第二話

「まったく…」


その声と共に、彼の体が陰る。


ひとのえというのは、どうして…」


その言葉と共に、手が伸びてきた。

彼はそれを避けようとしたが、彼の鈍い動きは成す術もなく。

痛む腹に小さく呻き、ただそれだけで終わって。


その手が彼の腹に触れ、そこが染まる赤色に、手も染まる。











「ガイキ!」


ガイキはその声の方へ顔を向けた。

そこには、駆け寄ってくるベーディ。

しかし、ガイキは彼の姿に息を止め、


「北の方はもう平気…、うわっ!」


ガイキはベーディの低く薄い肩を容赦なく掴むと、


「大丈夫か!?」


いつも冷静で威厳のある王の、鬼気迫る顔。

彼がこんなにも感情的になるのは、久々に見る。

そして、最も印象的に残る彼が感情的になったあの出来事を思い出し、つい息が詰まって。

ベーディは少し唸り、それから過去の出来事ではなく自分の姿を思い出して慌てて声を上げた。


「大丈夫!

大した怪我じゃなかったんだ!」


ベーディの腹部は血に染まっていた。

まるで大怪我のようだが、服が血を多く吸っただけ。

それでも、珍しく感情を表に出したガイキが、一歩下がろうとしたベーディの肩を掴んだまま辺りへ視線を動かす。


「早く治療班に見てもらえ!」


「もう止血してもらった!

包帯も巻いてる!」


「なら休んでいろ!」


「だ、大丈夫なんだ!

あの吸血貴に痛みを取ってもらった!」


ガイキはまた、息を止めた。

捲し立てていた口を一度噤み、ベーディを改めて眺め、決して顔色の悪くない彼に、痛みを?と零すように呟いた。

スッと素早く興奮の血の気を下げていつも通り冷静な表情を取り戻したガイキは、ベーディを掴む手を少し緩め、ゆっくりとベーディの背後を見詰めると、


「…なるほど。

〝思い込みの術〟か」


ベーディもガイキの視線を追って振り返る。

そこには、こちらに歩み寄ってくる彼女。


「あまり動くなと言い聞かせておけ。

傷を塞いだ訳じゃない」


砂塵吹き荒れるそこで、吸血貴の彼女は唯一マスクもゴーグルもなしに立っている。

ネズミの姿もない。

ただ、彼女は日傘を差していた。

砂塵に霞んだ日差しには不要で、強風の中では手枷となり得るようなもの。

その影に覆われた彼女の姿は、まるで黒いベールを被っているようで。


そう思うと、彼女の喪服は完璧だった。


ベーディがそう考えていると彼女はこちらを見て。

にこりと笑った。


思わずベーディの顔が赤くなる。

今まで出会った中で最も美しい彼女の笑みは、彼にはあまりにも魅惑的だった。


「言っただろう?

それはただ、痛みなどないとお前の頭に〝思い込ませている〟だけだ。

傷は全く癒えていない」


ベーディは熱い頭のまま、これは妖術?と彼女に問い掛けた。

ガイキはそんなベーディを一瞥する。

彼女があまりに魅惑的だからか、痛みを和らげてくれた彼女に親しみを感じたのか、警戒心が足りない。


「そう。

妖術。

難しい術名があるのだが、俗っぽく言うと〝思い込みの術〟。

その名の通り強い思い込みをさせる初歩的な妖術だ」


関心に口を開いたまま感嘆を漏らすベーディに、彼女はまた笑う。


「お前ほど幼ければ人以外の生物を見るのは初めてか?」


彼女のその問い掛けに応えたのはベーディではなく、ガイキだった。


「彼でなくとも、今生きている人の中で妖魔に出会ったことがある奴は稀有だろう」


彼女がガイキを見る。

見るからに賢そうな顔立ちのガイキに思わず微笑む。

ベーディと違って警戒心を全く捨てていない彼の態度は、何だか好ましい。

無下にされるより余程。


「そうか?

