第三話

「人力の基本を扱えれば、出来るようになる」


ガイキは微笑を浮かべたまま、そう言った。


「俺は傷を癒やすといった〝まじない〟は使えないが、自分自身の身に起きた〝異変〟を軽くする程度のことなら出来る。

術とはいえない軽微なものだが…妖術のように心を操ることで起こす身体的な異変にも効く。

平たく言うと、妖力への抵抗力を上げるようなものだ」


べーディは顔を上げてガイキを見詰めた。

まだ、ガイキの表情は柔らかいまま。

ずっとずっと、それで良いのに、と、思う。


それが許されないと知りながら。

許されないと知っているから、口に出せないまま。


「おれにも…出来るようになる?」


べーディは、そう問い掛けた。

この軍で、人力を扱うのはガイキだけだ。

ガイキが居なければべーディは人力なんてもの、知らずに過ごしていたかもしれない。

それ程までに、人力を扱える者は非凡だ。


だから、べーディのこの問い掛けは、べーディにとって期待のないものだった。

ガイキが困ったように、それが表に出ないように抑圧されたいつもの冷厳な表情になって、少しの沈黙が訪れると思っていた。

ガイキを困らせたい訳では決してないが、べーディには非凡を羨望する幼さがまだその心に大きい。

憂いよりも期待の方が軽く、簡単に言葉になってしまう。

すると、ガイキは穏やかな笑みのまま、


「あぁ、出来る」


それは、長い間だった。

ガイキがそうべーディの言葉を肯定した後、べーディは暫く、短い呻きのような意味のない音を喉から何度も発し、声が出ないその驚きを、驚きと自分が知るより先に、それでもガイキの言葉から五秒以上経過してから。

