Hormith-U-winyless

竜花美まにま

第一話

これから先、この身には何が起こるのだろう。

跳ねるような笑い声、指から零れる平穏、揺さぶるような慟哭、耳を劈く諍い。

熱っぽい春に軽い夏、忙しない秋に痛む冬。

けれど、何が来ようと構わなかった。

重たく痛む愛しさを抱えて、息を一つ。

うろ覚えの子守歌。

それでよかった。

正しさなんて今は要らない。

この二つの影には、必要ない。

必要なのは、眠る場所。

静かに横たわり、息で紡ぐ歌の漂うところ。

本当は三つ、連なるような影で。

ううん、なんでもない。

贅沢を言いすぎてはいけない。

分かっている。

分かっているけれど。


目覚めている時にしか見れない夢で、せめて。

せめてと願ってもいいのなら。






Hormithホーミス・-U-ユーwinyless・ウィニィリス


(あなたと一緒に眠りたい)






風が煩い。


耳元で理解し難い言葉を喚き、髪を勝手に弄び、乾いた砂を巻き上げて、我が物顔で走っている。

決して心地良いものではなく、特に巻き上げられた細かな砂粒は害でしかない。

瞳を守る為にゴーグルを付け、咳き込まないようにマスクを付けて、必要であれば耳当てもした。

この広い荒野の中に立っていても、窮屈だ。

昼間なのに薄暗く、いっその事、雨でも降ってくれればと思うがこの近辺では雨は稀有。

今日もまた、天気だけが良い砂塵の中に包まれている。

こういう時は、自分の無力さを思い出す。


「ガイキ!」


己の名に、彼は振り向いた。

屈強そうな中年の男性が、小走りに駆け寄ってくる。

装備品がガチャガチャと騒がしく、風の喚き声に負けずと主張していた。


「見回りになんか来ていたのか?

