第九話
ガジョウはふと、長年、偶に考えては直ぐに忘れる疑問をまた思い出し。
角の名残りから手を離し、シャロノに問い掛けた。
「俺の父親は、俺が生まれる前だか生まれた直後だかに死んだらしくて…。
母親もかなり幼い内に死んだんだ。
だから、俺は親のどっちかが鬼だったのか、両方鬼だったのかも知らねぇんだ。
匂いでそこまで分かるのか?」
「分からない。
血族を分ける血は、混ざったりはしないからな。
人と魔の間に産まれたこどもの外見が両親の一部ずつを受け継いだとしても、こどもの血族が〝人と魔の半々〟なんてことにはならない。
同血族異種族の場合でもな。
人と魔の間に子が産まれれば、それは〝人〟か〝魔〟かのどちらかだ。
お前の血の中に人の匂いはないが、それは片親が人でも当たり前のことだ」
「あぁ…なんだ…そうか…」
そう俯いて、呟くガジョウの微笑を彼のマスクの下から感じ取り、今度はシャロノが問い掛けた。
「親のどちらが鬼か人かが、重要なのか?」
「…俺さ。
父親は勿論だけど、母親の記憶も全くないんだよね。
唯一…ひとつだけ覚えてるんだけど、それは…俺の角をとんでもない形相で削る姿だけでさ」
そう言いながら、ガジョウはその唯一の母の記憶を思い出す。
とんでもない形相だった。
こどもの頃の古い記憶だから誇張や改ざんがあるかも知れないが、彼女が激高するように顔を酷く歪めていた事だけが記憶にある。
そして、彼が唯一その記憶を保っているのは、恐らくその衝撃度故だ。
とんでもない痛みだったから。
鬼の角は幼少期に生え始め、二、三十歳まで伸び続ける。
しかし、人達の迫害から逃れる為に鬼が目を付けた角の特徴が一つある。
それは、角の神経を酷く傷付けて破壊すると、もう伸びなくなるという事だ。
鬼の角には神経と血管が通っている。
折れれば出血し、激痛が走る。
それを知っていたのだろう母親は、まだ幼いガジョウが叫んで軍の皆に気付かれないようにと、猿轡の上から布を何重にも巻いて口を塞ぎ、血と激痛の溢れる生え始めのガジョウの角を鉄のヤスリで執拗に削り続けていた。
痛みに死んでしまいそうだったし、激痛に上手く出来ない息が、口に分厚く巻かれた布で更に苦しくて、それでも死んでしまいそうだった。
それが、側頭部に一対。
計二つあるのだから恐ろしい。
よく、ショック死とか窒息死をしなかったもんだと考える。
「もし…母親が鬼なら、自分もそうされたように息子にしただけだろう。
でももし、母親が人で、俺の父親が鬼と明かさぬまま死んで、産まれてきた息子に角が生え始めたなら、どんな気持ちで角を削ったんだと思ってさ」
自分を騙した夫への憎みも、あの顔に含まれていたかもしれない。
鬼と知っていたなら共になってなどいなかったと、こんな気味の悪いこどもなんて産まなかったと。
「…人を嫌う理由はそれか?」
「いいや?
俺は母親のことは愛してるぜ。
母親が鬼にしろ人にしろ、父親に騙されて俺を産んだにしろ、俺の角を削ったんだ。
俺に、この人だらけの世界で〝生き延びろ〟と、血に塗れて削ってくれた。
良い母親だ。
ビビって何もしなかったり、俺を捨てたりもしなかった。
たとえ母親が人でも、俺は愛してる」
「なら…人を嫌う理由は?」
「…バカバカしいだろ?
俺はあんな思いをしても尚、いつバレるかと恐々としてるってのに、人共は王様は血がどうこう、なんて理由で殺し合ってるんだぜ?
