第七話

どうするか、と。

ガイキは軍の積荷を確認していた。

荷馬車に積まれた木箱と袋と、手元の書類のリストを何度も見比べる。

そこに、ガイキから少し離れた高台から双眼鏡を熱心に覗き込んでいたハイローが歩み寄ってきて、落胆の色を含んでガイキに報告した。


「避けては通れないな。

やはり、大型商隊として横断しよう」


ハイローの言葉に溜息が出る。

大きな何かを行おうと行動して予定通りに物事が進む事なんて基本的にないが、それでも想定外の、よりによって悪い状況へと傾くと毎度落胆してしまう。


「…食糧は金ではなく、食品との交換制にしろ。

減らせない。

保存食は売るな」


ガイキはそう言うと、リリィロへと目を向けた。

行軍中は中央でシャロノと並んで歩いているはずの彼女がこの最前線に居るのは、事態を告げて馬に乗って来るようにと呼び寄せたからだ。


彼女は、この軍で最も発言権の高い軍師のひとりだ。


そんなリリィロに後は任せる。と告げるとガイキは荷馬車から離れ、前方を見詰める。

広く敷かれた田舎村が、砂の霞の向こうに見えた。

迂回は出来ない。

片側には険しそうな岩山があり、もう片側には川。

双方とも、通り抜けるには通常以上の労力と時間が掛かる。

それなら、商隊だと偽って備品を削ってでも村を通過した方が安全で、早いと判断した。

ガイキの隣に並んだハイローは、腕を組みながら唸る。


「ここ数年で出来たようですね、この村」


「ああ…まぁ、まだの国からの迎撃隊はここまで届かないだろう。

長居せずに出れば、この村を戦いに巻き込むことはない…」


ガイキはまた息を吐き、軍隊の後方を見た。

事態を軍全体に告げた為、行軍の列が止まっていて、このような事態が起こった時にすべき行動が決まっている者達が動いている。

後方から前方へ移動する者も居れば、その逆も居る。

そして、最前線へ近付いてくる者達の中に、ベーディとシャロノも居た。

仲良くでもなったのか、ベーディの好奇心が勝っているのか、並んで会話を交わすベーディとシャロノ。

ガイキは、まったく、と憂慮に瞼を閉じ、そしてふたりに目を向け直して声を上げた。


「ベーディ、それに…シャロノ。

来てくれ」


ふたりの視線がガイキへと向いた。

ベーディは直ぐにこちらに駆け寄ろうとして、慌てずに歩くシャロノを振り返って待っている。


そんな幼い彼を見ていると、ガイキはなんだか不安だった。

〝懐っこい〟彼の事が、心配になってしまったのだ。

ベーディは比較的簡単に誰とも親しくなれる。

他者を親しく思う気持ちが大きいのだろう。

他者を親しく思うと、良い事もあるが悪い事もある。

特に、こんな時代のこんな場所では、〝悪い〟事が多いだろう。


ガイキは、ベーディの事が大切だ。

傷付かずに生きる事が出来なくとも、出来るだけその傷が浅く、そして少なくあって欲しい。




難しい事だ。




浅い傷が一つでも、時にそれが膿んで酷い熱と痛みを帯びる事もある。


そんな傷や痛みが、命を削り、時に奪うものだとも知っている。


そうならないで欲しい。

浅い傷は浅いまま、膿む事もなく、時と共に忘れて流れていけばいい。


けれど、難しいのだ。

他者に寄り添い易いのは、人の持つ〝想意おもい〟、その性質が強いという事。

誰かを想うその肌は、寄り添った誰かをよく知る為にとても弱くて敏感だ。

普通なら血も出ぬ浅い切り傷も、骨まで届く裂傷になる。

痛くて辛くて、立ち上がる事が困難となる。

ベーディの肌はそういう肌だ。

懐っこく、弱いのに、傷付いて座り込む事を己に許さない。

そんな事は出来ない、とベーディは言うだろう。


強いガイキが傍にいるから。

骨まで届く裂傷に、よろめきもしない彼が。


ベーディとガイキは家族で、瞳の色も同じで、血の繋がりもある。

だが、ベーディはガイキではない。

痛みの辛さが違って当たり前だ。

それなのに、幼い彼はその違いを恥じようとする。


だからガイキは心配だった。

