第八話

「!、ガイキ!

どうだった?」


そう前のめりに関心深く、そして無邪気に問うベーディに、ガイキは歩み寄りながら答える。

彼の持つマントから、少し砂が溢れた。


「軍に戻ることはないそうだ。

詳しくは皆に説明する時と同じタイミングで話す」


「…そう、」


落胆するように瞳を落とすベーディに、ガイキはゴーグルを外した顔をタオルで拭ってから目を向ける。


「仲間が増えようが増えまいが、今は邁進するしかない。

ベーディ、早く寝ろ。

明日にはまた行軍が始まる」


「…うん」


ベーディは毛布に包まりしばらくは落胆を噛み締めているようだったが、そう長く掛からずに寝息を立て始めた。

シャロノはそんなベーディを眺めてから、ハイローから受け取った温かいお茶を飲むガイキに視線を移す。

ガイキはお茶の湯気を軽く吹き、それを見詰めて目を伏せたまま、呟くように喋り始めた。


「…助かった。

ベーディを見ていてくれて」


「〝彼が私を監視〟していたんだろう?」


冗談めいた口調で微笑するシャロノに、ハイローはお茶を差し出した。


「何となく…察していたが、黙っていてくれた。

そういうことが出来るヤツは意外と居ないんだ。

特に…この軍にはな」


ハイローの言葉と差し出されたカップを、シャロノは笑って受け取る。


「知ったところで何にかする気はないし、そもそも私がどうこう出来るとも限らない。

なら、別に知ろうとする意味もないだろう?

人は本当にそういうことを異常に気にする…。

さっき彼も、私を偏見したとかで気を揉んでいた。

まったく肉体だけでなく精神も〝繊細〟な生物いきものだ」


人の心身の弱さを皮肉するシャロノに、ガイキは眠るベーディを見詰めてお茶を啜った。

日が落ちて気温の下がる夜に風があると、かなり寒い。

幌馬車の外で砂塵に肌を叩かれると、冷たさに肌が悴んだのかと錯覚し、そうなると気持ちの問題なのにより一層寒くなる。


人とはそういう生物だ。

ひとりで勝手にどんどん弱くなる。

なりたくなくとも。


どんなに願ってもひとりで勝手に強くなるのは難しい癖に、まったく、と。


ガイキは飲み込んだ熱い塊に、口から湯気を吐いた。 そしてシャロノを見ると、


「男ばかりの馬車に女性ひとりで申し訳ないが、お前を他の馬車に移す訳にもいかない。

そろそろ休んだ方が良い。

明日も行軍だ。

俺とハイローも交代で見張りをしながら休む」


「そう気遣わなくて大丈夫だ。

私も気にはしないし、妖力の魅了を断ち切れるお前達に危惧することも何もない」


シャロノはそれから、くすりと笑うと、


「どうしても気になるなら猫に〝化けて〟も良い」


「…!

そうか…吸血貴は〝擬態〟が得意な種族だったな…」


ガイキの呟きに、シャロノは浅く頷いた。


「私は猫に変身するのが得意だ。

この姿で配慮することも猫ならば心配ないだろう?