大半のヤツらは普通に生きてりゃ、命の心配なんて要らないのに」
そう笑い、その笑い声の最後に溜息を混ぜて息を吐き出す。
「…この軍には色んなヤツが居る」
ガジョウは夜空を見上げた。
薄っすら煙たく、ゴーグル越しのくすんだ星。
その星を塗り潰すように、今から唱える人をひとりひとり思い浮かべながら、言う。
「王血主義者といわれる、国に喧嘩を売る為にこの軍を作ったヤツら。
そいつらに育てられて王血主義が正義と信じるヤツら。
生きる為に戦争に参加しているヤツ、好きで戦争に参加しているヤツ。
そして…ガキの頃に拾われて、いつでも抜けれるけど惰性でここに居る俺と、ここから出たくとも出れねぇで苦しんでいるヤツ。
色々居る。
どれも嫌いだが、ガイキはいい奴だ。
まぁまぁ好きだし、殺そうとは思わないし、死なせようとも思わねぇ。
恩もあるしな。
だが、俺が一番嫌いなのはセイエみたいな人さ」
「セイエは…この軍の元仲間だろ?」
「そう。
勝手に逃げ出すように抜けてったんだ。
俺はああいうヤツが一番嫌いだ…。
進んで加担した癖に、〝逃げ出せば自分はもう安全〟って思ってるヤツらがな」
「だから殺したのか?」
「キレちまってさ、顔見た瞬間。
〝嫌い〟って感情が、こう…脳から直接外に爆発するカンジ?
分かるだろ?
妖魔の〝嫌い〟はそういうことなんだから」
シャロノはそう悪びれもしないガジョウを眺めた。
確かに、妖魔は余程の事がなければ相手に好悪の感情は抱かない。
ただ、妖魔の嫌う感情は、殺意とほぼ同等だ。
そういうものだ。
妖魔の好悪の感情はどうしようもない。
一度抱けば、もうその命が終わるまで決して変わる事はない。
だからこそ、妖魔の感情は個々へ向き、所属や種族、血筋などの広義へ拡大する事は〝ほぼ〟ない。
だが、好悪の感情が、ガジョウのように広い対象へ向かう事もある。
よほど大きな感情の揺らぎを、何度もその広い対象を意味する個体へ向け、そして何より。
その感情を抱く者が、妖魔の中でも特出して感情が豊かである事。
つまり、ガジョウは感情豊かな存在で。
何度も、この軍の者に、〝人に〟、嫌悪感を抱いたという事だ。
「…軍よりあの村に居た方が安全だったのか?
痩せた土地に建つ村だったし、この軍の物資から見てもそうは思えないが…」
ガジョウは久しくシャロノを見た。
やはり美女だ。
とても美しく、これで更に妖力衣たるものを感じる体質だったら、〝惚れてしまう〟かも知れない、と。
魔であり、しかも恋愛感情を抱く個体がほぼ居ない〝鬼〟という種族の自分がそんな感情を抱かないと知っていての心の内だけの冗談を考えながら、ガジョウは吐き出すように小さく笑った。
「アンタ…好奇心が強いんだな。
不老不死で怖いもの知らずだからか?
俺が鬼であるか確かめようとしたり…知りもしない女が軍を抜けた理由を知りたがっている」
「………、」
「俺は鬼だし、いつバレるかと怯えて生きていたから、好奇心ってのは殺してるんだ。
この軍の奴らは俺を〝好奇心旺盛な女好き〟なんて思ってそうだが…。
あんなのは俺が人じゃないとバレない為の〝役作り〟だ。
今の人は、妖魔は全員〝とんでもなく長生きする感情のない
だから、何にでも好奇心を抱く女好きでいると、人は俺が鬼だなんて思いもしない。
だが、好奇心は表面上だ。
深くまで、自分に関わりのない所にまで足を突っ込むと危険が多い。
俺は危険のないエサにだけ食い付いてるのさ。
だから…アンタのその好奇心、今まで、よほど危険性を感じずに人と関わってきたんだな」
ガジョウの言葉に、シャロノは少し考え、小さく笑みを漏らした。
関わってきた人達の顔を思い浮かべると、なんだか懐かしい。
そして、嬉しい感情を抱く。
「…そうだな。
あまり…人を危険だと思ったことはない」
「はは…。
まったく、不老不死でしかも強いってのはお気楽でいいな」
皮肉をたっぷり込めたガジョウの言葉に、シャロノは直ぐに笑みを引っ込めた。
「すまない。
お前の苦労を図らなかった訳ではない」
「別にいいよ。
人と話すよりアンタと話す方がずっと良い。
人の前では演技してねぇと殺しちまいそうな程、イライラしちまうからな」
「それなら女好きなんて演技はより苦痛だろう?
