第四話
ある日の昼。
いつもより遅く食堂テントに出向き、食べ終わった食器を片すとそのテントの片隅に彼女を見付けた。
思わず目を引く彼女が一番端の、しかも見え難い奥まった場所にひとりで居る姿は、何だか異様にすら思える。
ベーディは少し早い足取りで彼女に歩み寄り、あと少しの距離でこちらに気付いて振り向いた彼女の。
真っ赤な瞳に、ドキリと体が跳ねて硬直し、歩みが止まってしまった。
何度見ても、彼女の、シャロノの魅力的な雰囲気は慣れない。
それでもベーディは、前まではしばらく動けなくなっていた体をなんとか動かし、彼女に歩み寄る。
ガイキから教わった事を思い返しながら実践し、彼女に引き込まれてしまいそうな心を人力で律する。
「こ…こんな端でいつも食べてるの?」
シャロノはベーディに微笑んだ。
魅惑的というよりも親しみ深く笑ったシャロノは、小さく頷き、
「食事に寄った者の気を散らせるのは、不本意だからな」
ベーディは、あ、と。
声は出なかったが納得の感嘆に口が開いた。
食事に寄るには遅めのこの時間も、奥まったこの位置も、彼女からこの軍の皆への配慮と知った。
食事は、重要な時間だ。
けれど多くの者にとってそれに割ける時間はあまり長くない。
彼女に見惚れて食事を逃せば、その日の活動の士気にも関わる。
彼女はそれを分かっていて、配慮している。
そもそも、ベーディはここ数日シャロノの姿を目にしていなかった。
それもまた、彼女なりの配慮なのかもしれない。
「中々上手く人力が扱えるようになったか?」
シャロノの言葉にベーディは驚いて目を丸くし、辺りをキョロキョロと見回した。
「お前達の〝王〟から、お前が訓練していることを聞いただけだ。
内密にしていることもな。
大丈夫。
誰にも聞かれていない。
近くに誰か居れば私が気付く」
ベーディはまたシャロノへ視線を向けた。
ベーディは姿を見なかった数日間だが、どうやら彼女はガイキとは会っていたらしい。
それは、まぁ、そうか。とベーディは考える。
ガイキとシャロノは互いの利益の為の契約を交わしているのだから。
そう考えているベーディは、机の上の白い塊に気付いた。
「この子は、初めて会った時から居たネズミ?」
ベーディの言葉に、シャロノもそれへ目を向けた。
それは、小皿に乗った茹でられた肉に齧り付く白いネズミ。
シャロノとそっくりな赤い瞳をしていた。
「そう。
私のペットだ。
ピネッチツヒョエモドキだよ」
「ピネッチツヒョエって…毒の山猫?」
「それに似て獰猛で毛が白いというだけで付けられた名だ。
毒はない」
ベーディはその白いネズミをじっと見詰めた。
自分の体の半分よりも大きな肉に喰い付くその姿は、かの有名な猛獣、ピネッチツヒョエを彷彿とさせた。
とはいえ、ピネッチツヒョエという猛獣が有名なだけで、ベーディは実物を見た事はないが。
「…獰猛なの?」
「ピネッチツヒョエモドキは、この辺りでは珍しいのか?」
「俺は…聞いたことがなくて…」
「そうか…。
まぁ、普通はかなり獰猛で、相手の体の大きさに関係なく目の前の相手に噛み付いてくる程、好戦的だ。
クマにすら飛び掛かるらしい」
「えっ!」
ベーディは思わず半歩身を引いた。
おとなの人より大きなクマすら襲うのであれば、自分は直ぐに噛み付かれてしまうと危惧したのだ。
しかしシャロノはそんな獰猛と噂のネズミに手を伸ばし、
「大丈夫。
この子は昔、
ちょっと頼りないくらい、おとなしい子だよ」
シャロノが指先でそのネズミの頭を撫でると、彼はその指の力に翻弄されながらも肉から離されまいと必死に抵抗していた。
その姿を見て、ベーディは思わず頬が緩む。
この荒野の中で見る動物は、虫や僅かな爬虫類、そしてこの軍にも居るが馬くらいだ。
馬は財産のようなもので、こどもが気軽に触れ合えるような存在ではない為、近くで眺める事が出来るこの小動物が堪らなく可愛かった。
「名前は?
