アリスの嘘
王子
アリスの嘘
学校指定の詰襟とズボン姿のアリスは教室内をざっと見回した。
「はじめまして、アリスといいます。カリフォルニアの中学校から来ました。よろしくお願いします」
何の変哲も無い挨拶だったが日本人と変わらない
楓はアリスの立ち姿をしげしげと観察した。白とも金とも言える明るい頭髪は絹糸のような光沢を発している。外国人にしてはあっさりとした面立ちながら、小ぶりの鼻は先端まで芯が入ったように真っ直ぐ顔の中心をとおって山を作っている。楓の想像する白人よりも白い肌をしていて小柄な体と相まって不健康にも見えた。その短身で華奢な体付きだけは自分を見ているようでほんの少し嫌気がした。皆が期待したアリス像からはかけ離れ外国人として見るにも心もとない印象で、始めこそ期待外れの目を向けられていたが、次第に熱視線へと変わっていく。美少女ではなかったとはいえ掛け値なしに恵まれた容姿であるのは間違いなかった。女子達の熱量は相当なもので我先に質問攻めにしたが、アリスは嫌な顔せず一人ひとりの目をまともに見て適度に相槌を打ちながら耳を傾け、身振りを交えつつ淀みなく答えたかと思うと小粋な冗談も挟み、そして最後に必ず微笑みを向ける。整った顔立ち、落ち着き払った口ぶり、心地良くなる高めの声と会話を弾ませる話術、守りたくなるような小柄な
女子の注目を一身に集めながらも多くの男子からは好意的に受け止められていた。中には意地の悪い奴もいて背の低さを野次ったり下品な話を振ったりもしたが、アリスは憤らずカラリと笑ってから「君は面白いね」とか「君と仲良くなりたいな」などと話の矛先を変えつつ不快にさせない切り返しをしては懐に入り込む賢さを見せた。
転校生かつ外国からの来訪者という見世物になりがちな立場よりも持ち前の聡明さとありあまる魅力とをもって学級内で
十月も終わろうかという頃、アリスは「今日は寄るところがあるから一人で帰るよ」と周囲に断って早々に教室を出ていった。部活に入っていない楓も続いて騒がしい教室を後にした。楓が校門をくぐるときには既にアリスの姿は見えず、よほど急がねばならない用事でもあるのだろうと推測した。寄り道せずただ足元を見ながら帰途を歩く楓の背中に声がかかった。
「やあ、君の家に行ってもいいかい」
自分に向けられた言葉だとは思わず声のする方へ振り返ると、アリスが立っていた。楓はぎょっとして一歩後ずさった。
「いつも僕をちらちらと見ているだろう。でも一度も話したことがなかったから。僕はみんなを等しく知りたいんだ」
アリスの
「寄るところがあるんじゃなかったの」
「だからこうして訊いているのさ。それとも教室で訊いた方が良かったかな」
女子達の輪を抜けてアリスが自分に歩み寄って来る。日頃アリスから遠ざかっている自分に。何事かと教室中から好奇の視線が注がれる中アリスは澄んだ声でさっきの言葉を口にする……君の家に行ってもいいかい……想像しただけで楓は悲鳴を上げそうになった。
「君は僕を避けているだろう。新参者が和を乱していると思われているんじゃないかと思って。ほら僕はこんなだから嫌でも人の目を引いてしまうし」
と、笑った。これなんだ、と楓は思う。アリスの内に秘められた一片を垣間見たような気がした。怖さと言ってもよかった。言葉の上澄みだけ
「来たければ来ればいいよ。何も無いけどね」
アリスは「お構いなく」といつもの微笑みで締め、楓に黙って付いて来た。
* * *
アリスの喋りはまさしく立て板に水で、楓がわざと興味なさげに「ふうん」と漏らそうが口をつぐんでいようがひたすら話し続け、お構いないのはお前じゃないかと楓は心中で毒づいた。アリスの話術はアリス対大勢のときに輝くのであってアリス対一人ではやかましいだけなのだと、皆はそれに気づかず実に喋りが上手いと勘違いしていただけなのだと気付かされた。
イギリス人の祖父と日本人の祖母を持っているが両親は日本人であること、アリスという名前は祖父が提案し強引に押し切ったこと、父親の仕事の都合で世界各国を転々としたおかげで幾つかの言語を使えることなど、話されたのはアリスが教室で皆に聞かせていた話で、楓は既に知っていた。
「君の話も聞かせてほしいんだけど」
アリスは喋り足りたのかぴたりと口を閉じていたが、楓はようやくお鉢が回ってきたとは思えなかった。教室の隅でひっそりと息をしていて自己主張もほとんどしない楓は、語って楽しませるほどの話の種も舌の滑らかさも持ち合わせてはいなかった。
「僕の話なんて面白くもなんともないよ」
「じゃあ僕が訊くから答えてくれればいい」