椅子から立ち上がり、それでもまだ声が出なくて、大きく口を開いて、それを閉じ、それからやっと。


「ほっ、」


声が、寝起きみたいに変だった。


「ほんとにっ?」


ガイキが目を細め、笑いを堪えるように口に軽く握った右拳を押し付け、小さな笑い声を漏らしながら、


「本当だ、べーディっ…、」


笑いが堪え切れないガイキを、べーディは見詰める。

そんなに可笑しかったかと、べーディは恥ずかしくて、何もないのに頬を拭う。

ガイキは直ぐに自分の感情を落ち着け、微笑すらも少し落ち着けて、椅子に座り直す。


「多少の訓練は必要だがな。

だが、訓練方法は後だ。

先ずは〝座学〟から」


ガイキの言葉にべーディも椅子に座り直る。

まだ高揚する心臓が落ち着かないが、必死に自分を落ち着けた。


「次は三血族の性質の違いだ。

さっき言っていた、〝両手に持つもの〟の話だな」


ガイキがそう言った時にはもう、少しずつ薄れていった笑顔も消え、いつもの厳格な表情に戻っていた。

べーディはガイキの言葉に両手を軽く持ち上げ、先程の指摘を思い出しながら、


「ええっと…右手が……英力えいりょく?」


「ああ、そうだ。

人は右手に〝英力〟、左手には〝想意おもい〟を宿している。

とはいえ、この右手と左手の表現は比喩だから、実際に腕にそれらが宿っている訳ではない。

その〝持つもの〟の強大さは個々で違うが、片手だからといって、それらが弱まるとかではない」


「…!」


べーディは、努力した。

ガイキの言葉に思わず視線を向けそうになる事を努力して阻止する。


ガイキの、〝通すもの〟がなくて、邪魔にならないようにと縛られている左袖を。


「英力とは〝命にひいでた力〟」


ガイキは淡々と言葉を続ける。


「今は〝不死者をほふる能力〟と思えば良い。

だが、人は個体差の大きい人力と、それを行使する人術を捨て、先天的な優劣の少ない〝技術〟を生み出し、何世代にも渡って技術を向上させてきた。

英力は力に付随するものだから、人力をほとんど扱えない今の人は英力はないに等しい」


「ガイキでも?」


ガイキは静かに、そして見た事ない程浅く頷き、よく通る声の彼には珍しく意図的に小さな声で答えた。


「ああ、」


羞恥している訳ではない小さな肯定に、べーディは自分の浅ましさを察した。

ガイキはこの軍の〝完璧な王〟だ。

このテントに来るまでの密やかな陰口も、べーディには聞こえてた。


ガイキには、シャロノを殺す力はない。

それを最も知られてはいけないのは、軍の皆だ。


ガイキはこの軍で最も強く、精神的な支えという意味でも強力だ。

そんな彼でも倒せない、敵か味方か分からない存在が軍に留まる事はかなり危険だ。

ガイキは何故かシャロノがこちらに対して攻撃的ではないと確信しているようだが、他の皆は納得出来ないだろう。


そして、彼女をこの軍に留めておく判断をしたガイキに懐疑的な視線を向けるはずだ。

否、〝吸血貴に勝てない王〟をそしるかもしれない。

ガイキを王に相応しくないと、引き摺り下ろすかもしれない。

ガイキはそれを危惧している。


いつも。


それは、権威を纏いたいという欲故ではない。

この軍を指揮したいという欲でもない。

ただひとえに彼の優しさ。

もしくは責任感や誠実さ。

べーディには、そうだと分かっている。

なのに、彼が危惧する事へ背を押すような質問を軽率に行った自分に、べーディは嫌気がする程に落胆した。


べーディは、自分が不出来だと分かっている。

軽率だし、愚鈍で、未熟。

思慮深く、利発で、成熟したおとなに早くなりたい。

そう考えているのに、今日のような出来事は後を絶えない。

それが、情けない。

ガイキの淀みない真っ直ぐな返答から、あの問いはべーディの〝間違い〟ではないと、彼が語ってくれているのは分かる。

気にするなという意味だという事も。

それでも、気にしてしまう。

自己嫌悪を抱いてしまう。

ぐるぐると。


「妖と魔のものは分かるか?」


〝負〟に沈むべーディを目覚めさせるようなガイキの声が聞こえた。

べーディは知らぬ間に俯いていた顔を慌てて上げて、それから、唸りながら、


