彼女は頭を振った

夏巳

彼女は頭を振った

 赤い自動販売機、赤いポスト、赤信号、赤い目。


 学校と家を繋ぐ通学路の、ほんの数分。中学二年生の西井チノは、前後左右を四つの赤に囲まれる時間がある。横断歩道で信号待ちをしている時だ。左右に赤い自動販売機と赤いポストがあり、目の前に赤信号。そして足を止めて信号を見つめるチノの後ろに、赤い目四つ。ぼんやりと宙に浮いた四つの赤い目だ。


 チノは、幼い頃からもう何年も、自分にしか見えない赤い目につきまとわれている。今は慣れたが小学生の時は大泣きして、登校を共にする通学班の仲間を困らせた。唯一の身内である父親にも心配をかけた。父親はチノに「誰もお前を見ていない」と何度も説得して、高学年になった頃ようやくチノは自分に向けられる視線を気にしないようになったのだ。コツは、頭を振って気持ちを切り替えること。いつしか赤い目関係なく、毎日何回もする癖になっていた。


 中学生になってからは通学班もなくなり、チノは一人で登下校をしている。赤い目が見えるのはチノだけで、だからこそ今まで周囲の人間を困惑させたのだが、気にしなくなった今でも赤い目に見つめられている時間を、誰かと過ごすことに抵抗があった。また、父親に説得された時に言われた「一緒にいる人間を困らせるなら、誰とも仲良くなるな」という言葉にも影響を受けていた。


 だというのに、ある日の放課後チノがいつものように一人で帰ろうとすると、クラスメイトが声をかけてきた。最近転校してきた、古河マドカだ。学校指定の紺色のセーラー服は大きめなサイズを買ってしまったのか、華奢な体が妙に目立ち、綺麗に肩で切り揃えられた黒髪が幼さを際立たせている。顔は人形のように可愛らしいが、転校初日に声をかけてきたクラスメイトを全員無視して誰とも仲良くする素振りを見せなかった生意気な子。一言「人間は汚いから嫌い」と言い放ち、いつも自分の席で分厚い本を読んで他人との関わりを遮断している。チノよりも更にクラスで浮いた生徒だ。そのためチノに話しかける姿は衝撃で、教室に残っていたクラスメイトが全員、珍しい二人の組み合わせに注目している。チノは頭を振った。


「西井さんに話があるんだけど。今日、一緒に帰れないかしら」

「む、無理です……」

「あっ、待ちなさいよ!」


 一言返事して早足で教室を出ようとしたが、マドカに右手首を掴まれる。振り返ると、マドカの大きな黒い目が真っ直ぐチノの顔を見つめていた。意志の強そうな目だ。右手首を掴む力も強くて、無理やり振り払うほどの勇気が無いチノは、もう一度「無理です……!」と震える声で答えるしかない。本当に嫌だという気持ちが伝わるよう、最初よりも大きな声を出した。チノは普段から声が小さい。大声で泣いた時に、父親に怒られたことを覚えているからだ。父親は怒ると、目を血走らせる。それが怖くてたまらない。チノは頭を振った。


 目の前にいるマドカの瞳は、驚くほど綺麗だ。透き通った白目と、境目のハッキリした黒目。マドカがジリジリと近づいて来て、色の濃い黒目にチノの困り顔が映って見える。


「無理とか言ってる場合じゃない。大切な話なのよ」

「えぇ……? きょ、今日初めて話したのに、どうして……」

「もう面倒だから、このまま連れて帰る!」

「ちょっと……!?」


 マドカもクラスメイトの視線が気になるのか、チノの手首を掴んだまま廊下へ出た。そのまま立ち止まることなく、マドカが先導する形で下駄箱のある方向へ歩いていく。手首を離すつもりは全くないようだ。もしも例の横断歩道で一緒に信号待ちすることになったら、どうしよう。目の前を歩くマドカの小さな背中を見ながら、チノは滲み出そうになった涙を堪える。泣いたら相手を困らせてしまう。怒らせてしまう。涙を我慢して鼻の奥がツンと沁みる感覚は、水に溺れた時の苦しさに似ていた。チノは、よく自宅の風呂で溺れそうになる。チノが風呂場の湯気を思い出しぼんやりしている内に、二人は下駄箱に辿り着いていた。慌ててチノは頭を振った。


 上履きから靴に履き替える間も、マドカはチノの手首を掴んだままだ。最初は絶対に離さないとばかりに強く掴んでいるように感じたが、風呂場で掴んでくる手よりは優しい。湯気の中、こちらに伸びてくる大きい手。チノが喉の奥から唸り声をあげかけた瞬間、マドカが手を離した。


「手、ごめんね」

「あ……う……はい。えっと……離してくれたってことは、このまま一人で帰っても良いってことですか……?」

「いや、二人で帰るのよ。でも手を掴んでたら、あなたの顔色がどんどん悪くなっていったから、離した方が良さそうだなって思ったの」

「そ、そういうことでしたか……」


 顔色が悪くなったのは手首を掴まれたからだけではなく、マドカと一緒に信号待ちしたくなかったからだ。しかし赤い目の説明をしても、今まで誰も信じてくれなかった。マドカも信じてくれないだろう。チノは説明を諦めて、マドカの家が自分の家と方向が違うことを祈った。


