第五話

くわっ、と、大きく口を開けて欠伸をした。

マスクとゴーグルをしているベーディがそれをした事に横を歩くガイキが気付く程、大きな欠伸。

ガイキはポンポンとベーディの頭を撫でて、テントの扉を捲った。


ガイキが行く先の扉の開閉はいつもベーディの役割だが、このテントだけは別だ。

ここはガイキが寝泊まりする為のテント。

このテントの周りで寝泊まりしているのが腕利きの兵士達という事を除けば、他の皆の宿泊テントと何も変わらない。

外観が他のテントと差異がないのは、城などの堅牢な建物で守られていない王がどこで寝ているのか知られない為だ。

そして、この私的なテントでは、ガイキとベーディの関係性も大きく変わる。

〝王〟と〝兵士〟ではなく、ただの〝家族〟となるのだ。

だから、ガイキが扉を開いてくれるし、ベーディの為のお茶も淹れてくれる。


砂埃を拭く為の布を水に濡らして絞るのはベーディの役目だが、先にガイキに渡したそれでガイキが肌や髪を吹き終えると、まだ顔を拭くベーディの髪を拭ってくれる。

まるで小さなこどものように、ガイキはベーディの頭を拭く。


「眠いだろうが、もう少しだけ起きてられるか?」


「うん」


ベーディは椅子に座ると、ガイキが淹れてくれたお茶を机に置いたまま包むように持ち、指先を温める。

このテントに入って尚、ガイキがああいった事を言うのは、何か大切な話がある時だ。

主に、訓練や立ち振る舞いに関する提言だ。


「人力の扱いが上手くなったな」


パチリ、と、ベーディの目が覚めた。

眠気が完全になくなった訳ではないが、寝起きに一杯のお茶を飲んだような、心地良く鮮やかな覚醒。

そうなる程にガイキからの褒め言葉が嬉しくて、ベーディは緩んだ頬でガイキを見上げた。

ガイキもそんなベーディを見詰め返しながら椅子に座り、


「だが、調子に乗るにはまだ未熟だからな」


数秒で釘を刺されたベーディは小さく首を竦め、ガイキはまだ熱いお茶を小さくすする。

ベーディもそれに倣うと、熱くて飲めなかった。


「戦地で、彼女と関わる上で懸念点はあるか?」


ベーディは、熱いお茶をなんとか啜ろうとコップに付けた唇を尖らせたままガイキを上目で見上げる。

行軍を開始すれば、今日の戦地のような緊張感のまま彼女、シャロノと関わる事が増えるだろう。

シャロノに限らず、戦地とそうでない場所とで、他者との関わり方は変わるし、となると気を付ける点も異なる。

ガイキは行軍の間、先頭を歩くが、シャロノは恐らく中央やや後方寄りを歩くはずだ。

怪我や病気を抱えた者はその辺りの馬車に乗るはずだから。

そして、ベーディはガイキと共に先頭を歩く。




きっと、その内に後方へと回されるが。




行軍の先頭は、心身共に体力の消費が最も多い。

索敵を始めとする道の安全性の確保、想定した道との整合性の確認、皆の体力や士気からの速度調節や野営地の発見と確保。