痛みに真っ青の顔で何でもないと笑うベーディは見たくない。

もちろん、痛みに素直に泣く彼も見たくない。

彼の側に、痛みという存在が在って欲しくない。

こんな時代のこんな場所。

そこで語るにはあまりにも贅沢だとは分かっているが。


ガイキはベーディに、傷付いて欲しくなかった。

一心に、それだけだった。











「こんな小さな村まで、お前達の顔は割れているのか?」


シャロノの言葉に、地図にペンを走らせるガイキは一瞥の後に首を横に振った。


「王都に住む者でも俺達の顔なんて普通は知らない。

だが、国の兵士は別だ。

この村に兵士は居なさそうだが、退役兵士までは分からん。

俺とベーディはの国の第一標的だし、ハイローも長くこの軍に従事している。

こうやって隠密に村や街に入る時、俺達のような顔が割れてるやつは全員ら馬車に潜むことにしているんだ。

あと…シャロノ。

お前を見て吸血貴と分かるヤツは今や少ないが、古老の中では特徴を知る者も居る。

妖…しかも吸血貴となれば目立ち過ぎる」


明日の朝この村を出るまでは馬車から顔も出さないでくれ、と告げるガイキに、シャロノは頷いた。

特に不服はない。

ガイキが名を上げた四影よにんだけが座るこの幌馬車の中で、ベーディは整列している銃を一つ一つ整備確認していて、ハイローは馬車の出入り口に座って警戒を続けている。


シャロノはケージから出して手に載せたハクシを撫で、幌越しの外へと視線を向けた。

兵士達が商品を勧めたり、村の住民と談笑する声が、ぼんやりとくぐもって聞こえる。


「この村は、の国の村なのか?」


「いや…の国の旗が門になかった。

恐らくは〝流れ〟の民が寄り合って出来た村だ」


「流れ…?」


シャロノは答えたガイキの言葉に更に疑問を重ねた。

どうやらガイキは、地図にこの村を書き足しているらしい。

ガイキは、ここは不毛の地だからなと呟き、気付いてシャロノへと目を向けると、


「確か…三十年くらい、寝ていたんだろう?」


シャロノは短い言葉で肯定した。

ガイキはまた地図を眺め、それから風の音に耳を澄ませる。


幌に砂が当たる音がする。

ガイキは生涯の内ほんの一部をここで過ごしただけだが、耳慣れてしまった〝毒〟の音。

バチバチと今は幌を叩く砂粒が、自分の肌を叩く痛みを簡単に思い起こせる。


「…ここが何域か知っているか?」


シャロノはガイキの問いに、細やかに首を傾けた。

こちらを真っ直ぐに見詰めるガイキに、シャロノの美しい色の唇が動く。


「こんな荒野、〝ベチッディルク域〟以外ないだろう。

こんな場所にまで人が住処を広げていることには驚いたが…」


「…ハンケルスだ」


「?」


ガイキは卓上の地図を、シャロノの方へと向きを改めた。

擦れたり端が欠けたりしているが作りの良い地図に、文字や図が狭そうに加筆されている。

加筆された文字が、二重線で取り消されもしていた。


様々な変化があった。

村が出来て、村が消えて。

そして、それ以上に。


「ハンケルス域だ。

ここは、〝ハンケルス域スメイ〟。

俺達初めて出会った場所は、〝トメノ域カケッリ〟に当たる」


ベーディはいつも過多に抱える好奇心で、整備をしている銃から顔を上げた。

どうしてそんな話をしているのかと、ガイキを見てからシャロノへと視線を移すと。




無表情か微笑みかしか知らない彼女の顔が、驚愕に染まり抜き、彼女の手が口を覆っていた。




信じられない、という言葉を表情で表し、シャロノのいつも大きな目が、一層大きく開かれていた。

その中で、真っ赤な瞳が揺れている。

まるで、血流を求める心臓のように。

ガイキの言葉を理解しようと、その瞳は揺れている。

そして、驚きにか少し震えた声で、


「そんな…っ、」


その一言で息を呑み込み、シャロノは少し冷静へと近付いた震えのない声で続けた。

目の開きが少し収まり、瞳の揺れも収まる。

それでもまだ、驚きを抱えた表情だったが。


「ここが…ハンケルス域だと…?