「あの……ふ、古河さんは……私と一緒に帰るって言いますけど、家はどこなんですか?」

「えっ、知らないの?」

「ご、ごめんなさい」

「なんで……?」


 マドカは目を見開き、心の底から驚いた顔をする。大きな目が零れ落ちそうだ。どうしてこんな反応をするのだろう。チノは、本当にマドカの家を知らない。だというのに、マドカはチノが知っていることを当然のように思っているのだ。頭が混乱する。チノは「知らないのか」という言葉も苦手だった。父親が言うのだ。「本当にお前は何も知らないな」と、チノを叱るのだ。チノは頭を振った。


 乱れた前髪越しに、マドカの黒い目がチノを見つめているのがわかる。マドカは、まだ信じられないと言わんばかりの顔をしていた。


「私の家、聞いてないの?」

「えっと……もしかして転校初日に、自己紹介する時お話してくれましたか……?」

「違うわよ、みんなに家の場所を話すわけないでしょ。気持ち悪い」

「き、気持ち悪いって……。えっ、それならどこで? 私たち今日初めて話しましたよね……」

「私が直接あなたに話したんじゃないわ……あなた家で聞いてないの?」

「家……?」


 家には父親しかいない。父親しかいないのに、なぜ? チノは考える。普通父親は、娘のクラスに転校してきた子供の家を知っているのだろうか? 子供が思っている以上に親という生き物は子供の周囲のものを把握しているのだろうか? どこの家の親も、自分の子供の周囲にいる人間や、行動範囲を、知っているのだろうか? 背中がむず痒い。虫が這いずっているようだ。チノは頭を振った。


「家では何も聞いてないです」


 頭を振った拍子に出た言葉は酷く冷たい声色で、チノは自分で驚いた。しかしマドカは特に気にしていないようだ。逆に今まで驚いたような表情を浮かべていたのに、冷静な顔をしている。目を閉じて何か考える素振りをした後、歩き出した。


「……じゃあ、帰りながら教えてあげるわ」

「えっと、あの……っ、それで古河さんの家はどこなんですか?」

「あなたと同じ道を歩いて帰るから、気にしないで」


 一歩前を歩くマドカが、ちょうど自分の顔を見ていなくてよかった、とチノは思う。最悪な返事に、苦虫を嚙み潰したような顔をしてしまったからだ。例の横断歩道で、赤信号に足止めされないよう祈るしかない。ふと、マドカが振り向いた。肩まで切り揃えた髪がふわりと揺れる。


「あのね、西井さん」


 優しい声だ。話しかけてくるクラスメイトを冷たく無視した姿を見た時は、これほど温かい声を出すなんて想像もできなかった。チノは、なぜ自分が優しい対応をされているかわからず困惑する。返事をする余裕がなくてただ頷くと、マドカは歩調を合わせて隣に移動してから話し始めた。しかし「私ね、幽霊が見えるの」という一言で、チノの足が止まる。


「な、何を言って……」

「ちょっと、そんな変なものを見るような目しないでよ。西井さんだって見えてるんでしょ?」

「え……?」

「だって、あなたの家の人に聞いたわよ」


 チノは返事が出来ず、パクパクと口を開閉したままマドカを見つめた。思いもよらない返事だった。家の人に聞いた。チノの家の人が、チノは幽霊が見えるとマドカに教えたという。家の人って? 父親のことか? 父親は、チノの話を一度も信じてくれなかった。そもそも幽霊とは何か。チノは霊感があるわけではない。ただ、例の横断歩道で赤い目が見えるだけだ。ただ、それだけなのだ。チノは頭を振った。


 震える足をなんとか動かし、前へ進む。


「わ、私は……幽霊、見えないです」

「嘘よ」

「う、嘘じゃないです」

「じゃあ、赤い目は?」


 例の赤い目。幽霊が見えるというマドカにも、赤い目が見えている。チノは頭を振った。


 いつもどおりの通学路を帰り、徐々に例の横断歩道に近づいていく。


「あなたの背後にぼんやりと浮かんでる、赤い目のことよ」

「あ、あ……違う……」

「違くないわよ、あれは幽霊の目よ」

「ゆ、幽霊じゃ……ないです……」

「なんで? 幽霊じゃないなら、あなたはなんだと思ってるの?」

「私は……っ、あ……!」


 いつもの赤い自動販売機と、いつもの赤いポストと、青信号。横断歩道の信号が、青だ。チノはマドカの手を掴み、駆け出した。


「ちょっ、西井さん!?」


 さすがにマドカも驚いたようだが、必死に足を動かしてついてきた。二人が向かいの道に辿り着いた瞬間信号の色が変わり、チノがホッと息を吐くと、隣で息を整えるマドカは少し呆れたような表情を浮かべた。