また、行軍中は外を歩く兵士達が馬車を守るように配置されているが、彼らは交代制で、馬車内で休息が取れる。

前方にも休息を取れる馬車はあるものの、行軍中は少しでも後ろへ下がれば列の前へ戻るのは行進速度的に難しい。

特に先頭に居る者達は軍の様々な決定に重要な役割を持つ者ばかりで、緊急の決定が必要になる可能性を考えると片時も先頭からは離れられない。

万が一の場合に備えて馬も用意されてはいるが、それは〝万が一〟の為のものだ。


接敵する時に敵を急襲したり、後方へ状況を素早く伝える為にも必要なのだ。

他に、中央や後方でトラブルが起きた時に先頭の者達が動く為でもある。

行軍中は多くの馬車も引く為に設営時よりも馬の数に限りがある為、無闇には使えない。

シャロノの事でトラブルがあった時、それが些細なものならガイキがわざわざ向かうのは難しい。

しかし、彼女の纏う魅力的な雰囲気や、そもそも人ではないという理由から、対応出来る者は少なかった。


取り敢えず、行軍中はシャロノの近くをリリィロが歩く事になった。

リリィロはこの軍の参謀だ。

頭が良く、機転も利き、同性故かシャロノの妖力への抵抗もある様だった為にそう決まった。

そして、ガイキよりもベーディ方が身軽に動け、妖力への抵抗も身に着けつつあると皆が知っている。

だから、ベーディもシャロノへの対応を良く学ばなければならないのだ。


それ故のガイキの言葉。

シャロノとの関わり方で、分からない事があるのかどうかと。


ベーディは少し悩み、考えようと俯きかけて、直ぐに思い付く。


「今日、戦地でシャロノが何か考え込んでいたみたいなんだ」


「…考え込む?」


「うん。

どうしたのか聞いたら、〝ここで言うことじゃないから〟って言って教えてくれなかったけど…」


ガイキは少し黙り、静かに、しかしいつものようによく通る声で問う。


「銃撃戦中か?」


「うん」


「…そうか、」


そしてまた黙るガイキに、ベーディは首を傾げるでもなく彼を見上げる。

ガイキは長い時間ではなかったが、深く思考するような表情で机の何もない場所を見詰めて、それからベーディへと顔を向けた。


ガイキの真剣な顔は、静かな水面のようだ。

ベーディはいつもそう思う。

どういう所が、とは説明が出来ないが、ベーディはそう感じる。

ただ、なんだか、身詰めていると、ぼんやりとしながらも頭が冴える。


「ベーディ、妖は余程のことがない限り、他者に敵意を向けない」


ガイキの言葉に、ベーディは彼が何故そんな事を言い始めたのか分からないまま、静かに次の言葉を待つ。


「彼女が俺達に敵対しないと判断したのは、その為だ。

妖や魔は簡単に他者に好意を抱かず、同時に嫌悪も簡単には抱かない。

種族にもよるが、妖魔がこちらに敵対する時はこちらがその妖を〝本気で殺そう〟とした時くらいだ」


「…殺そうとした時?