〝庭園〟と呼ばれた地域だぞ…!」


「…ああ、〝国の庭園ハンケルス〟だ。

かつて…三血族の王国が交わる中心地であり、土地の肥えた地域〝だった〟場所だ」


シャロノは考えるように目を伏せる。

ベーディはそんなにも余裕のない表情をするシャロノを瞠目していた。

彼女の目が持つ焦りのような揺らぎの滞り。

ガイキに似て、いつも冷静な彼女の感情の起伏が意外だったし、何より、ここがそんな豊かな地だったとはベーディは知らなかった。


彼が知るハンケルス域の南部やトメノ域は、砂と強風に覆われた不毛の地だ。

物心ついた時から今日まで、何も変わらない。

砂と岩に支配されたような土地だった。


「三十年…たった三十年でどうしてあの緑が荒野に変わる…!?

魔が魔術で作り変える訳もないだろう…!」


シャロノはそう、迫るようにガイキへと視線を貫いた。

口を覆う彼女の指に、力が籠もっている。


彼女の真っ赤な瞳に睨まれると、死を突き付けられているような危機感を感じた。

それは、彼女の瞳の色があまりに血の色に似ているからなのか、それとも彼女が強大な力を保有していると知っているからなのか。

もしくは、何か別の、自身にも分からない理由があるのか。


ガイキはそんな視線を受けたまま、静かにシャロノに答える。

気圧されず、冷静に。


「土の魔術で覆われた訳ではない。

これは、人が技術によって作り出した〝兵器〟の力だ」


そこで、シャロノは綺麗な眉間にシワを寄せた。

美しい彼女にシワが刻まれると、何だか勿体ない気持ちにさせられる。

品のいい紳士淑女が、糊の効いていないシャツを着ているような、残念な気持ち。


「〝兵器〟…は、確か…。

銃とか、剣とか…、…。

とにかく、人が使う殺傷道具のこと…だな?」


シャロノの不慣れな物言いの単語に、ガイキが頷いていた。

ベーディは、丸くした目を瞬かせる。

彼女が、〝兵器〟という言葉を使い慣れておらず、意味を明確化出来ていない事が驚きだった。

彼女と出会ってからの会話で、銃も剣も何度か話題になっていたから、それらの大きな一区切り、〝兵器〟も特別な物ではないと思っていた。


そして、彼女の口振りから〝兵器〟を扱うのは人だけとベーディは知った。

〝兵器〟を作ったのが人だという事は知っている。

だが、扱うのが人だけとは初耳だ。

少なくとも、妖魔で扱う個体はかなり稀有なのだろう。


ガイキがかつて語った、妖魔は諍いを好まないという言葉を思い出す。

そうか、と。

もし、人が彼らに武器を向けなければ、妖魔は誰かを殺そうとはしないのかと。

だから、〝兵器〟なんて要らない。


不要で興味のないものを深く知ったり気に留めようとは、普通しないだろう。

だから、シャロノは〝兵器〟という存在を明確に理解していない。


「あんな鉄や木の塊がどうやって森を不毛の地へと変える…!

