第十話

昨日は忙しかったらしく一度も会えず、一昨日も早朝に一言挨拶は交わしたものの、ろくに顔も見ず、今日の夕方になって彼女はやっと帰ってきた。




〝返ってきた〟という方が正しいかも知れない。




姉である彼女は、約二日振りに会うとそれはもう、冷たい死体になっていた。




悲嘆する空気と嗚咽が混じり合う中、ガイキは白い布を掛けられたそれの前に立つ。

それは二つ並んでいて、少し離れた所に、更に多く並んでいる。

ただ、この二つの白い塊だけが、特別だと分かった。

その二つの一方の傍らで、ガイキと同じ歳のリリィロが縋り付くように泣いている。

ガイキは目の後ろを脳内から刺すような慟哭にただ立ち尽くしていたが、優しく背中を押された。

振り向くと、そこにはハイローが静かな顔をしていて、


「…最後になるから、お別れを言うんだ」


この時、ガイキは七歳だった。


歳の離れた姉に育てられて、この軍に入って約六年。

ガイキは音もなく顔を、姉の死を悼む白い布へと向け、ハイローに押されるままに姉の横に立つ。


喪服の者は居たが、全員ではなかった。


軍備に喪服なんてものは縁起が悪いとでも思ったのか用意がなく、皆それぞれ個々に所持していたものを身に着けていて。

移動の多いこの軍で、荷物を減らしたいからか用意していた者達は少なく、そして。




ガイキのものは、王の親族がそんなものを所持しては縁起が悪いからと、用意する許しすらなかった。




リリィロもまた、彼女の兄が王の夫だからと、用意がなかった。

幼いふたり共、喪服ではない暗い色の服を着ているだけ。


ただ、ガイキの隣、兄の遺体の側で泣くリリィロへと、静かに身を覆う黒い布が掛けられる。


普通、喪服と共に黒いベールを覆う事で、全身に黒を纏う事で死を悼む。

しかし喪服もない今は、ベールももちろんなく、ただその黒い布で彼女を包むしかない。


異様ではあったが、そうするしかなかった。


そしてその布は、ガイキにも掛けられる。

まるで、使わない道具に掛けられる埃避けだ。

ベールではなくただの布のその中からは、何も見えない。


きっと外からも何も見えていないのだろう。

内側から響く慟哭と震えだけがリリィロの悲嘆を知らしめ、ただ黙ってそこに居るガイキの無機質さを誇張した。


ふたりの傍らに、ガイキとリリィロは並んで座らされた。

黒い布に包まれたリリィロは隣に付き添う孤児母に抱き着いて声を枯らして泣いていて、ガイキはただ、何も見えないまま真っ直ぐに前を見た。

ガイキの隣に付き添うハイローは、そんな彼に小さく声を掛ける。


「大丈夫か?」


「…ああ、」


「泣いても良いんだぞ」


「大丈夫」


ハイローは少し会話を止め、ふたりの遺体に目を向けた。

王とその夫の死を悼むものが代わる代わる哀悼し、少し離れて並ぶ兵の遺族も、促されて泣きながら王への最後の挨拶をして、また自分の家族の亡骸へと戻っていく。


暗くなり始めた空で、いつもより多くの火が焚かれ、明るかった。

涼しい草原の夜が、少し熱い。


「…ガイキ、」


「なんだ」


「こんな時まで屈強で居ようとしなくていい。

おとなでも、泣いて当然だ」


「もし死んだのが俺なら、姉は泣かなかっただろう」


ハイローはガイキを見る。

ただの黒い布だ。

そこから、よく知る少年の声が聞こえるだけ。

一年前にその血の〝記憶〟を見てから、残酷な程おとなびた、いつも冷静な少年の声。


〝おとなびた〟というより、本当におとなになったのだろう。

普通の人が数十年を掛けて経験して知る節度を、彼はたった数秒で何百年もの〝記憶〟を自分の事のように目にする事で理解してしまった。

親しい者の死も彼は初めてだが、〝記憶〟の中では何度も見たのかもしれない。


「…いいや、泣くさ。

彼女は感情豊かだったし、お前を愛していたんだから」


「それでも泣かない。

姉は王として全うしていた。

両親に死なれ、幼い俺をひとり抱えている時にこの軍に声を掛けられて、俺を飢え死にさせない為にこの軍で王になる覚悟をしたから」


それに、と、ガイキは喋る。

ハイローは彼の言葉を静かに聞いた。

辺りに渦巻く慟哭の所為で、隣り合った会話なのに集中しないと聞き取れない。


もしかしたら、ガイキの声がいつもより小さかったのかも知れない。


「お互いに、どちらかが死んでも、泣かないと約束してた」


「!」


「姉さん…姉は、王だ。

俺は、姉が死ねば王になる。

俺か姉が死ぬ時は、戦いに敗れた時だ。

そうなれば、死ぬのはひとりじゃない。

実際、今日死んだのは姉だけじゃない」


ハイローはまた、目の前に広がる白い布の波を見た。

大海原だ。

壮観ではないが。

喉が熱くなって、胸に詰まる何かで吐きそうになるが。

それはまるで、大海だ。


全て呑み込み、帰って来なかった。


「そんな時に王が泣き崩れていたらどうなる?

そんな王で軍の皆が安心出来るか?