「えっと……、…、えぇっと…。


…人と同じ〝英力〟を持つのは魔で……。


妖は……えぇ…と……、」


絞り出そうと難しい顔をしてもそれ以上は出て来ないべーディに、ガイキは答えを告げる。


「妖は右手に〝自愛じあい〟、左手に〝理力りりょく〟を持っている」


ベーディはガイキを見上げた。

妖が持つものは、人と一切共通点がない事は知っていた。

ただ、その二つの単語にはピンとくるものがない。

今の時代、もしくはベーディが生きるこの軍では、血族の性質の違いなんてちょっとした雑学程度にしか語り継がれていない。

それ程までに、人以外の血族は稀有な存在になっている。


稀有で、よく知らない存在。

だからこそ皆、シャロノを警戒している。


「自愛とはその名の通り、自己愛のことだ。

妖は簡単に他者を好きにも嫌いにもならないが、例外として自分と家族に対しては生まれながらに好意を持つ性質がある。

それが自愛だ。

今の時代で妖を語る時、この自愛を利己的なものと勘違いしている奴もいるが、この性質は妖が非常に中立的な立場に居ることを指すものだ。

ただし、自分の身内に敵意が向けば容赦はしない、という意味だ」


ベーディは静かに相槌を打ち、ガイキが続ける。


「次に理力だが、これは〝ことわりを曲げる力〟と言われている。

妖力は自分や他者の心に干渉出来る。

平たく言えば、操れる。

だがそれは、理に反することだ。

故に彼らは理力を持つことで理を逸脱したその力を行使している」


ベーディは、今度は曖昧に頷いた。

とりあえず理力を左手に持つから、妖力が機能しているという事なのだろうとぼんやりと考える。


「説明が長く、詰まらなくて悪いな。

だが、理屈を知れば実践にも役立つ。

完璧に理解せずとも、実践に移ればピンとくるものもあるはずだ」


ガイキはそう言って、書記机の引き出しを開ける。


「魔に関しては…右手に英力、左手に理力を持つとだけ知っておけばいい。

今は妖力や人力のことだけ考えれば良いからな」


そして、ガイキは机の中から布に包まった何かを出した。

机に置かれた時の、コトト、という音から察するに、固い何かか複数個入っているのだろう。

ベーディは椅子に座ったままガイキの手元を覗き込もうと背筋をいつもより伸ばし、ガイキは片手で布の結び目を解いて、丁寧に布を机に広げていく。


「ベーディ、」


「ん?」


椅子に座ったまま背伸びをするベーディは、その姿勢のままガイキを見詰めた。

ガイキは布を開く手を止めないまま、ベーディを一瞥だけして、


「今から行う手法を、誰にも言うなよ」


「?」


そんな文言は、初めて言われた。

どんな勉強も訓練も、秘匿しろと言われたことはない。

ベーディは昨日はこんな訓練をガイキとしたのだと、同年代の仲間やリリィロに語る事が多く、ガイキもそれを知っている。

それでも口止めされた事はない。


今回はどうして、と考え初めて、ベーディの思考が深く沈むより早くガイキが布を開き終わった。

自然とベーディはそれに視線を移し、一度瞬きをする。


そこには、三体の陶器の像。

横になっていたそれをガイキは一体ずつ起こしていく。


最初に真ん中。

目深にローブを着て、ただ佇む像。

次に右の、ベールを被った像。

片手に火の灯った蝋燭を持っている。

左の像も、右の像と鏡合わせのようなほぼ同じ形で、ベールを被って火の付いた蝋燭を持っていた。


全員、人と同じような立ち姿だが、顔は見えない。

硬過ぎず、柔らか過ぎずにきゅっと閉じた口元だけが見えて、その衣装に華やかな装飾もない。

酷く地味な、陶器の像。


「…これは?」


ベーディは首を傾げて、見る角度を変えながらガイキに問い掛けた。

その像が何を意味するものなのか、一切分からない。

ガイキはそんなベーディを見詰めて、そっと視線を像に戻すと、


「神像だ」


「…え?」


ベーディはそう疑問の声を上げて、それから一拍置いて更に疑問を頭の上に広げた。


神像?

神様の像?

なんで?

ガイキが?

だってガイキは…一度も宗教テントに行ったことがないのに?