触っても良い?」
ベーディはそう好奇心たっぷりに足を進め、シャロノはネズミから指を退かした。
「痛がらせなければ噛まない。
首の後ろを軽く撫でてやってくれ」
ベーディは机の角を挟んでシャロノの隣りに屈み、そっとネズミに指を添えた。
動物と触れ合って来なかった為、加減が分からず、弱々しく毛をなぞる。
すると、くすぐったかったのか、ネズミはブルブルと体を震わせた。
その姿も可愛くて、ベーディは笑う。
もう少し確り撫でても大丈夫なのだろうかと、指の力を少し増すと、ネズミはベーディに撫でられたまま食事を再開した。
「この子の名前はハクシ」
ベーディはシャロノを見る。
ハクシ…。と小さくこのネズミの名前を復唱し、またそのネズミへと視線を落とした。
「昔も…動物への名前には
ベーディの言葉に、声と共にシャロノは頷く。
「そう。
この子に名字はない。
名字を付けるのは
お前にも名字があるだろう?」
今度はベーディが頷き、またシャロノを見上げた。
「あぁ。
おれの名字は〝
〝塀でかこみて掟をおもんず〟。
〝自分の周りに居るものは自分の塀に招き入れて、皆と皆の為の掟を守り抜く〟って意味らしい」
「良い名だな」
如何にも〝王の血筋〟らしい名だ。と、シャロノは心の内に考える。
ベーディはシャロノを見詰めたまま、シャロノはどうかと問い掛けた。
「私の名字は〝
〝白〟も〝好〟も吸血貴の名字として好まれる字で、まぁ、平たく言うと〝吸血貴らしい名字〟というものだ」
ベーディは感嘆を漏らした。
名前は二つの要素に分けられる。
〝
〝名音〟とは、〝名前の音〟だ。
どう発声するか、というもの。
名前を問われれば、普通〝名音〟で答える。
対して〝名字〟とは、〝名前の字〟であり、〝名前の意味〟でもある。
音だけでは分からないその名に込められた意味を字で表すものだ。
正式な書類には名字で署名したり、古くは名乗る時に名音と共に連ねて語られた。
今では問われるか、余程その名字を気に入って一々名乗る者でない限りは口では語られない。
「吸血貴らしい…っていうのは、お父さんやお母さんから名字を引き継いだってこと?」
名字の一部を親から引き継ぐ事は珍しくない。
好まれて代々特定の字を受け継ぐ一族も居る。
「それとも…シャロノは王の血を引いているの?」
シャロノはベーディを見詰めた。
彼は真っ直ぐにこちらを見詰め返している。
その、ガイキと同じ色の瞳に、シャロノは口を開いた。
「人の王族は…長子には〝一〟を、それ以外の子達には〝零〟の字を受け継いでいたな。
だが、妖や魔の王族にはそういった風習はない」
「…そうなの?」
「あぁ。
ただ、吸血貴には〝家名〟と呼ばれる、地位を表す呼称が存在する」
シャロノはハクシを見た。
ほとんどの肉を食べ終わったようだ。
「妖の王族は、吸血貴だった」
「!」
「だが、全ての吸血貴が王族という訳ではない。
吸血貴が持つ家名には〝王族本家〟、〝王族分家〟、〝王族に仕える者〟など…十以上存在する。
王族の本家であれば〝ローゼド〟という家名を名乗る。
だが、この家名という文化は妖王がその玉座を降りた時に廃れた。
私は妖に王が居なくなってから産まれたから、家名はない。
吸血貴を狩る人…〝
ベーディは、喉に息が支えた。
魔や妖は、昔に人から迫害され、絶滅状態だ。
おとぎ話のようにその事は幼い子でも知っていて、だから今を生きるほとんどの人は妖魔を見た事がない。
知ってはいたが、その苛烈な時代から生きているという存在の、しかも当事者を前に、得も言われぬ罪悪感のようなものを感じた。
「だ…大丈夫だったの…?」
我ながら、意味のない言葉だと、言いながら呆れた。
大丈夫だったから彼女は今ここに存在し、仮に大丈夫でないのなら、聞くべき事ではなかったからだ。
ただ、何か言わずには居られなかった。
罪悪感のような何かにせっつかれて、自分本位に口から出てしまった。
シャロノはベーディのその微妙な表情に察して笑う。
「この通り、大丈夫だ」
ベーディはシャロノが察してくれた事を察し、恥ずかしくて顔が熱くなった。
熱を持った顔がなんだが重くて、俯く。
俯いた先のハクシが、肉のなくなった皿の上で、諦めきれずにヒゲを揺らして肉を探している。
すると、
「ベーディー!」
「!」
ベーディは顔を上げた。
横へ顔を向けると、テントの入り口で同年代の仲間が声を上げている。
「この後、休憩時間だろ?