干天かんてんの〝のろい〟を技術で作り出しでもしたのか?」


「雨を降らせなかったんじゃない。

もっと短期間で大地を枯らした」


そして、ガイキは言った。


「〝毒〟だ」


「…毒?」


ガイキの言葉に、変わらずに怪訝な顔をするシャロノがその色を深めた。


ガイキの耳によく届く。

幌に当たる砂粒の音。

〝毒〟の音。

毒に因って荒野となり、その細かい粒子は瞳や肺の機能を奪う毒と成った。


「どうして草木が毒なんかで死滅するんだ。

ハンケルス域にもトメノ域にも、毒性の花も多いだろう」


「〝人工の毒〟だ」


シャロノは口を開き一度噤むと、ゆっくりと、慎重な口調でガイキの言葉を復唱する。


「〝じんこう〟…?」


ベーディはただただシャロノを、このやり取りの間あんぐりと見詰めていた。


〝人工〟なんて単語は初耳だという雰囲気を出す彼女にガイキを見て、それから思わずハイローへとも視線を向ける。

ハイローは外を警戒していたが、彼もこの問答を気にしているらしい。


自分の知らない事ばかりを知っていた彼女が、〝当たり前〟の事を知らないのが、なんだかとても信じられなくて。

ベーディは、今目の前のこのやり取りが、彼女が目の前に現れた時のような異様な光景に思えた。


「〝ひとのえたくみにて作り出したもの〟」


ガイキが、言葉を紡ぐ。


「つまり、人が技術を使用して何かを模造して作ったもの、という意味だ。

ここ四、五十年で出来た造語だが、よく使われるようになってからは三十年も経っていない」


「………、」


シャロノは、息を吐いた。

憂いの息を。

もしくは、悲哀の息を。


「〝また〟造語か…。

人は〝もの〟を作り過ぎる…」


そう呟き、言葉を一度区切ってからシャロノはまたガイキを見た。

彼の手元の地図を見る余裕をやっと持ち、シャロノは問いを続ける。


「…それで?

その〝ジンコウの毒〟とやらで草木を枯らしたのか?

