石窟寺院

マイタケ

石窟寺院

 新疆ウイグル自治区に、オルファンという都市がある。かつて漢代の中国と、中央アジアを結ぶ陸の交易路の要衝として栄えたオアシス都市。砂漠と山脈に囲まれたシルクロードの結び目だ。そのオルファンには石窟寺院がある。オルファン千仏洞といって、崖をくりぬいて作った仏教寺院の一種であり、規模は有名な敦煌や龍門のものには劣るが、その独自性からしばしば研究の対象になってきた。


 オルファン千仏洞は極めて特徴的な構造をしている。崖をくりぬいて作った五階建ての荘厳な本堂もそうだが、なによりその本堂の階層から崖を真横に広がる無数の洞窟群が、他の寺院には見られない特徴だ。その洞窟群のおかげで千仏洞は、正面から見ると、巨大な蜂の巣のようにも見える。実際現地では、蜂の巣の名で寺院を呼ぶ人もいるらしい。


 さらに興味深いのはその洞窟の内部だった。洞窟一つ一つが二畳ほどの狭い空間になっていて、中の壁面には極彩色の曼荼羅がびっしりと描かれ、そして正面には仏の肖像画が描かれている。何でも遥か昔のオルファンの僧侶たちは、この小さな洞窟に籠って、七日七晩、悟りを開くための読経と瞑想を行ったようだ。洞窟が狭いことには、トリップの効果を引き起こしやすくする狙いもあったかもしれない。私もかつてその洞窟の中に入らせてもらったことがあるが、狭い洞窟の中で壁一面の曼荼羅文様に囲まれ、そして正面には自分と同じくらいの大きさの、妙に人間めいた仏の肖像画と向かい合うことになる。七日もここに籠っていると、何らかの奇跡めいた体験をしてもおかしくはない気がした。


 ごく最近、そのオルファン千仏洞についての興味深い論文が中国で発表された。某大学の準教授として中央アジア文化史を研究している私は、都合、その論文を日本でも真っ先に読むことになった。それは主に考古学的見地からの研究だったが、門外漢の私にとっても驚くべき内容が書かれていた。オルファン千仏洞の小洞窟群、その各洞窟の入り口を子細に検討すると、なんとかつてその洞窟の入り口に、上下等間隔の丸い穴が空いていたことが分かったのだ。これはどういうことかというと、かつてはその穴に鉄の棒が嵌まっていたということ。もっといえば、千仏洞の小洞窟群には、その中に入った人間を、鉄格子で幽閉する機能が備わっていたということだった。


 その鉄格子は、唐がオルファンを統治するようになった時代に取り払われたようだ。かつて鉄格子が嵌まっていた穴に新たに詰められた粘土の材質を検討することで、おおよその年代がわかるらしい。それにしてもいったいなぜ洞窟には鉄格子が嵌まっていたのか。オルファン千仏洞とはいったい何の施設だったのか。そしてなぜ唐はその鉄格子を取り払い、そこに粘土を詰めるなどというまどろっこしいことをしてまでその存在を隠蔽したのか。今のところそれは全くの謎だった。


「熊谷先生。ちょっと面白い研究を見つけましたよ」


 私はこの論文に久々の興奮を覚え、同じ大学で考古学を研究している熊谷教授に声をかけた。熊谷教授は、私の十歳上で、歴史学の教授陣の中では比較的私と歳が近いこともあり、普段から親しくしていたのだ。


 熊谷教授はその鳥類ような丸くて大きい目をぎょろつかせながら、私の論文の話を聞いた。時折その熊のような毛深い手で、濃いモミアゲが侵食している頬をガシガシ掻き、「うーん」などと、独り言を言いながら頻りに考えているようだった。


「斎藤君。行こう。一週間後だ」


 熊谷教授は、話が終わると目を見開いて私の顔に迫った。私は咄嗟に、やってしまったと思った。熊谷教授にこういう癖があるのをつい忘れていたのだ。


「無理ですよ。いきなりすぎます。今僕たちが行ったって出来ることは限られてますし、どうせ追々日本からも調査団が派遣されます」


「今行かなくていつ行くんだ。どうせ僕たち若手は調査団になんて入れてもらえない。だが今現地に行って、いち早く論文の一つでも書いておけば話は別だ。そうなると私や君を調査団に呼ばざるを得なくなるし、となると我々はこの分野での第一人者になれる」