宗教テントとは、集会用のテントと同じく最も建設優先度の高いテントの一つだ。

その名の通り神に祈りを捧げるなど、宗教に関係するテント。

この軍で最も信仰者が多い絶対宗教だけでなく、垂れ布で区画を分けて様々な宗教者の為に存在するテントだ。

そのテントに出入りしないのは、祈りをほとんど捧げない一般宗教の信者か、神を信仰しない者くらいだ。

ベーディでさえ出向いている。

退屈であまり好きではないが、リリィロが熱心な絶対宗教者である為、よく連れて行かれる。


そこに出入りする姿を見た事のないガイキの前に、神像。

一般宗教者は普通、個々で神像は保有しておらず、神を信仰しないのなら勿論神像など持たない。

ガイキが王だからと信仰する宗教までは縛られていないはずであり、つまり、これは、ええっと、と。


ベーディはガイキの横顔を見詰めていた目を、また像へ向けた。

特徴なんて何もない像。

ベーディがリリィロと頻繁に訪れる絶対宗教の神像とはかなり趣きが違う。


「これは…この真ん中の像は、〝祈りと言霊の神〟、…今は〝祈りの神〟と呼称される神を模したものだ」


ガイキは、静かな声でそう言った。


「左右の像は、〝祈りの神〟の神遣。

天から我々を見守る〝天使〟と、地から我々を見守る〝地使ちし〟」


「…天使と地使は分かるけど……。

…〝祈りの神〟?」


天使や地使はどの宗教にもそのままの名称か、別称の類似した存在がよく出てくる一般的な神の遣いだ。

だが、〝祈りの神〟という名称は初めて聞いた。

その神像は、ただ立っているだけだった。

手を組んで祈る訳でもなく、何かを持って導くような素振りもなく、ただ居るだけ。


ベーディが、正しくは熱心な信者であるリリィロに手を引かれてベーディが信仰する神は固有名詞の他に〝美と植物の神〟と呼ばれている。

その名の通り、美しさと植物を司る神だ。

他の宗教の神も、〝何かの神〟と冠していて、何かを司っている。


祈りを司るとは、一体どういう事なのだろうか。

祈りとは、〝司る〟ようなものなのだろうか。


「この神の詳細は気にしなくていい。

ただ、この神に祈りを捧げることは、生物にとって〝力〟を捧げることになる。

人なら人力、妖なら妖力を奉納する。

本来、血族の保有する〝力〟の扱いというのは自然に習得するものだ。

本能に近い。

〝術〟を発動するには知識や経験が必要だがな。

人はもう何世代も人力を扱うことがなかったから、本能が薄れたのか素養があっても意識的に扱うことは難しい。

だから、この神に祈りを捧げろ。

そうすれば自分の人力を感じられるようになり、人力の扱いの助けになるはずだ」


ベーディは、へぇー、と、ふーん、の間の声を上げた。

椅子に座ったまま上半身をゆらゆらと動かし、その像を様々な角度から眺める。

ガイキはそんなベーディを眺め、暫し黙る。

少し、呆けて考えた。

分かってないのに分かったように、しかしあからさまに曖昧に頷いたり相槌を打つところとか、真剣に話を聞く時に口を開いてしまうところとか。

ベーディは同じ癖を持つ女性に本当によく似ている。


本当に、よく似ている。

懐かしくて、微笑ましくて、苦しかった。

ベーディの幼さを見ていると、無邪気な程に感情的な彼女を思い出す。


だが、その話はまだ幼いベーディにはしないようにしていた。

言わなければならない時もある。

それでもガイキと、もうひとりはその話をあまりしないようにと心掛けている。

他のおとな達は、きっと、小さな彼が押し潰されそうな程にその手の話をしているだろうから。

周りは嫌味で言っている訳ではない。

寧ろ誇らしい気持ちで語っているのだろう。

それでも、その苦心はガイキが一番理解している。

だから。


この微笑ましい気持ちはきっと、生涯誰にも語らずに終える。

しかしそれは、苦しい事ではない。

だから言わない。

言えば、目の前の男の子が俯くだけだ。


「…ベーディ、」


ガイキが声を掛ければ必ずこちらの目を見るところも本当にそっくりなベーディに、ガイキは静かに問う。


「神に祈ったことはあるか?」


ベーディは、リリィロに連れられてよく宗教テントへ赴いていた。

だが、リリィロと違って信仰心が厚くないベーディは少し肩を竦めて答える。


「もちろん。