その前の…たとえば、邪険にされたくらいじゃ敵対心も抱かないってこと?」


「〝嫌う〟という感情すら抱かないだろう。

それに、〝本気で殺そう〟というのは、確実に命を奪える攻撃を加えるということだ。

吸血貴相手には、銃で頭を撃ち抜いても死なないどころか傷も一瞬で消えるから、シャロノに銃を撃っても、彼女は〝不信感〟は覚えるだろうが、〝敵対〟はしない」


「あ、頭を撃たれても…?」


思わず、ベーディは自分の額を押さえた。

想像して、少し背中が寒くなる。


「そう…彼女達妖にとって、敵対や殺意を抱くというのは、それ程までに〝異様〟なことなんだ。

しかも、もし敵意を向けるような相手が出来たとしても、妖魔はそれを〝個〟にしか向けない。

その相手の家族や所属、種族、血族など、対象を広げることはないと考えていい」


「…それじゃあ、もし、この軍の誰かがシャロノを本気で殺そうとしても……」


「…あぁ。

彼女は、この軍全体を敵視することはない。

…だからこそ、彼女は、接敵時に考え込んでいたのだろう」


ガイキは、溜め息にもならない息を小さく吐いてから、


「〝何故、彼らが殺し合っているのか理解出来ない〟と、」


「!」


「ベーディ、シャロノは決してこの軍の目的やその為の戦闘を理解出来ないだろう。

妖魔というのは、人からすれば理解出来ない程の〝平和主義者〟だ。

だから、彼女達も我々が他者に武器を向ける理由を理解出来ない。

…恐らく彼女は、もやもやしていたんだ。

個として恨みのない相手同士で殺し合う俺達を見て。

そもそも相手を害そうという気持ちを自然に抱かない妖魔は、防衛手段として相手を制圧することすら、〝思い付く〟個体は稀ではなくとも少ない。

…シャロノは我々の敵意の意味を考えても分からなくて、それでも考えていたんだろう。

もしかしたら、理解出来るかもしれないと」


ベーディは少し黙った。

確かベーディが腹に大怪我を負い、シャロノはその痛みを取ってくれた時、彼女は今日と同じ表情をしていた。

どうしてこんなことをするの?と、親がこどもを心配するような顔を。


「相手のことを理解出来ないのは俺達だけでなく、彼女もだ。

だが、彼女は誠実だから理解しようとしてくれている。

…分かり合うことはないと思うがな」


ベーディは、ガイキを見詰める。

彼は、切なそうに視線を下げていた。

軽く握った拳の指を擦り合わせる。

何か、指先の感覚を拭うように。


「理解出来たやつは、ひとりも居ない。

妖魔は…特に魔は、何故、人が自分達に攻撃するのか分からないまま滅んでいった。

妖は自衛による反撃が有効だと分かってからはそうする種族が多かったが…。

魔のほとんどは最後まで、反撃すらも出来なかった。

…人は、臆病過ぎた」


ベーディは、呟くように問い掛けた。


「ガイキの…〝記憶〟にあるの…?」


ガイキの黒目が少し、揺れた。

そして、あの切なそうだった表情が、いつもの厳格な顔に戻る。

それだけで、分かる。

ガイキが、彼のものでない記憶を、まるで自分のもののように〝思い出して〟いたのだと。


「…ああ、」


短く、ガイキは肯定する。

ベーディは瞬きをした。

火屋越しのランプの火は、なんだかぼやけている。

その所為で、テントの外の灯りに負けているように感じて。

それが、堪らなく、胸に詰まって、苦しい。


「…おれが、〝記憶〟を取り戻せていたら…」


ガイキの役に立てたのに。

今よりずっと。

いや、今は何の役にも立っていないのだから、そうなってやっと、役に立てるのに。


そう思いながら呟いた言葉は、ガイキに肩を掴まれて、


「ベーディっ、」


焦るような、切実に何かを願って縋るような。

その瞳と表情と、肩を掴む手の強さ。

ガイキは直ぐに、ハッ、という素振りすら見せずにそれら全てを引き下げたが。

彼の吐いた息が、細くて震えていた。


「〝記憶〟は…確かに便利だが、そんなのはひとりが持ってれば充分だ」


ガイキが、微笑を浮かべていた。

他者を安心させようとする時の微笑み。

ベーディは、何度もガイキのその笑みを見た事がある。

何度も、自分に向けられた。


「薄くとも人の王の血を受け継いでいれば、この〝記憶〟を得ることがある。

だが、俺達のようにあまりにも王の血から遠い者には、断片的な〝記憶〟しか蘇らないし、生涯、この〝記憶〟を見れない者も居る。

人の王の長子のみが代々受け継ぐ〝記憶〟は完璧なものらしいが、それでも、一生見えない者は普通に存在したらしい」


「…何が違うんだろう?