なんの為に?」


ガイキはシャロノの瞳を見詰めた。

彼女はこの辺りが豊かだった頃をその目で見た事があるのだろう。


先程の彼女の焦りはまるで、故郷を滅ぼされた少女のようだった。


だが、彼女は妖だ。

彼らはそこが生まれ育った土地だろうと、地域に対しての〝愛着〟のような感情は抱かない。

だから、彼女の知った土地であろうとここが朽ちたからといって多少はあれども大きなショックを受けるとは思えなかった。


それとも、人の傲慢さに驚愕しただけだろうかと。

ガイキは、また彼女の疑問に答えた。


愚かな答えだ。


「〝失敗〟したからだ」


シャロノはただ黙って、顔を顰めていた。

ガイキは言葉を続ける。


「あの兵器はただの〝殺傷武器〟だったはずだった。

だが…その兵器に積んだ火薬や外装が熱や紫外線で変異し、それが大地に落ちると直ぐに〝土〟を枯らした。

〝水を保有できない砂〟へと大地が変化したんだ。

知らぬ間に、俺達は毒を作っていた。

何年掛かっても取り戻せない〝猛毒〟を」


シャロノは黙り、そして静かに口を開いた。


「…分からなかったのか?お前達が作った〝もの〟だろう?」


ガイキは頷く。

そして、少し瞳を伏せて、


「人は技術によって新しいものを作り、利便的な生活を確保してきた。

〝戦い〟ですら、利便性を求めている。

この三十年の戦争で…技術力の高いの国は様々な兵器を作成して俺達を撃滅しようとした。

俺達もまた、彼らの兵器を奪って戦った。

この荒野は〝その結果〟だ。

その兵器の毒に気付き、の国と我らで協定を結んでその兵器の使用を禁止し、三年で毒素は消えた。

…が、枯れた大地は戻らなかった」


ガイキは真っ直ぐに目の前の彼女を見詰め返す。


「人は浅慮だ。

命が短く脆い我々は、いつも焦って結果を急ぐ」


シャロノは地図へと目を落とした。

見慣れない風景のここを示す地図には、見慣れた名称が並んでいる。


街の名前、山の名前、川の名前、丘の名前。

今初めて、それらが友の名のように、懐かしく親しいものに感じた。


そして脳裏に、ある家が思い浮かんだ。


「…ハンケルス域ケティに、街があっただろう。

たくさん…街が。

あれも消えたのか?」


シャロノの言葉に、ガイキの指が地図を指す。

そこには、印が付けられていた。


とても厳重に。


「ハンケルス域ケティの全域は、の国の城と城下街になっている」


「…!」


「そこまで行かずとも、ハンケルス域トヴェーススまで行けば大地もまだ生きている。

…毒されたのは、ハンケルス域の南だけだ。

〝幸い〟な…」


シャロノは笑った。

力なく笑い、呆れたような視線で地図を見詰めて、


「〝幸い〟か…。

本当に人は…神の御心に背くことが得意だな」


息が溢れた。

そしてシャロノは呟く。


「言えたことではないか…」


その囁きはベーディには聞こえなかったが、出入り口を警戒していたハイローがそこを薄く開けた。

幌馬車の外に居たスイヒが、小声でハイローに言葉を伝える。

ハイローも小声で彼女に何かを伝え、入口を閉めてガイキへと顔を向けると、


「ガイキ。

…この村に、セイエが居るそうだ」


シャロノは、ガイキへと目を向けた。

彼は少し腰を浮かせていて、そして。


ベーディを瞳だけで一瞥した。


その動きにシャロノもベーディを見ると、幼い彼は酷く驚いた顔で整備途中の銃を抱えている。


まるで、先程のシャロノのように焦りの色の瞳を揺らしていた。











夜が更けると、村はとても静かだった。

どうやら夜に集う酒場などはないらしいこの村で、ランプを手にガイキが幌馬車から降りる。


村人の静寂を邪魔しない細やかな声でハイローとガイキは言葉を交わし、小声ながらも興奮気味のスイヒには留守を頼むと告げて。

ガイキは幌馬車の中の布を捲り、こちらを伺うシャロノを振り返る。


「俺とハイローで行く。

敵襲はないだろうが、緊急時以外は誰も来ないから、お前はここに留まってくれ。

それから…」


ガイキは、シャロノと同じく馬車に乗るベーディを見詰めた。

彼は既に準備万端といった様子でゴーグルを付け、ネックカバーを口元に引き上げている。


「おれも行く」


「………、」


ハイローは沈黙するガイキを一瞥した。

そしてベーディに向かってハイローが口を開く。


「ベーディ、お前は残れ。

もう遅い。

数時間後にはこの村を出て歩を進めるんだ。