始めからそれが目的だったのではないかと楓は身構えた。
「僕が嫌いかい」
あまりにも真っ直ぐな問いに楓は返す言葉を探った。青い双眸が退路を断つように楓を捕えている。いつもの笑みは無かった。そうか、やはりあの微笑みは着脱式だったのかと思い至った。
「嫌いではないよ。ただ少しばかり苦手なのかもしれない」
「かもしれない、なんてまるで他人事だな」
楓はたじろいで、上手く切り抜ける策を巡らしたがどうにも頭が回らなかった。
「君を十分に知っているわけではないのに妙に気になってしまうんだ。胸がざわつく。その正体を確かめたくて、いつも君を見ていたんだ」
さっきまで
「
「どういうこと」
「それより君は勘が良い。僕の嘘は見抜かれていたのかな」
「嘘なんてついていたの」と、楓は眉をひそめた。
「怖い顔するなよ。誰も傷付けない嘘さ」
それから種明かしでもするように得意げに、イギリス人なのは祖父だけではなく父親もであり、アリスという名前は父親の発案によるもので祖父とは何の関わりもなく、父親の仕事について詳しく訊かれても皆にぼかしていたけれど皆が想像するよりもずっと堅い仕事に就いているのだと、楓に語って聞かせた。事実から少しずつずらしただけで、すぐに人に知れそうな嘘ばかりだった。
「父兄参観や運動会になれば嘘だと分かってしまうじゃないか」
「大丈夫さ。あの人は来たりなんかしないから」
一度も来たことなんかないんだ、と呟くように付け加えた。
「ところでさ、僕が言えた義理じゃないけれど楓という名前は女の子みたいだな。
褒めちぎられて怪訝な顔をした楓に、アリスは笑みを寄越した。
「僕は可愛いものには目がないのさ」
* * *
アリスは輪の中心であり続ける時間を減らすようになった。休み時間の度に取り囲まれていた自席から離れて、校内を歩いてみたり数人で固まって笑い合っている中に飛び込んでみたりした。読書で時間を潰していた楓も校内の案内に付き合わされ、並んで歩きながら他愛ない会話をした。
「いつまでも転校生でいられるわけではないんだ。ひと月もしない内に一級友になる。飽きるとも慣れるとも言えるけれど、その時分の見極めを誤ると痛い目を見る」
「痛い目って、何があったの」
「心配してくれるのかい。でも、もう同じ間違いは犯さないさ」
受け流された楓は、軽薄に見えるほど
楓だけが気付く嘘は数え上げれば
* * *
冬休みも間近となった日。アリスが楓の家を出ると明るい三日月が天にかかっていた。アリスは「少し歩こう」と楓を誘った。「帰り道の付き添いなんて令嬢にでもなったつもりなの」と茶化しながらも、一日中軽い咳を繰り返していたアリスの身体を案じて楓は
しばらく無言で歩いていた。沈黙を破ったのはアリスだった。
「明日はきっと雨が降る。三日月が仰向けだと翌日は雨、立っていれば晴れなんだ」
「初耳だね、それも嘘かい」と楓は肘でつつく。
あっ、と零してアリスが急に足を止めた。つられて楓も立ち止まる。数歩先に小さな黒い塊が二つ。月明かりを映してきりりと光る目があった。
「黒猫だ」と声を落としたアリスに楓はゆっくりと頷いた。脇道から飛び出した小さな毛玉達は、自分達を見下ろす巨大な生き物を前にして足が
「黒猫が横切るのは不吉だと言うね」
「それなら僕も聞いたことがある」
「さっきみたいに何匹も横切るのをイギリスでは黒猫の葬列と言うんだ」
小さく咳をして、アリスは続ける。
「イタリアでは黒猫というだけで虐殺されるそうだ。三匹も見てしまった僕達にはとんでもないことが起こるかもしれないな」
アリスは俯いてまた一つ咳をした。表情も声音もどんよりとしている。よほど調子が悪いのだろう、早く送り届けてやろうと楓はアリスの骨ばった背中を擦った。
「冷えるね。与太話はそれくらいにしてもう帰ろうよ」
「可哀想だと思わないかい、黒で生まれてきただけなのにさ」
「随分と猫に肩入れするね」
「前にも言っただろう。可愛いものには目がないんだ」
楓の心配をよそにアリスは話し続ける。
「生まれつきこの顔で、この体で、この名前だったけれど、嘘は生まれつきじゃない。僕はどこに行っても
早口でまくし立てたかと思えば先程よりも強い咳をして苦しそうに顔を歪め、楓を不安にさせた。その表情をさせているのは体調だけではないと楓には分かっていた。
「今はもう皆、君を受け入れているじゃないか」
「学校だけの話じゃないさ。僕は連れ子でね。あの人は家族思いを装うために僕と母さんを連れ回すんだ。家にはほとんど帰ってこないくせにさ。あの人と話したのなんて数えるほどしかない。あんな奴と同じように嘘を付く自分が嫌になる」