遊び行こうぜ!」
見慣れた光景だった。
いつもの光景。
何の変哲もない、日常。
そこに、軽い重みが頭に重なる。
「!」
捻っていた首を戻すと、シャロノが微笑んでいた。
彼女の掌は髪越しにも柔らかく、音もなく、髪を撫でて頬に当てられる。
ベーディはしゃがんだまま、シャロノを見上げる。
顔が熱くない。
今の彼女の微笑みは魅惑的なものではなく、ベーディにはリリィロを思い出させた。
「遊んできなさい。
こどもは遊んだ方が良い。
今も、昔も」
ベーディの頬を、目尻から顎へと、彼女の掌と指が撫で落ちた。
誰かからその撫でられ方をされたのは初めてなのに、彼女はとても、魅力的な存在なのに。
何だか、ぼんやりと。
懐かしい気持ちになった。
古びてはいないが、古い大した事のない思い出の品を見付けた時のような気持ち。
大きな感情のうねりもなく、ただ、なんとなく懐かしい。
行っておいで。と、囁くようにまた告げられ、ベーディは頷きながら立ち上がり、入り口へと小走りで向かう。
仲間と合流し、行こうぜ!と言いながらゴーグルやマスクを付ける彼に倣い、そしてベーディが振り返ると。
シャロノの姿は、奥まったあの場所はよく見えなかった。
ハクシの乗っていた机の角と、彼女のドレスと思われる黒い布が僅かに見えている。
ベーディはその食堂テントから出て少し走り、あっと気付いて後ろを向く。
それに気付いた仲間から、どうしたんだと声を掛けられ、何でもないと言ってまた走る。
荒野の中、マスクの中に籠もる息が熱気を返す。
シャロノに行っておいでと言われたのに、行ってきますと言わなかった。
またね、とか、バイバイ、とも言わなかった。
意図してそうした訳ではなく、忘れたからどうということでもない。
ただ、何だか小さく引っ掛かる。
彼女が自分に懇意を向けてくれたのに、それを無下にしてしまったような気持ち。
ベーディは駆けていた足を数秒掛けて緩め、それから仲間に先に行っているように声を掛けて踵を返す。
ここまで来た時と同じ速度で同じ道を走り、食堂テントの扉を捲った彼女が見えて、
「シャロノ!」
「!」
ベーディと反対へ歩き出そうとしていたシャロノは、彼の声に顔を向ける。
息を切らす程ではないがいつもより弾ませているベーディに、シャロノは体も彼へ向けた。
「どうした?」
ベーディはシャロノを見上げる。
笑みのない彼女の顔は、ガイキがベーディを心配している時と似ている表情をしていた。
「行ってきます!