この村から離れれば、お前もその足で歩かなくてはならないんだぞ」


「…、セイエは、孤児母のひとりだった。

おれも世話になったのに、急に居なくなったんだ。

おれにはまだ〝過去の記憶〟はないけど、これから起こることは知るべきだ!」


ガキの癖にまったく正論を、と、ハイローは心の内に息を吐く。

そしてまた、ガイキを一瞥した。


ガイキは黙っていた。

きっと、葛藤しているのだろう。


ベーディはまだ幼いとはいえ、王の血をその身に宿しているガイキに〝何かあれば〟ベーディが跡を継がなければならない。

だから、ガイキはベーディを甘やかしはしない。


そして、今回会いに行くのは以前軍に居た女性だ。

孤児母といって軍の中の孤児達を初め多くのこども達の面倒を見る女性のひとりであり、銃の腕も良くて戦闘員としても数えられていた。


今から、ガイキはそんな彼女に軍に戻る気はないのかを問いに行く。


ガイキは分かっているはずだ。

どうして彼女が軍を離れたのか、そして今から問い掛けをおこなった所で帰ってくる返答が如何なるものなのか。


それでも、ガイキは行かなくてはならない。

行かなければ、スイヒや〝スイヒのような者達〟が黙っていないだろうから。

彼女達が乗り込めば、折角村人の注意を浴びないように隠密にしているこの静けさは無駄になる。


だからガイキは行かなければならない。

そして本来は、ベーディに同行しろと命じなければならない。

しかし、ガイキはそれを渋っている。

ガイキはベーディを甘やかしはしないが、彼をとても大切に思っている。

彼女が軍から消えた時、まだ幼かったベーディは何の勘付きもなかっただろうから、尚更同行させたくない。


ベーディに、彼女が抜けた〝理由〟を知らせるのは、酷に思えた。

残虐な理由ではないが、ベーディが傷付くだろうと分かっている。


ガイキはだから、命じる事を臆したまま黙っていた。

しかし、今正に準備を終えて立ち上がろうとしたベーディに手を向けて制止すると、


「シャロノがここに残る。

セイエを警戒させない為にも、彼女を連れて行く訳にはいかない。

今、この軍で最も彼女の妖力衣を打ち破れるのはお前だけだ。

彼女の前で言うのは気が引けるが、ベーディ。

お前は彼女の側から離れずに様子を見ていろ」


暗に監視役だと伝えるガイキに、ベーディは従うしかなかった。

少し不満はあるものの王からの意義ある命令にベーディは浮かせていた腰を真下に降ろして座り、ガイキはチラリとシャロノを見る。


妖であるシャロノは勿論あんな事では気分を害さないし、彼女自身、他者の機微に無知ではなかった。

何かを漠然と察したように、ただ澄ました顔で座っている。


ガイキは表に出さないが、心底安堵した。

彼女が賢明な女性で良かったと、心の底から思う。


ガイキは荷馬車の扉を閉じ、踵を返して歩き出す。

そして、ガイキ同様に安堵していたハイローは細く息を吐いた。


本当に良かったと思う。

ベーディだけでなく、ガイキの負担が少しでも減って本当にと。


ただでさえ、これからセイエに無駄な説得をしに赴くのは、負担以外のなにものでもないのだから。











シャロノはベーディを見た。

ガイキとハイローがこの幌馬車から去って二刻程。

まだ拗ねるような表情を浮かべる彼に、静かに笑う。


「そんなに私の監視役は嫌なのか?」


シャロノの冗談混じりのその声に、ベーディは慌てて顔を上げ、首を左右に振る。


「違うよ!

…でも、シャロノは軍の皆を襲ったりしないだろ?

監視なんて不必要だよ」


吐き出すように言うベーディのあからさまな幼さ。

きっと彼の無意識なのだと思うと余計にベーディがまだ幼いと知れて、シャロノは笑った。


「お前は簡単に誰かを信用し過ぎだな。

私が必要なのはあの男の血なのだから、ここの皆を殺して彼を待ち構える可能性もある」


軽く笑いながら悍ましい内容を言う彼女だが、ベーディは少しもそれを恐ろしいと感じなかった。

彼女の指摘する通り、信用し過ぎなのかも知れないが、


「でも…シャロノはおれ達を殺したりしないだろ?」


怖がりもしないベーディに、シャロノは頬杖を突く。


「まぁ、数十年で勝手に死ぬ人を態々殺す必要性なんて、私には理解出来ないがな…。

基本的に吸血貴の求める血なんて、人ひとり殺す程の量には遠く及ばない」


「少しだけしか飲まないのか?

たくさん飲みたいとかは?