俺が使いものにならないと判断したら…王は誰になる」


ハイローは唇を噤んだ。

そうなれば、ガイキ達の後方で孤児母達に抱かれ、親が死んだとも知らずに愚図る王の幼い実子が次の王へと押し上げられるだろう。

軍の幹部達が彼、ベーディがある程度大きくなるまで軍の方針を取り仕切り、何も分からないままベーディは軍の王として育てられていく。


王の職務が辛いものだと、姉を見ていたガイキは知っている。


「姉は俺の為に軍の王になってくれた。

逃げ出したくても逃げずに、俺の側に居てくれた。

次は俺の番になっただけだ。

ベーディの為に俺は王として完璧に熟す」


ハイローは奥歯を噛む。

確かに、ガイキとその姉と、よく似た境遇になってしまった。

だが、大きく違う事がひとつある。




ガイキはまだ七歳だ。




彼の姉がガイキを抱いて軍に来た時は、彼女は十七歳だった。




両方こどもだが、十歳も違う。

この年代の十歳なんて、どれだけ違うか想像に容易い。


「…ガイキ、」


ハイローは、そっと声を掛けた。

黒い布が、ほとんど動かずにそこに在り続けている。

ハイローはガイキの膝辺りを一瞥し、とても、とても静かな声で。


「もう日が暮れて、灯りを焚いているとはいえ凄く暗い。

それに、今のお前はまるで、ただの黒い布だ」


軋む音がした。

それはきっと、自分にしか聞こえない微かなものだが、体を通してガイキには聞こえていた。


「普通、黒い布には顔なんてない。

顔がなければ表情もない」


ギリギリと、両膝に置いた拳でスボンを握っていた。

まだ七歳の幼い拳だが、こんなにも力があるのだと、ガイキは後にこの日を思い出す度に思う。


「何も見えない。

隠れてつまみ食いをするのと一緒だ。

お前を見付けようとする給仕係は居ないし、もし来たら、俺が追い払ってやる」


ガイキは、顔を俯けなかった。

何も見えない布に覆われていても、顔の角度は分かってしまう。


「お前は今、誰にも見られていない」


嘘だった。


まだ幼い彼は、大衆の前に曝されている。

自分を育ててくれた姉を失ったばかりの七歳の男の子は、先代の跡を継ぐ王として、無責任なおとな達に見定められている。


ちゃんと立派に振る舞えるのか。

王としての器なのか。


たった七歳の、後ろ盾のない男の子に。


ただ、見られているのは、黒い布だ。

ただ真っ直ぐ背筋を伸ばし、前を見据え、嗚咽を漏らさなければ、彼は〝立派〟に見られる。


「誰にも見られていない時は、王でなくて良い」


ハイローは、ガイキの事を良く知っていた。

姉に抱かれた幼児の頃から見ていて、ここ数年は剣術と体術を教えている。

ガイキに信頼されている自負もあった。

だから、ガイキがこんなセリフを言われても、頑なに〝王〟であろうと突き通すのも知っていた。


ここの軍の者はガイキを七歳の男の子とは見ない。

王の血を引き、そして今日から王として生きる存在だと見ている。


そんな彼らは、〝完璧な王〟という偶像を無責任に掲げている。

彼の姉が王を務めていた時から。

だから、ガイキは完璧な王でなくてはいけない。

完璧な王は、見えない所で王の責務を投げ捨てたりしない。


ハイローは、そんなガイキに言った。


「せめて、今だけでも」


一瞬だけ、その黒い布が震えたが、その後はずっと静かに前を見ていた。


ハイローは、この軍の兵士にしては珍しく、王血主義者ではない。

ずっと彼と、彼の姉を気に掛けていた。




憐れだと思っていた。




望んでいないのに王として祭り上げられ、生き抜く為にその椅子に座る。