またな!」
特段大声ではないが、ハキハキとしたその言葉達に、シャロノは寸の間驚きの表情を浮かべた後。
唇に指先を当てて、くすくすと笑った。
ベーディは、シャロノのその顔を見詰める。
いつも近寄り難い涼しい微笑を浮かべている彼女の今の笑顔は、無邪気な少女のようだった。
幸せに咲く、苦痛を知らない花のようだ。
「そんなことを言う為に、わざわざ戻ってきたのか?」
そう言った彼女の顔は、いつものような近寄り難い高潔さを取り戻していた。
ベーディの心臓の音が耳を叩いていた。
それは、走って来たからなのか、いつものようにシャロノの美しさに〝仕方がない〟ものなのか。
分からないが、ドキドキしていた。
「行っていらっしゃい。
またね」
また、シャロノが頭を撫でてくれた。
髪を滑り、目尻を彼女の親指が撫でる。
ガイキともリリィロとも違う頭の撫で方。
共通しているのは、〝慈しむ〟という感情を感じられる点。
ベーディはもう一度、行ってきます!と言ってまた同じ道を走りながらシャロノに大きく手を振った。
シャロノは、ひらひらと小さく手を振り返してくれる。
前を向いて走って、角を曲がる前に食堂テントへ顔を向けると。
まだ、シャロノがそこにいた。
小さくなったその姿が、こちらをまだ見送ってくれているのが見える。
最後にベーディはまた手を振って角を曲がった。
角に消える前にまたシャロノが手を振ってくれるのが見えて、ベーディはまた前を向いて走る。
食堂テントを出て、そして戻って、その二回よりも少し早く走った。
シャロノに挨拶をしに戻って良かったと思った。
ベーディのこの一連の行動を、してもしなくても良い事だと、無駄な事だと言う者も居るだろう。
そう言う者は多いかもしれない。
それでも、ベーディはして良かったと思う。
その気持ちは、誰にも変えられない。
ダーン
文字で表せば簡素で、しかし実際に聞くその音は酷く悍ましいものだった。
火薬の匂いが砂塵避けのマスク越しにも感じられ、足元に緩く立ち込める砂煙を攻撃による煙と見間違えて。
何だか少し、焦った気持ちになる。
ダーン
断続的に鳴るその音をベーディが構える銃も怒号し、ベーディは銃を乗せて構えていた壁に身を屈めて潜む。
元は堅牢だったのだろうレンガ造りの分厚い塀は所々崩れてはいるが、そこに預けているベーディの背中にはその壁が銃弾を弾く振動が伝わり、今も尚その役目を全うしていると分かる。
ベーディは自分の銃に銃弾を詰め直し、横目で隣を見上げた。
そこにはベーディと同じように壁に背を向けながら屈み、日傘の影に覆われて真っ直ぐ前を見る赤い瞳が在る。
シャロノだ。
今日は砂塵が大人しく、日がいつもより強いので日傘の影が濃い。
「ハイローの部隊は右から行け。
スイヒの部隊は俺と一緒に来い。
左から回る。
残りはここから援護しろ」
聞き慣れたガイキの真剣な声に、ベーディは彼を見る。
十数人と輪になって屈むガイキは、ベーディの目の前に居た。
ガイキは自身の銃の装填が終わっているベーディを一瞥して確認してから、自分の銃をベーディへと渡す。
「頼む」
ベーディはそれを受け取り、弾倉を取り替えた。
ベーディがいつも背負っている小銃や、今ここで打っていた遠距離用のものよりも少し小柄の銃はガイキ用に改造されたものだ。
隻腕の彼が扱いやすいように設計されている。
ベーディが任されたそれは十数秒で終わり、ガイキは周りに指示を出しながら差し出された銃を受け取る。
銃に付けられたベルトを肩に掛けながら、ガイキはシャロノを見ると、
「シャロノ、お前はここで怪我をした奴らの痛みを紛らわせてやってくれ」
「…あぁ」
「ベーディ、俺が離れている間はお前が彼女と軍の皆との間を取り持つんだ。
分かったな?」
「分かってる」
事前に言われていた通りのその言葉にベーディは頷き、シャロノをまた横目で眺める。
今の返事といい、彼女は戦闘が始まってから元気がない。
いや、戦闘中に〝元気いっぱい〟というのも普通ではないのだから彼女の今の姿は当たり前なのかもしれないが。
なんだか少し、気に掛かる。
ガイキ達は話を纏め、身を屈めたまま解散していった。
直接敵の陣地に踏み込む為だ。
ベーディは少し息を吐き、壁から頭と銃を出して敵が身を潜めているであろう辺りに銃弾を放った。
それは敵に当たらずに終わったが、今は牽制する事が大切だ。
皆が代わる代わる敵にちょっかいを出し、身を引き、また銃を打つ。
敵も味方も同じような繰り返しだった。
ベーディはまた銃弾を込める為にしゃがみ、シャロノを一瞥する。
幸いまだ酷い痛みを抱えた負傷者は出ていないので、彼女はずっと同じ格好でベーディの隣に座っていた。
考え事をしているような、目の前ではない何かを見詰める瞳をしている。
「…大丈夫?