まぁ…遠からずそうなるだろうとは思っていたが…」


彼女は辺りを見る。

血の撒き散らされた地面と、怪我をした者達と、遠目ではあるが恐らくもう息のない者達。

砂塵の中で、先程までの戦いがなかったかのように片されようとしていた。


傘の柄を握り直す。


彼女の目にこういう光景は真新しくない。

見た目よりずっと長い年月を生きてきた彼女は、人達が他者の命を狩り取る事に躍起になる様を何度も見てきた。

何度も見てきたが、何度見ても、本当に、


「…数十年しか生きられないくせに」


ポツリと呟いたそれは、風の音で誰にも届かなかっただろう。

ガイキは彼女の横顔を眺め、ベーディを見詰め、怪我を忘れて彼女に見惚れるベーディからまた彼女へ視線を移す。

そして、口を開いた。


「俺の血を欲しがっていたな?」


彼女とベーディの顔が、ガイキへと向く。

ガイキの側に彼女が居る事に気付いて駆け寄ろうとした兵士達に手を伸ばして制止した彼は、


「思い込みの術を、怪我をした奴らに掛けてくれないか?」


彼女は一度、瞬きをした。

髪と同じ色の睫毛の上下すら、美しさを解く言葉のようだ。


「そんなことでいいのか?」


彼女は、意味を探るようにガイキを見詰めた。

ガイキは妖術に疎くはない様子であり、王の血を引くのならかなり詳しい可能性もある。

だとすれば、彼の要求は不自然だった。

思い込みの術、しかも痛みを取る程度のそれは、妖ならこどもでも出来る簡単なものだ。

そしてその内容でも分かるように、さほど有用なものでもない。

傷や病が治る訳ではないのだから。


そして、ガイキの立場。

この集団の重要な存在である事は先程のテント内での他の者達の反応を見れば分かる。


どう考えても吊り合わない。


そう考える彼女を理解し、ガイキはまた口を開いた。


「俺達は今、戦争をしている。

怪我を負う者達は絶えない。

痛みは体力も気力も奪っていく。

長く苛ませれば命が保たないこともある。

俺達は〝技術〟で生み出した医薬品を使ってしか痛みを取ることが出来ないし、医薬品には副作用があり、常に痛みを取り続けることは安全とは言えず、数にも限りがある。

…この戦いにお前の力を貸してくれればと思っている」


それが、この血を渡す条件ではどうだろうか。


そう言ったガイキを、彼女は見詰めていた。


人とは、脆い生物だ。

数十年しか生きられず、四肢が断たれれば治らず、ただ〝血がたくさん流れた〟というだけで死んでしまう。

そして、ただ、〝痛すぎるから〟と死んでしまう者も居る。

自分とは、違う。

と。

彼女は知っていた。

よく知っていた。

懐かしく、思い出す。

そこで、ああ、と。


閉じてしまっていた、睫毛で飾られた幕を上げた。

容易に下がっては、目の前にない様々なものを鮮明に映し出すそれを窘めるよつに息を吐く。

そして、また、ガイキを見詰めた。

彼女のはっきりと大きく、真っ赤な瞳の視線は他の誰よりずっと強く感じる。

例え睨まずとも、こちらを丸呑みをしようとする獣の口のような威圧感。

そして何も言う前から、こちらを批難するような視線。


「〝吸血貴たる私〟を、人同士の戦争に利用しようと?」


そしてその言葉。

彼女に見惚れていたベーディも、流石に心配そうに彼女とガイキの顔を控え目に見比べていた。

ガイキはそんな彼女から視線を一切外さないまま、言葉を紡ぐ。


「そちらの矜持を傷付けようとは思わない。

出来る範囲の〝手助け〟を願えればと思っただけだ。

例えば、怪我に苦しむ者達の痛みを取ってもらったりとか。

更に願えるなら協力して欲しいし、出来ないのなら〝思い込みの術〟で痛みを紛らわしてくれるだけでも良い」


彼女はガイキを見詰め続けた。

大抵の相手は異性であれ同性であれ、長く彼女が見詰めればぼんやりしてしまうか、照れるように視線を外すものだ。

だが、ガイキは真っ直ぐ彼女を見詰め返してくる。

ちゃんと〝知識〟があるのだなと、よく分かる。

そんな知識者の彼は、彼女の能力を敵対者へ振るうより味方に振るう事を優先した。

敵への非情より、味方への温情を取ったのか。

それとも、と。

彼女はガイキと視線を繋いだまま、


「妖術が何かは知ってるな?