見える人と見えない人は…」


「さぁな…。

なんせ、この〝記憶〟は分からないこと尽くめの存在…、」


ガイキは、ついさっきベーディを掴んだ自分の掌を見た。


「…Cosa-adiコサーディによるものだ」


Cosa-adiとは、〝ありえない力を持つもの〟の総称だ。

真実しか書けないペン、見た目以上の容量を持つ巾着、刃毀はこぼれのしない刀。




そして、一度記憶したものを後世に記憶し続けるモノ。




その、〝記憶〟の能力を持つCosa-adiとは、かつて人の国の統べていた王、〝人王じんおう〟の血の事だ。


その血に、〝記憶〟が刻まれている。

そして、その〝記憶〟を見ると、まるでそれが〝自分の記憶〟のように見えるらしい。

ただ、ガイキのように王の遠縁に見れるのは断片的な〝記憶〟のみ。

だから、ガイキは〝のろい〟の扱い方に関する知識を知っていても、〝まじない〟の扱い方に関する知識は知らない。

彼の断片的な〝記憶〟では、見る事が出来なかったから。


そして、その〝記憶〟は、彼が〝人王の血を確かに受け継いでいる〟証拠となる。

シャロノのような吸血貴と違って、人は目の前の存在が薄くとも王の血を引いているかを確認する手立てはない。

その〝記憶〟だけが、王の血の証明となる。


そして、〝記憶〟は有能だった。

失われていた〝のろい〟の使い方を知れて、それだけでなく様々な知識も知れる。

軍事に関する事、他者との関わり方、妖魔の事。




ガイキを〝完璧〟と装飾する理由の全ては、〝記憶〟から補ったものだ。




だから、皆が称賛する。

ガイキが〝記憶〟を見てから〝完璧な王〟になったと。




まるで、今までとは別の人のようだと。




称賛として、そう告げる。


ベーディは、その言葉達が嫌いだった。

ハイローが嫌っていたから。

ハイローが嫌わなければ、ベーディはきっと気付かなかっただろう。


ガイキが、その言葉で傷付いていると。


ガイキは、〝記憶〟を見てから〝おとな〟になり過ぎてしまったとハイローがいつか言っていた。

誰かが傷付く事を穏便に、誰にも指摘されないように仕向ける事が出来るのに。


自分が傷付く事は、穏便に済ませる為に嫌な顔ひとつせずに諾々と呑み込む。

笑えないから、無表情で。

しかし無表情だと反感を買うから、厳格な雰囲気で。

それが毒と知らぬまま、無邪気に手渡す彼らから、それを毒と知っていて呑む。


その毒をガイキが飲み干さなせれば、誰に渡されるか知っているから。

小さな、愛する家族を守る為。

ガイキはいつも、ベーディの為に前に立っている。


だから、ベーディ〝も〟その言葉が嫌いだ。

だから、ベーディは、自分も〝記憶〟が見れたら良いなと思う。


ベーディが傷付かないように、いつも毒を飲み干すガイキの力に、ベーディはなりたいのだ。

それが、ガイキのように毒を全て飲み干す力がないとしても。

その毒の半分でも飲めるようになれたら良いな、と思う。

ガイキがそれを望んでいないと分かっていても、そう願う。

ガイキがベーディを守りたいと思うように、ベーディもガイキを守りたいと思っているから。

それを、〝立派だ〟なんて軽い気持ちで称賛しないで欲しい。

何故なら、ガイキが飲むあの毒は、本来。




ベーディの前に積まれるはずだったものだから。




ガイキの手が、ベーディの頭に落ちる。

いつものように、ポンポン、と彼の手が頭を撫でてくれて、そうすると、考え込んでいた時の暗い気持ちが薄れていく。

そんな単純な自分が、この心地良さの所為かベーディは嫌いになれない。


「あんな気紛れなCosa-adiのことなんて気にしてもどうにもならないんだから気にするな」


それより、他に行軍での気になることは?


