやろうじゃないか。兄のために料理を覚えたのは、依子だって同じなのだ。
三時間後、テーブルの上には多数の皿が並び、その面積はどう見てもテーブルよりも広くなっていた。テーブルをはみ出て更には二段重ねになっている。
意外とやるわねというのが、依子の卒直な感想だった。兄のためという目標は、こうも一途なエネルギーになるものか。好敵手と呼ぶには申し分ない。悔しいとかいう感情を通りこして、むしろ楽しくなってきた。
「お兄ちゃん帰ってこないね」
「そうね」
さすがにこれだけの料理を作るのには疲れ果てて、二人共再び床に座りこんでいた。それにそろそろお腹も空いてきた。
「あんたさ、」
「なあに?」
「向こうの家でもお兄ちゃんのことばかりなの?」
「そんなことないわよ」
窓を閉めてあっても、ちりちりという虫の声や隣家のテレビの音が漏れてくる。しかしこの部屋の中は、二人の話す声以外は静かなものだった。
「だって悪いじゃないの」
「え?」
最初何の話か分らなかったが、それが依子の質問に対する答えだと気がついた。先方の家族に悪いということだ。
「あんたでも気を使っているのね」
「あたりまえでしょ」
「でも、お兄ちゃんに会う時には、べったりなんでしょ」
「そうよ。『お兄ちゃま』って呼ぶと、パパもママもお兄ちゃままでもが、『奈未はいつまでも子供のままだな』って言うの。でも、そうしていれば、私は妹でいられるから。妹の振りしてお兄ちゃまの隣りにいられるから」
妹じゃない胸の内を押し殺して、それでも妹として隣りにいれることを選ぶ。
やっぱり奈未は本気なんだと思った。
病弱で余命いくばくもないのかどうか、本当のところは良く分らなかったし、本人に聞くのも気が退けたので確かめていないが、奈未は奈未なりに一生懸命だということは良く分かった。
テーブルの上に手を伸ばし、カニ蒲ぼこ入りのだしまき卵を一切れ取り上げてほうばる。
「それ、奈未がお兄ちゃまのために作ったのに、何すんのよ」
「いいじゃない一つくらい。それに案外おいしいじゃない」
「ふん。じゃあ奈未も、」
そう言って、依子が作った鯵のフライにかぶりついた。
「ふうん」
「なによ」
「美味しいじゃない」
「当たり前でしょ。お兄ちゃんのために作ったんだから」
「奈未のだってそうよ」
——。
やるわね、あらあんたこそね。そんな感じの目線が錯綜する。敵ではあるが、目指すところは結局同じ兄である訳で。
いつの間にか笑いあっていた。
「食べちゃえ」
「そうね、食べちゃえ」
それからは二人して、肉じゃがの味付けをこうしたほうが良いだとか、味噌汁にキャベツは邪道だとか、兄はモテないけどそのほうが良いだとか、そんな話をしながら次々と皿を空にしていった。
そして散々食べ散らかしたあとで満腹になって、いつのまにか二人で並んで床で眠ってしまった。
半分以上意識を失いながら、毛布をひっぱりだして、一緒にくるまったところまでは覚えている。
あとは夢の中だった。依子は夢の中で、兄と奈未と自分の三人でステージに立って演奏していた。夢の中の奈未のピアノは、悔しいけれど上手だった。
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