私は妖だ。

怪我を治せる訳ではない。

お前達、人には怪我を治せる〝まじない〟があるだろう」


ガイキは黙った。

少し沈黙し、言葉を紡ぐ。


「ここには、〝まじない〟が出来る奴は居ない。

そもそも今の時代、人術じんじゅつを使える奴はほとんど居ない。

俺が使えるのは〝のろい〟だけだ」


「……そうか…。

思ったより、ずっと、廃れるのが早かったな…」


シャロノはそう納得したようで、一度目を閉じる。

まるで、人を憐れんでいるようだった。

神に祈る信者のようだった。

そして、目を開けてガイキを見詰めると、


「…何と戦っている」


「先程言った新しい〝人の国〟とだ」


「何故?」


ガイキは一度口を開き、声を出す前に継ぐんだ。

マスクをしているので彼女は気付かなかっただろうが、ぎゅっと口を噤んだ後に、ガイキは言う。


「〝王〟の血を正す為」


ガイキの言葉を彼女は小さく復唱した。

そして、何となく意味を察して、ああ、と感嘆すると、


「それは…」


今度は、彼女が口を閉ざした。

何か言いたそうではあったが、止めたようだ。

ガイキは察したが、黙る事にした彼女に、心の中で感謝した。


「もし了承してくれるなら、医務用のテントに案内しよう。

詳しい契約内容は後で決めるとして、痛みの剪除は一刻も早く頼みたい」


彼女は考えるように顎に指を当て、少し俯いた。

そして、あまり間を置かずに再びガイキを見詰めると、


「痛みは消してやるが、他は期待しないことだな」


利用される気はないという彼女の声。

ガイキはそれでも頷き、彼女に右手を差し出した。


「俺はこの軍〝の国〟の〝王〟、ガイキだ」


彼女に握手を求めるガイキの手。

彼の行動にベーディは慌ててガイキの一歩後ろへと下がった。

彼女はガイキの手を一瞥し、それに応えずに右手の甲を上に、胸の高さまで持ち上げると、


「私の名はシャロノ。

分かっているだろうが、吸血貴だ。

〝王〟として私を迎えるのならば、その礼儀を努めてもらおう」


ガイキは、握手を求めていた手を戻し、その手で自分のゴーグルとマスクを外した。

ベーディはガイキの行動にギョッとする。

この地域において、外でゴーグルとマスクを外すなんて暴挙だ。

毒霧の中で防毒装備を外すのと同じ。

短時間ならそれ程神経質になる必要はないとはいえ、毒は毒。

何度も続ければどうなるかは皆が知る。

シャロノと名乗ったこの吸血貴が特異なだけだ。

ガイキはベーディが声を上げるより早くシャロノの手を取り、目を閉じると。


静かに腰を折り、お辞儀をするようにシャロノの手の甲へと額を当てた。


目を閉じているガイキを斜め後ろから眺めながら、ベーディは頭一杯に疑問符を浮かべる。

そんな挨拶の仕方は見た事ない。

しかし、元の姿勢に戻ってゴーグルとマスクを付け直したガイキと、手を下ろしたシャロノの表情を見るにどうやらこれがシャロノの求めた挨拶らしい。

シャロノは傘の柄を握り直すと、


「痛みを取る者の数は多いのか?」


「ああ。

今の戦い以前に怪我した奴も居る」


「なら、適当な男の血を用意してくれ。

注射器一本程度で良い」


思わずベーディはギョッとした。

そうか、彼女は吸血貴なんだと分かっていた事を、耳慣れない言葉に再認識する。

そして、恐る恐る、


「噛み付いて吸血しなくても飲めるのか…?」


シャロノの、真っ赤な血の色の瞳がベーディを向く。

傘の影で、深い赤色がより深く見えた。

人の目にはない猫のように縦に割れた瞳孔が、血の色の瞳と相まって気持ちを焦燥とさせる。

そうして自然と姿勢が正しくなるベーディに、シャロノが微笑むと彼女の一対の鋭い牙が唇から零れた。


「〝貫歯かんし〟に噛まれるのは相当痛いらしいぞ」


ベーディは慌てて俯いた。

吸血貴への恐怖と共に、シャロノの美しさに戸惑う感情が入り混じり、頭のどこか冷静な部分があの牙は貫歯という名称なんだと考えている。

ガイキはベーディとシャロノを遮るようにさり気なく立ち位置を変えてから、ひとりの男に手招きをした。

周りで距離を置いて状況を見ていた兵士達の中からハイローが駆け寄ってくる。


「健康な男から注射一本分、採血してきてくれ。

これから彼女を医療テントへ案内する」


「血を…、……ああ…、」


一瞬戸惑ったようなハイローだったが、シャロノを一瞥して感嘆し、頷いた。

そして兵士一人にそれを命じ、ハイロー自身はこの場に残る。

ガイキとシャロノを取り残して離れる気はないという事だろう。

シャロノはガイキのように敵意の抜けていないハイローに微笑してから、ガイキに肩を叩かれながらお前も治療テントに行くぞと腹の怪我を心配して声を掛けられているベーディを見詰めた。

ガイキはシャロノを先導しようと歩き始める。


「こっちだ」


「彼も、」


シャロノは先導に従おうと体をガイキの歩行方向に少し傾けつつ、ベーディを見詰めたままこう言った。


「王の血を引いているな」


「!」


双影ふたりに続こうとしていたベーディは、一歩踏み出したまま固まってしまった。

思えば、そうだ。

シャロノは怪我ひとつないガイキの血の匂いを感じ取り、そこから彼が王族の遠縁だと見抜いていた。

ガイキは足を止め、しかしベーディのような不自然さはなく、


「ああ。

だが、彼も〝薄血はっけつ〟の更に遠縁。

れい〟の名を持つ者でさえ、ここには居ない」


そうか。と、シャロノは呟いた。

ガイキはシャロノにまた歩みを促し、何も反応出来ないまま立ち尽くしていたべーディの背をハイローが軽く押して彼らの後を歩ませる。

暫く歩き、他のテントの中でも大振りなテントの前まで進み、慌ただしく出入りする者達が、事情を知らずに防塵装備のないシャロノをギョッと眺め、その美貌に躓きそうになっていた。