好きで飲むんだから、」


好奇心が前のめりになって来たベーディに、シャロノは少し考えるように間を置いてから、


「吸血貴に取って血は趣向品に近い。

飲まなくとも死にはしない…。

ただ、長い期間飲まなければ〝飢餓〟のような感覚に陥るが、微量飲めばそれも落ち着く。

後はまぁ…血を飲んだ後は気分や調子が良くなる。

妖術を扱う前は、血を口にした方が捗ったりな。

〝その程度〟のものだ。

そんなことの為に誰かを殺さないだろう?」


ベーディは呆然とするようにシャロノを見詰めた。

不老不死の妖魔は人に比べて生死に疎い。

冷酷だなんだと皆が噂するそれが、本当なのだとベーディは知る。


確かに彼女は生死に疎い。

棺桶に入って〝死を体感する〟と言ったり、〝趣向品の為に誰かを殺す発想がない〟と言う。




〝飢餓〟のような耐え難い苦痛を、〝死にはしないから〟という理由で〝たかが〟と称する。




シャロノは、死への危機がなく、生への固執もないように思えた。

もしくは、それらが人達に比べて薄いのだと。


人の中には、残念な事に、自分の趣向の為に誰かを殺す者が居る。

〝生きる為〟ではなく、〝生を充実させる為〟の金欲しさに、誰かを殺して金を奪う者が。


きっとそれは、生に異常な固執をしているからだ。

いつ終わるか分からない生の為に、その日の充実を得たいから誰かを殺した金で酒を飲み、自分が誰かに殺されそうになったらその金で自分の命を買おうとするのだ。

人はそういう人を〝最低な奴〟だと罵るが、彼女のような不老不死の妖魔からすれば首を傾げるような出来事なのだろう。

人がその〝最低な奴〟を〝最低〟と罵る理由は多々あるが、それは殺しを働いた事や、他者から金品など何かを奪うという事を責めているのだ。


殺しはもちろん、他者から何かを奪うという事は、その者の尊厳を踏みにじる行為だ。

誰かが手にしているものは、ほとんどの場合、その者の努力によってその手に持っているのだ。

懸命に働いて金銭や食糧を得たり、誠実に生きて友や家族と輪を作る。


中には、懸命な労働や誠実な生活を行っていても、それを手に出来ない者も居る。

だが、それが何の関係もない他者からそれらを奪ってもいい理由にはならない。

努力しても尊厳が手に出来ない者の解決策は他にあるが、踏み躙られ土汚れた尊厳を、美しく繕って身に纏う事は難しい。


だから、尊厳を繕う事よりも、今日生きる為に、他者の尊厳を剥ぎ取ってパンを食べる方が簡単で、早く、そして。




今日生き延びられるか分からない者には、その選択肢しかないのだ。




悪いのは、最初に努力による尊厳を踏み躙った存在だ。

だが、他者の命や金品を奪えば、どんな理由でも、事象としては〝他者の尊厳を奪った者〟となってしまう。

直接的に命を奪わずとも、その奪った金品により、奪われた者はその日を生きていけなくなるかもしれないから。

だから生死に敏感な人達は、誰かを殺したり、金品を盗んで尊厳を傷付ける行為を〝悪〟と見做みなし、それが今日を生きる為ではなく、娯楽の為のものならば特に〝最大級の悪〟と見做す。

生死に敏感でなければ抱かなかったはずのその感情を、生死に敏感が故に抱く善悪観念で制御しているのだ。


だから、シャロノには分からない。

誰かを貶めてまで、〝たかが生を充実させる為の一時の趣向品〟を求める理由が。


不老不死にとっての生は無限。

たった数十年で終わる命をより良いものにしようと足掻く人の懸命さを理解出来ても、自分に当てはめる事は決してない。


彼女は生死に疎いから、誰かを殺そうなんて考えもしない。


不老不死の妖魔にとって生死は慮るものではなく、ただ無関心にそこあるだけのものだ。

生きたいと足掻くものに手を差し伸べるのは、ただ助けて欲しいと言われたからそうしただけで。

死にたいと嘆くものを傍観するのは、それでも死へ歩かない理由を知らないからだ。




生きる事はひとりでは出来ないが、死ぬ事はひとりで出来てしまう。




だから、生きたいと足掻くものには手助けしてくれるのだ。

軍の皆の痛みを紛らわすシャロノは、きっとそういう感情で手助けしてくれている。


ベーディはなんだか、あんな愚かな疑問を抱いた自分が恥ずかしくなった。

彼女の事を誰かの命を簡単に刈り取るような妖と思った自分を嫌悪する。

すると、そんなベーディの様子に気付いたシャロノが眉を寄せた。


「どうした?

深刻な顔をして」


確かに生死には疎いかも知れない。

けれどそれは、他の誰かの心に疎いという事ではない。

ベーディが自己嫌悪に陥れば、無関心に放置せずに気に掛けてくれる。

だからベーディは、自分を恥じているのだと告げた。

シャロノをまるで殺しに関して、何も感じないかのように考えていた事を反省していると述べたのだ。


すると、少し間を置いたシャロノはくすくすと、遊びに行く前にいってきますと挨拶をした時のような柔和な顔と声で笑い、


「人は皆…そうだな。

〝勘違い〟や〝偏見〟を向けただけで嫌われるとか、関係が悪くなると思っている。

人同士はそうかも知れないが、私は妖だ。

そんなことでお前を嫌い、憎む訳がない」


「でもおれは…酷いことを、した。

人と何が違って何が同じか知りもしないのに、分かったような口調で…よりによって、シャロノを〝最低なヤツ〟みたいに…」


自分の失態を重くもたげるベーディの頭に、シャロノはやはりくすくすと、呆れるような色を混ぜて笑った。


「違うのは当たり前だ。

種族どころか血族も違う。

そもそも個からして皆違うのだから、お前と血族の違う私も、お前と同じ人も、同等にお前とは異なる。

そんな奴を一々細かく分別は出来ない。

だから妖は〝こう〟、人は〝ああ〟と大多数の系統や主観からの差異で区別することは当たり前だろう。

お前達、人はそういうのを色々考えすぎだ。

私だって、お前は人だから簡単に死ぬんだろうなと勝手に解釈している」


ベーディは少し笑った。

まるで、理屈屋と話しているようだ。

彼女は勝手に落ち込むベーディを励ます為に、理屈をたくさん並べてくれている。


優しい女性だと、再認識する。


「またそれは偏見とかとは違う気がするけど…」


「そうか?