シャロノ…」
シャロノは、ベーディに顔を向けた。
マスクとゴーグル越しにも、彼の心配気な顔が分かる。
「硝煙の匂いとかで気分が悪くなった?
吸血貴は鼻が凄く良いんだって、ガイキが言ってた」
そんなベーディの配慮にシャロノは微笑んだ。
彼女のその笑顔にドキリとしてしまうベーディだが、これは妖力の影響ではなく彼女が単に美しいからだと、妖力へ対抗する為の自分の努力が足りない訳ではないと己を励ます。
「大丈夫。
そうじゃない。
気にしないでくれ」
「何か他に…心配なことが?」
シャロノは口を開いて、直ぐに噤んだ。
そして言葉を紡ぐ。
「ここでは少し、口に出すには適さないことを考えていただけだ」
ベーディはシャロノを見詰め、軽く辺りを見てから、
「みんなには聞こえないよ、おれらの会話なんて」
シャロノは意表を突かれたような顔でベーディを見て。
いつかのように、唇に指を当ててくすくすと笑った。
そして直ぐにその無邪気な微笑みからいつもの笑みに戻し、
「優しい子だな」
シャロノのその笑みと言葉に、ベーディの目の周りと首が熱くなった。
シャロノは静かに少し睫毛を伏せ、そして、あの真紅の瞳でベーディを見る。
「本当に…大したことではないんだ。
気にさせてすまない」
シャロノのその言葉と表情で、彼女は決してその内を語らないのだとベーディは察する。
すると、急にシャロノはベーディと反対の隣を振り向きながら手を伸ばし、壁に張り付いて銃を覗いていた兵士の服を掴んで後ろに転ばせると。
シャロノの行為に皆が驚くより先に、転んだ兵士が、正確にはまだ転ぶ途中の彼が、顔を覗かせていた場所を敵の銃弾が通過した。
尻もちを付いた彼が、まだ銃を覗き込んでいたらどうなったかを想像し、シャロノの行為に視線を向けていた皆がゾッとする。
ベーディは素早く立ち上がると銃を構え、皆で銃弾が飛んできたであろう辺りを注視すると。
「──、紅葉したカシナシの木!
根本!」
ベーディがそう叫び、皆の照準がその文言が指す一点を見詰める。
何度も銃声が鳴って、誰が放ったものか分からない鉛の殺気が、葉を赤く揺らす木の下でこちらに銃を向けていた敵の首を貫いた。
シャロノは礼を述べる兵士に構わないと告げて、合った目に意図せずに妖力で魅了してしまった彼から視線を逸す。
そして、ベーディが安堵の息を吐きながらまた屈む姿を見て、察していた敵の死を確信した。
分かっていた。
血の匂いがまた一段と強くなったから。
シャロノの隣でしゃがむベーディは、すごいすごい!と無邪気に騒ぐ。
どうして銃弾がそこに来るのが分かったのかとか、動きが目にも止まらなかったとか。
シャロノはそんな少年を見詰める。
殺し合いの道具を持って、それでも尚、無邪気な彼に不自然さはなくとも違和感を覚えた。
そして、堪らなく胸が寒かった。
「その時シャロノは、妖術で感覚を強めていたから分かったんだって!
ホントに凄かったんだ!」
酷く興奮したベーディの声が響き、やはり興奮しているその瞳を一瞥したガイキが呟くように応える。
「…思い込みの術を自分に掛けたんだな。
〝自分はそういう鋭い感覚を持っている〟と、自分に思い込ませたんだろう」
「自分で…自分に?」
ああ。と頷き、ガイキは卓上に広げた地図の一点を指差す。
「ここは?
