第3話
いくら涼しくなってきたからといって、くっつき過ぎである。
少女は満の腕にぴっとりと張りついて離れなかった。当然依子は面白くない。
「あんた誰よ」
「誰って、私はお兄ちゃまの妹よ」
「お兄ちゃんの妹は私よ」
「私のほうが本当の妹よ」
ハンカチでも取り出して、キーとか言いながら引き裂いてやろうかと思った。
「どういうこと? お兄ちゃん。もしかして他所で妹なんか作ってたの? 浮気したってこと?」
「なんで浮気になるんだよ。奈未は本当に妹だよ。血のつながった妹。母さんのほうに引き取られているんだよ」
「そ。つまり妹二号さんはあなたのほうなのよ。私が本当の妹」
「そんな話、私聞いていない」
「まあ話す必要もなかったからな。離婚した家族のごちゃごちゃした関係に、お前を巻き込むこともないだろうと思って」
「つまりあなたは部外者なのよ。オホホ」
キ————————ッ。
「で、その実の妹がどうしてここにいるわけ?」
「だって、お兄ちゃまの実家が火事で焼けてしまったって聞いたんだもの。心配で飛んできたのよ。ついでだけどあなたも災難だったわねえ。でも大丈夫よ。お兄ちゃまのことは、全部奈未がやってあげるから。あなたがいなくても平気」
そうしたら私は行くところがなくなるんじゃい。
「あのねえ、奈未ちゃん。おうちの人が心配するから帰ったほうが良いんじゃないの? 私はここしかいるところがないけれど、奈未ちゃんは帰るおうちがあるんでしょ」
「大丈夫。いまさら心配なんかしないわよ」
う、まずいことを聞いたかな。何か家庭の事情でもあるのだろうか。微妙な年頃だろうとは思うけど。
「でもやっぱり中学生なんだし……」
「奈未は大学生だよ」
うそっ!
「そうよ。二十歳なのよ。成人なのよ。お酒も飲めるのよ。大人の女だから自分の行動に責任が持てるのよ」
「あら、その割に随分とやっていることが子供みたいねえ」
「お尻の青い生娘はおだまんなさい」
「何よ、あんたは違うっていうの?」
「私の純潔は、お兄ちゃまのためにとってあるの」
うわ、きもっ! こいつ本物の電波女だ。
依子としては、これまでの人生、このタイプの女性には近付かないようにしていた。依子はどちらかというと直情型で、思い付きでつっぱしる性格である。ところが電波系お嬢様を相手にすると、その勢いが明後日の方向に流されてしまうのである。闘牛と闘牛士の赤いマントのような関係だ。君子であるなら、最初っから近付かないほうが良いに決まっている。
今回は、それが向こうから突っ込んで来やがった。
「あら、アコーディオンじゃない。お兄ちゃま、まだ弾いていたのね」
「しばらく弾いていなかったけどな。実家の火事場から掘り出してきたんだよ。明後日、依子の学校の音楽祭があって、それの手伝いするのだな」
「ふうん。私も手伝ってあげようかしら」
「結構よ。お兄ちゃんがいれば大丈夫。私とお兄ちゃんのステージなの」
「そんなこと言って、私、結構ピアノ上手いのよ。お兄ちゃまに影響されて、ピアノを始めたのよ」
「いいの」
奈未はふふんという目で依子を見た。無理しちゃってという感じの流し目だ。
確かに依子は無理をしていた。音楽の話題は自分と兄だけの共通の話題の一つだと思っていたからだ。後から割り込んできた奈未が、無遠慮にもそこに首を突っ込もうとしている。そんな事、認める訳にはいかない。明日のステージは死守しなければならない。
「強がらなくていいのよ」
「いいっつってるでしょ。あんたは黙って私とお兄ちゃんのステージを指咥えて見ていればいいの」
「ま、まあまあ二人とも落ち着いて。そうだ、風呂でも入ってだな、もう寝ることにしようじゃないか。狭いけどな」
「狭いのは奈未のせいね」
「ま、まあまあ二人とも、風呂でも」
「奈未、お兄ちゃまと一緒に入る」
ふざけんな、コラァ!
奈未を監視するために先に兄を風呂にいれて、次に奈未を風呂に入れて、依子は最後に入浴することにした。
ああ、なんだか風呂の水にまで電波が混じっている感じだわ。
上がり湯を浴びてバスタオルで全身を拭いた後も、わずかな電波水が身体にまとわりついているようで、そこはかとない嫌悪感を感じた。だが依子は潔癖症ではないし、本来細かいことを気にする
部屋では相変わらず奈未が兄にベタベタしている。
しまった順番間違えたか。でもこの場合どういう順番にすれば良かったのだろう。宣教師か何かを船に乗せるとかいう数学の問題があったような気がするけど、それと似た話だろうか。それにしてもあの女——、
鳴った電話を依子が取ったのは、たまたま近くにいたからというだけの理由だ。
「もしもし、柊です」
「あら、あのう、柊……満さんのお宅ですよね」
電話の相手は年配と思しき女性だった。
「そうですが、兄に何か御用でしょうか」
「あらあら、妹さんって……依子さん? 満の母です」
お兄ちゃんのお母さんってことは私のお母さん……じゃないことはさすがに分かるから、えっと、
「えっと、あの……実の……お母さまですか?」
「そうですそうです。こうしてお話しするのは始めてねえ。満から話だけは聞いているのよ」
兄は自分のことをどんな風に話しているのだろう。
「あ、電話したのはね、うちの奈未がお邪魔しているんじゃないかと思って。あの娘、とっても我儘だから、あ、良い子なのよ、だけど満のことになると聞かないからねえ。何か迷惑をかけているんじゃないかと心配になったのよ」
ええとても、それはもう口から火を吐きたくなるくらいに、とはさすがに言えなかった。
「ええと、来ていますけど、まあそれなりに何とかやってます」
「そう? なら良いのだけど、あの子、身体弱くて、よく病気するのよ。だから心配で心配で。小学校に入った時には、お医者さんに『あと十五年しか生きられない』って言われたくらいなの。だから周囲の皆が甘やかしちゃったのね。ごめんなさいねえ」
とてもそうは見えないんですけど、とはさすがに言えなかった。
「奈未がそっちに行っていることが分かればいいの。満には、私から電話があったってことだけ伝えておいてくださいね。依子さんに迷惑かけるかもしれないけど、ごめんなさいね」
「あ、いえ。大丈夫です。……はい。では」
電話を切った後も、変な気分だった。兄の母親だけど、自分とは赤の他人。そういう人と話したことで、自分と兄とが実は他人であることを、改めて認識させられたような気がした。
それにしても、小学一年生で余命十五年を宣告されたということは、奈未ってそろそろ危ないってこと?
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