なんでわざわざ、人と関わりの多い性質を選んだんだ」
「地味でいるより目立った方が怪しまれないんだ。
あと、物を盗んだり女に手を出すのは、嫌いなヤツを苛立たせたくてやってんだ。
人の愛情は移ろうから男女を仲違いさせると、もうとんでもないぜ?」
「…嫌いな奴と共に行動するのは大変だな」
笑うガジョウにシャロノは一歩引くように呟いた。
そんなシャロノに、ガジョウは更に笑う。
「嫌いなヤツと一緒に居てみろよ。
気が狂いそうだぜ?
ガイキはそんな俺に気を遣って情報収集や遊撃手として単独行動させてくれている。
他の奴らは手癖の悪いヤツの厄介払いと思っているがな。
…ホントにいい奴だ」
「………、」
シャロノはガジョウの語るガイキに口を閉じる。
ガイキはシャロノに、ガジョウの事をかなり過激な存在だと語っていた。
だが、そこには〝大勢〟が居た。
血族の違うシャロノを含め、他者に対して公平に接していると分かるガイキがシャロノに、これから初めて会う名も知らない相手の事をかなり否定的な紹介をした。
ガイキは、妖の性質をよく理解している。
恐らく、ガイキは確信していた。
シャロノは、どんな言葉で紹介された相手でも、それを信じたとしても。
考えを改める機会があれば、直ぐにでも認識を変えるだろうと。
他者からの言葉だけで誰かに嫌悪感は抱かない。
他者からの評価だけで誰かに失望はしない。
妖の多くはそういう存在で、今日まで見てきたシャロノも、間違いなくそういう存在だと。
ガイキは、確信していたのだろう。
「それにガイキは…この軍に居るヤツには珍しく、この戦争の不毛さに辟易しているしな」
シャロノはガジョウを見詰める。
マスクとゴーグル越しの彼もまた、辟易とした顔をしていた。
シャロノも気付いている。
ガイキがこの軍の生き方を是としていない事を。
それでも彼はこの軍の〝最善〟を選択しているように見えた。
シャロノと出会った事で進軍した事も〝最善〟だと彼は言っていた。
彼自身が王として努める事も〝最善〟で、誰をどこに配置するのかも〝最善〟。
シャロノは戦いや軍の事は全く分からないが、軍の者達の言動から、ガイキの選ぶ〝最善〟のほとんどが、軍にとっても〝最善〟なのだと分かる。
一体、何の為の〝最善〟かは、別にして。
「俺には、ガイキの選択も不毛に思える」
ガジョウがそう言った。
「アイツは自分を抑圧しすぎだ。
そう思わないか?
自分を殺せば、成果や進捗が出たところで手には出来ない。
〝自分が死んでいる〟んだから、死者には不要なものだ」
ガジョウはそう、嘲笑した。
だがその表情はガイキを偏に愚かしく思うものではなく、憂慮も見える。
ガジョウはガイキが心配なのだろう。
友として。
「…彼は、〝不毛〟かどうかは関係ないのだと思う」
ぽつり、と。
呟くようなシャロノに、ガジョウは目を向ける。
砂を避ける為の装備は何も身に着けていない、喪服の彼女。
だが、闇夜に溶け込むようではなかった。
まるで月のように、周りの灯りに照らされてこの闇の中でも目を引く。
睫毛を軽く伏せているその顔もまた、月のように静かだ。
「彼が必要なのは、〝成果〟ではない…たぶん、」
「…分かるのか?
アンタは…」
ガイキの気持ちが。
シャロノは、ガジョウの言葉に彼を見詰めた。
テントで出会った時と違い、彼の顔は真剣だ。
本当に、ガイキを心配しているのだろう。
「彼はちゃんと、〝自分の為〟に生きているよ。
大丈夫、」
だって彼は、と、続けようとして、シャロノは気付いて明かりの集う方へ目を向けた。
ここを裏通りと称するなら、表通りの方向だ。
「なんだ?」
人が来たのかと身構えるガジョウに、シャロノは表通りの喧騒に目を細める。
「なんだか…軍の奴らが騒がしい」
「敵襲…にしては静かだが…。
まったく…人は問題を起こすのが好きだからな、俺以上に」
ガジョウは木箱から立ち上がり、気付いてシャロノを振り向いた。
「ああ…悪いが少ししてから、別の道から出てくれるか?
