第2話
「そんで? お兄さまとのラブラブ生活はどうなの?」
真由美は興味を顔中に蒔きちらしながら、依子の顔をのぞきこんだ。
「う、うん……まあね」
「お兄さま……、素敵な響きねえ。依子のお兄さんって、大学の先生なんでしょ。インテリなんでしょ」
「先生っていうか、助手。まだ先生とは呼んでもらえないんだって」
「それにしたってよ、銀ぶちの眼鏡をくいっと上げて、真っ白な白衣を着こんで、さらさらの髪の毛で、ちょっと冷いけど知的な目線をなげかけたりするんでしょ、大学の先生って。エリートなんでしょ」
「い……いやあ、それほどでも……ない、と思うよ」
「やっぱインテリの男はいいわよねえ。お金持ってそうだし」
真由美にとって結局男は顔なのか頭なのか金なのか。依子はこめかみをぎちぎちと押えた。なあんか、勘違いしているなあ。
火事のあと、依子の両親は短期貸しのマンションに引越した。父親の通勤に便利だからという理由だ。ところが、そうなると依子の通学には不便である。そこで仕方がなく、というか好機到来とばかりに、依子は兄のアパートに転がりこんだ。これなら時間的には自宅から通うのとほとんど変わりない。どうせ音楽祭のことで兄の協力を仰ごうと思っていた矢先のことだったし、丁度良いと思った。
兄に電話をしてから、自分の荷物をまとめてスポーツバッグに入れて、兄の部屋を訪れた。前もって連絡した甲斐があって、変な女がいかがわしい格好をして寝ているということもなかった。やれやれ安心だ。
「お前は怪我ないのか?」
「大丈夫よ。私は全然被害なかったの。焼けたのは私の部屋の反対側だったから、部屋も荷物も完璧に無事だしね」
「そうか、って待て。お前の部屋の反対側ってことは、俺の部屋じゃないか」
「そうよ。でも良いじゃない、どうせ帰ってこないんだから」
依子はわざと意地悪く言ってみた。親不孝で妹不孝な兄への皮肉のつもりだった。
「良かねえよ! あの部屋には俺の大事な荷物が、山と収納してあったんじゃないか」
「あんなの、古いものばっかでしょ」
「古いことに価値があるんだろ。もしかして、LDの数々も漫画の初版本の数々もいまや貴重なセル画の数々もベータのテープの数々も、全部燃えたってのか?」
「しょうがないでしょ、火事なんだかっら」
「うおおおおおおっ! DVDになっていないLDとかもあるんだぞ。ファイブスターとか。どうしてくれるんだよおっ! ああ、もしもの時のために、全部取り込んでMPEGにしておこうと思ってはいたんだよ。だけどついつい先延ばしにしていたらこのざまだ。なんてこったあああああい!」
ああまったくこのバカ兄貴。
依子が努めて思い出そうとしなかった兄の性癖がある。早い話が、この男はオタクなのだ。両親が再婚して、最初に出会った時からオタクなのだ。おそらく生まれた時からオタクなのに違いない。
依子も幼いころは「お兄ちゃんは色々なことを知っていて色々なものを持っている」くらいにしか思っていなかった。それが世間でオタクと呼ばれている人種であると知ったのは、中学生になってからだった。その当時の兄は大学生で、もうオタク生活を謳歌している真最中だった。女の影なんか微塵もなかった。
兄の部屋を開けたら女がいた、なんてことがあったら、妹としてどんなに幸せだろうかと考えることもあった。
「依子、ねえ依子、どうしたの?」
「ああああちょと眩暈が、ね」
「保健室行って寝たほうがいいんじゃないの? もしかしてお兄さんとの蜜月の生活で身体がもたないとか。それはいけないわ。いくら義理だとは言っても、兄妹なのよ。そんな、そんな淫らな生活!」
「違うって……」
どうして文学少女は禁断の恋の類いが好きなのだろう。確かに依子は兄の事が大好きだが、恋とは違うと思う。
真由美の言うように、兄は眼鏡をかけている。しかしそれは太いプラスチックの黒縁のオタ眼鏡だ。兄は髪の毛の一本一本はさらさらだ。しかしそれ以上に全体としてはぼさぼさのオタヘアだ。白衣を着ることもあるみたいだけど、作業着の代わりなので黄色の染みが点々としている。知的な視線というよりは、単に馬鹿馬鹿しいことは相手にしたくないっていう顔付きだ。
だけど依子は知っている。兄は顔の造り自体はそれほど悪くないから、きっとちゃんとした服を着ればちゃんとした見栄えになるはずだ。普段は冷淡な顔をしているけど、依子に対してはものすごく優しく笑ってくれる。
兄の良いところを、自分だけはきちんと分かっている。これだから妹はやめられない。