だからハイローは、ガイキの〝逃げ道〟であろうとし続けた。


彼が、姉に何かあった時の〝保険〟として扱われるのではなく、〝ガイキ〟として居られるように。


彼が、先代の死を悼む優れた〝王〟として佇む裏で、〝姉を失った幼子〟として泣けるように。


せめて、黒衣の内側だけでも、たった数刻だけでも、嗚咽を漏らす事も許されない彼が、奥歯を噛んで、涙だけは流せるように。


軍の兵士達だけが死んだ時より、その告別は長かった。

王が死んだのだから当たり前だ。

朝焼けを見るまで、その式は続き、微動だにせず座るガイキの隣で、孤児母に寄り掛かってリリィロは泣き疲れて寝ていた。

布に覆われたままだが、それくらいは分かる。


多くの兵士が火葬され、孤児母に優しく起こされたリリィロの兄が、王の夫として焼かれた。

そして、最後にガイキの姉も火に包まれた。

誰かの家族としてではなく、この軍の王として。


煙が朝日に黄色い空へと立ち昇り、残ったのは、誰だか分からない骨だけだった。

兵士の骨はその家族が骨壷へと納めていたが、王の骨は軍の幹部達が順番に、代わる代わる骨を収めていく。

七歳のガイキの前で、壁のように立ち塞がるそれが消えて、数分振りに見た姉の骨は、残り三本と、灰だけだった。

ガイキはどこの骨か分からないそれを、黒衣に包まれたまま、腕だけと顔を少し出して、半分手探りで壷へと納める。


その壷を持つ権利は、幸いにもガイキに与えられた。


ガイキはまた白い布に覆われた大きな壷と腕だけを黒衣から出して抱え、王の死を悼む者達の嘆きを聞きながら、見えない道をハイローに支えられて歩く。


この布が、本来喪服に使われる薄いベールなら、と、考える。

この時の七歳のガイキが考えたのか、後にこの時を思い出したガイキが考えたのかは忘れてしまったが、ガイキは姉を失ってから何度も、この事を考えていた。




もし、この黒衣が普通のベールなら、ガイキが立派な王ではないとバレていただろう。

唇に歯型をつけながら、ただ声を潜ませていただけで泣いていたのだと。




だが、もし、この黒衣が普通のベールなら。

辺りによく見られ、辺りがよく見えるベールなら。




人の形をした姉の骨を、ちゃんと見れていただろう。




焼かれる前の、死を悼む白い布を取った、本当に最後の姉の姿が見れただろう。


剥ぎ取ってしまいたかった。

こんな黒い布は打ち捨てて、姉の硬く冷たい手を握りながら、例え傷だらけでもその顔を見たかった。


二日前の何の気のない褪せた記憶ではなく、瞳が潰れる程に強く焼き付けた今日の思い出を。


だが、そんな事をしては王ではない。

少なくとも、この軍を立ち上げ、賛同した王血主義者の彼らは、そんな王を認めはしない。

王のあるべき姿、なんて妄言だけで、彼らはこんな死者を出す戦争をしているのだ。

彼らにとっては、命より大切なのかも知れないが、ガイキには不毛に思えた。


「お前はまだ七歳だろう!?」


悲鳴のようなハイローの声と共に、テントの中がざわついていた。

普段はガイキは入室しない、軍の王と幹部達が会議をする為の作戦テント。

そこに、いつも参加する幹部と、空いた席を埋める為に新たに幹部になった者と。


同じく、空いた玉座に座る為に新たに王となったガイキ。


そして、赤ん坊のベーディがここに居た。

ガイキは、傍らにあるのが親の骨壷とも知らないベーディに哺乳瓶からミルクを与えていた。

慣れた手付きだった。


「姉が王として忙しい時は、孤児母の下で俺もベーディの面倒を見ていた」


「ああ、そうだ!