俺に手を出されたって噂されちまうぜ?
嫌いじゃない女を、噂でも傷物にするのは気分が悪い」
「気遣い、出来るじゃないか」
「アンタが人…特にこの軍の奴らみたく命を放り投げるヤツじゃないからだよ」
この数を嫌いとは大変だなと、シャロノはガジョウの気遣いを受け取って立ち去るガジョウをただ見送った。
ガジョウが裏道から出ると、確かに光に照らされた夜の荒野は、普通よりも慌ただしい空気に包まれていた。
「ああ!
ガジョウさん!」
ガジョウが嫌う王血主義がひとり、そう声を掛けてきた。
不快な気持ちを押し殺して、どうしたんだと笑って問うと、
「ベーディを見なかったか?」
「いや…軍に戻ってからまだ一度も見てないぜ?」
「そうか…っ、じゃあ、見掛けたら直ぐに…!」
「おい、待て。
ベーディがどうしたんだ。
アイツは勝手に持ち場から離れるようなヤツじゃないだろ」
何があった、と。
ガジョウはこの軍で唯一気に掛けている少年の身を案じた。
恩のあるガイキに、昔頼まれた事があるからだ。
ベーディの事を頼むと。
それに、ベーディはガイキと同じだ。
望んで戦争に参加している訳ではない。
ガジョウが嫌うべき相手ではなかった。
すると、少し歯切れが悪くなった彼は、声を小さく、
「その…誰かが話していた…セイエが逃げた理由を…」
彼が言い切る前に、ガジョウは理解した。
人のそういう所が本当に、本当に嫌いだ。
小さなこどもひとり、気遣う事が出来ないのかと。
あんなに気遣いしろと煩い血族の癖に。
俺にだって出来る気遣いなのに。
そうやって嫌う感情が膨らむと、殺意も溢れてきた。
だが、今はそれよりもベーディが先だ。
ガジョウは直ぐにシャロノと喋った場所に走る。
彼女は鼻が利く。
もしかしたら、匂いか何か、妖術でも何でもいいから、何かしらでベーディを見付けられるかも知れないと思ったのだ。
息を切らして戻ったガジョウは、息を吸い、シャロノに事情を話そうとしたが。
そこにはもう、誰も居なかった。
本当は、いけない事だと分かっていた。
自分の立場も知っているし、どうせ他に行き場もないのだから最終的にはあそこに戻るのだ。
けれど、今は誰からも離れた所で、答えの導けない考えを悶々と考え込みたかった。
「どうした?」
酷く、体が跳ねた。
急に背後から掛けられた声に振り向くと、そこには、
「…シャロノ?
どうして…ここに…」
いつもの日傘も差さず、マスクもゴーグルもマントもない彼女がそこに居た。
出会った時と同じ姿のシャロノを、出会った時と違って恐怖心もなく見上げるのは、ベーディだった。
「お前こそどうした?