ガイキのその優しい声色の問いに、ベーディは更に質問を重ねた。

滔々とふたりの言葉が部屋に流れ満ちて、月夜の美しい湖畔のようだった。

蝋燭の火が低くなり、いつからか分からないがうとうとしてきたベーディにガイキが話を切り上げ、眠るようにと優しく言う。

眠くて、目を擦ろうとしたベーディの手をガイキが止めた。

砂塵が吹き荒ぶここでは、テントの中でも目を擦るのは良くない事と周知されている。

ベーディはもそもそとベッドに入り、ぼやぼやとした目でガイキで見上げると、


「ガイキは…?」


まだ寝ないのかと問うその声に、ガイキは寸の間悩んだようだったが、


「…あぁ、そうだな。

俺ももう寝るよ」


その穏やかな顔に、ベーディはいつの間にか目を閉じていた。

部屋の灯りが全て消され、ガイキがベッドに入る物音がする。

外からの明かりがテントの布をぼんやりと照らしているが、淡いそれに部屋を照らしていたランプの力強さを知った。

夢現にそれらを感じながら、ベーディは眠った。


湖に沈むようだった。

溺れる訳ではなく、息苦しさもなく、月の霜が薄く入り、細やかな水音だけの、静かな場所。

物心が付いた時には荒野で暮らしいていたベーディだが、川くらい見た事があるし、川遊びもした。

だが、あの川の中は騒がしかった。

轟々と耳元で騒ぐそれは、荒野の中、耳当て越しの砂嵐のようだった。

けれど、楽しかった。

行軍したら、きっとその内荒野ではなく緑豊かな場所に辿り着くだろう。

ただ、川遊びをする暇はないだろうが。

敵地に向かうこの軍で、流れる血が少ない事をこいねがった。

叶わないと分かっていても。

そして、体が少し重くなる。

眠気が完全に体を覆ったからなのか。

それとも、無意識にあの神様へ祈ってしまっていたのか。

何れかは分からないが、次の瞬間にはベーディは眠ってしまったらしい。

夢すら見なかった。











今日は特別荒れた天気ではなかった。

だが、穏やかな日でない事は確かだ。

ゴーグルに薄く張り付く砂塵を拭って、数分後にはまたゴーグルが砂塵で曇る。

そんな天気だが、ゆっくりと幌馬車が動き出した。

顔全体を覆う特別な砂塵避けのマスクをした六頭の輓馬ばんばが大きな幌馬車を引いて、軍の皆の歩幅に合わせてゆったりと進む。

昔、馬車に乗りながら見た遠景の山々のようだ。

そう思うと、砂煙は霞だろうかと考えたが、やはりそんな美しくは見えないなと直ぐに自ら否定した。


「シャロノ、」


幌馬車を眺めていたシャロノは、自分の名を呼ぶ声に振り返る。


「もう既に皆の痛みを紛らわせてくれたと聞いたわ。

ありがとう」


そう告げたのは、リリィロだった。

リリィロはいつも髪を纏め上げているが、今日は目の詰まった帽子を目深に被っていた。

更にいつも通りのゴーグルとマスクをしたリリィロは、グローブから露出した指でゴーグルを拭ってシャロノを見詰める。

シャロノはいつも下ろしている髪を綺麗に纏めていた。

そして、ゴーグルはしていないが、口はマスクで覆い、耳当てを付けて、いつもの喪服のドレスにローブを羽織っている。

その手には、やはり日傘。


「私達は軍の中腹を歩くわ。

あと二、三分で出発するから…。

必要な荷物はもう右の幌馬車に入れたかしら?」


「あぁ、ハクシだけ入れてもらった。

あとは、全て巾着に入っているから」


「そう。

分かったわ」


リリィロは数十分前の準備の時に、まだ片していないテント内でシャロノが持っていたケージを思い出す。

ネズミであるハクシが入ったそれに、シャロノは語り掛けていた。

おとなしくしていてね。と、優しく語る彼女に、ハクシは自分も連れていけと小さな手をケージから伸ばして何度も強請ねだっているように見えた。

特に悪さはしないと思うが。と言いながら、シャロノは数日前、そのハクシが入るケージがないかを相談してきていた。

確かにおとなしく、賢そうなネズミだったが、シャロノは軍の者に気を遣ったのだろう。


その相談がリリィロとシャロノが初めて一対一で行った会話だったが、リリィロは何となく、ガイキがシャロノを敵対していない理由が分かった。

シャロノは軍の皆に不信感の欠片も抱いていないどころか、むしろ好意的な対応をしていたのだ。