私からすれば変わらないが」


シャロノはそう呟いて首を傾げ、少し考える。


「…そうだな、そもそも種族を持たない人は、自分達を一括りにしたがる。

だが、実際は様々な括りが存在しているだろう?

〝王の血筋〟、とか」


シャロノの言葉に、ベーディは笑っていた口元が一瞬強張る。

シャロノはそんなベーディに気付いたが、変に間を置かずに続けた。


「この髪と瞳の色は、生物の中で唯一吸血貴が持つものだ。

〝似た色〟をした別血族や別種族も居るが、私達の種族色は明確に決められているし、別例もない。

それは…お前達、人の〝王〟も同じだろう?」


ベーディは少し黙り、それから頷いた。


「うん…そう。

人の王族…〝人王じんおう〟といわれた人は皆決まった髪と瞳の色をしている。

だから、一目で分かるんだ。

目の前に居る人が…〝王〟か〝王じゃないか〟…本当は」


シャロノはベーディの髪を見詰めた。

日に焼けて黄色掛かった硬い葉の色をしていた。

瞳はガイキと同じ、解け始めた雪の合間に見える濃い若葉と同じ色をしている。


ガイキの髪は、新しい季節を知らせる枯れた草の色だ。


それはどれも、〝人王〟を指し示す色ではなかった。


「おれとガイキは、〝人王〟の遠縁だ…たぶん。

ガイキが〝記憶〟の能力を持っているから間違いはないけど、その力がなかったら知れなかったくらい遠い血の繋がり…」


「そうだな、人王の血の匂いはかなり薄い」


「でも…香るんだね?

おれとガイキから、王の血が…」


シャロノは俯くベーディの視線の先を見た。

膝を抱え込んで座る自分の拳を見ている。


幼さに小さく、過酷な環境に傷んだ拳だった。

幼少の自分とはまるで違う彼の拳を見詰めながら、シャロノは頷いた。


「ああ、香る」


すると、ベーディは俯いたまま笑った。

決して楽しそうではないその笑みで、諦観に似た顔をシャロノに向けて笑う。


「そう、良かった…。

おれにもちゃんと、王の血があるんだ」


とても〝良かった〟ようには思えない表情を眺め、シャロノは静かに瞬きをする。

ベーディが複雑な立場に居るとは何となく察していた。

軍の長であり王であるガイキと同じ〝王〟の血を持つ彼は、同年代の兵士と行う事が度々異なる。


食後に同年代の友と遊んだかと思えばガイキと共に過酷な行軍の先頭に立ったり、その事に関してリリィロが過剰に感情的にガイキを責めたかと思えば、ベーディはリリィロと仲良く隣を歩いたりと。


彼は恐らく、この軍の中で最も複雑な関係性を持つ者のひとりなのだろうと、シャロノでも察する。

ベーディにとって王の血は、誇るより先に何か思う事があるようだ。




まぁ確かに、廃れた王族の血筋なんて今更何でもないのにと、私も思うが。




と、シャロノはベーディを見詰めたままぼんやりと考え、幌馬車の入り口へと目を向けた。

二重扉の外側の布が開かれる音がして、乗り込む者達の重さで馬車が揺れる。

その揺れと物音にベーディはハッと顔を上げ、出入り口を見詰める。

砂埃を落とす物音と共に、内側の布も揺れ、そしてそこが開いてゴーグルとマスクをしたガイキとハイローが埃っぽい空気と共に帰ってきた。











(目に見えないものと)(目に見えるもの)(違うものと)(同じもの)(それらが並ぶ姿が、)(私には、)

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