昨日の戦いの疲れくらい癒やして来い」


「散歩がてらだ、ハイロー。

少し歩きたくてな…気にするな。

それより、どうしたんだ」


中年の男性、ハイローが隣に立つと、ガイキと呼ばれた青年の若さと華奢さが際立つ。

決して幼い訳でも、体が小さい訳でもないが、ハイローと比べれば比較にならなかった。


「用は別にないが、強いて言うならさっさと休め」


荒野の強風とマスク越しにもハッキリとした声で告げるハイローに、ガイキは笑った。

そう言いながら腕を組むハイローは、如何にも屈強な兵士というに相応しい。

彼を昨日の戦いに連れて行かなくてやはり良かったと思う。

戦いに疲れた兵士達が休んでいても、彼が居てくれるなら頼もしい。


「分かったよ。

わざわざ悪かったな。

中央に行く」


「…まぁ、そっちの仕事してくれる方がまだ安心だ」


机に齧り付いておけ。と吐き捨てるようなハイローに小さく笑い、ガイキはハイローが走ってきた方へと歩みを進める。

砂の煙を抱えた広い荒野の中、密集して立ち並ぶテントの合間へと、足を踏み入れた。


この中に入ると、風の喚きは耳を掠める轟音だけでなく、テントの布をバサバサと叩く音も重なる。

今はもう慣れたものだが、昔はその騒音によく頭が痛くなっていた。

狭く並ぶテントを抜け、風の他に話し声や笑い声、物音の喧騒が加わる。

一様にゴーグルやマスクを付けた多くの者が、騒がしく働いていた。

見回りをする兵士や、武具を打つ鍛冶屋。

テントからテントへ荷物を運ぶ者とこんな外でも遊ぶこども。


日常だ。


テントを張る場所が変われども、これはほぼ日常の光景だった。

そこをガイキが歩くと、皆が彼の名を呼び、ゴーグルとマスクで覆われた笑顔を向けてくれる。

ガイキもそれに応えながら歩き、数多くのテントを縫って、少し開けた場所に出た。

今までのテントより大きなものが数張り円を描くように寄せ合って建てられ、その中央にはちょっとした広場。

より多くの人が集まり、忙しなく動いていた。

ガイキは大きなテントの一つに歩み寄り、出入口前で番をしていた兵士が挨拶と一礼と共にテントの垂れ幕を捲る。

ガイキは礼を述べながらそこを潜り抜けた。

風が布を叩く音は未だ煩いものの、他の驚異からは守られ、自然と息を吐く。


中に入って直ぐにガイキは髪や服を叩いて砂を落とし、奥のもう一つ垂れ幕を潜って、ようやくテントの中へと入った。

二重扉になっているのは砂塵の侵入を防ぐ為だ。

テントの内部は垂れ幕を主とし、他にも衝立などで部屋は細かく区切られている。

その中を迷いなく進みながら、ガイキはゴーグルとマスクを首まで引き下げ、中央の部屋へと布を捲って入ると誰も居ない部屋の机へと向かった。

椅子に座りながら卓上の本を開き、インクを取り出し、積み上げられた紙の一つを手に持つ。

そこに書かれた文字を眺め、片手でインクの蓋を回して開けるとペン立てから取ったペンをそこに浸した。

スッと、音もなく吸い上げられたインクがペン先を染め、それを紙に滑らせると艶めかしく光る黒い文字が音を立てて書き加えられていく。


広いテントの中央に位置するこの小さな部屋では、外の風の音はほとんど聞こえない。

他の部屋から微かに聞こえる話し声や物音と、ペンが紙を擦る音、インクの独特の匂いが部屋に満ちた。

ガイキが少し動く度に出入口で落ちきれていなかった砂が椅子の周りに薄く落ち、それでも風はないから舞う事もなくそこに留まる。


しばらくして、部屋の入り口からベルの音がした。

それは、扉代わりの布の向こうからの、入室伺いの〝ノック音〟の代わり。

ガイキは紙への記入を続けたまま、直ぐに返事をして入室を促した。

布が捲れる音がして、足音が近付いてきて。


その音の全てから怒気を感じたから。


顔を上げる前から対象を知り、分かり切っているその顔を見る為に視線を向けた。

机を挟んで目の前に立つ彼女は、紙の束をガイキを差し出す。

お互い無言のまま、ガイキはその紙を受け取り、先に口を開いた。


「昨日の戦利品か…。

お前がリストを持ってくるなんて珍しいな」


「なんであの子を連れて行ったの」


茨なんて生温い。

まるで鉄の棘だ。


彼女の鋼鉄の棘を纏った声を前に、ガイキは受け取ったリストを机に置き、ペンをインクに浸しながら、


「必要でなければ連れていく訳ないだろう」


「必要だったって言うの?

アンタが出る戦いにあの子が必要?

ハイローも参戦してなかったのよ?」


荒々しくはないが、確実に怒りを孕んだその声色。

ガイキは真新しいリストに目を通しながら、書き込みを加える。


「ハイローは野営地の警備だ。

大きな戦いでもないのだから、実戦経験を積むには適した戦だっただろう」


「実戦経験?

ふざけないで…!