この行軍中にシャロノと関わる事が多くなるリリィロは、他の軍上層部と共にガイキから妖や吸血貴についての詳細と、書籍でもその特徴について調べてきた。

そして、やはりシャロノは他者に対して非常に好意的な個体だと認識する。

特異な程に。


ガタガタと荒れた地面を車輪が踏み締め、皆のブーツも同じ地を進む。

そして、リリィロは行軍の列と懐中時計で時間を確認してから、


「行きましょう」


「…あぁ」


リリィロはシャロノと並んで歩き始めた。

背に小銃を背負うリリィロはそれ以外の武装がないが、リリィロとシャロノの周りを囲うように歩く兵士達は、小銃の他の殺傷武器をベルトに付けて、音を立てて歩く。

これは、シャロノ達の周りの武装が特に厚いという訳ではなく、リリィロが他と比べて軽装なだけだ。

リリィロが戦闘員ではないからなのだろうと、シャロノは彼女を一瞥して歩き始めた。


黙々と、しかし多くの雑音と共に荒野を歩く。

強い風の音、車輪が地面を跳ねる音、装備がぶつかる音、布の擦れる音、疲労と共に大きくなる皆の呼吸音。

談笑もなく、偶にリリィロは懐中時計と方位磁針、地図を確認しては近くの兵士に指示を出していた。

少し歩速が速いとか、経路の確認をするように、とか。

その言葉を聞くと、偶に兵士は早馬に乗って前方とここを行き来していた。

それを見ると、知ってはいたがリリィロがこの軍で重要な軍師のひとりなのだと再認識する。

まだこんな〝幼い〟のに、と。

シャロノは〝若い〟リリィロを眺めて思う。

そして無意識に彼女と同じ頃の自分を思い出して。


シャロノは、静かに前を見た。

風に舞う砂煙に霞んだ前方は、この行軍の列がどこまで伸びているのか分からなくさせる。

それ程の風と砂塵が吹いていても今日は比較的落ち着いた日和だと、この地域で数日過ごしたシャロノは分かっている。

風と砂粒が幌や自分の耳当てに当たる音の所為で、他の音も聞こえ難い。

シャロノは自分の目尻を軽く撫でた。

傷を受けてもその瞬間に治るこの体だから、シャロノはゴーグルは必要ない。

砂が目に入る違和感も、思い込みの術で消している。

だが、違和感を消しても不快だからと耳当てとマスクをした耳と口のように、ゴーグルもした方が良かったかもとシャロノは思った。

今まではこの荒野に居ても、こんな長時間外には居なかったから。

〝加減〟というのは難しいなと、シャロノは息を吐き、もう一度目尻を撫でる。

そうすると、涙で固まった砂が目から溢れて砂塵の中に消えた。

周りの皆は気付かなかったそれに、シャロノは顔を上げ直して歩く。

涙に砂が〝張り付くはずがない〟と思い込んだのだ。

シャロノは目尻を撫でた手を日傘の柄に重ねながら。

あんなに苦労して〝思い込みの術〟を習って良かったと、そう思ったのは今まで生きてきて何度目か分からないが、過去の自分に感謝した。











昼を迎える少し前からだった。

風が、酷く狂暴になった。


「こういう砂嵐の行軍では、敵からの攻撃もそうだが後方の仲間にも十分気を掛けろ」


ガイキの声を風の合間に聞きながら、ベーディは彼と並んで最前線を歩いていた。

他の兵士もそうだが、いつもより砂塵から身を守る為だけの装備ですら厳重で、その上更に戦闘用の装備も身に着けているので窮屈で堪らない。


「この視界では中腹以降の仲間とは互いの居場所は分からなくなる。

近くの仲間でも、足音や声が聞こえ難いから注意が必要だ。


だが、だからこそ、今の俺達のように敵と距離を縮めたいものにとってはかなり有利だ。

城の場所は分かっているからな。

迎え討つ相手側は、こちらの居場所を特定する手段がなければただ棒立ちしか出来ない。

だから、多少無理をしてでもこの砂嵐の間に歩を進めた方が良い。

だが、幌馬車は時に、風に煽られて横転の危険性がある。

この砂嵐で情報が伝わり難いのは、内部も同じだ。

対応が遅れれば馬車に乗る皆の命に関わる」


途切れそうなガイキの声を必死に聞き止め、ベーディは分かったと返事と共に頷く。

そして自分の後ろを見たが、十メートル程後ろに居るはずのスイヒの姿すらぼやけている。