ハイローがテントの入り口の布を持ち上げ、ガイキは中に入るとシャロノに二重扉の説明をして、砂を叩き落とすように促した。

シャロノは閉じた日傘を軽く振るい、髪や服を叩いてガイキに従う。

べーディやハイローも砂を落とし、二重扉の内側の布もハイローが捲し上げた。

ガイキ、シャロノ、べーディ、ハイローの順で中に入り、ガイキの背中が横に移動してシャロノの目の前には。


〝死〟が、在った。


痛みに咽ぶ者、呻く者。

息が薄い者、既に失った者。

吹き荒ぶ砂塵と違って、緩やかだが滞留し、重い空気。

息を吸うのが憚れて、だから皆、咽いだり呻いたり薄かったりそもそも止まっていたり、そんな呼吸ばかりなのだろうかと思う空間。

その空気を、シャロノは息苦しく思いながら、意識して深く呼吸をした。

ひとつ、ふたつと。

〝死〟の気配というものは、一度でも経験するととても感じ易くなる。

〝死〟はここで、己の出番は今か今かと椅子に浅く腰掛け、そわそわと腰を浮かせたり、また座り直したりを繰り返していた。

そういった〝死〟の気配は、誰にも〝死〟は見えていないのに周りの皆を焦燥とさせる。


シャロノにとってこの感覚は初めてではく、かといって懐かしむ気持ちにはなれないものだ。

誰だって、懐かしむような親しみは持てないだろう。


「血だ」


シャロノの目の前に、ガイキの手が伸びてきた。

その掌の上には、注射器のシリンダー。

シャロノの瞳から零れたのかと思う程に同じ色の液体が、そこに満ちている。

ゆらゆらと揺れ、まだ温かいのではないかと思う程の鮮明。


「苦痛を、紛らわせてやってくれ」


ガイキの声に、シャロノは瞬きをした。

そして目を閉じ、静かに開ける。

瞼が幕なら、舞台はどちらだろうか。

愛しい回顧録か、生々しい現実か。

だが、幕は上がる。

終演はまだ、予定がない。

シャロノは、手を伸ばした。

血の満ちたシリンダーに白い指で触れ、その温もりが血の持ち主のものなのか、それともガイキの温もりが移ったのか、生温いそれに、呟いた。


「いただきます」


そして、もう、そこには、空のシリンダー。

血など、なかった。

誰かの命の象徴。

人や妖の何が違うのかというと、〝血〟が違うらしい。

だから、人や妖といった種類の分別の名称は〝血族けつぞく〟という。

簡単に流れ出て、簡単に存在しないそれだけで、全てが変わる。

血を失えば死ぬ人は、それを誰かに与える事で命を繋ぐ〝技術〟を開発した。

だから、〝まじない〟は消えたのだろうか。


息を吐く。

息をすると、呼気が肺に満ちては捨てられる。

シャロノは呻く彼らに手を添えながら、隣の白衣の医師を見て、そういえばかつて医師から、呼吸で得た酸素は肺から血液に溶けるのだと聞いたなと思い出した。

血は心臓によって体の隅々まで運ばれる。

不死でないものは、脳に酸素が届かないと死ぬらしい。

つまり、血は脳にも行き渡っているという事だ。


古く、心臓は心であり、脳は魂、つまり性格や記憶など、その個体を個たらしめるものだといわれていた。

心と魂。

同胞の体を切り開いてまで人が探し、結局見つけられなかったもの。

なのに、皆はそれを〝存在している〟と当たり前に言う。

どこに?