まぁ…変身しない方が楽だがな。

体が小さく、手が器用に使えないのは不便だ」


ハイローはシャロノを一瞥した。

彼女が言う変身とは、その名の通り彼女の姿を別の何かに変化させる術だ。

妖のみが持つ術だが、誰でも無条件に出来るものではなく、種族ごと、また個体ごとに得手不得手があるらしい。

妖やその種族について特段詳しくないハイローは吸血貴がそれを得意とする種族とは知らなかったが、ガイキとシャロノの会話を聞く限りではそうなのだろう。


力があるのみならず、猫にまで化けられるのなら生き残れて当然かとぼんやり考えるハイローに、シャロノから声が掛かる。


「そういえば、お前も妖力の対抗が強いんだな」


ハイローはシャロノをまた一瞥した後に、微笑む彼女を視界に入れないまま息を吐く。


「人力云々は出来ないが、それなりの年月を生きているし死線も超えてきた…。

まぁ、〝人にしては〟だが。

集中力や気力になら自信があるからな」


「なるほど…妖力が効き難そうだな」


そう言いながらも自分が不利とは思っていない彼女の口調に、ハイローは心の中で辟易と息を吐く。

〝妖力が効き難い〟事と〝妖術が効かない〟事は同じではない。

妖力とは彼女が無意識に出している妖力衣などの効力であるが、妖術とは彼女が意思を持って行使する術だ。


人の人力や人術も同様だが、〝力〟だけを使う事は本来さほど難しくはない。

だが、〝術〟を使うにはそれなりの〝知識〟が必要だ。

シャロノがこの軍で使用する〝思い込みの術〟はその名の通り術であり、変身もまた妖術の一つだ。




つまり、彼女は妖としての力を充分に発揮する為の知識を得た個体なのだ。




知識はひとりで身に付ける事は出来ない。

先立つ者が居て、彼女に知識を与えたのだ。


今を生きる人とは違う。

術の使い方を忘れ、そのまま掘り起こそうともしない。

いや、しようと思っても今更すぎて出来なくなってしまった。

ガイキは記憶の能力を使って人術の一つである〝呪術〟のほんの一部、〝のろい〟を学ぶ事が出来たが、他の術を得るには記憶が不完全で知識は得られなかった。

文献でも残っていればそこから術を学ぶ事も出来るのだが、人は〝人術〟よりも〝技術〟を重んじ、それどころか〝人術〟を蔑ろにした為に文字情報は見つかっていない。


人は短命で、直ぐに忘れ、失いやすい生物だ。

だからこそ、何かを残す為に不要なものを捨てる傾向にある。

誰にでも使える〝技術〟を残す為に、使える個体を選ぶ〝人術〟を捨てた。


結果が良かったのかどうかは分からない。

〝技術〟を発展せずに〝人術〟を根強く残した仮定の世界なんて想像も付かないし、考えたところで所詮〝想像〟だ。


だが、今、人は生き続けている。


他の血族をその技術を以て駆逐し、人の天下を取って、そして人同士で殺し合っている。


この世界が美しいかどうかと問われると言葉に詰まるが、生き残る事だけが目的ならば失敗ではないだろう。


だが、と、ハイローは馬車の幌を見上げた。

軍がしばらくその地に留まる時に建てる大型テントを思い出す。

本部となるテントの中央には、王の執務室がある。

その執務室の中央に置かれる堅牢な書記机には、いつもガイキが神と神使を模した陶器の像を布で覆って隠している。

古い神だ。

一般的には信仰されない神。

存在を忘れられており、ハイローもガイキから聞くまで知らなかった。


ガイキは、その神の存在を自分の〝記憶〟で知ったらしい。

生物を救う為、その身を犠牲にした神であり、祈りの本来の捧げ先である神。




あの神が、今のこの世界を見たらどう思うだろうか。




自分が命を掛けて守った世界はこんなものではないと嘆くだろうか。

そもそも、神に嘆きという感情的な一面があるのだろうか。


ハイローは目を閉じる。

軍で神を信仰する者は、祈りの神ではない別の神々に祈りを捧げている。

軍の人のみならず、世界中で信仰される神は宗教ごとに種類があるが、その中〝祈りと言霊の神〟、もしくは〝祈りの神〟は居ない。

だからなのかガイキは、それぞれ皆が崇拝する宗教の神処として設営されるテントを訪れた事はない。


彼はただ、忘れ去られた神に時々祈っている。

手を合わせもせず、ただ陶器で出来た偶像を見詰めているだけ。

形式すらもないそんな祈りに意味があるのかと問うハイローに、ガイキがかつてこう答えた。


「祈りに形式なんてあるのか?