そもそもあの子が戦いに参加する理由なんて…!」


彼女の声が、遂に泡立つ。

沸騰しそうなその水面をガイキが眺めると、その時。


また、入室伺いのベル。


チリン、チリン、と。

場違いな音色。


その音に彼女は怒りを奥歯で噛み砕いて黙り、それでも口の中にはまだいっぱいに立ち込めていた。

ガイキは彼女の後方の出入口を見詰め、入室を促すと、


「失礼致します…」


兵士が入室はせず、布を軽く捲って控え目にこちらを覗き込む。


「お話中に申し訳ありません…」


「いや、構うな。

話は終わった」


淡白なガイキの言葉に、兵士は彼女へと視線を向けると、


「リリィロさん、少々……、」


沈黙があった。


とても短いものだが、それは確実にあった。

そして不自然な瞬きのように存在した沈黙の後、リリィロは黙って踵を返し、部屋を出ながら、


「どうしたの?」


その言葉に、鋼鉄の棘も、茨も、鋭いものは何もなかった。

ただ風にそよぐ静かな水面のような穏やかさ。

兵士はリリィロが潜りやすいように垂れ幕を捲り、ガイキに退室の挨拶をした。

ガイキも兵士のそれに応えたが、リリィロとガイキの間にはもう、何もなかった。


垂れ幕の落ち終わる前にガイキは執務に戻り、またこの部屋に文字を書く音が響く。

そしてまたしばらく経った後、ベルの音。

ガイキは入室を促し、そこから重々しいブーツの音が入ってきた。

リリィロも分かりやすいが、彼も分かりやすい、と、ガイキは視線を上げる。

そこには、やはり彼が思った通り、ハイローが居た。


「ガイキ、西に〝の国〟の部隊を見付けたらしい。

大きさと装備からして、補給部隊だ」


ガイキはペンをペン立てへと差した。

先程、リリィロが呼ばれて退室したのは、この事の話し合いの為だったのだろうと察し、直ぐに応える。


「分かった。

先手を取ろう。

ハイロー、準備しろ。

ハイローの部隊とスイヒの部隊、後は俺も行く」


そう言ってインクの蓋を閉めようとしたガイキに、ハイローが首を左右に振りながら声を出した。


「俺とスイヒの部隊だけで充分だ。

お前は少し休め」


ハイローの言葉に、ガイキはインク瓶から手を離し、椅子の背もたれに身を任せた。

そして一つ息を吐き、未熟さ故の浅慮に反省してから、


「…そうだな。

あまり身軽過ぎてはな」


「………、」


ハイローは少し黙り、それから、慎重に口を開いた。


「心配するせずとも、俺が出向くんだ。

さっさと終わらせてくる」


ガイキはハイローを見上げる。

厳格に刻まれた彼の顔のシワを眺め、その真剣な表情に笑うと、


「老けたか?

ハイロー、」


ハイローは、面食らったように顔の筋肉を弛緩させた。

そして、先程よりも一層、厳しく顔にシワを刻む。


「お前が俺に苦労掛けなきゃ、俺だってもっと若いままで居られたさ」


「苦労掛けてたか?

それは悪いな」


ハイローはムッと眉間をシワを寄せたまま、心の奥底で安堵した。

元々強面で、年齢によるシワで険しい表情が多く見られる自分と違い、若々しい顔の癖に真剣な表情が多いガイキが、ハイローに軽口を叩くと共に笑っている。

細やかなそれだが、彼がそうやって明るい表情をすると、まだ彼は若いのだと思い出させてくれる。

ハイローは息を吐き、若い彼には重荷ではないかといつも思うが、決してその懸念は口に出さないようにしている彼の立場を告げた。


「とにかく、ここで大人しくしていろ。

お前は…〝王〟、なのだから」


ガイキはまだ破顔が抜けぬまま、小さく頷く。

控え目に頷いたというより、威厳に満ちた王に相応しい頷きだった。


「しかし…の国の補給部隊か…。

戦闘部隊でもここらに隠してあるのか…?」


ハイローは、答えなかった。

憶測で放つには、相手の地位が重すぎた。











「武装が少なく荷物が多いので補給部隊かと思いましたが、物資の収集部隊だったようです」


ガイキはその報告に視線を向けた。

数刻前にハイローを見送ったテントの一室である王の執務室で、前回ハイローが訪ねた時と同じ椅子に座ったまま、ただ机ではなく隣の方向へ体を向けていた。

ガイキは机の向こうで報告の為に並ぶハイローと、その隣の女性を顔だけ向けて眺める。


「…物資の収集?

スイヒ、こんな荒野に何がある?