…うっかり花の日に宗教テントに行くと、何時間も祈らされるんだ。

どう思う?」


ガイキはベーディの軽い口調に、彼の額を軽く小突く。


「生意気な口ばかり覚えるな」


ベーディはまったく痛くない額を片手で押さえながら唇を尖らせてガイキを見上げる。

本気で怒っている訳でも、本気で拗ねている訳でもなく、本気で不満がある訳でもない。

ただ、児戯のようなこの一瞬の時間が、ただ、幸せだ。


〝幸せ〟なんていうと大仰だが。


ガイキはひとつ、息を吐いた。


「この神に祈れば人力の扱いが分かるようになるだろう。

だが、人力に限らず力には〝媒介〟があると強力に扱える。

彼女の妖力はかなり強いから、少しでも抵抗力も強い方がいい」


「ばいかい?」


「力の経由地点を作るということだ。

だが、何でもいいという訳ではない。

例えば、相手に〝のろい〟を与えたい時は媒介するものを相手に近しい〝何か〟にすると効果的だ。

それがなければ、自分が使い慣れている〝何か〟で代用する。

自分の近くに長く置いているものは、自分の〝味方〟になってくれるからな」


そう言いながらガイキは鞘に収められた自分の剣を撫でた。

ベーディはその剣を一瞥し、いつも戦地でそれを振るう彼の姿を思い浮かべながら口を開く。


「ガイキはその剣を使っていつも相手に〝のろい〟を掛けてるよな?」


「そうだ。

常に俺の側にあるし、相手を斬り付けて血が付けばその血を媒介に出来る。

相手の血肉というのは、〝のろい〟の媒介として最も強力なものだ」


ベーディは感嘆を上げながら自分の背中を振り向く。

そこには小銃が掛けられていた。

出歩く時はいつも、ベーディは自分の背中よりも大きな銃を背負っているのだ。

その内、ベーディの背も同じくらい大きくなる。

そのはずだ、そう信じている。


「お前の小銃じゃあ無理だぞ、ベーディ」


思わぬ否定の言葉に、ベーディは躓いたような気持ちでガイキへ視線を戻した。


「〝のろい〟で扱うには血を手元に持ってこれないし、〝相手に傷を負わせたもの〟としてなら媒介に使えるが、その場合はそのものが〝自分に近しいもの〟である必要がある。

だが…お前は良いのが手に入ると直ぐに乗り換えるだろう?

所有期間が短過ぎる」


「えぇ…じゃあ俺は何を媒介にすればいいんだよ?」


不満気に眉を寄せて唇を尖らせるベーディに、ガイキは彼の手を指差すと、


「それにしろ。

お前がこれから妖力衣の誘惑を断ち切る為に習得するは、〝のろい〟じゃない。

気兼ねなくそれを媒介にしろ」


「!」


ベーディは自分の手を見詰める。

彼の左手には指輪が填められていた。

おとなしい銀色のそれは、文句を言うでもなくただそこに居る。

いつもそこに居る。

生まれた時からと言っても過言ではない程。


「媒介にしたら…」


壊れたりとかしないよな?と問い掛けようとして、ベーディは早々に口を閉じた。

ガイキがそんな危険な事にこの指輪を勧める訳がない。

それでも最早、口にした部分は消えなくて、ガイキはそれに滞りなく答えた。


「心配するな。

何も起きない。

人が自分や他者の身体に誰かの故意で何かしら作用する術を解く時には〝まじない〟を扱う。

〝まじない〟というのは、自分や他者を〝癒やす〟術だ。

傷や病気を治すにはかなりの人力が必要になるが、妖力に抵抗するだけなら〝まじない〟という人術まで昇華せずとも人力を工夫するだけでなんとかなる。

常に〝お守り〟としてそれを肌見離さずそれを持ち歩くお前の身を守る媒介として、これ以上の適役はない」


ベーディは、〝まじない〟という単語に背筋を伸ばしながらもそれが不要と聞いて体の力を抜いた。

この軍には今〝まじない〟を扱える人なんて、ひとりも居ない。

目の前の王、ガイキでさえもだ。


ガイキが扱うのは〝のろい〟。

誰かを癒やす術を〝まじない〟というのに対し、誰かを害する術を〝のろい〟という。

ガイキが愛刀を振るい、その刀で掠り傷でも負った者は全て、数秒程で地に伏せる。

だからガイキは銃撃戦が主流の中、刀を振るっているのだ。

勿論、銃を扱う者と刀で戦う事は不利だが、ガイキはその溝もまた人術を使って埋めていて、それでも不利ではあるのだが、そのリスクよりも掠り傷一つで敵を無力化出来るメリットがあまりにも大きい。