軍から随分離れて」
シャロノの声に、俯いた。
そして、この荒野の丘にひとり座るベーディは、ごく最近親しくなった彼女を見上げ直し、
「…騒がしくなってた?」
「お前が居ないと、皆が走っていた」
そう、と呟いてまた俯く幼い体に、罪悪感が見えた。
「信用されているんだな」
「…どうして?」
「〝勝手に持ち場から離れるような奴じゃない〟と称されていた。
〝勝手に持ち場から離れる奴〟なら、あんなに探されたりしない」
シャロノの言葉に、ベーディは笑った。
先程のガジョウとは違い、暗い闇の合間のような笑み。
晴れているのに星が見えず、月明かりの弱い日の夜空ような笑み。
「信用されて探されてるんじゃないよ。
必要だから探されてるんだ」
息を吐く。
マスクの狭い隙間を押し通して息は荒野に放たれ、風に紛れてもう、ベーディには戻らない。
走り逃げるような目に見えないそれを眺め、ベーディは声を溢す。
「…シャロノは、おれとガイキが家族って知ってる?」
ガイキと同じ色の瞳が伏せられたまま、そう問われた。
「ああ。
匂いで」
「同じ王の血が混ざっているから?」
「もっと個に近い匂いで分かる。
まだ代の近いところに、共通の誰かの匂いがある。
近しい親族だ」
ベーディは、少し無邪気に笑った。
他者の幸福を眺めるような顔で、
「共通の誰か…きっと、おじいちゃんとおばあちゃんだ。
会ったことはないけど…」
少し、沈黙があった。
どちらも、話を進めなかった。
無理矢理、相手から話を聞き出そうともしなかった。
ただ、数秒の沈黙の後、シャロノがベーディに歩み寄って傍にしゃがみ、彼の肩に手を置いた。
「〝思い込みの術〟は、苦心や悲しみも紛らわせることが出来る。
でも、そんなことをする妖はまず居ない」
ゆるゆると、伏せられたベーディの瞳が持ち上がる。
力なく、それでも光を宿すその目で、ベーディはシャロノを見上げる。
「…どうして?」
「苦心や悲しみを消せば、それを感じる記憶を〝ただの記憶〟に変えてしまう。
例えば…昨日の朝食のような。
偶々覚えているだけの、記憶になってしまう。
苦心や悲しみは、踏襲しない為の警鐘だ。
自分や、他の誰かに同じ思いをさせない為に。
同じ気持ちに寄り添えるように。
必要だから、感じるんだ。
心が、体を慰めてくれている。
体が泣いて、心を慰めるように」
「消えてしまいたいくらい、つらいことでも?」
「消えてしまうのは困るな。
消えてしまったら、今度は私が悲しい。
それに私は、お前が消えたら悲しむ者を
…だから、消えてしまうくらいなら〝思い込みの術〟を使ってもいい。
〝妖術〟が恐ろしければ、何時間でも一緒にここに居てあげる」
「この前会ったばかりなのに、消えたら悲しいの?」
「悲しいよ。
顔を知らなくても、名を知らなくても悲しいのに、私達は顔を合わせて自己紹介もお喋りもしたでしょ?」
「やっぱり、シャロノは優しいよ」
「みんなそうだよ。
苦心や悲しみを知っていて、誰かを慮る余裕が少しでもあれば、みんなそう感じてる。
感じ方に大小があれどね」
「…何時間でも居てくれるの」
「うん」
ベーディは、少し俯いた。
ベーディは硬い岩場に座り込む事に慣れているが、シャロノがここにしゃがんでくれている事に、申し訳なさを感じる。
だって彼女は、こんな荒野は似合わない。
同じ自然の中でも、拓けた草原の方が似合う。
更に言えば、花畑とか。
ただ、野花の中では彼女はあまりにも目立つだろう。
白や黄色の小花の中に、一輪だけ咲く真紅の薔薇は場違いだ。
荒野に薔薇が咲けば、どう思うだろうか。
きっと、その薔薇に親しみがなければ罠のように警戒し、その薔薇に親しみがあればこんなところで咲いていて大丈夫なのかと心配する。
今のベーディの心境は、後者だ。
シャロノの膝が硬い岩場に押し付けられている事に、杞憂と分かっていても考える。
「望むようにすればいい」
シャロノは言った。
「話したくないなら黙っていればいいし、話したいなら聞くよ。
関係ない話をしてもいいし、もう少し先まで散歩したいなら一緒に行く。
近くに居て欲しくないなら、もっと離れるよ。
どうしてもひとりがいいなら…安全なところに籠るのが一番いい。
テントまで戻って、外に〝放っておいて〟って張り紙して毛布に包まると、きっと全員が安心する」
「…どうして、そこまでしてくれるの?」
「だって…ベーディ、あなたは、悲しくて苦しそうなのに、どう悲しめばいいのか分からない、迷子のような背中をしてたから」
ベーディが見上げた先のシャロノは、優しい顔で笑っていた。
いつも細やかに笑う彼女が、口も目も緩やかに弧を描き、幼子の母親のように笑っていた。
「私も、そうしてもらった」
「…シャロノも、こういうことがあったの?」
「あったよ。
その時、大切な者達が側に居てくれた。
時に、俯くばかりの私が夜空を見上げることが出来るようになるまで。
時に、上手く泣けない私が声を上げて泣けるようになるまで。
そして…」
シャロノは一瞬、言葉を区切った。
一秒を更に短くした時間。
寸の間よりも短いその時間だけ、シャロノは息も何もかも止まってしまったが。
ベーディが違和感を抱くような間もなく、言葉を続けた。
「時に…泣き喚く私の涙が、消えてしまうまで、」
シャロノの手が、自身の体を、撫でるよりも細やかに滑る。
そして、そのまま声を紡いだ。
「…悲しかったり、つらかったりする出来事に悩む時、誰かに傍に居てもらった。
だから、そう望むなら私もそうしてあげる。
私達の苦心は、きっとよく似ているから」
シャロノの言葉に、ベーディは溢すように復唱した。
「…似てる、」
シャロノはしゃがんだまま、膝を硬い岩に突いたまま、優しい表情のまま。
静かに、頷いた。
「その苦しみ…ただの苦痛ではないでしょう?