本心を言えば、兄の部屋に女がいて、もし兄のワイシャツを素肌に着てくつろいでいたりしたら、やっぱり全力で叩き出すと思う。
「マユ、あのね」
「なあに?」
「ビデオを三台持っていて、しかも予約が十六件できるミツビシ製のビデオで、その予約が全部アニメの放送の録画で埋まっていて、それを見ることだけが毎日の楽しみっていう男子がいたら、付き合いたいと思う?」
「絶対にイヤ」
良かった。やっぱりお兄ちゃんは自分だけのものだ。
「お兄ちゃん、さあ」
ポロロン
アパートの窓に腰掛けて、依子はウクレレを小さく鳴らした。夜風がこそばゆくも首筋を撫でていく。
「なんだ?」
満は寝ころんで、『魔法堕天使ポプリプリン』のビデオを見ながら答えた。
「今度音楽祭があるのよ、といっても明後日なんだけど」
「ほほう」
「私、ウクレレ弾くのよ」
「いいじゃないか」
「本当にそう思う?」
「ウクレレは心がなごむね。文化の極みだよ」
「真面目に答えてよ。そんでね、何の曲をやるのかまだ決めてないの」
「ハワイアンとかどうだ?」
「そりゃウクレレの定番なのは分かっているんだけど、もうちょっと渋いのがいい」
「じゃあ演歌」
「そうじゃあなくて。もっとこう格好良いのが弾きたいのよ」
「他の楽器とのアンサンブルとかにできないのか?」
「だって一人で演るって部活で宣言しちゃったもん。それに他の楽器もないし」
「楽器ねえ……。あ、あー、残念だなあ。俺の至高の宝物殿が健在であったならば、楽器くらいは打ち出の小槌のように出てくるものを」
「何よ宝物殿って。あの物置部屋のこと?」
アパートの近所に遠慮して、控え目にポロロン。
「あ!」
「なんだよ?」
「もしかしたら、焼け残っているかもしれないよ。探しに行こうよ」
「今日か?」
「そうよ。そして、もうとっくに少女の一人歩きは危険な時間よ」
「分かったよ、付いていってやるよ。あ、待て、今週の変身バンクはローズマリーちゃんだ。これを見てからだ、おぉっ」
「……好きにして」
それにしても夜の火事場跡は、凄惨なものだ。
「廃虚だな……」
「廃虚ね……」
住宅街の真中にぽっかりと人の住まない空間が出来てしまって、でもそのすぐ隣では普通の人が普通の生活を続けている。その対比がかえって焼け跡の虚ろさを際立たせていた。
わずかに残っていた隣家の骨組みは、すでに解体されている。依子たちの家もいずれ全部解体して建て直しということになるだろう。
「この家も十年かあ」
「お兄ちゃん、最初の頃しかいなかったじゃない」
「そう言うなって。一人暮しも人生経験には必要なものだ」
柊家宅の焼けた側は、まだその残骸が地面に残っている。それはやはり廃虚という表現がふさわしいように見えた。二人は焦げた木材を避け、変形したプラスチックの破片を足で除けながら瓦礫の山を進む。
「あ、トライアングル見っけ。こっちはシンバルだ」
「あ、メガゾーンの残骸見っけ。こっちはDAICONIVのビデオだ」
「ちゃんと探してよ。……小さな太鼓だ。これなんて言うんだっけ?」
「ボンゴ。おぉ、ダロスのLDの破片がぁ……なんだか切なくなってきたよ」
二人は更に秘境の奥へと足を踏み入れた。一歩踏み出す度に、真っ黒の小さな廃材が折れる音がする。
うつ伏せになって四本の足を星空に向けていた木の椅子をえいやとひっくり返すと、黒くて一辺が曲線になった怪しげな箱が現れた。
「宝箱はっけーん。なんだろう」
「あ、それは、」
「わあ、すごーい! アコーディオンだ」
満が一時期愛用していた、赤いアコーディオンだった。九十六ベースだけど、ちゃんと伴奏まで出来る本格的な奴で、二十万円は下らない。
「お兄ちゃんって、高校の時アコーディオン弾いていたよね」
「うむ、なつかしいな」
「お兄ちゃんが音楽祭で演奏したの見に行ったの覚えてるよ。なんだっけ、加納ナントカって人の曲」
「小林だろ。全然似てないじゃないか、ていうか似ているの顔じゃないか」
「あれ格好良かったな。あんな感じで、ラテンっぽくてジャズっぽくて、でもちょっとスピード感ある曲弾きたいな、私も」
満はアコーディオンのバンドに腕を通し、よっと声をかけて腹の前に抱えた。ケースがしっかりしていたお蔭で、幸いにも消火の水が浸み入ることもなく、状態は良好なように見えた。
蛇腹を固定しているベルトを外して、左手をベルトの間に通す。ゆっくりと蛇腹を伸ばしながら、右手を軽く鍵盤に走らせた。