お前も…まだ本来なら孤児母の下で暮らすべき年齢だぞ!」


「だが、俺は〝王〟だ。

王としての務めを果たすなら、日中孤児母の世話になる必要はないだろう」


「だからって…ベーディを育てるのは無理だ!

孤児母が面倒を見てくれる!」


「昼間や、行軍に忙しい時は無理だろう。

だが、それ以外は俺が育てる。

姉だって、王として努めながら、ほぼ毎晩孤児母達から俺を迎えに来てくれた」


「あの時お前は一歳だったし、彼女は十七歳だ!

ベーディはまだ産まれて一ヶ月なんだぞ!

七歳のお前が世話をするのは心身ともに無理がある…!」


「分かってる。

だから、孤児母達の力も多々借りるだろう。

だが、俺が身内として引き受ける」


「ベーディはお前の甥だ、ガイキ…!

だが、親を失った甥や姪を孤児母に預ける奴は少なくない!

兵士職なら特にだ!

孤児母に預けたって、ベーディがお前の家族じゃなくなる訳じゃないんだ!

偶に顔を見せに行けば充分…!

本当に充分なんだよ!」


ガイキは哺乳瓶を机に置くと、ベーディを縦に抱いて背を叩いた。

実にこなれている。

ガイキは昨日まで孤児母達の世話になっていたが、ガイキの言う通り、ベーディが孤児母達に預けられている時はガイキが幼い甥の面倒を見ていたのだ。

だが、今日からガイキは王となる。

軍を仕切り、忙しく歩き回り、小難しい書類に目を通し、計画を立て、更にまだ未熟な戦闘術の腕を磨かなくてはならない。

へとへとになって、親の居ない七歳児なら本来孤児母達の下で眠る所を、王であるガイキは王の住むテントへと帰って独りで眠るのだ。


そこに、夜泣きの激しい赤子とふたり切りで過ごすとガイキは言っている。


無理だ。

体が持たない。

心も保たない。


ガイキは途中で投げ出したり、諦めたりはしない性格だ。

しかしどれだけ多くの〝記憶〟を持っていて、その知恵で子育てが上手くても、彼はまだ七歳だ。

頼れる相手ならここにこんなに居るではないかと、ハイローはガイキの言葉に断固として賛同しなかった。


「お前だって、孤児母達の世話になったから分かるだろう?

彼女達なら何も心配なく預けられる。

ガイキ!

お前はこれから、今までの何倍…何十倍も忙しくなるんだ!