その記憶の傍に、とても幸せな気持ちが座っている。
だから、忘れたくない。
その苦痛を忘れることは、即ち。
…幸せすら忘れることになるから、」
ベーディはまた少し黙った。
見上げるシャロノの瞳は、今日も真っ赤だ。
血の色の瞳。
最初見た時は恐ろしさと、彼女の妖力衣に惹き寄せられる感情とで、ぐちゃぐちゃと心を掻き乱される色だった。
しかし、今は違う。
今この時は、酷く落ち着く。
彼女がそういった妖術を使っていると言っても疑わない程、心が安らいだ。
彼女をその瞳の色と美しさから薔薇に例えたが、どんな薔薇を見ても、こんな気持ちにはならないだろう。
薔薇というよりも、野花だ。
高貴さよりも、柔らかな温もりを感じた。
それは、彼女から時折感じていた。
だから、意外だとは思わない。
ただ、シャロノを目の前にした今までで一番、気が安らいでいる。
それは今、シャロノがこの軍に来てからの中で一番、ベーディの心が乱れていたからかもしれないが。
ベーディは、口を開く。
深く、息を吸った。
狭っ苦しいマスクの中で、息を吸う。
そして、ベーディはシャロノを見上げたまま、言った。
「…ガイキは、おれの叔父なんだ」
シャロノはベーディの隣に腰掛けた。
彼が話をする事を躊躇わないように。
彼が話をする事だけに集中出来るように。
「おれの母親がガイキのお姉さんで…前の王だった。
おれの両親は…シャロノみたいに生まれた翌日とかじゃないけど、おれが生まれて一ヶ月くらいで両方とも一緒に死んだんだって。
国との戦争で…」
「…そう、」
「それで…ガイキはおれの母親と歳の離れた姉弟で…その時、まだ七歳だったガイキがおれを育ててくれたんだ。
普通…軍で孤児になったら孤児母っていわれる人達がこどもの面倒を見てくれるんだけど…ガイキは、おれの母親の代わりに王にもならなきゃいけなかったのに、おれのことも引き取ってくれたんだ…。
…今のおれよりまだずっと幼かったのに」
ひとつ、息を吐いた。
「おれだったら…出来るか分からない。
…たぶん、出来ない。
ガイキの代わりに王になって、みんなを指揮して、赤ん坊を育てて……」
また、息を吐いた。
泣きそうになる。
喉が熱くて、息が詰まって、鼻がツンとして、目と額が重い。
言葉が、震えた。
「リリィロは、さ、…おれの叔母なんだ。
おれの父親の…妹。
ガイキと同じように、歳の離れた兄妹。
ガイキとリリィロって仲悪いだろ?