ここを不毛の地にしたことをの国は忘れたのか?」


ガイキはハイローの隣のスイヒに、少し戯けるように笑って問い掛けた。

すると、真面目な顔を崩さない彼女は、


Cosa-adiコサーディが、奴らの物資にありました」


ガイキも真顔に戻り、部屋の中にずっと響いていた細やかな物音が止んだ。

ガイキは音の消えた、隣へと顔を戻した。

そこに居た少年はガイキの視線にハッとして、慌てて作業に戻る。

ガイキは少年に体を向けたまま、また顔だけをハイロー達へと向け、


「それは…向こうは悔しがるな。

使えそうなものなのか?」


「いえ…その、奇妙ですが…」


常にハキハキと受け答えていたスイヒは少し口籠り、自分も納得出来ないという口調で、


「棺桶に…加工されています」


また、少年の手が止まった。

しかし今度はガイキの視線が向いても慌てる事なく、最後の仕上げを終えたそれをガイキへと差し出す。


それは、刀だった。

藍色の刀。

ガイキは鞘部分を持ってそれを受け取り、藍色の糸が丁寧に巻かれた柄を注視し、少年の顔を見ると、


「よくやった」


ガイキの言葉に、少年がほっと安堵の息を吐く。

ガイキは立ち上がりながら少年が柄を巻き直した刀を腰に差し、スイヒへと今度は体も向けると、


「隔離テントか?」


「はい。

トーエモンドが見てます」


「働かせてばかりで悪いが、スイヒの隊が警戒に当たれ。

ハイローはもしもの時の為に少し皆を遠避けておいてくれ」


「はい」


「分かった」


「おれもっ、」


ガイキの指示にスイヒ、ハイローと凛とした返事をした中。

ガイキの隣、下の方から焦るような声が発せられる。

ガイキが目を向けると、先程の少年が広げていた刀の修繕道具もそのままに立ち上がった。


「おれも行く!」


「お前は休め、ベーディ」


ベーディと呼ばれた少年は首を横に振り、懸命にガイキを見上げると、


「おれだってCosa-adiは扱えるっ…はずだ!」


ガイキは静かにベーディを眺めた。

必死に食い下がる彼は、断るのなら次の理屈は考えていると顔に書いてある。


「…俺と一緒にテントに入れ。

ただし、Cosa-adiには触れるな」


ぱっ、と、ベーディの顔が爛々と輝いた。

先に道具を片せ。とガイキは告げて、せっせと床に広げた道具を箱に詰めるベーディを見てから先に行けとスイヒとハイローに行動を促した。

スイヒとハイローは退室し、懸命な顔で道具を片付けたベーディは歩き始めたガイキを追い越し、部屋の垂れ幕を捲くる。

ベーディが背伸びしながら押さえる幕を、少し屈みながらガイキは潜り、ベーディはガイキの後ろを歩いた。

双方共、ゴーグルとマスクを付けながら、


「新しいCosa-adiを見るのは初めてだったか?」


「うん。

〝藍姫〟以外は触れたこともない」


嬉しそうに語るベーディに、そうか。と呟き、ガイキはまたベーディが捲り上げた垂れ布を潜る。

荒野に砂塵が吹き荒ぶ外に出て、思わず息を吐いた。

そして後悔する。

この細かい砂嵐の中、深く息をするのは憚られる。

吐いた息が深い程、次に吸う息も深くなるのが必然で。


ガイキは、マクスを押さえながら、出来る限り控えめに深く息を吸った。

それ以外の最善もあっただろうが、そうするのが妥当だ。

慣れた砂塵に鬱屈として溜め息を吐いたのは自分なのだから、納得しなければならない。


ガイキはそのまま歩き始め、ベーディを連れてテントの集団から少し離れて建てられた小型のテントに入り、中型以上のテントと違って砂を落とす為の二重扉もないそこで、ゴーグルとマスクを付けたまま棺桶を眺める先客に声を掛ける。