「ふふん、十分鳴るじゃないか」
「ねえねえ、何か弾いて。私も合わせるから、ジャン」
「なんだウクレレ持って来たのか」
「もっちろんよ、ホレホレ」
満はそうだなあ、と言いながらいくつかコードを鳴らしたあと、「コンドルは飛んでいく」を弾き始めた。それに合わせて依子がウクレレで伴奏を付ける。
「ウクレレでも意外と良い感じね。本当はバンジョーかなんかだっけ?」
「いや本当はケーナっていう縦笛とチャランゴっていうギターみたいな奴。民族音楽は難しいな」
それでも気分は十分アンデスの高山だった。
「お兄ちゃん、どうして音楽やめちゃったの?」
「……」
「ねえ」
「特に理由はない。いや、あるといえばあるのかもしれないな、一言で説明するのは難しいのだが。
結局、人間の生産能力には限りがあると思うんだよな。例えばさ、高校の勉強なんて所詮は受身なわけで、何の生産活動もしていない訳じゃないか。まあ、それはそれで将来の生産活動の準備だから良いのだが、だからこそ高校の時は余った時間で音楽やったり出来たのだと思うんだよ。
ところが、今は理論であれ論文であれ、生産することが仕事になってしまったから、物を作るというエネルギーを趣味や余暇に回す余裕が無くなってしまっている……ように思う」
「ふうん」
いきなり小難しいで誤魔化されたような気もしたが、満が真剣に仕事しているらしいということは分かった。
この兄は根が真面目なのだ。オタクだけど。でも真面目なだけに、なんか他に楽しみがないってのが、何か可哀想に思えてくる。
「お兄ちゃんは音楽が嫌いになった訳じゃないのね」
「多分な。こうして昔みたいにアコーディオン弾いていると楽しいし」
「またやってみたら?」
「音楽か?」
「うん。良く分からないけどさ、たまにはその作るエネルギーってのを、ばばんと景気良く仕事以外にぶつけてもいいと思うんだよね。それで空っぽになっちゃったら、しばらくぼーっとしてみるのも良いんじゃない?」
「うーむ、そうだなあ。そういう発散のしかたはアリかもしれんな」
「そうだよ! そうそう。お兄ちゃんと一緒に演奏すれば良いのよ。明後日ヒマよね」
「いやそれほどヒマというわけでもないのだがな」
「ヒマよね。妹のピンチのためなら、時間くらい取るわよね」
「いきなり無茶言うなよ」
「良いのね? 私がステージの上で一人で寂しく『禁じられた遊び』を弾いて、部活の男子どもにバカにされて、勝負に負けたからとか因縁付けられて、制服を引き裂かれて、裸にされて、」
「それは許さん」
「じゃあ決まり。そうとなったら、早速練習しようよ。ねえ、お兄ちゃんが高校の音楽祭で最後に弾いた曲って覚えている?」
依子は旋律だけを数小節弾いてみせた。
「それか。良く覚えているなあ、そんな古いこと」
「これ何て曲?」
「『アステカを
「うそ!」
「本当だよ。当時ラテンフュージョンにはまっていて、そういう雰囲気でアコーディオンを弾けないかなあって作ったんだ。本当はドラムとベースとピアノもないと締まらないんだけどな。ま、仕方がないか。えっと、こんな感じかねえ」
右足で地面を叩いてリズムを取りながら、満は演奏を開始した。壮大ながらもスピード感のあるメロディーが左右の指先から生まれてくる。
「ひゃほ————————っ」
依子のウクレレがそれに続く。夜の廃虚に、アコーディオンとウクレレの情熱的な合奏が響き渡った。
「これで勝ったも同然ね」
アパートへの帰り道、依子は何度も両手を広げて道路の真中で踊るように回転した。
お兄ちゃんと合奏。観客全員が兄と自分の息の合った演奏に取り込まれてしまうだろう。これが踊らずにいられようか。勝利を手に入れることは間違いない。孝治たちも唖然とするだろう。本当の格好良さというのがどういうものか教えてやろう。
周囲のことなんか、まったくといって良いほど目に入っていなかった。だからアパートの前でぽつんと立つ少女に気がついたのは、満のほうが先だった。
「
満は少女目指して走っていく。依子と同じ高校生、いや中学生くらいだろうか。
少女は満を見付けると、ぱっと明りが灯ったように表情を明るくし、次いで顔をくちゃくちゃにして満にしがみついた。
「お兄ちゃま! 奈未、会いたかったの!」
『お兄ちゃま』ってどこの世界の言葉だろうと、依子は最初に思った。
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