だから、ガイキは王なのにいつも最前線に立っている。

いや、〝だから〟ではないのかもしれない。

ガイキよりも前に〝王〟と呼ばれていた者も、そのほとんどを最前線で過ごしたらしいから。

ベーディは、そう聞いている。


ベーディは、きゅっ、と、小銃のベルトを胸の前で両手で握り締めた。

もし、自分に〝まじない〟か〝のろい〟が扱えるのなら、どれだけガイキの助けになるだろうか。

ガイキしか人力が扱えないこの軍の中で、自分もまた凡才だからと最初から諦めていた事。

もし、もしそれらが扱えるのなら、もう少し銃の物持ちをよくした方が良いのかもしれないと考える。

銃で、細やかでも〝のろい〟が使えたらガイキへの援護がより厚くなるし、〝まじない〟が使えれば皆の怪我を癒せる。

ガイキの怪我も。

彼の失った腕を取り戻す事は出来ないと分かっているが、それでも、夢を見る。

彼の両の手が、優しくこちらに伸びてくる夢を。


ガイキは、ベーディを見詰める。

彼が考えている事は、おおよそ分かっていた。

だが、少なくとも今のままでは叶わないだろう。

〝まじない〟や〝のろい〟は人術で、術には知識が必要だ。

〝のろい〟の知識はガイキが持っているが、〝まじない〟の知識を持つものは、この軍には居ない。

たとえ人力の扱いが出来るようになったてしても知識がなければ扱えない。

それが〝術〟というものだ。


ガイキは静かに目を伏せる。

たとえベーディが人力に長けようとも、彼に〝のろい〟を扱わせたくなかった。

それは、彼を戦いの最前線に立たせたくないという気持ちと共に、〝のろい〟というものが人力の消費の激しいものだからだ。

つまり、扱いが難しい。

その難しさから、〝のろい〟を使うと反動や副作用があると信じている者もいるが、その実は人力の消費過多や不足によるもので、〝のろい〟だからどうというものではない。

だが、〝のろい〟を扱わなければそれら危惧するような事が起きないもの事実だ。


出来れば、そんな危険は彼に降り掛からないで欲しい。

無理だと分かっていても、願う事はしてしまう。


ガイキはベーディを見詰め、口を開いた。


「俺が言ったことを覚えているか?」


「?」


ベーディはガイキを見上げる。

彼の顔はいつも通り真剣な表情を灯していた。

まるで蝋燭の炎のように、見詰めると無心になれて、少し緊張する。


「この方法は、誰にも話すな」


「え?

あ…でも、みんなが人力を扱えた方が…」


いいのではないかと、そう言おうとしたが声は途中で消えた。

ガイキが口止めしたという事は、何か理由があるに決まっている。

皆が人力を扱える利点よりも、この手法を知られる難点が。


そう考えるベーディに、ガイキが答えをくれた。


「〝祈りの神〟を直接崇める宗教はない。

宗教は寛大だが、難解で複雑だ。

俺は〝新しい宗教〟を興す気もないし、既存の宗教の信仰者とケンカする気もない」


あ、と、音にならなかったがベーディは呟く。

ガイキは軽口のように言ったが、それらの問題がどれだけ深刻なものかくらいは理解出来た。

宗教によって、排他的なものや他宗教を容認するもの、特定の宗教に対してのみ険悪など、様々な性質を持っている。

〝王〟は信仰する宗教に縛りはないが、〝王〟が新たに提唱した宗教となれば、話が違う。


この軍は、ある意味宗教だ。


この言葉を、ベーディはある者から聞いた。

〝王血主義者〟という信仰者が〝王〟という神を盲信し、〝ガイキ〟という偶像に縋る宗教だと。

そしてベーディは、王血主義者の一部が、そのような棘のある言葉を向けられても擁護出来ない程の苛烈さを持っている事を知っている。

もし、ガイキが誰も知らない神の存在を示唆すれば、後は勝手に王血主義者達が宗教を作ってくれるだろう。

誰が止めても止まらず、ガイキが命じても水面下で動いてでも形にするだろう。


彼らは少し、異常だ。


ベーディは少し、彼らが怖い。

彼らは誰よりもガイキやベーディを敬うが、ふたりを〝人〟としては見ない。

彼らの瞳には、〝王の血を引く者〟としか映らない。

そんな瞳で見詰められるの事が、ベーディは苦手で、恐ろしい。

そしてガイキが、その瞳とベーディの間にいつも割って入ってくれる。


ガイキは、ベーディの分もあの瞳に曝されている。

だから、ベーディは己の愚かさに落胆する。

本当は、自分がガイキからあの瞳を守ってあげたい。

そんな力も度胸もないだけで。


「だから、この訓練は内密に。

誰にも言うな。

…リリィロにも」


ベーディは頷いた。

そして、神像へ体を向け直し、祈る。

いつも神殿で祈るものと内容は同じだった。

他に咄嗟に思い付かなかったから。


皆が幸せでありますように、と。











「おはよう、ベーディ」


寝起きで上手く目が開かないまま、もぞもぞとベッドから体を起こすと、その声が聞こえた。

聞き慣れた声にベーディも、おはよう、と少し変な声で応える。


「昨日はあんな遅くまで……。

…、大変だったでしょう?