心臓と、脳に。

心がなければ、魂は虚無だ。

酸素が、血が、届けられないから。

魂がなければ、心は動かない。

生きろと、血を体で満たそうと出来ないなら。


本当に、血とは不思議だ。


シャロノは立ち上がり、振り返る。

呻きのないテントに、穏やかな呼気の音が満ちている。

シャロノも、息がし易くなった。

きっと、怪我に関係なく、ここに居るもの全てがそう感じているだろう。

すごい、だとか、ありがとう、だとか。

そんな言葉が仄かに上がる。


血とは、不思議だ。


彼女が吸血貴の〝血〟を持たなければ、彼らの苦痛は取れなかっただろう。

そして、この血がなければ。


私は、もっと静かに眠れただろうに。











密かなざわめきは、喧騒よりも耳に付く。

他血族への不信感。

それを許容した王への憂慮。

そしてそれは、彼が側を通ると陰に潜む。

いつもそうだ。

聞こえないとでも思っているのだろうか。


べーディは皆で食事を取っていた集会テントを出て、隣のテントへ移動する。

大きな集会テントと比べると小さなものだが、警備体制は比にならない程に堅い。

当たり前だ。

ここは、重要な会議を開くテントであり、王であるガイキの執務室があり、ガイキは大抵ここに居る。

門番はしかし、べーディを見ると気軽に声を書け、扉の布を捲ってくれた。

べーディは礼と共にそれを潜り、砂を払って二重扉の更に奥へと入った。

そこの内部は幾つかの部屋に分けられていた。

だが、どの扉の布も上に纏められて解放されているのをみるに、今はなんの会議も行われていないらしい。

そんなテント内部で、唯一布が垂らされている部屋。

べーディはその部屋の前に止まり、横に吊るされているベルの紐を引いた。

ここは、王の執務室だ。

べーディは今まで毎日のように入室しているので、緊張は特になかった。

ベルが、チリンチリン、と大きくはないが響く音を奏で、中から入室を促す声が聞こえた。

べーディはいつものように布を捲って部屋に入ろうとすると、


「!」


そこには、シャロノが居た。

そして、べーディへと目を顔を向けてきた。

ランプに照らされ、陰影の濃い彼女の顔の中で、瞳が一層深く輝いている。

不気味や恐怖とはまた違った感覚で、ゾッとした。


「契約書だ」


机に向かってずっと何かを書いていたガイキは顔を上げ、その書き込んでいた紙をシャロノへと差し出した。

シャロノはガイキの声にべーディからガイキへと視線を移し、契約書であるその紙を受け取る。

シャロノはその内容を静かに眺め、


「契約のCosa-adiコサーディか?」


そう言って契約書から、ガイキが手に持つ無骨なペンへと視線を向けた。

ガイキもペンを一瞥し、口を開く。


「真実のCosa-adiだ。


過去でも未来でも、〝真実〟しか書けない。

未来の事を書いたからといって未来が確定する訳ではないが、約束事とそれを破った際の罰を書けば、直ちにその罰が違反者に下る。

便宜上、重要な契約事に使用している」


「…なるほど」


シャロノは納得したように呟き、契約書を丸めて紐で閉じた。