自分のこともちゃんと考えろ!」


「考えた」


声が荒ぶるハイローに、宥めるような冷静なガイキの声。

静かに、音もない細やかな雨のようだった。

ぽつりぽつりと、ガイキは言う。


「考えたんだ。

ちゃんと。

それで…俺の為に、ベーディを引き取ると決めた」


ガイキの言葉に、幹部達の否定の声は弱まった。

まるで、納得するかのように。

説得に成功したかのように。


そんな気配に、ハイローは、ぐっと歯を食い縛る。

納得なんか出来る訳ない。

目の前にいるのは、〝ガイキ〟という名のただのこどもだ。

ただ、器用すぎて不器用なだけの、こども。


本当に、彼は、不器用なガキだ。

七歳らしからぬ言動と、知識。

まだまだ弱いが、このまま腕を磨けばハイローより強くなるかも知れない戦闘能力。




全て、彼の血が見せた記憶の〝所為〟だ。




少し前まで、ガジョウと一緒に生意気なガキとして悪戯をしていたのに、急に寡黙になった。

どんな記憶を見たのかと、その血を崇める王血主義者達は興奮気味に何度もガイキに問い掛けていた。

彼は、断片的で、完全な記憶ではないと説明していた。

だが、その回答だけで王血主義者達は、舞い上がって喜んでいた。


分かるだろう。

どうして分からない。

気付こうとしない。

生意気で、人懐っこくて、姉の邪魔をしないように甘えたい気持ちを我慢していた男の子が、数日で性格が変化した。

思慮深く、寡黙で、賢く、慎重な〝出来たおとな〟に。


楽しい記憶だけで、そんな性格になる訳ない。

幼いこどもが、人の一生で経験する事を幾つも見て知った。


悍ましい人の歴史や、裏切り、苦痛、惨劇、悲嘆。

それを見たその子に、どうして〝どんな記憶だったのか〟なんて聞けるんだ。


彼に流れるその血の所為だ。


王として軍に入った姉と共に、王の血筋だと一方的に、もうない玉座に座らされ、記憶を見て、王の器として振る舞い続けてきて、実際に王になってしまった。


姉を姉として送れず、普通の少年としては生きていけない。


「俺と一緒に逃げるか?」


小さな小さな声で、ハイローはガイキにそう聞いた。


結局、ベーディを引き取ると譲らなかったガイキが初めて甥とふたり切りて過ごすその夜。

本来は近辺で護衛をする事はあっても家族以外は入れない場所だが、まだ王が幼く初日だからと、ハイローは付き添いとしてガイキと共に王の寝床であるテントに入る事が許可された。


周りには、誰も居ない。

ハイローと、ガイキと、その腕に抱かれたやっと泣き止んで眠るベーディだけ。

ハイローは床に膝を突き、ガイキと目線を合わせて静かに、少し早口で言った。


「ここからずっと離れた所に、俺の故郷がある。

俺の父は王血主義者でこの軍に参加していたが、道半ばで死に、俺は父の後釜としてこの軍に入ったんだ。

故郷に来た軍の奴らは…断れば、どうするか分からない感じだったから…俺は、この軍に参加した。

俺は故郷で猟師と、他に用心棒として働いていた。

かなり田舎だがら、野生の狼や猪と、偶に野盗を追い払っていたくらいだがな。

本当に、本当に田舎だ。

畑仕事をして、自給自足で生きてる。

国の兵士が来ることもないから安全だ。

その村に…俺の、幼馴染がいるんだ。

もう何年も帰ってないが…俺の、大切なヤツが。

良いヤツなんだ。

ベーディも連れて逃げて、四影よにんで一緒に住めばいい。

家族として。

お前もきっと、彼女を気に入るよ。

俺の故郷も、畑仕事も、猟師の仕事も、」


ガイキは、黙ってハイローの言葉を聞いていた。

ハイローが王血主義者でない事は分かっていた。

だからこれは、罠でも何でもない。

ハイローは強いから、三影さんにんでその離れた故郷まで辿り着く事も心配はないだろう。


思わず、ガイキは頭の中で妄想した。

田舎の畑仕事をしている自分を。

テントではなく、小さな家で姉の死を悼みながらベーディを育てる自分を。

ハイローが今よりずっと簡素な装備で村の門を守っていて、もし、狼が出た時にはハイローが言う女性にベーディを任せ、共に戦う成長した自分を。


ガイキにとって、ハイローはとても大切な相手だった。

自分の事を、こんなにも考えてくれている。


だから、ガイキは妄想を振り払うように、首を左右に振った。


「…出来ない」


「どうして…ベーディも一緒にだ!

こんな小さなこどもに完璧な王を求めるのは可笑しい!

この戦争もだ!

王の血を持つ者が居なくなれば、この軍は消滅する!

戦争は終わる!」


「王の血を持つのは、俺とベーディだけじゃない。

彼らはまた、血眼になって王の血筋を探す。

それに…ハイローが俺達と共に消えれば、ハイローの故郷まで探しにくるかも知れない」


「上手く隠れれば良い!