俺は〝宗教〟に礼儀を尽くしている訳ではない。

俺はただ、あの方に祈りを捧げたいだけだ」


ガイキは恐らく記憶の中で〝神〟と会った事があるのだろう。

信仰心の強くないハイローは神が実在したなんて聞いたら笑ってしまうが、ガイキが言うとなれば別だ。


だからこそ、ガイキはあの神の事を軍の皆に告げる事はない。


長い年月を掛けて、どういう経緯か形作られた宗教に〝答え合わせ〟を持ち掛けても無意味だ。

完成した宗教に間違いなんてない。

皆が誰の為に誰に祈るのか、その事に間違いなんてある訳がないのだ。

〝記憶〟を持つガイキが神は他にも居ると声を上げても世の中を混乱させるだけだ。


特に、軍の内部では不要な騒動になるだけ。

だからガイキは、ひとりで神を見詰めている。

ハイローはそんな彼を見て、いつも思う。




祈るように縋り付かれる苦痛を知るから、ガイキはそうは祈らないのだろうな、と。











「砂嵐も大変だけど、隠れ蓑がないのも不安ね」


そう愚痴のように呟くリリィロをシャロノは見詰める。

リリィロはそう言うが、今日の空に砂が舞っていない訳でもない。

この行軍の中で皆マスクと砂避けのマントを羽織っていて、シャロノ以外の皆はゴーグルと帽子も確りと装着し、やはり空気も煙たい。

ただ、日傘がないとシャロノの肌がチクチクと痛む程の日光の強さはあるが。


「辺りが少し霞む程度の砂嵐になれば良いのに」


今度は溜息と共に呟かれた我儘な言葉に、シャロノは行軍を続けて数日、隣で歩く事に慣れたリリィロに応える。


「人や妖ではどうにもならないな。

天候を変えるには魔が居なくては」


「…え?

魔なら天気を変えられるの?」


驚いて聞き返すリリィロに、シャロノは少し眉を寄せた。


「魔力が何を司るのかも人は忘れたのか?