そして、喪服のポケットから小さな巾着を取り出す。

巾着は縦と横の長さが同じで、奥行きもさほどない。

シャロノの手首から先程度しか入らなそうなそこに、彼女は先程丸めた契約書を入れた。

筒状のそれは、厚みの面では余裕で巾着に入るが、明らかに長さは足りない。

五分の一も入らないそれに契約書の一部を押し込んだシャロノが不思議で、べーディは疑問符を頭いっぱいに浮かべたまま困惑と共にその光景を眺めた。

すると、その契約書は直ぐに半分まで巾着に入り、苦戦する様子もなく、あっという間に巾着に収まって姿を消してしまった。

やっとべーディが驚きの声を上げたのは、もうシャロノが巾着の口を閉じている時だった。


「そっ、その袋、Cosa-adiっ?」


シャロノはべーディを見詰めた。


「そうだ。

その口に入る大きさのものなら何でも入れられる。

日傘も今はこの中だ」


べーディは感嘆を漏らした。

Cosa-adiは貴重なものだ。

希少ではないが、私的に所有する者は中々居ない。

大体は家宝だとか、組織が所有しているものを貸与されていたりする。




Cosa-adiとは、〝ありえない力を持つもの〟の総称だ。




真実しか書けないペンや、見た目以上の容量を持つ巾着。

刃毀はこぼれのしない刀もあれば、一度記憶したものを後世に記憶し続けるものもある。

その原理は誰にも解き明かせておらず、〝神の遣いが児戯に生み出したもの〟と言われている。


しかし何とも便利そうなCosa-adiだと、シャロノの喪服や日傘の意匠と比べて非常に地味なそれを眺めるべーディは、ふと気付いてシャロノに問い掛けた。


「あの…白いネズミもその中に?」


シャロノは少しその意味を掴み損ねるように黙っていたが、その一瞬の間の後で小さく笑い、


「あの子は今はここに居る」


そう言って、べーディから見ると奥側の肩に掛かる髪をシャロノが退かした。

そこには、あの白いネズミ。

背中側に流された髪と共に流されてしまいそうだったのか、よろけながらバタバタと忙しなく体勢を整えていた。


「外にいる時は、ポケットで大人しくさせていた。

この子は私と違って、お前達のように砂嵐の中は毒になるからな。

この袋の中に動物を入れるのは少し憚られる」


べーディはまた、感嘆を口から溢れされた。

ガイキはべーディを眺める。

昼間に腹の痛みを取ってもらったからなのか、どうも警戒心が足りない。

そんな警戒心では、べーディの体の内から押し寄せる好奇心を納めたままにする事は難しいらしい。


「…このテントの門兵に聞けば、お前用に張ったテントの場所まで案内してくれるはずだ。

快適とはあまり言えないテントだが、この荒野に建つテントは皆そんなものだから耐えてくれ」


ガイキにそう言われ、シャロノは大丈夫だと笑って踵を返してべーディに歩み寄った。

思わずべーディは緊張したが、彼女が外へ出ようとべーディが今立つ出口に向かっているだけだと分かっていたので、べーディは脇に避けて、彼の背丈では足りないが扉代わりの垂れ布を出来る限り上で押さえてシャロノに道を譲った。

