第六話

「あなたは大丈夫?」


風の音の合間から聞こえたリリィロの声掛けに、シャロノは彼女を向く。

リリィロは一度ゴーグルを拭い、拭い切れなかった埃で曇ったシャロノの輪郭を眺めると、


「多くの兵士は馬車内の兵士と交代して休憩しているわ。

ベーディも今、休みに行ったでしょう?

妖力衣のことは気にせず、中に入って休んで大丈夫よ」


出発前に事前に説明されていた交代についての説明と同じような文言に、シャロノもほとんど同じ返答をした。


「大丈夫。

吸血貴である私は人と体の丈夫さや体力が違うから」


そう言いながら風になびいて顔に掛かる髪を、シャロノは指先で後ろに流す。

その言葉遣い通り全く疲れていなさそうなシャロノに、着実に蓄積している疲労を感じつつあるリリィロは、羨ましいわね、と歩くと吐いてしまう息と共に呟く。


「お前は休まないのか?」


「これでも幹部だからね。

他の兵士より軽装だし、まだ大丈夫よ」


脱水だけは気を付けてね。と、リリィロはシャロノに告げて、緩む事のない歩みを更に続けた。

気温の高い日ではなかったが、重り代わりの荷物を持ってこれだけ歩けば、体温が上がって暑く感じる。

汗ばむ顔に砂が張り付いているのが自分でも分かって、不快だ。

しかし、とリリィロは隣のシャロノを横目に見る。


大所帯の行軍の為に速度は大して速くないが、シャロノは歩き始めから今まで歩速も姿勢も一切崩していない。

そして、風が強いのに手に持つ日傘もまるで風のない日のようにぶれもしない。

それも妖術なのだろうかと考えリリィロは、顔に砂に薄く付いても美しいシャロノの横顔を見詰める。

いくら長い睫毛を持っているとはいっても、この砂塵の中、裸眼のままの真っ赤な瞳はいつものように大きく、前を見ていた。

頻繁に瞬きをする訳でもない。

だが、その長い睫毛が音もなく落ちて、瞼と共に引き上げられた時。




真っ赤な瞳と目が合った。

思わず、はっ、と息を短く吸う。

血のような真紅の瞳は物々しさもなく、ただ美しい宝石よりも愛らしく、そこに在った。




そしてリリィロは次の瞬間、シャロノの声を掛けられるまで、自分が彼女に見れている自覚すらなかった。


「大丈夫か?」


ここで、リリィロはやっと自分が彼女の妖力に惹き付けられたのだと理解した。

慌てて前を見る。

幸い、歩みは乱れなかったらしい。

そして、彼女の魅力から抜け出せたのは、シャロノが意図して妖力衣を一時的に弱めてくれたのだという事も、事前の打ち合わせから理解する。


「大丈夫よ。

ごめんなさい…」


「……、」


シャロノは両手で握る日傘から、リリィロが歩く左側の手を離した。

それは日傘の柄から少し浮いたが、少し止まってからまた柄を握り直す。

リリィロは必死に前を見詰めていたので、シャロノのその腕には気付かなかったようだ。

シャロノは少し沈黙した後、口を開く。


「疲労を取ろうか?」


「…え?」


リリィロはまた、シャロノを見る。

目元しか見えないが、彼女の血の色のその瞳からは。


慈愛を感じた。


「本当になくす事は出来ないが、感じないようにすることは出来る…。

…ただ、感じないだけで肉体は疲労しているから、無理をすれば体が保たないが」


リリィロは、シャロノを見詰める。

彼女が急に何故そんな事を言い出したのか、休憩云々の話をしたからだろうかと考え、一息分、返事が遅れた。

シャロノは、リリィロが返事に詰まっている事を特に気にせずに続ける。


「疲労は精神にも影響する。

そうなれば、私の妖力も厄介になるだろう」


そこで、リリィロは気付いた。

シャロノは、リリィロがシャロノの妖力衣に魅了されたのは疲労の所為だと考えているのだと。

確かに、疲労により集中力は低下する。

そうなると気が緩み、シャロノの美貌に見れる事も多くなるかもしれない。

だが、リリィロは思わず笑った。

ガイキからの説明と、資料の熟読で妖の性質は理解している。


「あなたは優しいのね」


くすくすと笑うリリィロに、シャロノは静かに考える。


「人は…言われずとも他者の苦心に寄り添い、肩代わりすることが美徳だろう?