昔からなんだって。
でも、ふたりとも家族は兄姉だけだったから…おれのこと、自分達だってこどもなのに、ずっと一緒に育ててくれた。
でも…その所為でふたりはもっと仲が悪くなって…軍のこととか、最低限のことしか話さないんだ。
でもっ、おれの前ではふたりは他愛のない話もする。
ずっと…おれの為に、小さな頃から大変な思いをして、嫌いな相手と向き合ってる。
おれはふたりとも大好きだ。
記憶のない両親よりずっと、大好きだよ。
そんなふたりにおれを押し付けて死んだ両親を恨めしく思ったこともある」
更に、息を吐く。
軍の皆には話せない沢山の事を一気に話して、なんだか頭がグチャグチャだ。
言葉に出した事が、初めてだったからだろうか。
重くのしかかる曇天のようだった。
頭痛がして、目眩もして、気分が悪くなる。
息が苦しくて、泣きそうで、ただ床に転がって丸まって、この低気圧が過ぎ去るのを待っていたい。
きっと時間が晴れを連れてくる。
今はただ、この灰色の雲に押し潰されたくないと願うばかりだ。
ガイキはテントの中に居た。
ベーディが行方知らずとの知らせを受け、本当は駆け出したかったが、それは出来ない。
自分は王だ。
好き勝手に動いていい身分ではない。
家族の為に軍を疎かにしてはいけないのだ。
ベーディの為にも。
〝ベーディの所為で〟なんて、誰にも言わせたくない。
もう二度と。
それがどんな鋭く、巨大で、残酷な刃だと知っているから。
それは、まだ幼い小さな背を簡単切り裂く刃だ。
それに苛まれ、動けなくなる甥の姿を見たくない。
だからただ、ガイキは王の職務を熟しながら吉報を乞い続けた。
そこで、ハッと足元を見る。
そこには、いつもシャロノの肩に乗る白いネズミ、ハクシがガイキのブーツに攀じ登ろうとしていた。
「…お前…シャロノの…」
そう呟いてから、ガイキはハクシを拾い上げ、その背に括られた紙を抜き取った。
それを開き、その文字を見て喉に息が詰まり、直ぐに深く煩い息を吐き出して机に突っ伏した。
簡単な文章で、ベーディは無事で、シャロノが側に付いていて、その内に戻るだろうという言葉が綴られていた。
吸血貴であるシャロノが側に居れば外敵からベーディを守って軍に引き返す事も容易だろう。
本当に良かったと思う。
彼女がよく気が付く女性で。
ベーディの側に居ようと判断し、彼を見付け出し、彼の安否の一筆をガイキに届けてくれた。
彼女になんて礼を言おうかと、安堵に緩んで考えの纏まらない頭で思案する。
だが、少なくともこの事を皆に伝える訳にはいかない。
王血主義者と呼ばれる、この軍でもガイキやベーディの立場や安否に過激な者達は、直ぐにベーディを帰路に着かせなかったシャロノを敵対的に思うだろう。
ベーディやガイキの心に寄り添って行動してくれている彼女に、そんな仕打ちをする訳にはいかない。
彼女はきっと、そんな主義者の存在を察していてガイキにだけ内密に知らせられる手立てで連絡をくれたのだ。
ガイキは、頭痛よりも漠然とした痛みで重い頭を机に擦り付ける。
ベーディが無事なら、大丈夫。
後始末なんて、なんの苦心にもならない。
あの幼く愛しい家族が無事なら、その心を少しでも落ち着ける事が出来たのなら。
ベーディが飛び出した事すら、安堵する。
ベーディがたとえ自分で理解する前の行動でも、それは彼の心身の保護となる事だから、本当に安心する。
傷付いて欲しくないあの小さな心が、傷を抱えたままなんて絶対に嫌だ。
その傷が膿まないように、消毒や包帯となるような行為が必要だ。
それは、ひとりで気持ちを整理する事だったり、誰かに慰めてもらう事だったり。
ガイキは、机に突っ伏したまま瞼を閉じた。
本当に良かったと、本当に安堵したが。
ベーディを甥として可愛がるという立場が同じリリィロには、現状を知らせなければと考える。
だが使いを送ったところで、気もそぞろに心配しながらベーディを探すリリィロが、互いに嫌っているガイキからの呼び出しや事伝を素直に静かに聞くとは思えなかった。
立場が逆なら、ガイキは聞かないだろうから。
ガイキは唸る。
ベーディが無事だと分かった目下、それが一番悩ましい事だから。
(彼との血の繋がりは誇りであり、)(重圧であり、)(そして、)(言葉にするのは難しいけれど、)
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