「トーエモンド、どうだ?」


声を掛けられた古老はガイキとベーディを振り返り、明朗に笑った。


「当たり前だが、ワシでは開かん。

Cosa-adiそのもので出来ているんだが、表面だけ塗布されておるのか知らんが、外装に劣化が見れんからどれくらい前のものかも分からん。

装飾も古来から現代まで広く使われておるものだから、昨日出来たものかも知れんし、何百年前の代物かも知れん」


つまり何も分からん。と快活に声を立てて笑うトーエモンドに、しょうがないさとガイキは歩み寄る。

ベーディも興味深そうに棺桶を眺めたが、あまり前に出るなとガイキの腕に止められた。


艶のない黒い棺。

〝蓋 〟がないのか本体には一筋も継ぎ目がない。

隙のないそれは、まるで堅牢な砦のようだった。


ガイキはベーディにそこに居ろと命じ、トーエモンドもベーディの位置まで下がらせる。

ガイキが棺桶の前に立つと、少し空気が緊迫した。

ベーディは背に掛ける小銃のベルトを握り、それが身近にある事を確かめ、ガイキは静かに腰を曲げる。

重厚な造りの棺桶が、テント設営の為にただ踏み固められただけの地面の上に置かれているのは何だか違和感があった。


然るべき場所にないそれは、まるで迷子のようだ。


ガイキはそんな棺桶に片手を突き、静かに力を込める。

ぐっ、と棺桶の上部を奥へと押すと、重々しい音と共に継ぎ目のなかったそこに線が走り、蓋の役目を果たすようにズレて、少し開くと、


「!」


ガイキは直ぐに数歩下がった。

疑問符を浮かべるトーエモンドとベーディだったが、ガイキの背中越しに、棺桶の蓋が彼の手を借りずに更に開く様を見て。

ベーディは直ぐに背負う小銃を前に構え、しかしガイキが振り返りもせずに発砲するなと手を出して、皆で棺桶を静観する。

蓋が何回か止まりながらも横に擦れていくのを見ながら、ガイキは静かに距離を取った。

ある程度開いたそこから、急に。




音もなく、手が現れた。




中身の見えない棺桶から現れたその手は白く、細い指を蓋の縁に掛けると更に開封を続ける。

誰か居る、と、確信を持ったトーエモンドはテントの布を捲ると外で待機していたスイヒ達に無言で加勢を命じた。

スイヒ達は装備品の音を鳴らしながらも素早く静かにテント内に入り、ガイキの前に二重の壁を作るように膝を折る前列と立つ後列に別れて整列し、銃を構える。

そうしている間も、棺桶の蓋を重そうに押し退ける白い手が動き、やはり重そうな音を立てて蓋が地面に落ちると。


ゆっくりと。

ゆっくりと。

棺桶の中からそれが上体を起こした。


テント内の緊張が高く張られ、銃口が一つも余らずそれを睨む。

そんな中、〝彼女〟もこちらを向いた。


緊張に息を控えていた皆が、それを詰まらせる。


〝彼女〟が瞬きをすると、銃口が定まらなくなる。




棺桶から上体を起こしたのは、女性だった。




白い顔に黒髪を絡ませた女性。

美しい女性だ。

だが、ただ美しいと言うだけでは足りない何かがある。