…〝余計なお世話〟というものだったか?」


「ふふっ。

いいえ、とても嬉しい申し出だったわ」


リリィロは、シャロノを見詰める。

彼女の言う通りだ。

人というものは、足を挫いて動けないものが居たら、たとえ見ず知らずの誰かでも、助けを求められずとも手を貸す事が〝美徳〟とされている。


だが、この感覚を他の血族は持ち合わせていない。

たとえ多くの仕事に押し潰されようとも、怪我で動けなくなっていても、助けを求めないのなら最後までこなす事が当たり前だ。


そもそも、〝虚栄心〟のような自意識過剰な感情や〝自分や他者の実力を見誤る〟なんて愚かな失態は、ほとんど人にしか起こらないらしい。

自分が出来ない事は事前に出来ないと告げ、無理をして怪我を負う事もない。

もちろん事故や、故意に貶められる時もある。

そうなれば、助けを素直に求めた。

見栄を抱かない彼らは、助けを求めない理由がなく、また、助けない理由がない為、それがまた助けを求める理由になる。

妖魔にとって、助けを求める事は恥ではないし、誰かを助ける事に特別な感情も抱かない。

軽い気持ちの助けは軽い気持ちで受け、懸命な助けは真摯に受ける。

ただそれだけ。

それが誰の文句もなく成立しているのは、妖魔による懇願は、自身が楽になる為や責任の転嫁の為に他者を利用しようとする邪心がないからなのだと、ガイキが説明していた。


故に、妖魔という血族は人から冷酷な血を持つ者、冷血と呼ばれたのだと。

道端にうずくまる者を疑問の目で見ても、助けを叫んでいないのなら手を差し伸べる事はなく、稀にどうしたのか気に掛ける者がいても、踞る者がなんでもないと首を横に振れば。