村の近くには森もある。

良く知らない奴が入ると迷う森だ。

絶対に見付からずに誤魔化せる!」


「ハイローは、故郷の為に軍に入ったんだろう?」


小声で叫んでいたハイローは、身振りしていた腕を下げる。


「俺達が見つからなくったって、ハイローの故郷が無事なまま引き下がる保証はない」


「………、」


「俺だって…分かってる。

この軍は可笑しい。

王様なんて誰でも良い。

正しく導ける王なら、その血は正しい。

否定される筋合いはない。

…と、俺は思う」


「…俺もだよ、ガイキ」


「でも、彼らにとって正しいのは〝血〟だ。

実際、人の国があった頃は血筋が王位を示していた。

〝正しい〟んだ、ハイロー。

彼らは何も間違ってない。

それを信じて生きてきて、彼らは彼らなりにこの世界を〝正しい〟方に直そうとしている」


少し、ガイキは息を吐いた。


「俺達は人だ。

種族で分けられていない唯一の血族。

種族なんてないけど、個は個だ。

全員が同じ考えを持っている訳じゃない。

同じ考えの奴ばかりなら、生きていたって意味がない。

同意は楽しい考えだが、そこに新たな成長はない。

否定は不愉快だけど、何より有意義だ」


ガイキの腕の中で、ベーディが少し愚図った。

ガイキは揺り籠代わりに腕を揺らし、ベーディはそのまま静かに眠り続けた。


これは、姉から教わった訳ではない。

記憶の中で、子育てをしている誰かがこうしていた。


「ガイキ、お前は七歳だ」


ハイローの言葉に、彼を見た。

ハイローは目線を合わせようと、ずっとしゃがんだままだった。

ガタイの良いハイローがそうやって体を丸めていると、窮屈そうに見える。


「確かに、お前の〝記憶〟は断片的とはいえ全部で百年や、もしかしたら二百年分くらいの年月をお前に見させたのかも知れない。

だが、だからってお前が百歳になる訳じゃない。

お前はただの、七歳の男の子だ、ガイキ。

時には自分本位に振る舞って当然の年齢だ。

…何も考えないで良い。

俺やベーディの事を抜きにして、自分の気持ちで答えれば良いんだ。

本当に逃げるなら、俺がお前を守ってやる」


ハイローの言葉にガイキはまた妄想したが、それは先程よりも早く終わり、ガイキは静かに笑うと、


「無理だ、ハイロー。

俺は、俺自身はこの軍しか知らないんだ」


「…!」


「ハイローを抜きにして、ベーディも抜きにして…。

そうしたら、もう、俺は何も考えられない…。

そうしたら、もう、俺には何もない。

…、ハイロー…。

もし、俺が逃げ出して、それでハイローが大切にしている故郷やそこの者達が壊されるなら、俺は一生自分を許せない。

ベーディを置いて逃げたら、ベーディだけが捕まってしまったら。

…やはり、俺は一生悔やむ。

だから、ハイロー…俺の為なんだ。

逃げ出さないのは」


ハイローはそっと、ガイキを抱き締めた。

本当に、不器用なガキだと思った。


そんなのは、七歳のこどもが語る自分本位ではない。

きっと、彼にこどもらしさを求めるのは、完璧な王を求めるのと等しく残酷だ。

ハイローはただ黙ってガイキを抱き締め、ガイキはただ黙って、ガイキの抱くベーディに気を遣って優しいハイローの抱擁の中で佇んでいた。


ハイローは深く息を吐き、肺の中を空にする。

その空気で胸に詰まる凝りを吐き捨てた。

そして、ガイキを離し、彼の両肩を掴んで語る。


「ガイキ、俺はずっとお前の隣に居る。

お前がおとなになる頃には俺は年老いているだろうが、前線に共に立てる腕を保ち続けよう。

…ガイキ。

俺はこの軍に属する限り、お前を王として敬わなければならない。

だが、俺は決してお前を王とは呼ばない。

お前はガイキだ。

今は七歳のガイキで、来年は八歳のガイキ。

十年後は十七歳のガイキ。

ただそれだけだ」


「…ハイロー、故郷に帰っても大丈夫だ。

大切なヤツが居るんだろ?