思わず体を置いて心が彼女へ一歩踏み出してしまうような、奇妙な魅力を帯びていた。

皆が口々に、詰まらせていた息を吐く。

銃口は完全に、凶器としての役割を怠っていた。


彼女がまた、瞬きをする。


真っ赤な瞳で彼らを見ていた。

血のようなその色から、逃れる術が分からない。


すると、呆けて役目を成していない壁達の前に、見慣れた背中。

そして聞き慣れた声。


「〝夜の帳を纏った黒髪に、慈悲深い血流の赤い瞳〟…。

なるほど、お前は〝吸血貴きゅうけつき〟か」


慣れたその背と声は、ガイキのものだった。

己らが守るべき彼を見て、壁役の彼らはようやくハッと呆けていた意識を取り戻し、それでも敵を知らぬまま下手に動けずに彼に声を掛ける。


「ガイキ王!」


「お下がりください!」


彼女はガイキを見詰めた。

抜刀しないものの彼の右手は腰に掛けられた刀の柄を握っていて、他の誰とも違い、彼女を真っ直ぐに見詰めたまま緊張を保っている。

そんな彼に、彼女は笑った。


「随分と物騒な目覚ましだ」


その声に、役目を思い出したはずの銃口がまた、意味もなく宙に漂う。


彼女の声はまるで、荘厳な鐘のようだった。

耳心地良く、鳴れば思わずそちらを眺め、体を巡る振動に微笑みが浮かび、余韻も長く響けば心に深く刻まれる。

普通ではないが、その素晴らしさを前にしてはただ無条件に受け入れてしまう。

魂が抜けるように心が体から離れて彼女へ引き摺り込まれる感覚は、恐怖も疑問も一切ない。

快感に似た悦に入り、しかしそこに、銃声のように鋭くハッキリとした声が上がる。


あやかしの纏う妖力ようりょくが強力とは知っていたが、ここまでとはな」


また、壁役の彼らはハッとした。

ガイキの声だ。

彼女の魅力に見入る様子のないガイキは、ただ真っ直ぐに彼女と向き合っていた。

彼女はそんなガイキに微笑み、棺桶の中で立ち上がる。


「妖力への耐性が高いか、断ち切る方法を知っているのか。

どちらにせよ、今時珍しいな」


彼女は手に、日傘を持っていた。

その日傘から彼女の腕を駆け上り、肩に落ち着く塊が一つ。

彼女の白い肌より勝って白い毛のネズミが、彼女の肩に乗っていた。

彼女に似た、真っ赤な瞳を携えて。

彼女と共に、ガイキを見詰める。

ネズミが少し動くと、彼女の髪が揺れて、それすらも美しかった。


「いや…この匂いは、」


彼女はそう呟き、少し間を置く。

そして壁役達に呼ばれていたガイキの呼称を思い出し、


「〝王〟か…。

なるほど、〝人王じんおう〟の遠縁か」


壁役の皆が音もなく息を飲むと共にその場の緊張が高まった。

彼女の美しさに鈍る銃口とはまた別の理由で彼らの集中が逸れる。


ただひとり、ガイキだけが彼女を見詰めたまま、隙なく立っていた。


「王と呼ばれるとは…ひとのえは国を再建したのか?」


彼女の真剣な問いに、ガイキは、知らないのか?と聞き返そうとして、先に、


「〝正しき血〟の再建はまだだ…!