魔力が影響を及ぼすのは自然だ。

人力や妖力とは全く違う」


リリィロは感嘆を漏らした。

妖の事もほとんど知らないが、妖よりも何百年も前に姿を消した魔に関しては、ガイキが実在したと言わなければ架空の存在と区別が付かない程に遠い存在だ。

リリィロは当たり前に答えたシャロノを見詰め、彼女を霞ませるゴーグルの汚れを指で拭った。


「魔に詳しいなんて…本当に長生きなのね」


感心する声にシャロノはリリィロを一瞥した。

直ぐに前を向くと、先を行く幌馬車を引く馬のいななききが聞こえ、それを宥める声もする。


「…そうだな」


リリィロの長生きという意見に同調したが、シャロノは生返事だった。

長生きとはどういう物差しで測れば正確なのだろうか。

人の寿命を物差しにすれば、人より短命な妖魔を探すなんて骨が折れる。

そもそも、シャロノは自分を〝長生き〟だなんて思った事はなかった。

自分より若く、それでも死んでいく者は見た。

それでも、彼女は自分の命の長さなんて測った事はない。


そこはやはり、人との概念の違いなのだろうかと。


空を見た。

この曇天の空さえ違って見えているのではないかと考え、音にならない感嘆を溢す。

概念の違いを見せ付けられると、自分と人との距離が遠いものだと感じた。




ずっと昔からそうだ。

やはり、違うのだと思う。




同じ所は数え切れない程にあるのに、違う所ばかりが顕著に見える。

色とりどり多様な種類の花が群生する野山は美しく見えるのに。




とても、苦しかった。




シャロノは目を閉じ、直ぐに開ける。

埃っぽい空気が肌に張り付き、それがこびり付く指先に視線を落とした。

見慣れた白い指に、薄っすらと汚れ。

シャロノは懐かしいそれに手を握り、指先を擦り合わせた。

汚れの色が濃くなって、広がるそれに、あの日の床を思い出したから。

シャロノはもう手から視線を持ち上げ、歩く事だけに専念した。


その内に前方から伝令が伝わった。

今日の野営地は少し先の、今まで歩いてきた場所と変わらない、何もない荒野らしい。











幾つかのテントの設営が終わると見張りが密やかに騒ぎ出し、そのさざめきが少しずつ大きくなってきた。

敵襲ではないと彼らの言葉の端々で理解していたシャロノがその理由への関心を持たぬまま、彼女の下へとハイローが急ぐ雰囲気を纏って歩み寄る。


「緊急だ。

ガイキの下へ来てくれ」


「騒がしいな」


「歩きながら、」


かなりの焦りを隠すようなハイローにシャロノは素直に続きながら薄暗くなってきた辺りを見渡す。

事情を分かっている者達の喧騒からして、やはり敵襲程の緊迫感はないが、それでもやはり焦りが伝わってきた。


「外で単独行動をしていた奴が戻ってくるらしい。

距離からしてあと五分とせずにここまで来る」


シャロノはいつもより早口のハイローを見上げ、疑問をそのまま投げ掛ける。


「援軍にしては随分緊迫しているな」


ハイローはシャロノを一瞥し、少し口籠ってから呟いた。


「少し…、…。

…簡単に言うと、問題児の帰還だ」


ハイローはそう言いながらテントを捲ってシャロノを入らせ、自分も後に続いた。

野営時にいつも建てられる作戦テントであるが、中にはガイキを始めとしたシャロノでも分かる軍の上層部数人が集まっている。

リリィロも居た。

ガイキは入室したシャロノが歩み寄るのも待たずに彼女へと口を開く。


「単独で任務を任せていた奴が帰ってきた。

進軍時に知らせを送ったから戻ってくるのは分かっていたが、思ったより早くてバタバタしている。

簡単に言うが、アイツは戦闘能力のかなり高い奴だが、好戦的だし情けを知らない。

好奇心旺盛で本能的。

あと女好きだ。

手癖も色々と悪い。

盗まれたくないものはかなり用心して持っていろ。

特にそのネズミ。

ピネッチツヒョエモドキはかなり珍しいし、手頃なサイズだ。

本当に気を付けろ。

生きたまま戻って来ないだろうから。

あと、さっき言ったが女好きだ。

お前は妖力衣もあるし、そもそも妖なんて見たことないだろうからアイツの好奇心が好意に向くか敵意に向くか分からない。

妖が居るとは文で知らせてあるが、急に斬り掛かってくることも…否定出来ない。

そういう奴だ」


かなり早口で、やはり彼も焦るように喋るその内容に、シャロノは少し黙って頭の中で整理してから頷いた。


「よくそんなヤツを仲間にしておくな」


「…この軍で育った俺の幼馴染だ。

俺は信用しているが、性格に難があるのも事実だ。

軍を裏切りはしない。

裏切りはしないし、戦闘においても重要な戦力だ。

…この軍にはアイツが必要なんだ、」


伝えるべき事を伝えて落ち着いたのか言葉の速さが元に戻ったガイキはそう息を吐き、シャロノは腰から下げる袋にハクシが居る事を確かめ、テントの外のざわめきに目を向けた。

軍の幹部の誰かが、来たぞ…、と呟いたのが聞こえ、テントの布が捲られる。


「あぁ、南の荒野はやっぱりツライ。

東は良かったぞ、ガイキ。

水源がそこかしこにあるからどんな小さな村でも水浴びが好きなだけ出来る。

こういう場所を歩いた時こそ綺麗な水を浴びたいのに……。

ああ、そうだ、忘れてた。

ただいま。

ガキ共は相変わらず元気だな。

ベーディは元気か?

まだ見てないが…」


先程のガイキのように早口ではないもののかなりの量の喋りが入室し、その言葉を放つ主は二重扉の中で落とし切らずに来たのか体中の砂埃を払いながら俯いていて、ガイキを見ようと顔を上げてシャロノにようやく気が付いた。

問題児だ手癖が悪いだと悪態を吐かれていた彼だが、綺麗な顔立ちの青年だ。


彼はシャロノを遠慮なく上から下まで何往復が見渡しながら感嘆を漏らし、懐っこい笑顔で歩み寄ってきた。


「おー、おー、おー…。

かなりハードル高く予想してたけど全然超えてきたなぁ!

こんな美女存在しちゃうんだ?

吸血貴ってみんなそうなの?

なんで滅ぼしちゃったかなぁ?」


「…目覚めてから一番のお喋りだな」


シャロノの呟きに彼は一層、懐っこく声を立てて笑い、握手を求めて手を伸ばした。


「どうせハイローとかガイキとの比較だろ?