あれがスイヒに良く似た誰かでも見分けは付かないだろう。

こんな状況でどうやって後方を気にすれば良いんだと思いながら、ベーディは転ばないようにと前を向く。

体勢を崩すと、そのまま風に攫われてしまうような気がして、暴風の行軍は好きじゃなかった。

好きな者が居るのかは知らないが。


ベーディの場合は特に、本当に風に攫われないようにと荷物も重いものばかり持たされるから、尚更だ。


数刻前まで軽装で歩いていたのに、風が強くなったからと幌馬車からわざわざ荷物を持ってきた兵士に重いリュックを背負わされた。

それはもちろんベーディだけでなく、比較的体重の軽いガイキやスイヒ、他の者もそれぞれ事前に歩行の安定の為に重り代わりの荷物を用意していて、ベーディも自ら用意した。

嫌だったが、嫌でもやらなければ逆に体力が奪われてしまう。

だから、この程度の風であれば荷物が必要ない大男のハイローが少し恨めしかった。


そんなベーディは早く凪いでくれないかと先程のガイキの〝こちらが有利〟を無視して願っているが、この祈りが以前ガイキから教わった人力を使用した祈祷でないからか、全く以て効果が見られない。

そう思いながら、願う事を止めた。

いつかのように無意識の内に祈って、ただでさえ疲れたこの体に新たな負担を掛ける事を懸念したのだ。


ほとんど休憩のない行軍だが、先頭を歩むこの部隊に弱音を吐くものなど居なくて、ベーディはこの行軍が始まるまで共に遊んでいた同年代の仲間に愚痴を言いたい気分を、口に紛れ込んだ砂と共に不快に噛み潰す。

その仲間達の内、戦闘を行う者達は皆、この軍隊の中央辺りに配置されているだろう。


交代とかもしているのだろうか。


そんな中、ベーディはこの年代の兵士で唯一、軍の中でも指折りの屈強な兵士達と共に、同じスピードと休憩時間で行軍しなければならない場所を歩いていた。

先頭部隊は道の確認の為に立ち止まったり歩速が落ちたりするので、皆よりも少し早いペースで歩いている。

だから、屈強な者達しか居ないのだ。

そんな中に交じる事に批判はないとはいえ、ただただこの疲労感故に不平とか不満とか、そういったものが両手から溢れ落ちそうな程に湧き出ているが、と。

ベーディは岩陰に座りながら、ハイローと共に地図を押えて言葉を交わすガイキを霞む距離で見上げた。


ガイキは不平も不満も、誰にも言わない。

少なくともベーディはそんな彼を、陰に隠れていても見た事がないのだ。

そんなガイキを前に、ベーディがそういった文言を言う権利はないように感じた。




そんな権利はないのだ。

そんな贅沢、ベーディはするべきではない。


よく分かっている。




ベーディは視線を下げた。

休憩中もゴーグルとマスクを外す事が出来ない中、とにかく足腰の疲労だけは目一杯癒す。

日の光さえ遮る分厚い砂塵の下、今が昼か夕方かは分からないが、休憩用の簡易テントはこの風で建てられないだろうから、幌馬車が砂塵で見えない程の距離にあるこの最前線では、昼食も取れないだろう。

恐らくもう昼は過ぎているが、そんな状況だからベーディはなるべく霞んだ太陽の位置と時計を確認しないでいた。

昼を大きく過ぎていたら空腹に拍車が掛かるだろうし、思ったより経過時間が少なければ少ないで、落胆するだろうから。


薄暗くなる前には流石に、テントの設営とかするだろうかと溜息もまた噛み潰していると、


「ベーディ、」


「!」


ベーディは顔を上げた。

こちらを見るガイキの隣で、ハイローが地図を鞄に押し込んでいる。

休憩が終わったのかと、もしかして何度も声を掛けられた後かも知れないと。

少し焦るような気持ちで立ち上がろうとすると、腰が上がるより先に、


「お前は少しここで待て」


「えっ、」


「交代の時間だ。

馬車に乗れ」


ガイキは片手で重そうな鞄を背負い直し、口籠るベーディの頭を軽く叩くように撫でた。

帽子に張り付いていた砂が軽く舞うが、それは直ぐに辺りの砂塵に紛れる。


「随分長く歩いたな。

リリィロの少し後方にお前の仲間達が休憩に使う馬車があるから、それに乗り込め」


ベーディは、マスクの下で口を開いた。

それでも、声は出なかった。


クタクタだ。

やっと休める。

でも、ガイキ達は?