シャロノはべーディに微笑み、礼を述べて少し身を屈めて王の執務室から退室する。

シャロノの姿が消えて、べーディは体の力を抜く。

緊張が消えてやっと、自分がシャロノにどれ程の緊張を抱いていたのかを知る。


「べーディ、」


べーディは、ガイキの声に顔を向け、小走りで彼の前に立った。

机を挟んだ向かい側。

移動のし易さを考えて建てられたテントや家具の中で一際重厚な机は、ガイキを王たらしめる存在の一つだ。

まるで、玉座のように荘厳だ。


そんな荘厳な机の向こうで、ガイキの座る椅子と比べられないくらい簡素な椅子を、ガイキは片手で自分へと引き寄せて、


「座れ」


そう言った。

べーディは、ガイキのその行動と言葉が好きだ。

更に言えば、その心が大好きだ。


ガイキはいつも忙しそうだが、ガイキとべーディが二人切りで話す時は、いつもあの椅子を勧めてくれる。

大人には少し小さく、べーディには丁度いい大きさのそれ。

べーディはまた小走りに机の横を擦り抜け、その椅子に座った。

そこから見上げるガイキはそれでも威厳ある王のように、いつも通り静かで堅牢な雰囲気だったが、べーディにはちゃんと見えていた。

〝王〟としてではなく、〝家族〟として向き合ってくれているガイキが。


この執務室で、べーディだけが許されているこの立ち位置が、ただひたすらに愛おしい。

それが、お説教の為に呼び出されたとしても、べーディにとってはこの上ない〝特別〟だった。


「分かっていると思うが、彼女…シャロノと、我々は暫く行動を共にすることとなった」


ガイキの言葉に、べーディは黙って頷く。


「お前は…〝三血族〟のこと、どのくらい理解している?」


ガイキの問いに、べーディは姿勢を正した。

まるで、試験官と生徒のように改まって、ただ口調はそのままで答えた。


「〝三血族〟とは、〝ひとのえ〟、〝あやかし〟、〝まみかた〟のことで、生物いきものはこの三血族に血によって分けられている。

人には種族はないけど、妖と魔には〝種族〟という更に細かく血による分類があって…。

かつて三血族はそれぞれ国と王を持っていたけど、ずっと昔に全ての国と王が居なくなって、妖と魔は人との戦いに負けて絶滅状態みたいになってる」


ガイキは浅く頷いた。


「まぁ…大体そんなものだ。

力については?」


べーディはまた口を開いた。

ガイキが〝大体合ってる〟と言って訂正してこないという事は、その差異は、少なくとも今は気にすべきではないという事だ。


「えっと…」


べーディは少し考え、両手をそれぞれ、何かを持つように掌を上に向けて持ち上げた。


「人は…左手に〝英力えいりょく〟?」


すると、ガイキは今度は首を左右に振った。


「それは…まぁ、それも力といえば力だが、〝両手に持つもの〟は、血族の性質の違いについてだ。

あと、〝英力〟は右手だ」


べーディは、間違いを指摘されて、しまったと、苦い顔をした。

ガイキはそんなべーディに続きを促したが、声を呻かせるばかりで答えが出なかったので、ガイキが言葉を繋いだ。


「まずは力の話をしよう。

人が扱うのは〝人力じんりょく〟。

人力を行使する術のことを〝人術じんじゅつ〟という。

人術のひとつである〝のろい〟や〝まじない〟は知っているだろう?」


ガイキの言葉に、べーディはただ無言で頷く。


「人力は自分や他者の肉体に干渉する力だ。

のろいで相手の肉体を蝕んだり、まじないで傷を癒やしたりできる。