そうか、と。

素直に受け取り立ち去る。

だから、冷血なのだと。

彼らからすれば、その者が助けを求めない理由がないのだから、袖に縋りもしないのに助けて欲しかったと後で説明されても困惑するだけなのだが。


そうやって、少しずつ、着実に人と妖魔達の溝は広がっていった。

温和なのは確実に人よりも妖魔だったが、人は、察する事が出来ない彼らを共感性がないのだと揶揄した。

無理な話だ。

見栄という知らない感情を持ち出されているのだから。


だからこそ、リリィロは驚いた。

〝助けを求められない〟という感覚を持ち得ていない彼女が、自分を助けようとしているのだ。

彼女の口振りでは、本当にその感覚はないらしい。

ただ、そういった知識を有しており、それを〝相手が人だから〟という理由だけで気持ちを慮っていた。


驚きだ。

簡単に誰かを嫌いにならない妖魔という血族は、誰かに対して不平不満を抱かない。

気持ちを推し量られなかったという理由だけで、相手に対して醜い感情なんて向ける訳がないのだ。

だから、彼らは他者を慮る事は基本的にしない。

もちろん、自分を省みる誰かに対して〝嬉しい〟という感覚はあるので、妖魔は相手が家族や友達といった大切な存在なら気を配る事もある。

だが、特に感情のない相手に心を傾けるなんて、そんな不毛な考えは持っていないのだ。


そのはずだ。

なのに、シャロノはまるで人のようにリリィロの体を配慮している。


シャロノが何故、彼女の血族の常識の範疇を超えた行動を取るのか。

その理由は一つだけで、リリィロは思わず布越しに口を押さえると笑って、


「シャロノ、貴方は優しいのね」


今まで微動だにしなかったシャロノの眉が寄った。

急なリリィロの言葉に、どうして自分にその評価が与えられたのか分からないらしい。

それが、微笑ましかった。

褒められた事は分かっていも、何故褒められたか分からない愛嬌のある犬を眺めるような感覚。

近寄り難い程に美しい彼女に愛嬌と共に親しみを感じる。


「ありがとう。

でも平気よ。

まだ大丈夫。

このくらいで音を上げていたら、軍の参謀を名乗ることを笑われるわ」


シャロノは細やかに笑うリリィロを見詰める。

リリィロの瞳は曇ったゴーグルに埋もれて正しい色が分からなかったが、唯一見える彼女の表情であるそこが、微笑んでいる事だけは分かる。

シャロノはそんな穏やかなリリィロの目元に、また口を開いた。


「人は出過ぎる程に他者に気を遣うものだと記憶している。

本当に〝大丈夫〟なのか?