忌々しい愚か者が〝国〟などと名乗っているがな…!」


憎らしそうな声と顔で、スイヒが言う。

その言葉に吸血貴の彼女は少し首を傾げ、


「新しい国が出来たのか?」


スイヒが何か言いそうだった。

しかし、それよりも先にガイキが声を放つ。


「三十年も前のことだ。

知らないのか?」


彼女はガイキの伝えた年数を小さく復唱した。

そして、現れてからずっと変わらず、淡々と、


「そうだな。

軽く、それ以上は〝寝ていた〟」


寝ていた?と、今度はガイキが彼女の言葉をなぞる。

彼女の立つその場所を一瞥し、慎重な口調で、


「…棺桶で?」


くすり、と、彼女は笑った。

疎らな敵意の銃口の中心で、細やかな笑み。


「そう、棺桶で」


静かな声。

しばしの沈黙の後、ガイキがまた口を開き、


「何故、棺桶で?」


棺桶は、弔う為に死者を入れる器だ。

生者がそこに入る事は普通ない。


彼女は少し黙り、スラリと細く長い指を肌の色に映えた唇に当て、考えるような素振りをしてから、


「…未だ与えられるべきではない〝死〟を、感じることが出来るかと思って」


元々静かだったそこが、言葉だけでなく思考も噤む。

彼女は吸血貴だ。

吸血貴とは、ガイキ達のような人と違う特徴がいくつかある。


その中で最も有名な特徴とは、〝不老不死〟であるという事だ。


吸血貴における不老不死とは、ある時から見目の加齢がなくなり、どんな傷も瞬時に治る為、普通は殺せないという特徴だ。

だが、死が絶対に訪れない訳ではない。

特殊な〝力〟を用いて攻撃すれば、その傷は治りにくく、深さによっては殺す事も出来る。

また、〝死のう〟と思えば簡単に自死も出来るらしい。

だから、彼女の言葉は〝死ねないから〟という意味合いのものではなかった。




〝死〟を感じたいと願いながら、生き続ける理由とは、なんだろう。




日々を必死に生きながらそう感じる者は多かれど、数十年も孤独に棺桶で眠りながらそう願う理由とは。

考えても、きっと彼らには分からない。

だから、ガイキは静寂の中に言葉を放つ。


「…つまり、お前の眠りを俺達が妨げてしまったようだな。

悪かった。

まさか棺桶に死者以外の何者かが居るとは思わなかったんだ」


「いや…構わない。

起きるべき時だったんだろう」


彼女はそう笑い、スカートの裾を軽く持ち上げると、足を引っ掛けないようにと視線を落としながら棺桶の縁を跨いでそこから出た。

ガイキは改めて彼女の服装を眺め、今までの言動から敵対的ではないと判断した彼女に向かって更に質問を向ける。


「棺桶で眠ることに意味があるなら…。

その服装にも意味があるのか?」


彼女は足元からガイキの顔へと視線を上げた。

そしてまた、細やかに笑うと、


「この数十年の間に…喪服を着る理由が幾つか増えたのか?」


いや、と、ガイキは小さく否定する。

彼女が身に纏うドレスは、喪服そのものだ。

闇に溶ける程に暗い色の服は、喪服以外に使われない。

普通は男女問わず頭から黒いベールを纏うのだが、彼女の場合はそれだけが足りなかった。


それでも、喪服には違いないだろう。

そして、喪服を着る理由は今も昔も同じ。


誰かの死を悼む為。


だが、死者は着ない。

棺桶の中に入るべき者は喪服ではなく死に装束を着る。

だから、彼女の行動は少し可笑しかった。

彼女の行動は理解し難かったが、ガイキ達は慎重だった。

不老不死の吸血貴だが、有名な特徴はまだある。


その一つは簡単に言えば、〝とても強大な力を持っている〟という事だ。

数々の銃口が鉛玉を吐き出そうとも彼女は死なず、ならばと振るった彼女の力は簡単にガイキ達を殺せるだろう。

彼女と敵対だけはしてはいけない。

そうなれば、このテント内は疎か、この野営地全員の命が危険に曝される。

だから皆が慎重で、特に彼女の美貌に魅了されていないガイキだけが言葉を放っていた。


「…この後なにか予定でも?