姉さんは…とても、幸せだって言ってた。

好きな相手と結婚して、こどもを産んで…家族が出来て」


「バカ野郎。

そんなの〝七歳のガキ〟が気にすることじゃない」


「故郷に帰らないのか?」


「…帰って欲しいのか?」


ガイキは少し黙った。

黙ったまま、ひとつ、頷いて。




それから泣きそうな顔をして。

直ぐに涙を溢れさせて。


首を何回も横に振った。




ハイローは吹き出すように小さく笑い、俯くその頭を無遠慮に撫でる。

常に他者に気を遣うガイキの、ぐしゃぐしゃになった自制心の我儘が、とても愛おしかった。


「そうだ、ガイキ。

俺に遠慮なんかするな。

しかもここには俺とガイキと、ベーディしか居ない。

ふたり切りみたいなもんだ。

誰かの目を気にしなくて良い」


ガイキはしばらく俯いていたが、鼻を啜ってから顔を上げ、もう泣いていない、涙の痕のある顔でハイローを見上げる。


「ハイローの故郷って、どこにあるんだ?」


「俺の故郷はここから東に行った所にある」


「じゃあ、そこに行こう」


ハイローは意味が掴めずに黙る。

ガイキは頬を拭って泣いた証を完全に消すと、


「〝の国〟の北部はもうダメだ。

これ以上ここに居たらもっと兵が死ぬ。

ここより北に行けば兵は死なないが、資源も人もない。

国に一方的に力を持たれてしまう。

南部へ下ろうと、思ってたんだ。

だから、東回りで向おう。

それで、ハイローの〝大切なヤツ〟にハイローは会いに行ける」


「…俺の為にそんなこと、しなくていい」


「ハイローだけの為じゃない」


また、ハイローの為は自分の為でもあるなんて、利他的な発言をするのかと思ったが、ガイキは、


「見たいんだ」


「…なにを?」


「ハイローの故郷」


「それが…ガイキの為になるのか?」


ガイキは頷いた。

何がガイキの為なのだと、ハイローは眉間にシワを寄せて問うと、


「想像してみたい。

俺と、ハイローと、ハイローの大切なヤツと、ベーディ。

四影よにんで暮らしたら…どうなるのかって。

どういう場所で暮らすことになったんだろう…って」


ハイローはまた黙った。

ハイローに誘われて想像したその生活は、きっと詳細までは見えていなかった。

ハイローの故郷を見て、その不毛な想像を明確なものにして、果たしてそれはガイキの為になるのだろうかと。

ハイローは悩んだ。


その想像が彼の心を救う事があるだろうか。

それよりも、実現しない渇望する暮らしに、彼の心に闇が巣食う事にはならないだろうかと。


それでも、ガイキは想像したいと望んでいた。

くだらないと笑う者も居るかもしれない。

ガイキがどんな思いでそれを望むのか共感出来ない誰かが。


「…分かった。

もし、俺の故郷に寄るなら…俺が村と軍の間を上手く取り持って、お前を俺の家で休めるように手配しよう」


「ハイローの家?」


「ああ、俺が生まれ育った家だ。

小屋…みたいな、小さな家だが。

今はもう住む者もないが、恐らく彼女が…俺の幼馴染が管理してくれてるよ」


少し、ガイキは笑った。

彼がテントや馬車以外で寝泊まりするなんて、物心付いてからは初めてになる。

幸せを噛み締め、外に逃さないように密やかに笑っていた。


その数ヶ月後、本当にガイキ達の軍はハイローの故郷に訪れていた。

そしてガイキは、ハイローの予想通り彼の幼馴染が管理してくれていたハイローの実家のベッドで眠った。

折り畳みの出来ない木製のベッドはとても大きくて、なんだかこのベッドで眠れば、ハイローのような大きく屈強な男になれそうな気がして嬉しかった。


その村を出る時、ハイローの幼馴染は、ハイローの妻として共に軍へと加わった。

遅すぎるのよ、と、笑う妻に、困ったように謝るハイローが、とてもガイキの印象に残っている。

ハイローもその妻も、幼馴染同士の結婚にしては少し歳を取ってからの結婚だった。

もうすぐ、四十歳だったから。

ただ、軍の中で挙げられた簡素な結婚式は、姉を思い出させた。


普通結婚式では、妻は白いドレスに白いベールを被り、夫も白い正装に白いベールを被るものだった。喪服と逆で、その身を余す事なく白に包む事で神の注目を集め、祝福を貰う為だ。

だが、姉の時もハイローの時も、軍が保有している軍の中で結婚する者達が使い回す正装と白いベールを被り、その妻もまた、使い回しのベールに、生成りの生地で縫ったとても簡素なドレスを着ていた。