人はそういう嘘を吐くことを好むだろう?」


リリィロはまた笑った。

小さく声を立てて笑う。

シャロノはそんなシャロノの微笑みの理由が分からないまま、数十年前に得た人の知識が古臭くなってしまったのだろうかと。

未だ、大丈夫だなんて人特有の根拠のない言葉を放つリリィロに手を下げた。

どうやらまだ本当に大丈夫なのだろうと、シャロノはリリィロの言葉を信じる事にして、前を向いた。


もちろん妖であるシャロノは、己の懇篤を踏み躙られたなんて醜い感情もなく、また、まだ共に歩こうという彼女の気持ちに対しての喜びもない。

この短いやり取りで心が動いたのは、行軍している多数の波の中でたったひとり、リリィロだけだった。

それでも、彼女だけは確実に晴れやかな気持ちで砂嵐に向き直っていた。

足取りが少し軽い。

シャロノは知っているのだろうかと考える。




あんな些細なやり取りが、人という生物いきものの疲労を驚く程に消し去るのだと。




疲れが消えたと思い込むのではなく、本当に消えるのだ。

力なく溶けてしまったような脳が、本来よりもずっと、背筋を伸ばしてシャンとしている。


シャロノとガイキの契約について、その詳細は明らかになっていない。

だから、〝シャロノが圧倒的に優位な位置に居るのだから、全く平等な利益で軍に力を貸しているとは思えない〟と考えた自分を思い出して、リリィロはその考えを訂正した。

もしかしたら、彼女なら本当に平等な契約をガイキと交わしたのかも知れないな、と。


参謀の癖に楽観的過ぎるとは分かっている、だが。

口に出す訳でもないのだから、今この時だけは許して欲しい、と、そう思った。











「いやぁ、それにしても、ベーディは頑張りましたね」


ベーディが抜けた分、配置がガイキに近付いたスイヒがそう言った。

風が緩む様子はないがいつも声が大きい彼女に、ふたりの前を歩くハイローが後ろを気にした。

本当にスイヒは気遣いが足りないというか、機微に疎いというか、皆が意図して言わない事を悪気もなく放つ。


気付いていないんだろうな、本当に〝あそこら辺〟の関係性の複雑な心に、と、ハイローはどうせどこにも聞こえないと溜息を吐いた。

一方ガイキは、特に詰まるでもなく言葉を返す。


「そうだな。

もっと早く休ませてやっても良かったが…。

あいつの気力もまだ続いていたし、いずれは行軍の先頭も歩くことになる。

練習にはなっただろう」


ハイローは、また息を吐いた。

もっと早く休ませてやりたかったか、と。

きっとガイキも辛かったのだろう。


ガイキが、ベーディよりも幼い頃に同じような砂嵐の中を行軍した事があった。

彼は昔から〝不器用なガキ〟で、ハイローがもう良いから馬車へ行けと言っても頑なに断り、皆と同じペースで目的地まで辿り着いたのだ。


小さな体が風に負けないようにと重石代わりに背負った鞄は、幼い彼の背よりも大きかった。

あの幼さで十時間近く、おとなと同じペースで歩き抜いたのだから、本当に驚いた。

流石に翌日半日はほとんど動けていなかったが、それでも大したものだ。




〝大したもの〟なんて言葉では済まない程に。




とはいえ、彼がそんな暴挙に近い事を押し通したにも理由がある。

今のベーディと当時のガイキでは、立場が違い過ぎたからだ。

当時のガイキはどうしても、他の誰かに劣る訳にはいかなかったのだ。

少なくとも、その行軍の時のように軍の者から、特に〝王血主義者〟から称賛を浴びるような存在でなくてはならなかった。


ハイローはまた後方に注意を向けた。

今度はスイヒにではなく、遥か後方で見えもしないベーディにだ。


ベーディが今日、必死に行軍の先頭で文句を呑み込んで歩き続けたのは、ガイキに少しでも食い下がらなければならないという気持ちからだろう。

もう休んでいいと言われた時、ベーディは限界に近かっただろうがきっと誰かに問いたかったはずだ。




ガイキが俺くらいの時は、休んでたのか?




と。

ガイキと同じ色の瞳で。

ガイキと違う泣きそうな瞳で。


それは、競争心ではない。

ベーディはガイキの事をよく見ている。

周りが完璧な王だと称賛し、ハイローが不器用なガキだと揶揄するガイキの本質を、分かっているはずだ。

それでもベーディは少しでもガイキに近付こうとして、そうして気付かされる実力の差に自己嫌悪しているのだ。


そもそも、ガイキは〝天才〟の類だ。

どれ程に経験を積もうとも物事の実行や効率化が出来ない者も多い中、自分と他者の〝記憶〟から、最適の努力や道を見つけて継続する事が出来る〝天才〟。

王の血の特徴である〝記憶〟の能力は、その能力が継承されてきた過去の、歴史的な事柄も想起する事が出来る。

ガイキは血が薄いのでかなり断片的であり、記憶されていない年月もあるのだが、かなりの情報量である事とその内容が。




こどもが詳細に知るべきではない血腥いものも含まれているという事を。

皆が知っていた。




どうして人が他血族を滅ぼそうとしたのか、そしてその方法とは。

その〝記憶〟とは主観的に記されており、凄惨に誰かが死ぬ様が、鮮明に、まるで目の前の出来事のように彼の脳裏に映し出される。


その時、その記憶の主がどんな感情だったのかも、〝覚えている限り〟、そのまま感じるのだ。


こどもに見せるべきではないと目を覆った所で、ガイキの瞳よりも奥深くで人の醜さや血飛沫がこびり付く。

ガイキはその記憶を得るのが早かったから、〝可哀想〟だった。


その〝記憶〟の能力を得られる年齢は個体差がある。

ベーディはまだ見れていないらしいが、ガイキは六歳の頃にはもう〝想起〟していた。

だから彼はおとなびていて、完璧で、天才なのだと周りは言う。

確かにガイキは冷静で口数も少ないが、彼が〝王〟になる前はここまでではなかったし、更に言えば〝記憶〟を見る前後で大きく変わった。

ガイキは自分の〝記憶〟の中で、王が、特に戦線を導く指導者というものがどうあるべきかを〝とても正しく〟知ってしまっていた。


だから彼は懸命にそうなろうと努力している。

〝記憶〟を得ていて、それでも王の座に着く前は今より生意気だった。

ハイローはそんな彼を覚えている。

同年代の友とつるみ、夕食前につまみ食いしたと炊事係に怒られていた事が、両手では数え切れない程あった。

そして彼が王になった後、炊事係がハイローに不安を告げたのだ。


ガイキが、王になってからは一度も〝悪ふざけ〟をしていないと。


つまみ食いなんてしなくなった。

友と共に年相応のイタズラもしない。

しかし、月日が経つとその心配気だった炊事係も朗らかに笑って言うのだ。


ガイキは流石だと。

完璧な王だと。

そういうものだと。


ガイキは天才だ。

幼いながらに物事の流れを知り、自分に何か求められているのかを理解し得る事が出来た。

そして、全ての時間と〝自分自身〟という存在を惜しまずに努力し、皆の望む王となった。


王として佇む彼の中に、〝ガイキ〟は居ない。

そして彼が王でない時など、存在しない。

幼い彼が王になり、そして今、青年になった。

彼の完璧な王が当たり前になるまで、ガイキは一時も王という体裁を崩さなかった。

天才だ。

自分の全てを他者の為に捧げられる。

どんなに苦しくても、〝誰か〟の為に決意した事が一度も揺るがなかった。


だからハイローは、自分だけは彼を〝不器用なガキ〟と呼ばなくてはいけないのだ。

その生き方しか許されなかったとはいえ、たった独りで成し遂げて、それがベーディへのプレッシャーになっていると理解しつつも、〝王〟である彼はこの体裁を崩す訳にはいかない。