声も体も震えていた。息遣いも荒くなっている。何を言っても今のアリスには効き目はなさそうだった。体調が優れなくてもどうしても吐き出さずにはいられなかったのだろうが、これ以上寒空の下で吠えさせていたら息絶えてしまうかもしれない。触れればすぐに折れてしまいそうなほど薄い体を、楓は優しく包んでやった。
アリスはいつでも転校生だった。言葉も価値観も違う異国の級友と束の間の人間関係を築く。仲良くなったかと思えば父親に引きずられて関係を断ち切られる。自分がそんな生き方に身を置いたらと思い巡らし楓は恐怖に襲われた。
「よせよ」とアリスが小さく呻く。
「全部を分かってはやれないけれど、嫌なことがあったらうちに来ればいい。そしたらしばらく気晴らしに、僕と一緒に暮らそう」
「いいから離せって」
アリスは体をよじって楓の腕からするりと逃れた。
「君は生まれつきのたらしなのかもしれないな」
「どういうこと」
「それより君の疑い深さはどこに行ったんだ。さっきのは嘘だ」
楓は
「困った顔するなよ。せっかくの器量よしが台無しじゃないか」
アリスは戸惑う楓に背を向けた。
「君の言ったとおり全て与太話さ、忘れてくれて構わない。じゃあまた明日」
背中越しに手を振って足早に立ち去る。弱々しい外灯に浮かび上がる丁字路を折れ、薄暗い路地へと消えていくアリスの背を楓は呆然と見送った。
* * *
翌日の朝、担任からアリスの入院が告げられた。肺炎を起こしており冬休み前の復学はないだろうとのことだった。加えて、年明けには父親の仕事の都合でカリフォルニアに戻るが、父親の申し出で面会謝絶のため、アリスと再び顔を合わせる機会を得るのは難しいとも説明された。
カリフォルニアから来たのは嘘じゃなかったのか。自身に生まれた呑気な心の呟きを楓は苦々しく思った。
アリスは戻らないまま年が明け、三学期が始まった。アリスとの不意な別れは転入のとき以上の衝撃を与え楓の学級を陰々滅々たる空気にしたが、冬休みが明けると誰も彼もけろっとしていた。飽きるとも慣れるとも言える、少なくともその言葉は楓を除いては真実と言えた。通夜帰りのような顔をした楓を見かねて級友が励ましても、楓はうつろに返事をするだけだった。
アリスが去ってから一月ほど経った頃、楓は母から一通の手紙を渡された。国際郵便だった。差出人の住所は英語で書かれていたが、
親愛なる楓へ
手紙はよく分からない。話す方が気楽でいいものだ。とりあえず近況を書いておく。
わけあってまだ入院しているけれど、いずれまた学校生活に戻れるだろう。
前に住んでいたのは内陸部で、同じカリフォルニアでも今は海が近い場所だ。
窓を開けると潮の匂いがする。冬の風は日本ほど冷たくはない。
借りたアパートは病院から近くて二人で住むには十分な広さらしい。
君はさびしがっていないだろうか。いつまでもふさぎこんでくれるなよ。
一つ謝っておきたい。あの晩に話したことだ。黒猫はイギリスでは幸福の象徴だ。
黒猫達の名誉のためにもあれは真実ではないと伝えておきたい。
三日月の姿勢で天気を占うのは日本の文化らしいけれど聞いたことはないかい。
最後に、叶わぬ願いだと分かってはいるけれどわがままを言わせてもらえるならば、
君にもう一度会いたい。会いたかった。
筆付きは終わりに近づくにつれて細かく揺れ弱っていた。僅かに残された力を削りながら書かれたような短い手紙を楓はひしと胸に抱いた。この手紙にも嘘が含まれているのではないか。いずれまた学校生活に戻れるというのは、生まれつきの病を隠すための嘘ではないのか。担任も体育の先生も承知していて、汗をかくのは好きじゃないなんて級友を誤魔化すための方便ではなかったのか。わけあって入院しているのは、そういうことなのではないのか。あの晩、去り際に残した言葉も、やっぱり口だけだったのだ。
楓は頭を振った。こんなものは全て邪推だ。病み上がりで手に力が入らないのは道理じゃないか。念の為の検査で入院が長引いたのかもしれないし、体育を休んだのは単に面倒だったからかもしれない。子供の身では航空券代も工面できないし知らない土地で道に迷うだけだろう。今はまだ会いに行かれないけれど、いつかアリスの本物の笑みを見に行こう。楓は自身をなだめながら返信のため便箋を広げた。
黒猫の葬列なんてありはしなかった。戯れの嘘だった。分かっているはずなのに、白紙の便箋の上を無表情の黒猫達が何度も横切った。
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