姉の時とそう変わらない。

だが、神に結婚を知らせる彼らはどちらも、とても嬉しそうだった。


姉は結婚を渋っていた。

自分が結婚をしてもまだ幼いガイキと共に住むつもりだった姉だが、夫となる彼にもガイキと同じ年の妹が居た。

姉と兄は結婚する程に仲が良かったのに、弟と妹は意味が分からない程に仲が悪かった。


きっと誰でも、どうしても好きになれない相手というものが居るはずだ。

ガイキとリリィロは、お互いにどうしても好きになれなかった。

ふたりは幼かったが賢く、嫌いな相手と喧嘩をするのではなく、関わらないように距離を保つ事で平和に過ごしてきた。


そんなふたりを、姉と兄の身勝手で家族にするのは憚られた。


まだ幼いふたりは、ひとり立ちなんて勿論出来ない。

悩む姉を見透かした、既にその血の〝記憶〟を見ておとなびた弟はこう言った。


「俺はひとりで暮らすだけの〝知恵〟はある。

でも、姉さんが心配するなら、孤児母の所で世話になる」


何を言うんだと、姉は弟の手を握る。

共に暮せばいいじゃないかと。

共に暮らす相手に不服があるなら、ガイキは私と暮せばいいじゃないかと。

夫婦だから違うテントで寝泊まりしてはならないなんて、そんな決まりはないのだからと。


結局、ガイキは姉の気持ちを振り払って孤児達の集うテントへと、知らぬ間に荷物を持って行ってしまった。

何度説得しても、弟は頑なだった。


ずっと、自分を世話してくれた姉が、愛し合える相手を見付けたのだ。

ガイキは、姉から夫を奪いたくなかった。

姉が何と言おうと、ガイキにはそれが自分にとって酷な事だと思った。

大切な姉の幸せを、小さな欠片でも奪いたくない。

それに、絶対にリリィロと暮らすのは無理だと思った。

リリィロもガイキと暮らすのは絶対に無理だと思っただろう。

リリィロはガイキの事をただ嫌いだったが、兄がガイキと姉と結婚した事で、ガイキに対して嫌悪だけでなく闘争心を抱くようになった。


可哀想な事だ。


リリィロは〝ただの〟こどもだ。

ガイキのように〝記憶〟を見た訳ではない。

知識の量も、節度も、〝経験〟も、何を取っても敵うはずのない相手に、負けたくないと躍起立ってしまったのだから。


ガイキの姉とリリィロの兄が結婚して数日、リリィロも孤児母の下で暮らすようになった。

とはいえ孤児の数が多く、ガイキとリリィロは関わり合う必要がなく問題はない。

姉と兄は、弟と妹の頑なさに悩んでいたが、ある嬉しい出来事が起きた。




姉が子を産むと、ガイキとリリィロはとてもよくその甥を可愛がってくれたのだ。




普段挨拶すらもしないふたりが、甥の為に会話をする。

些細な事だが、そんな景色に姉と兄は泣きそうなくらい安堵した。


ガイキが〝記憶〟で得た無難な子守りをすると、リリィロも負けじとガイキの姉や孤児母に熱心に教わりながら甥の世話を焼く。




幸せな光景だった。




境遇の似た妻と夫が、赤ん坊の頃から必死に育てた弟妹が、我が子を可愛がってくれている。


隣には伴侶が居て、ここが田舎の何処か、平穏な村の風景なら、この上なく幸せな日々を過ごせただろう。




ここが戦地でないなら。


ここが反乱軍でないなら。


ここに敵が近付いて来なければ。


ここに血など流れてなければ。




ここで、夫婦共に死なぬなら。




どれほど幸せだっただろうか。




家族〝五影ごにん〟、笑って暮らして、偶の喧嘩くらいなら、許してあげよう。


自分のこどもを抱くと、弟妹が幼かった時の頃を思い出す。


大きくなったなと見詰めて、思わず吹き出して笑うのだ。




なんだ、まだまだ幼く、小さいではないかと。




思わず笑う。


自分は立派だと盲信する、七歳の男の子と女の子に。


バカにしているだろうと怒るその声に笑って、騒がしさに泣く赤子の彼に四影よにんで慌てて、あやして。




本当に、幸せだ。




胸が痛くなる。


幸せすぎて、胸が痛い。




まるで、そこを銃で撃ち抜かれたように。




幸せすぎて、胸が痛い。




そのまま、彼女と彼は息を止めた。


死ぬ訳には行かないと、幼い三つの影を想いながら、どうする事も出来ずに。




息を吸えば良かったのか。


肺に留まる事の出来ない息を。




心臓を動かせば良かったのか。


機能を忘れたただの塊を。




強く願えば良かったのか。




もっと、生きさせてください、と。




どれも無駄だと思う事もせず、ぐちゃぐちゃの脳内で思い描く最後の景色。


愛しい影が四つ。


自分も入れて、五つの影。


柔らかな肌のあの温もり。


涙を流す事ももう出来ないこの体で。




ああ。


心臓が、痛い。











(心臓って)(心と繋がっているんだって)(だから、)(この痛みは、)

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Hormith-U-winyless 竜花美まにま @manima00

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