このふたりは軍でも随一の真面目さんだからなぁ。

あぁ…俺はカジョウだ。

戦闘専門で、まぁ、遊撃部隊みたいなもんだ」


「…シャロノだ」


そう言うと、シャロノはいつかガイキにしたように甲を上に自分の手を胸の高さまで持ち上げた。

カジョウは握手を求めた体勢のままキョトンと、シャロノのその手を見詰め、ガイキへと視線を移す。


ガイキは軽く身振りを交えながら、


「古い貴族の挨拶だ。

その手を取って、頭を下げて相手の手の甲に額を軽く当てろ」


「なるほど…」


カジョウはそう呟くと指示通りにシャロノへと挨拶をし、それを終えるとシャロノが口を開いた。


「今はこの挨拶は廃れたのか?」


「いやぁ、少なくとも俺は今、初めて知ったな」


そう笑うカジョウに、そうか、と小さく呟くと、シャロノは改めて彼を眺める。

愛想は充分にあり、問題は今の所見受けられない。

目には見えない。




ただ、血の匂いが強く香った。




吸血貴は血に嫌悪感を一切抱かないが、もし人がシャロノのように鼻が利いたなら、噎せ返るような血の匂い。


もしくは、死臭と呼ばれるもの。


彼自身のものはなく、しかも複数の血の匂いだ。

両の指で数えて、足りなくなる程の。


「それじゃあ、まぁ、ガイキの顔も見たし、お噂の美女にも挨拶したから俺はちょっと飯行ってくるわ。

吸血貴さんもどう?

楽しい話とか、かなり自信あるよ?

いい?

そりゃ残念」


誘いに手を振って断ったシャロノに言葉を詰まらせる事なく、腹が減ったとずっと変わらずに飄々と笑うカジョウは、テントを後にしようと出入り口に手を掛けて。

思い出したように、ガイキを振り返ると、


「セイエとそのガキに会ったぞ」


「!」


「バカだよな、ホント」


やはり飄々と。

軽々しくそう告げるとカジョウはテントから抜け出して行った。

シャロノがガイキへ目を向けると、黙って少し俯いている。

ハイローはその横で少し顔色が悪く、他の者達も少しざわめいていた。


「…セイエは、確か、先日の村に居たお前達の〝元〟仲間だったな」


シャロノの声に、ざわめきが一気に引く。

数秒の沈黙の後に、ガイキはシャロノへ視線を向けぬまま、


「…アイツから、血の匂いがしたか?」


シャロノは口を開き。


一度、噤んでから、短く答えた。


「…ああ、複数の血の匂いが」


シャロノの声色で、ガイキも彼女が察したと理解したのだろう。

目を閉じ、それから彼女を真っ直ぐ見詰めると、


「あれは、そういう男だ」


「………、」


シャロノは彼に挨拶を求めた右手を見詰める。

冷たくも熱くもない彼の体温は、名残りを残してはいなかった。

彼と交わした挨拶が、幻のようだ。


もしくは、彼自身が幻だったかのようで。


シャロノはゆっくりとまた、ガイキへ視線を向けると、


「相手がこどもでも?」


ガイキは黙った。

ハイローも黙り、他の皆も同じ。


全員、彼女が察するには充分な表情をしていた。


「…なるほど、」


シャロノは、右手を軽く握った。

彼の纏っていた血の匂い達を考え、そしてそのテントの長い沈黙が皆の会話に薄れ始めた時に、小さく、


「…あの匂い……」


そう呟き、誰にも拾われぬそれを捨ててテントを後にした。











「いやもう、ホント大変だったよ。

美女と酒を飲めないってのが一番苦痛」


そう快活に笑うカジョウの言葉に、同じ卓を囲む女性達が笑った。

シャロノはそんな彼を一瞥し、離れた席で食事を取る隣の席のリリィロに、


「女好きとは聞いていたが、好いているだけでなく好かれてもいるんだな」


シャロノの言葉に嫌そうな顔をしたリリィロは、カジョウを一瞥もせずに刺々しい声色で応える。

ガイキを疎く思う時とはまた別の嫌悪さで、


「一部からね、本当に一部。

嫌いなヤツはとことん嫌いだからアイツが帰ってくると、まるで軍が支離滅裂になるようよ」


「お前は嫌いそうだな」


「嫌いよ、もちろん。

ああいう男はこども達にも悪影響だもの。

もう、本当にどうして呼び戻したのかしら」


いや、戦闘能力が高いからだとは分かっているが、と。

不機嫌な顔で食事を進めるリリィロから、シャロノはカジョウへと視線を移した。

ここは食堂の一角、一番影になる卓だ。シャロノの妖力衣を配慮して用意された場所であり、リリィロはそこで独りで食事を取るシャロノを気遣ってか、かなりの頻度で同じ卓で食事を取る。