製鉄所の跡だ。
資源も機材ももう残ってないだろうが、壁や塀は残ってるだろ」
すると、その机を囲む
「ダメよ。
北へ向かうならルートが逸れ過ぎてる。
武器は保つけど食糧が尽きるわ」
「…そうか、」
ガイキは少し唸った。
そして今度はリリィロが地図を指差して、
「北へ真っ直ぐ向かいましょう。
ここに村があるわ。
…たぶん、まだ生きている村が」
「バカ言え。
今日潰した部隊には大型無線兵が居た。
あれはかなり遠くまで繋がる。
無線機は壊れていたが、俺達との銃撃戦で壊れたのなら国へと連絡を入れられた可能性がある」
「…そうね。
自分達の撃った銃弾が何を撃ったのか分かってれば、敵に情報が渡ったかどうかも判断出来たのにね」
そうすれば、これからの敵の動きも予想し易かったわ。と、リリィロの冷たい声が落ちる。
ガイキは溜め息にもならない息を小さく吐き、リリィロと互いの顔を見ないまま、地図を見詰めて口を開いた。
「そうだな。
今度からはとっさの反撃にも無駄撃ちしないと定評のあるお前にも前線に出てもらおうか」
「あんた達の武器管理から、軍全体の食糧の管理まで誰の班がしてると思ってるの?
あんたの使いもしないトクベツな銃の銃弾で、どのくらいの食糧が買えるか知ってるわけ?」
空気に電気が拡散した。
静電気よりも強く断続的なそれは、ガイキとリリィロが目を合わせもせずに辺りに敷き詰めている。
そんなふたりに、この場で最年長のハイローが咳払いにも満たない音を喉から鳴らした。
ここで地図を指して、より良い案が出せれば良いのだが、そんなものは残念ながら簡単に思い付かない。
暫くの間、討論と沈黙が何度も地図上で往復し、漸く目的地が決まった頃にはハイローが誰よりも疲れていた。
ガイキは地図に文字を加筆しながら、
「ベーディ、行軍中はずっとリリィロの部屋で寝泊まりしろ」
「!」
「シャロノの件がある。
まだ彼女を信用してない奴が多いからな。
俺はしばらく部屋に戻らない」
ベーディはガイキの背中を見詰めた。
彼が部屋に戻らないのは〝よくある事〟だ。
彼は忙しいから。
寝る間がない事もあるし、敵への警戒を強めている時は王である彼が夜の見回りに加わる事もある。
軍内で不安を抱える者が居れば、ガイキはその不安を一番前で見定める。
彼等が抱える不安の重さがなくなるまで、ガイキは決して身を引かない。
そんなガイキを皆は誠実な王と呼ぶが、ハイローは不器用なガキだと言っていた。
「…今日は?」
ぽつり、と、朝露が葉を伝って一滴零れるような小さな声でベーディが言った。
ガイキは背後に居るベーディを振り返り、赤ん坊の頃から変わらないその顔に静かに微笑むと、
「今日は俺のテントに泊まる日だろ?
ここを纏めたら帰るから、夜食でも食べて待っててくれ」
ぱっ、と、分かりやすくベーディの顔色が色付いた。
そんなベーディの頭を柔らかい手が撫でる。
「それじゃあベーディ、食事テントまで一緒に行きましょう。
私も夜食も頂こうと思っていたの」
リリィロの見慣れた笑顔に、ベーディは元気よく頷く。
「うん!」
ガイキもリリィロも、その表情は先程の会議とはまるで別人だ。
ふたりの視線はベーディにしか向いていないが。
リリィロの優しい声に促され、ベーディはガイキに挨拶をして踵を返した。
彼女はベーディの肩に手を置いて、並んで歩き出す。
「今日は前線で援護をしていたんでしょう?
大丈夫だった?」
丸く柔らかいリリィロの声がそう問い、ベーディは思い出した興奮にリリィロを見上げる。
「シャロノが凄かったんだ!
銃弾が迫って来てるのを察知して兵士を助けてくれたんだ!」
「そう」
「服を引っ張っただけだったんだけど、その動きも凄く速くて!
あ!