それに苦悩している。


そんな素振りも見せないが、他者の機微に敏感なガイキがベーディの焦りに気付かない訳がないし、ガイキがベーディを大切にしている事は周知の事実だ。

ガイキは最も付き合いが長く、自分を兵士として鍛え上げたハイローには〝年相応〟な一面を見せる事もあるが、己の苦悩を誰かに告げたりはしない。


戦地を走る軍において、王が揺らぐ事は許されない。

兵士が目標を見失い、敗北が歩み寄ってきてしまうから。


ハイローがこの苦悩を勘付いていると知りながらも、それでもガイキは隠す。

本当に〝完璧な王〟である〝不器用なガキ〟だ。

息を吐いた。

砂嵐の所為か、耳鳴りがする。

まるで、赤子の鳴き声のように。

耳から離れず、なんだか気持ちが焦り、不安になり。


抱き上げてあげたいと、そう感じる。

泣き止んで欲しいと懇願する。

無邪気に笑ってくれれば、どれほど幸せだろうかと。


きっと、砂嵐が騒ぐからだ。

分かっていても、そう考えた。











「風が凪いだな」


ガイキの声に、ハイローは地図を眺めながら頷いた。

風に煽られて開く事すら困難だった先程までと違い、今は地図を見るのが凄く楽だ。

風が強い時に折り畳んだ際に挟まったのだろう砂粒が、ザラザラと地図から地面へ落ちていく。

こんな大きな物を飛ばしていたのだと考えると、何度も経験していても尚、あの風の力をおぞましく感じた。


「暴風地域を超えたのか、風が我々を追い抜いたのか…。

いずれにせよ、良いタイミングだな。

時間的にも、場所も。

これなら今日の野営の準備が捗る」


声と共に安堵の息を吐き出すハイローに、ガイキは彼の持つ地図で軍の進行具合を確認しながら、


「ぼんやりしていると日が暮れる。

皆にテントを設営させよう。

交代なく歩いた者達が気掛かりだ」


その言葉の直ぐ後に、ガイキは軍の皆にここで野営するぞと告げた。

それを受け取った皆から、安堵の雰囲気が溢れる。

内ひとりが早馬に乗り、行軍の後方へと走り始めた。

皆に野営地が決まった事を知らせに行ったのだ。

これで間もなく、まだ歩き続けているこの行列がこの一所に固まる様に集まり、テントの野営の準備が始まるだろう。

ガイキは続々と到着する兵士や多くの幌馬車を確認するように眺め、間隔を空けて何度も言う。


「休息が取れているものは手伝ってくれ。

テントの設営と、食事の準備を行う。」


そして、中腹の列が到着し始めると文言を付け加える。


「あと、負傷者に外の空気を吸わせてやってくれ。

妊婦達と古老も今の内に動いておくように。

風がいつまで落ち着いているか分からない」


ガイキの言葉に返事が上がり、行軍中央に配置されていた幌馬車からこども達が飛び出すように降りて、野営の手伝いに駆け出た。

幌馬車から降りたこども達は他にも、おとな達に交ざって妊婦や古老を馬車から降ろす手助けをしている。

ガイキは辺りを見回し、特に問題は起きていなさそうだと確認してから優先して建てられた幹部達が会議を行う軍法テントへと足を進めようとして。


気付いて、一つの幌馬車を見た。

御者台に居るトーエモンドが痛そうに腰を叩き、妊婦の降車を手伝っているこども達の集う幌馬車。

それに近付き、王に挨拶をする彼らに返事をしながらガイキがその中を覗くと。


疲れて眠る兵士やこどもの中に、ベーディも転がっていた。

乗り降りする者達の為に、二重扉の布が閉じないように留められているその奥で、ブーツも脱がずに、音は聞こえないが寝息を立てていそうな顔で。

ガイキはそんな彼を起こそうと幌馬車に乗ろうとして。


肩を掴まれた。


振り返れば、怖い顔をしたリリィロが立っている。

ガイキは彼女の手を振り払うように体を向け、なんだと無愛想な声を出す。


「ベーディを叩き起こす気…!?