ここからは一方的にカジョウが見れるが、向こうからはかなり意識しなければ目に付かないだろう。


シャロノは少し黙り、離れた席の喧騒を眺めながら、


「かなり腕が立つと聞いたが…ガイキよりもか?」


「それはないわね。

〝のろい〟が使えるガイキと良い勝負をするのは、敵方にいる〝ある男〟くらいしか思い付かないもの」


「…なるほど」


シャロノとリリィロの食事が終わった。

リリィロはそのまま慌ただしく幹部達の集うテントへ戻っていき、シャロノは食事用のテントから出て、仮設テントの間を歩いた。


夜の冷たい荒野の風は、今夜は少し穏やかだ。

あまり煙たくなく、煩くもない。

ただ、シャロノの向かいに現れた彼は、ゴーグルもマスクもしていたが。


「お?

美女さん、こんな夜中にテントの影に居たら危ないよ?」


そう笑うガジョウに、シャロノは黙って瞬きをした。

風上の彼から香る、その匂い。


「あー、でも、吸血貴相手にどうこう出来る人なんて居ないか?

めちゃくちゃ強いって聞いたよ」


「この軍の奴らは知らないのか?」


ガジョウのお喋りを遮ったシャロノの一言に、ガジョウは少し黙った。


「…知らないって、何を?

俺が合流するまでに〝誰〟を殺したのかとか?