今日はずっとシャロノの隣に居たんだけど、シャロノの妖力に惑わされなかったんだぜ!」
凄いわね。と、優しく聞き入れながら、リリィロは額に掛かるベーディの髪を指で流す。
そんなふたりの声は遠ざかり、会議に参加していた他の皆も続々と退室の言葉をガイキに述べて去っていく。
そして、ガイキはハイローとふたり切りになって、地図にまだ何かを書き込みながら溜め息を吐いて、
「まったく…。
まだ完璧でないくせに。
直ぐに調子に乗る」
そうベーディに苦言を呈するガイキの背を、ハイローは見詰めた。
会議の度に毎度険悪になる〝ふたり〟に思う所はあるのだが、ハイローは。
せめて自分だけは陰でも表でもそんな事を言う訳にはいかないと決心しているので。
ただ黙って、方針が決まった事だけを良しと考えた。
ガイキはペンを置き、ハイローはそんな彼を確認してから地図を丸める作業に入った。ガイキは長身なハイローを見上げると、
「ハイロー、それだけやったら下がっていいぞ。
〝老けた〟ぞ」
疲れている、という意味なのだろうが相変わらず自分に対して、こどものような憎まれ口ばかりを叩くガイキに、ハイローは背を向けたまま顔を弛緩させた。
安心する。
彼がまだ、〝こども〟で居てくれる事が嬉しい。
他の誰よりも〝おとな〟で居なければならない彼の、一時の若さに安堵する。
「王であるお前を置いて休めんよ。
今日はあの〝坊っちゃん〟は来なかったが、明日や明後日は分からない。
彼が来たらお前が頼りなんだから、きちんと休め」
「じゃあ先に休め。もう若くないんだから」
「…ベーディの偶の生意気口はお前譲りじゃないか?」
ははっ、と。
小さく声を立てて笑う我らが王は、ただの青年に見えた。
ガイキの笑い声を、久し振りに聞く。
ガイキは気付いてないだろうが。
「ああ…それは困った。
またリリィロが
先にスイヒが居なくなって良かったと、ハイローは何も言わずに思った。
スイヒはどうも、気遣いに欠ける。
今の彼の言葉に、辺りがヒヤリとするような返しをしただろう。
「女ってのは大体そんなモンです」
「妻と娘にそう言えるのか?」
「それは…ああ…、…いや、」
苦笑するハイローに、ガイキは静かに笑うと彼の背を叩いた。
「お前は家に戻って少し休め。
ここに数日、家族に会ってないだろ?
お前と妻子には悪いが、ここから北へ向かう部隊の戦闘にはハイロー、お前は必ず入れるんだ。
北へ進めば進む程に忙しくもなるし、今の内に家族と飯でも食っとけ」
ハイローは、他の誰よりも〝おとな〟であるガイキに息を吐いた。
この軍は戦地の真ん中を進む。
この軍が居る場所が、戦地になるのだ。
戦歴の長いハイローだろうと、〝のろい〟を駆使して剣技も秀抜なガイキだろうと。
死ぬ時は死ぬものだ。
そういうものだと、ガイキが一番分かっている。
ハイローは自分の頭を掻いた。
自分だって〝家族〟と共に過ごす時間を削っている癖に、他者には家族と過ごせと背を押す。
その時間が、如何に幸せかを知っているから、彼は他者にそれを勧める。
誰よりも〝おとな〟だ。
自分よりも他の皆を優先する、完璧な〝おとな〟。
こうなった彼は遠慮を受け取らない。
本当に、不器用なガキだ。
ハイローは、ガイキの肩に手を置くと、
「お前の夜警は今から一、二刻程度にしておけ。
ベーディが眠気に勝てなくなるぞ。
俺が戻るまで仕事をしていたら、久し振りにゲンコツを食らわせてやる。
いいな?