「……西井さん、意外と足が速いのね」

「あ、ありが……とう……?」

「素直に受け取らないで! 褒めてないんだから! もう……疲れたぁ……」

「は、早く行きましょう……」

「ちょっと待ってよ……休憩させて……」


 チノは横断歩道に背中を向けたまま、振り返らず前に進もうとするが、マドカはその場でしゃがみ込む。駆け出す前に掴んだマドカの手を離そうとして、逆に手を掴まれた。今度は手首ではなく、手のひらだ。手を繋いでいる。誰かと手を繋ぐことが久しぶりで、その温かい感触にチノの思考が乱れる。チノは頭を振った。


「あのね、赤い目の話なんだけど……」

「そ、その話はいいです……聞きたくない……」

「聞いてよ! あなたも人と話したくないみたいだけど、私だって一緒! 本当に人と話すの嫌いなんだから!」

「ごめんなさい……」


 チノが謝ると、自分が先に怒鳴ったというのにマドカは困ったように眉を下げる。


「……その声よ」

「こ、声? 私のですか……?」

「あなたのごめんなさいが、いつもいつも聞こえるの! 朝も夜も!」

「え……?」とチノが首をかしげると、マドカは立ち上がって繋いでいない方の手で耳を塞いだ。酷く悲しげな表情をしている。


「私はあなたが住んでるマンションの、下の部屋に引っ越してきたのよ。ずっと聞こえるわ、男の人が怒鳴る声と、あなたが謝る声」

「え……知らなかった……です」

「私が同じマンションって、あなたが知らなかったのも怖いわ。だってあなたが一緒に暮らしてる……伯父さん? 私には伯父さんって自己紹介してくれたけど、引っ越しの挨拶に行った時、同じ学校なら姪と仲良くしてねって笑顔で言ってくれたのよ」

「……家では何も聞いてないです」


 チノの返事を聞き、マドカの大きな目が潤んでいく。視線は、チノの顔と、時折その背後に向いていた。誰と目を合わせているのかなんて、聞く必要はない。幽霊が見えるというマドカには、チノの背後にいる赤い目の正体が分かっていた。


 小さい頃、チノが大泣きして会いたいと求めた赤い目。今の暮らしで父親役をしている伯父に「誰もお前を見ていない」と何度も説得されて、気にしないように気持ちを抑え込んだ赤い目。赤い目四つ。その正体は、チノも勿論分かっている。


「お父さんとお母さんは、あなたを心配してるのよ。伯父さんと二人で暮らして、辛い思いをしてるって。思い出のこの横断歩道で、顔を見るたびにやつれてるって……悲しそうに言ってる……!」


 大好きだったお父さんとお母さん。チノの両親は、幼い頃に交通事故で亡くなった。それからずっと、伯父と暮らしている。伯父との生活は、両親が心配するほど辛いものだろうか。伯父が怒るのは、チノが何も知らないからだ。「本当にお前は何も知らないな」と何度も言われる。そんなバカなチノだから「誰もお前を見ていない」とも言われる。何度も、何年も言われ続けて、チノは本当に何もわからなくなってしまったのだ。怒って血走る赤い目と、心配で泣き腫らした赤い目の違いも分からない。どちらも赤い目で、チノはこの先もずっと気にしないふりをして生きていく。


「西井さんは幽霊が見えないって言ったけど、お父さんとお母さんは、この横断歩道では自分たちが見ていることに娘は気づいてるって言ってたわ。見えてるなら、なんで答えてあげないの?」

「も、もう帰ります……ごめんなさい……帰らせてください……わからないです」

「わからないことないでしょ? それに、今日は帰っちゃダメ! お父さんとお母さんが言ってる、今日家に帰らせたら悪い予感がするって! だから、娘を止めてってお願いされて……」

「帰ります……す、すみません……帰らせて……」

「なんで!? ちょっと待ってよ、お父さんとお母さんもまた泣いてるわよ……! どうして家に帰ろうとするの……!」


 赤い目が涙を零しても、チノは拭ってやることが出来ない。幼い頃、何度も試したのだ。何度試しても触れなくて、もどかしくて、チノも大泣きした。そして泣くたびに伯父を困らせたのだ。


 赤い自動販売機、赤いポスト、赤信号、赤い目。散歩するたびお父さんにジュースを買って貰った赤い自動販売機、お母さんと一緒に田舎のおばあちゃんに手紙を出した赤いポスト、お父さんお母さんに挟まれるように手を繋いで青になるのを待った赤い信号機、幼稚園であったことを楽しそうに話すチノを見守る温かい四つの目。本当は気にしないふりなんてしないで、ずっと見つめ合っていたい。大好きなお父さんとお母さんの目。伯父に血走った目で怒られるまで、チノの幸せの色は赤色だった。


「幽霊より、人間の方が怖いんだから! 汚いんだから!」


 背後でマドカが叫ぶ。横断歩道の傍で、生きた黒い目二つ、心配で泣きはらした赤い目四つ。優しい六つの目が、チノの背中を見つめている。


「……だって向き合っても、もう二度と帰ってこない。それなら私が会いに行くしかないでしょ」


 一度だけ振り返り、喉奥から漏れ出た小さな掠れ声は、マドカには届かないが赤い目には聞こえただろう。


 チノは頭を振った。

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