大丈夫?」


──昨日はあんな遅くまで。


その後には本来こう続いたのだろう。


──訓練させるなんて、許せない。


けれど、ベーディの事を考えて柔和な言葉を綴ってくれたのは、リリィロだ。

ここは、リリィロとベーディの生活テントだ。

ベーディはベッドから降りて、寝癖もそのままに眠そうな顔のまま椅子に座った。


「だいじょうぶ…」


「まだ疲れが取れてない?」


リリィロはそう心配そうな声を出しながら、ベーディの前の机にお茶を注いだコップを置いてくれた。

ベーディはまた、大丈夫と言いながらそのお茶を飲む。


昨夜、ガイキから祈る事で人力を扱うコツを学んだ。

そして、あの神像に祈る度に、得も言われぬ疲労を感じた。

ガイキ曰く、それが人力を扱う事による疲労らしい。

動かし慣れていない筋肉を使うと直ぐに疲れるように、人力を初めて扱うベーディにとってそれは決して心地好い疲労ではなかった。

筋肉痛のような痛みはないものの、寝て起きても尚、体が重い。

ベーディはいつもの三倍重く感じる体でお茶を飲み干し、身支度をするリリィロを見た。


「食事はあと三十分で温かいのが出来るはずだから、それまで少し待っていなさいね」


「…うん」


「今日は一日風が穏やかだそうよ。

でも、ちゃんとゴーグルやマスクの点検は怠らないでね。

私は午前は作戦テント、午後早くに備蓄テントで点検してからはまたずっと作戦テントに居るから」


「分かった」


出掛ける準備をするリリィロと偶に目が合いながらのそのやり取りは、いつもの事。

まるで幼子に告げる母親のような声色と言葉達。

最後にリリィロはベーディの頭を軽く撫でた。

ガイキの、ポンポン、という撫で方と違い、言い表すなら、ナデナデ、以外ないようなその手付きが離れ、リリィロはテントの出口に向かいながら、


「出る前にお祈りだけしなさいね」


これもいつも言葉だったが、ベーディは少し言葉に詰まった。

リリィロが言う祈りは、絶対宗教の朝の簡易的な祈りの事で、座りながらでも立ちながらでも、ただ手を組んで黙祷するものだ。

絶対宗教の神に向かって。


「…分かった」


リリィロは、昨日の訓練の内容を知らない。


「じゃあ、行ってきます」


「いってらっしゃい…」


揺れる布が残され、ベーディはこのテントでひとりになった。

静かで耳が痛い、なんて事はない。

比較的穏やかだながらも、やはり吹く風が、砂と共にテントを擦る音がする。


そして、ベーディは手を組んだ。

いつもは面倒臭いと思いながら絶対宗教者として捧げる祈りを、昨夜ガイキに教わったように、祈りの神へと捧げる。

疲労した体に、実体があるかのように更に疲労が覆い被さり、朝から酷く疲れてしまう。

ただ、ベーディは祈った。

自分に新たに出来る事が、やるべき事が存在するというものは、少し嬉しい。

面倒だ、と怠惰な気持ちもあるが、ガイキの助力になれると思うと、この感覚は尊い。

祈る為に組んでいた手を緩め、ベーディは寸の間考えてからまた手を組み直した。


今度は、絶対宗教の神へ祈った。

いつもより真面目に。

リリィロの顔を思い浮かべながら。











(どうか、)(どうか、どうか)(幸せでありますように)(自分が愛し、そして愛してくれる者達が)

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