妖が扱うのは〝妖力ようりょく〟で、その術は〝妖術ようじゅつ〟。

妖力は自分や他者の心に干渉する力だ」


「心?」


「そう。

お前も彼女を見て、異常な程の魅力を感じただろう?」


ガイキのその言葉に、べーディはシャロノの姿を思い出した。

そして、それだけで顔が赤くなってしまう。

額の奥が熱い。


「あれが妖力だ。

妖である彼らは、多かれ少なかれ、必ず妖力を身に纏っている。

妖力衣ようりょくごろも〟と呼ばれるものだが、その効果によって、妖は他者の心を好意に寄せるが出来る。

効きやすい奴と効きにくい奴は居るがな」


べーディは、少しホッとした。

自分が、シャロノの事を考えただけでドキドキと煩くなる心臓は、そうなるべくしてなったもので、仕方のない事だと知ると、なんだか少し安堵した。


「妖力衣は有する妖力に比例する。

吸血貴は妖の中で最も妖力の強い種族だから、彼女の妖力衣の影響力はかなり大きい。

だが、あれは呼吸のように自然に纏ってしまうものだから彼女に消してもらうことも出来ない」


べーディは彼女を初めて見た時の事を思い返した。

自分含め、皆が腑抜けになっていた。

そこで思い出し、べーディはガイキを見上げる。


「ガイキには効かないのか?」


ガイキは、首を縦にも横にも振らずにこう言った。


「効かない訳ではないが、人力を使って効力をかなり弱めてはいる」


「そんなことも出来るのか!?」


ガイキはべーディを見詰めた。

感心を抱え、敬慕の念を向ける輝く彼の幼い顔に、ガイキは思わず笑った。

小さく控え目ながらも吹き出すような微笑みに、べーディはまた違う意味で顔を輝かせる。


いつも気難しい顔をするガイキの笑った顔は大好きだ。

ガイキはべーディが物心付いた時には既に王と呼ばれ、静かで厳格な表情をしていた。

それでも、偶に笑ってくれる。

べーディがガイキの絵を描いて、それが丸やぐしゃぐしゃの線の融合体でも、ガイキはべーディを抱き上げて微笑んでくれた。

出来なかった事が出来るようになった時も、友達とこんな遊びをしたのだと寝付かされながら話す時も。

彼は優しく笑ってくれる。

ガイキは今でも優しくべーディの事を見守ってくれているが、幼い時と比べて、厳しくする事が増えた。

それは、甘やかす幼児期と教育する今とで違うのは当たり前であるし、べーディがガイキが王として振る舞う時も共に居る事が増えたからという理由もある。


そして何より、その厳しさがべーディの為であると、べーディにも分かっていた。

ガイキは特別な存在だ。

軍の皆が言っている。

〝完璧な王〟だと。

彼の近くに、出来損ないは似合わない。

ガイキが何と言おうと、周りの目とは恐ろしい。

だからガイキはべーディに厳しくしなければならない。

甘やかしていると噂されて、傷付くのはべーディだ。

そういった矛先は、ガイキではない方向へと向く。

ガイキは〝完璧な王〟だから。


だから、べーディは嬉しくて小さく俯く。

ガイキに笑ってもらおうと考えて起こした行動以外で彼の笑顔が見えると、嬉しかった。

いつでも厳格で隙きのない彼が、べーディの前で気を抜いてくれているのが。

その信頼が嬉しかった。






(彼が笑うと)(安心する)(彼が王ではなくガイキと知れるから)

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