あの子を何時間歩かせたか分かっているのッ!?

同年代の子達の二倍は距離も時間も歩いたのよ!」


ガイキは息を吐いた。

幌馬車で眠る彼らを気遣ってか、小声のリリィロに冷静な声で応える。


「あいつと他を比べるな。

ベーディはちゃんと行軍を文句一つなく熟したし、集中力も途切れなかった。

それに、馬車に入れてからもういい時間だ」


いつもの無表情に近いガイキの顔に比べ、リリィロの顔は直ぐに怒気を隠す事なく露わになる。


「あの子があんたに文句や弱音を言える訳ないでしょ…!

あんたみたいに涼しい顔で何事も熟す〝王様〟が…あの子をあまり追い込まないでよッ!

いつも…いつもあんたはっ、」


荒らぐリリィロの声色に合わせて音も大きくなるそれに、ガイキは手を出した。

彼女に向かって掌を向け、静止させる。


リリィロはそのガイキの指先に様々な感情が喉の中で入り混じり、そこがとても熱くなった。

自分の言葉を遮る彼の行動は腹立たしい。

だが、声が大きくなってしまっていたのは自分で、あのままでは折角まだ寝かせてやりたいベーディが目を覚ましてしまうかも知れなかったし、ガイキはそれを止めようとしただけなのだ。