融通はしないぞ。
〝年寄り〟だからな」
ハイローの言う融通は、ガイキがハイローにもっと休めと言っても聞かないという意味だ。
それに、先程のガイキの〝老けた〟という戯れ言を皮肉に返してくれた。
ガイキは笑った。
ハイローという男性は実に頑固で、皆をよく見ている。
ガイキの事も、〝王〟としても〝ガイキ〟としてもよく見ている。
頼れる奴だ。
「分かったよ。
じゃあ、ごゆっくり」
ガイキはそう言った。
腰に常に差している剣と共に、彼はそのテントから外に出る。
風はそうないが、辺りにはやはり火薬と砂と灰が舞っていた。
ゴーグル越しにそんな夜風を眺め、口を覆う布を少し直してから、ガイキは夜警へと出掛ける。
ここらは明るい。
テントから漏れる光は、夜空に何故月や星があるのかを疑わせる程だ。
ここは明るい。
荒野の中で貧困に喘ぐものが多い中、この軍はそれなりの衣食住が揃っている。
武器すらある。
この恒星の元、辿り着く先で光を抱えたままで居られるのか、否か。
そんなものは分かるはずがないが、ガイキは抜け目なく見回りをした。
だから、シャロノが味方でいる内に片を付けられればと思って。
この軍は
焦り過ぎだと言うものも居たが、今は焦らなければならない時なのだ。
今日の戦いで
この軍が立ち上がり、戦争を開始して三十余年経つ。
根無し草のこちらは消耗戦には向かない。
戦力の要であるハイローも、本当にもう若くはないのだ。
これからはまだ幼い戦力も育つだろうが、今の戦力よりも強大になる見込みは正直ない。
ガイキは荒野の中で暗がりを警戒した。
その内にハイローが現れ、休めだ何だと煩くして、本当にゲンコツを構えた彼に。
ガイキは笑って、もう上がるからと逃げるように走り、ベーディが待つ食事テントに駆け込んだ。
ハイローは息を吐く。
まるで悪戯が見つかった悪童のようなガイキの姿に、酷く安堵した。
派手な音を立てて堅牢な扉が開け放たれた。
そこから飛び出すように大股で闊歩する身なりの綺麗な若い男性に、
「あの〝
「は、半年前までは…」
「動向を見失って、そのまま気付かずに、安定化が遅れている南方へ行動を許したのか?」
「申し訳ありません…!」
「北部へ展開している軍を引き戻せ。
少数とはいえ血軍は厄介だ。
小隊や中隊程度ではこちらが壊滅させられて終わりだ」
「直ぐにそのように致します!」
「〝彼〟はどこだ?
まだ北北東に居るのか?」
「それはっ、」
「陛下、」
早足に闊歩していた男性の足が止まった。
そんな彼の後ろを小走りで追い掛けていた者達は、躓くように急停止する。
男性は最後の声がした横を見て、その廊下から歩いて来る彼に笑ってみせた。
「流石に速いな」
「部下のほとんどは置いてきました。
奴らが居ないのなら危険はないかと」
「疲労は?」
「ありません。
ご指示があれば早急に対応致します」
凛とした、熱も感じないような態度の彼に、陛下と呼ばれた男性も歩み寄る。
「では、フランジィ、」
そう呼ばれた軍服の彼は、男性の前で片膝を突く。
表情がないが整ったその顔には、一筋の傷跡がある。
そしてそのフランジィの後ろに居たふたり組の男女も片膝を突き、
「新たな部隊をお前に付ける。
直ぐに南下しろ。
あのふたりの〝王
「はい。
陛下の御心のままに」
フランジィは腰掛けられた剣を鞘ごと引き抜くと、頭を下げたまま両手でその剣を陛下へと献上した。
陛下はその剣に片手を置いて数秒で手を離すと、フランジィは無駄のない動作でまた剣を腰へと戻す。
「進軍の際は気を付けろ。
南の安定化はほとんど出来ていない。
お前達、国に仕える者に暴言や暴行を振るうものもあるだろう。
国民に関しては、基本的には怪我もなく沈静化しろ。
お前は元より、お前に預ける部隊も死体や負傷を増やさなければ民を抑えられない程、弱くはない。
部隊も民も、あの血軍との戦い以外での負傷は許さない」
「お誓い致します」
行け。と、陛下は言った。
フランジィは頭を下げたまま立ち上がり、構うなという陛下の言葉に踵を返すと、連れ立った男女と共に廊下の奥へと消えて行く。
いやはや勇ましいだの、相変わらず目麗しい青年だのと穏やかに話す後方の者達に陛下の厳しい目が向くと、
「フランジィを称賛するのは良いが、国の要は彼だけではないはずだ。
お前達への称賛をする誰かが現れるような行動を取れ」
彼等は口籠り、陛下はまた廊下を早足で歩く。
「…こちらにとって悪いタイミングでの進軍だ。
フランジィが直ぐに派遣出来るのが幸いだが……。
……、なにか、勝機でも見えたか?
ガイキ……」
(恒星よ)(恒星よ、)(燃え尽きるよりも)(恐ろしいものでもあるのか)
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