血の匂いに敏いって言われてたもんなぁ。

でも多分、皆気付いて…」


「私が血の匂いに敏いから、多くを殺し、他者の血を纏って来たのか?」


ガジョウの視線だけが、素早く辺りを探った。

笑顔のまま、眼が走る。

酷く警戒していた。

殺気立ってはいないが、それに似た雰囲気を内に秘めている。


シャロノはそんなガジョウに、


「誰も近くに居ない。

匂わないし、感覚を強めているが気配もない」


「…俺を気遣ってこの場で待ち伏せしてたってことかな?」


「〝誰にも知られていない〟なら、知られたらどうなるのかは分かっている」


ははは、と、ガジョウは困ったように笑った。


「あー、そうか…。

ガイキの王の血の匂いを嗅ぎ分けたって聞いて…これで完璧と思ったんだけどなぁ…。

吸血貴ってここまで分かるのかぁ…」


諦めるように木箱の上に座るガジョウは、頬杖を突いてシャロノを見詰める。


「それで…俺が〝何者〟ってとこまで分かってるの?」


シャロノはそう笑うガジョウを見詰めた。

懐かしい匂いだ。


苦しく、悲しい匂い。


「…昔、最後の〝魔女狩り〟の時期に、処刑台の上にその血の匂いの女の子が居たのを見た」


ガジョウの笑顔が、静かに消える。


「その頃の人達はもう、〝魔女〟という言葉を本来そう呼ばれた種族以外に魔の女性への蔑称としても使っていたから、その子も〝魔女〟として捕らえられたらしい」


「………、」


「綺麗な翡翠色の角が生えていた。

誰が見たって〝魔女〟と呼ばれた種族じゃない。

〝鬼〟という魔だ」


思い出すのは、古い広場。

その中央の処刑台。

年齢問わず並べられた彼女達を遠くから見ていた。

助けてやりたいとは思ったが、ただその場から立ち去る。

あの時代は今よりずっと危険だった。

不死を殺せる人も多く存在し、特にああいった処刑の際には数多く集められている。


切り裂くような幼い叫びが消え、嗚咽する声も斬り落とされた。


吸血貴のシャロノの敏感な鼻に、真新しい血の匂いが襲い掛かる。

それは彼女の体に重くしがみ付いてきたが、振り返らずに帰路を歩いた。

家の扉を開けて、無事に帰ってきた我が家に息を吐く。

自分は運が良いと、つくづく感じた。

あの手の匂いを嗅ぐのは初めてではないし、光景も然り。




ただ、どれも忘れ難いと思った。




この長い生のどれだけ遠くまで連れて行けるかは分からないが、きっと長くを共にする。

鼻腔にこびり付く、古い記録として。

脳内に蝕む、助けられない罪悪感として。


ガジョウは、また笑った。

懐っこい笑みではなく、嘲笑に近い。


「人は自分達と違うモノが大嫌いだからな。

俺達〝鬼〟みたいに角が生えてる種族は気味悪がるんだよ」


そう言って、ガジョウは即頭部の髪を掻き上げた。

髪の合間から、根本から削り取られた斑模様の角が見える。


「でも、鬼は他の魔よりはマシだ。

俺みたく運良く髪に隠れる場所に角が生える個体は、削れば外見はまるで人だ。

不老不死でもなく、寿命も人との誤差は十年か二十年。

加齢もするし、簡単に怪我もするから人は皆、同種だと思ってくれる」


「…誰も知らないのか?」


「ガイキは知ってる。

人王の血のCosa-adiコサーディは知ってるな?

あれで記憶を見て、人力を使った血族の見極め方を知ったらしく、俺が魔だと気付いたんだ。

だが…アイツは良い奴だ。

幼馴染を差別したりはしない男だ。

俺の秘密を共有するだけでなく…誰にも言わないでくれる」


ガジョウは息を吐いた。

ゴツゴツとした角の雑な断面を指で擦る。


「これだけ他の奴の血の匂いを付けてもバレるとはな…」


「…普通、これだけ血の匂いが混ざっていると、意識して嗅ごうと思わなければ本体の血の匂いは香ってこない。

お前が妖力衣に影響されてない様子だったから、可笑しいと思ったんだ。

お前達の王曰く、人力をちゃんと扱えるのはほとんど居ないと言っていたし、個体差があるとはいえ吸血貴の妖力への耐性を持つ人なんて居ない。

私の妖力衣に耐性があるということは、同じ種族の吸血貴か…妖魔の内、妖力に耐性のある種族だ」


「ああ…なるほどね。

鬼は肉体は弱いけど三血族の力に耐性があるからなぁ。

でも…結構グイグイ行ってたでしょ?」


「妖力衣に当てられれば、普通は呆けて動きが止まる」


「あー、そっちかぁ…」


失敗したと笑うガジョウは神妙さを捨てて、また懐っこい笑顔を浮かべる。


「それにしても、誰にも聞かれないようにと気遣いされるとはね」


「…聞かれたら困るだろう?」


「困る困る。

困るけどさ、ホントすごいよ。

俺は気遣いとか難しくて。

どういうことされると嫌われるかとか、他者の基準って難しいだろ?

特に人!

よくそこが測れるよなぁ。

長く生きるとそういう経験則も養われるのかな?」


「…………」


シャロノは少し黙った。

静かにガジョウを観察して、彼の言葉と自分の過去を比較して、


「お前は、人が嫌いなんだな」


ガジョウは笑ったまま、溜息を強く吐いた。


「…吸血貴さんは、憎らしくないの?

あんな奴ら…」


「…言いたいことは分かる」


「分かる…けど、嫌ってはないのか。

まぁ、そうだよな。

嫌ってたらさっさとガイキ殺して血を取ってるよな…。

…俺は嫌いだよ。

この身に纏う血の持ち主のように、この軍の奴らも殺したいくらい嫌いだけど、俺のことを長年黙っていてくれたり、バレそうな時に助けてもらった恩がガイキにあるから我慢してる」


あっはっはっは、と。

やはり明るく笑うガジョウに、シャロノはただ頷いた。


「妖魔が〝嫌う〟ってことは、そういうことだからな。

そんな相手の心に歩み寄るのは、ただ共に生きるよりずっと難しい。

だから、お前は人達の言う〝気遣い〟を覚えられなくて、実行出来ないんだろう」


「あー、なるほどね、確かに」


ガジョウはそう笑い、頭を掻いた。

ゴツゴツと、角の〝名残り〟が指に当たる。指先ではそう感じても、角部分は引っ掻かれる痛みは何もなかった。


何も感じない。

彼を鬼と認識出来る唯一の目に見えるそれが、まるで。




自ら、自分自身を否定しているように。

沈黙していた。











(これは誰の為の血か)(これは何の為の血か)(これは、)(血の為に、)(誰の)(何を)

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