そう、ガイキはベーディを起こそうとしていたのに、寝かせてやりたいというリリィロの気持ちを慮ったのだ。


目の前に立つ彼はたとえ嫌う相手にも、無意味に言葉を遮るなんて失礼な事は決してしない〝完璧な王〟だ。

そして、嫌う相手でも、その感情を考慮しようとする。

リリィロはマスクの下で唇を噛む。

それでもやはり彼の動作の所為かまだ言い切れていない意見の残りなのか、腹立たしい気持ちが大きかった。

しかし、次に口を開いたのはガイキだった。

彼は手を下げると、


「分かった、好きにしろ。

だが、頃合いを見て起こせ。

あの砂嵐の行軍では体力と同等に精神面も削られたはすだ。

温かい内に食事を取らせろ。

それと、風が凪いでる間に外にも出してやれ」


リリィロは、噛んでいた唇をきゅっと噤んだ。

そんな彼女にガイキは一切揺るがぬまま続ける。


「外に長く出てはいたが、〝兵士として〟だ。

仕事以外の理由で外に出させてやれ。

それだけで、精神的にかなり回復する」


リリィロに反論はなかったし、反撃なんて出来るものは何もなかった。

それに、ガイキは忙しい。

リリィロが居なくとも進む会議もあるが、ガイキが居ないとほとんどの会議が進まない。

だから踵を返した彼を留める理由も道理もないが、さっさと〝勝ち逃げ〟するその背中がとにかく恨めしかった。


「険悪なんだな」


ハッとした。

そんな言葉を掛けてくるものなんて居ないはずのこの軍で、リリィロは背後を見る。

そこにはシャロノが今回の行軍で初めて身に着けていた砂塵避けの防具、マントやマスク、耳当てを外して、いつもの格好で立っていた。


「彼は王で…お前はその参謀のひとりだろ?」


「…、ええ、」


「人は好悪の感情を簡単に抱くが、そんなに嫌っていても行動を共に出来るものなんだな」


リリィロは溜息を吐き、馬車の中を一瞥した。

ベーディはまだ、寝ている。

ちゃんと寝ている。

本当は、ブーツを脱がせてやりたいが。


「…そうね。

人の好悪の感情なんてそんなものよ。

妖は嫌った相手とは行動を共にしないの?」


「私達が〝嫌う〟時は相手を迷いなく殺すくらいの嫌悪を感じている時だ」


極端ね。と、リリィロは言った。

人が簡単に他者を嫌い過ぎるんだ。と、シャロノが返す。

そんなものだろうか、とリリィロはまた息を吐いた。


「人というのはね、〝殺す手前の嫌悪〟くらいまでなら割り切れるものなのよ。

言動の節々に如何に嫌っているのかが現れてしまうけど、」


「相変わらず面倒臭い生物だな」


シャロノの言葉に軽く笑ってから、リリィロは歩き出した。

シャロノはそんな彼女にベーディをどうするのかと問い、リリィロは幌馬車を一瞥してから、


「もう少し寝かせて…それから、癪だけど彼の言う通り〝頃合いを見て〟起こすわ。

テントの設営と食事はまだ時間が掛かるから…」


流石にその前にまた暴風が吹く事はないだろうと、空を見て。

リリィロは息を吐く。

落胆するようなそれを落とし、呟くように呻いた。


「…分かってるわ。

ベーディの苦心とか、一番理解しているのはガイキよ。

立場が似ているもの。

でも、だからこそ、私はベーディにとって甘えたり弱くなれる場所でないといけないの。

…あの子、まだこどもよ?」


リリィロは手際良く建てられるテントの骨組みに目を細めた。

骨組みだけだとみすぼらしい。


「私はあの子の為に何かを惜しむ気はないわ。

…ベーディは、私の大切な家族だもの」


俯いた。

まだゴーグルやマスクは外せないが、視界は良好だ。

自分の靴の汚れもよく見える。

リリィロはそこから目を離すように顔を上げ、歩き出した。

会議に出る為に。


シャロノはそんな彼女の背を眺めてから、手持ち無沙汰に息を吐いた。

ガイキとの契約では、公平性の為にシャロノは契約外の仕事はしないようにと言われていた。

シャロノがあまり手を出すと、ガイキ側からの報酬が割に合わなくなるらしい。


人というものは本当に細かいし、面倒臭いものだと思って。

シャロノは、ふと、いつかの〝自分の非〟を思い出した。

自分が人だったらもっと慎重で、恐怖心というものを知っていて、あんな失敗は起こらなかっただろうかと。


独り、考えた。

百年以上、何度も何度も考えている。

あの取り返しの効かない失敗は、どの行動を取るのが正解だったのか。

そんなの分かっている。

たが、その後の──と。


シャロノは目を閉じる。

彼女の瞼は幕だ。

睫毛で飾られた幕。

それを閉じて、眠らずに見る夢はまるで喜劇だった。

だが、


「ご飯出来たわよー!

腹減ったヤツらは全員来ーい!

腹減ってなくても食っとけー!」


快活な女性の声にシャロノは幕を開けた。

幕が開けば、目の前にあるものはいつも変わらない。


まるで、悲劇だ。

列を押し合うこども達の笑い声や、兵士達の談笑、妊婦の腹に耳を当てる夫。

それは〝幸せ〟の具現化かも知れない。


それでも、彼女の前には悲劇だけが踊っている。

忘れ難く、忘れたくなどないが、忘れてしまいたい。

それでも、彼女には出来ぬ〝上塗り〟というものが出来れば違ったのだろうかと。


そうは思うが、それに魅力は感じなかった。

その内にリリィロが馬車に乗り込み、優しくベーディを起こして食事に誘っていた。

ベーディは赤ん坊のような顔で、眠たい目を擦ろうとしてリリィロにその手を掴まれて止められ、それから慌ててリリィロに騒いでいる。

もう野営地に着いたのかとか、それとも敵と戦うのかとか。

リリィロは、野営の準備が出来て、食事の時間になったのだとベーディに告げ、安堵したベーディと共に、ふたりは食事に賑わうテントへ入って行った。


シャロノは誰も居ない幌馬車の中からその光景を眺め、入り口の布から手を離すと勝手にそれが閉じた。

ネズミの入るケージを確認すると、ネズミはまだ眠っていた。

シャロノはそんなネズミに微笑み、


「呑気なネズミだ。

それでも凶暴種か、」


そう笑った。











(同じ色の瞳)(同じような血筋)(なのに)(背の違いばかりが)

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