〝起きるべき時〟と言っていたが…」


彼女はガイキを見詰め、彼の警戒心に気付いて微笑む。


「そう怖がらずとも、お前達の命を欲しがる訳ではない」


少し、息の音が聞こえた。

壁役の皆が細やかに安堵の息を吐き、その中で、彼女はまた口を開く。


「お前の血が欲しい」


彼女の視線は、ガイキに向いていた。

慈悲深い血流の赤い瞳。


血の色は、警告の色だ。

目にするだけで、心臓がハッとする色。

己の命を省みろと諭される。


少し和らいだ空気が、一気に沸点まで上がる。

彼女への放心をも忘れて殺気を取り戻した銃口が睨みを持つ。

それでも、ガイキは動かなかった。


この場の皆が、既にガイキの事を〝王〟と呼んでいる。

彼女はガイキの立場を理解しているはずだ。

それでも、彼女はガイキの血を望んだ。


吸血貴とは、その名の通り血を吸う生物だ。

人が犬歯を持つ所に鋭く長い二対の牙を持ち、生物に噛み付いて吸血出来る。

だが、吸血しなければ生きられないという訳ではない。

彼らにとって血を飲む事は、一種の娯楽だ。

人が酒を飲んで気分が良くなるのとそう変わらない。


「何故、俺の血を?」


ガイキの冷静な問いに、彼女は微笑んで返す。


「〝王〟の血を、薄くとはいえ継いでいるのだろう?」


暫しの沈黙。

ガイキ達のような人には分からないが、それはなにか、ワインでいう銘柄のようなものだろうか。

珍しいものを口にしたいという思考か。

緊張の高まり続ける彼らに、彼女は相変わらず微笑を続ける。


「別に命が欲しい訳ではない。

注射器ひとつ…、いや、二つ程度の血が欲しいだけ」


それでも、誰かが唾を呑む。

王を守らなければとは思うが、下手に動いて彼女の不興を買えば彼らは終わりだ。

彼らに、彼女に対抗する手段はないのだから。


そしてその沈黙を破ったのは、やはりガイキだった。


「分かった。

では、その対価は?」


「対価か…」


彼女は考え込むように手を口元に当て、地面を眺めた。

考えようと思えば思う程、彼女の耳に風の音が煩い。


その音は、懐かしかった。


あの日も風が酷かった。

いや、流石にこんな音ではなかったが、それでも懐古してしまう。


彼女は心の中で頭を振った。

今はそんな時ではないと、自分を律する。

そしてガイキを見詰めると、


「吸血貴や妖力に詳しそうだったな。

吸血貴の扱える妖術ようじゅつにも明るいか?」


「…少し知る程度だ」


「うーん…。

なにか、その手のことなら出来なくもないと思ったが…」


与えられる金目のものも持ち合わせていないな。と呟く彼女を注視し、ガイキは口を開いたが。


声を出す前。


外から音。


暴風の音とは明らかに違うそれ。


ガイキや銃を構えていた皆が弾かれるようにその音をテントの幕越しに眺め、一人が走って外の様子を伺う。

そして、声を張り上げた。


「硝煙!

赤!」


その色は、彼女の瞳と同じもの。

詳しくは、風に流され拡散し、砂塵越しだから彼女程の鮮明さはないが、大体の意味合いは同じ。


血の色だ。

もしくは警告。

命を諭す色。


あれは、敵対性侵入者を知らせるもの。

誰かが襲撃している。

ガイキの率いるここを。


皆は走り出したい体を押さえ付けた。

未知の彼女を放ってはおけない。

しかも、王たるガイキの血を欲するものだ。

ガイキはそんな背後を感じながら、彼女を見詰め直した。

なんとなく、状況は分かっているような表情。


「…すまないが、交渉は後にしていいだろうか。

仲間が気掛かりだ」


彼女は考え込んでいた体勢のまま、また口に手を当てて、


「……、…人というのは、どうして……」


そこまで言って、声が止んだ。

彼女の肩にいるネズミが、チチッと鳴く。

彼女の言葉は終わりだと、知らしめるように。


ガイキは彼女の無言の了承を理解し、スイヒの部隊とベーディに応援に行くぞと指令を出し、皆が一斉にテントから駆け出る。

走るガイキの隣で、スイヒが彼に問った。


「よろしいのですか?

あんな得体の知れないものを放っておいて…」


「彼女は俺達が手を出さない限りは、敵意を抱きそうにない」


何故そう思うのかと懐疑的なスイヒに、ガイキは近付いてきた喧騒に刀を抜きながら、


「完全に優位に立っていながら、〝交渉〟に応じてくれたからな」


テントを超えた先、そこには盗賊が居た。

このテントの集団を隊商か何かだと思ったのだろう。


愚かな事だ。

ガイキ達が負ける要素などどこにもない。

だが、相手も武器を誰かに振るって久しい。


血が溢れる。

地面に落ちて、乾いた砂を繋ぎ止めていた。

命枯れるまで、それは流れる。

殺さねば殺される今日ここで、生きる為に赤く染まった。

生物の体に流れるそれを、いつ剣が欲したのか。

そんな声は聞いた事がないが、その為だけに作られたそれを皆が振るう。

敵を倒し、その血がゴーグルを覆って慌てて拭っている間に、敵に倒された。

最後のひとりを殺すまで、それは続く。

ひとりでも逃がせば、今度はもっと非力な誰かを襲うだけ。

誠実な、非力な誰かの為にも逃がしは出来ない。


それが正義だ。


少なくとも、今日この場所では。

それが良心。


血を浴びた剣は、疎むように一滴も吸わずに吐き捨てていた。

それが、地面で花の綻びの様に広がる。


この世で最も美しくない花。

誰も見たくはない花。

それでもこの場に咲き乱れてしまった。


敵を一掃して尚、怪我を抱えて医師を呼ぶ声が騒がしかった。

こんな喧騒を聞くくらいなら、頭痛のする暴風の音の方がずっと良い。

傷一つ作らずに敵を多く倒したガイキはそう思った。

彼の濡れた刀に、風に舞う砂が隙間なく張り付く。

駆け寄ってきて怪我の有無を確認するハイローに、ガイキはそれを渡した。

ハイローは布で血と砂を拭い、ガイキは帰ってきたそれを鞘に納める。

天気だけは良い砂塵の中で、ガイキはそこを見詰めた。

死や傷を抱えて倒れる彼ら。

どんな言葉で言い表せようか。


この苦しみを。











(真っ赤なそれを眺めていると、)(〝死〟がこちらを見詰めるようで)

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