怠惰な感情と、微かな責任感。

そして、目の前の彼への顧慮こりょ


それでも、結局は何も言えないまま、先程まで共に先頭を歩いていた彼らを立ち尽くして見送る事しか出来なかった。

ベーディの目の前で、軍の行列が朧げな夢のように、砂嵐の中を現れては消えていく。

そういうカラクリみたいだった。

単調で、微かな変化を眺めるだけのカラクリ。

ベーディにはその面白さは分からなかった。


「ああ…ベーディ。

やっと休憩になったのね」


そう彼に声を掛けたのはリリィロで、彼女は隊列から小走りで抜け出てベーディの前に立ち、無理をさせ過ぎだとか、これだから彼はだとか文句を言いつつ、ゴーグルとマスクの隙間で汚れているベーディの頬の汚れを拭うように撫で、帽子越しの頭も優しく撫でてくれた。


「さぁ、後ろの馬車に乗りなさい。

偉かったわね」


リリィロはそう、優しく微笑んだ。

そして、隊列に戻っていく。

戦闘員ではない彼女だが、彼女もまた、風に煽られない為に重そうな荷物を背負っていた。

こちらに手を振って別れを告げるリリィロの隣を歩くシャロノがこちらを一瞥だけして過ぎて行き、ベーディはまた、ただふたりを見送る。

あのふたりが幌馬車での休憩もなく歩き続けている事は察している。

この行軍は中央に近い程歩速も休憩と緩やかではあるが、厳しい行進である事には変わりない。


そして直ぐに現れた幌馬車の御者台で手綱を引くトーエモンドに笑顔で声を掛けられた。


「おー、ベーディ。

随分歩いたな。

ほら、入れ入れ」


ベーディはゆっくりと進む幌馬車後部の乗降口の取っ手を掴み、そこから幌馬車へと乗り込んだ。

木枠で囲まれ、更に幌で覆われたそこは音は煩いが、外の嵐が嘘のようだ。

ここもテントのように二重扉になっている為、砂埃を落としてから更に奥へ入る。

大きなのそこには既に大勢乗っていて、談笑が交わされていた。


「おっ!

ベーディ来たな!」


「お前、何時間歩くんだよ。

オレなんかもう休憩三回目だぜ?」


「ほら!

メシだ!」


同年代のいつもの仲間がそうベーディを労い、簡易食を持って来てくれた。

他の皆も、ベーディの健闘を称えている。

タオルを持った妊婦達に、ガイキに撫でられた頭とリリィロに撫でられた頬を、その感覚をなくす程拭われた。

タオルは汚れ、ベーディの埃っぽさがかなりマシになる。

そして、ベーディは温度のない食事を、談笑の真ん中で、凪いだ嵐の中で食べた。


空腹だった。

だからいつもと違って温かくない食事でもとても美味しい。


ベーディは誰かに、特に昔からこの軍に居る古老に聞きたい事があった。

だが、それは聞いてはいけない事だ。

自分がそんな事を聞けば、皆が自分に気を遣う。


分かっている。

分かっているのだが。


ベーディは談笑に加わった。

自分はもう、少なくとも今日はあの最前線に加わる事は出来ないだろう。

あの最前線の皆はいつ休憩や食事を取るのだろうかと。

その思いともう一つ。

頭に引っ掛かったものをそのままに、ベーディは食事を取る。

それしか出来なかった。

それしか許されなかった。











(この凪いだ世界が)(彼と彼女にも)(今すぐに)(届けばいいのに)(神様、)

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