 熊谷教授は私の肩を正面から掴んで言った。もうこうなると手が付けられない。私は内心溜息をついた。熊谷教授は人並み外れた激しい名誉欲を持っていて、そのせいで時折周りが見えなくなるという悪癖があった。


 一週間後、私と熊谷教授はオルファンの地にいた。遥かな砂地の彼方に黄土色の禿山が聳えている光景を見ると、日本とは違う異郷に来たことをいつも意識させられる。私は早速事前に連絡を取っておいた現地の案内人とやり取りして今回の調査の段取りを話し合ったが、その間、熊谷教授は現地の人やら建物やら風景やらをジロジロと無遠慮に物色していた。


 案内人の車に乗り込み、砂埃の立つ無人の道路を一時間ばかり天山山脈の麓へと向かって走行すると、正面に聳え立つ崖が現れ、巨大な蜂の巣のようなオルファン千仏洞が見えてきた。車から降りた私たちは、千仏洞の管理責任者である半袖シャツにスラックスを着た初老の男性に出迎えられた。オルファン千仏洞は、清朝末期にその寺院としての役割を終え、現在は文化財としてオルファン市の管轄下に入っていたのだ。


「あなたたちは運がいいです」


 出会って早々、その初老の男性は私たちに現地の言葉で言った。案内人が日本語に通訳してくれたのでなんとか大過なく会話ができた。


「なぜですか」私が聞くと、男性は通訳を介して言った。


「つい最近、千仏洞の地下に、新たな洞窟群が発見されたのです。なにぶん見つかったばかりで、まだほとんど誰にも調査されていない」


 すると横で千仏洞の方を見つめていた熊谷教授が急に間へ顔を割り込ませてきた。


「案内してもらうぞ。行かない手はない」


 その目の見開き具合や鼻の膨らませ具合から、熊谷教授が興奮しきっているのが私には容易に見て取れた。


 私たちは初老の男性の案内について崖に沿って歩いていった。道すがら、熊谷教授は洞窟の入り口を屈んでのぞき込んだり、いきなり指でこすったりしてはぶつぶつ独り言を言ったりして、なかなか後ろについてこない。私はうんざりしながら頻繁に教授を歩くよう催促しなければならなかった。


 とはいえ、洞窟ごとに描かれている曼荼羅や仏の肖像画に、目を見張る要素があるのは確かだった。洞窟ごとに描かれる仏は、ひとつひとつ人相が違っていて、妙に痩せた仏や、骨ばった顔の仏、厚ぼったい顔のつくりをしているもの、中には片腕が無いものなどもいる。私だって立ち止まってそれをじっくり眺めたいという気持ちはあるのだが、先に地下の洞窟に行くと言い出したのは熊谷教授の方であって、まともな大人なら地上の洞窟は後回しにするのが賢明なはずだった。


 なんとか教授を説得して歩かせ、進んでいくと、左右の崖が狭まって通路のようになっている空間が現れた。そのうち洞窟群があったのとは反対側の崖に、ぽつんとひとつ大きめの洞窟が現れた。管理者の男性について四人でその中に入っていくと、内部の壁面はやはり緻密な曼荼羅でびっしり覆われていて威圧感がある。管理者が指差したところを見ると床に正方形の穴が開いていて、そこから下に下りる階段が続いていた。


「元々この階段の上に大きな仏像が置かれていたそうです」


 案内人が私に通訳して言ったが、以前訪れたことのある私はその仏像が置かれていた光景を見たことがあった。だがそれだけに、その下にこのような階段が隠されていたという事実は衝撃的だった。まだまだ千仏洞には我々の知らない謎が多くあるらしい。


 狭い階段を降りて地下に進むと、長い一本道の通路に出た。壁に沿って炭鉱のように電灯が配置されており、近くを通ると四人分の巨大な影が動いた。照明の反対側にはやはり等間隔に小洞窟があって、地上と同じように曼荼羅と仏の肖像画が描かれている。


「斎藤君、見ろ。鉄格子が嵌まったままになっている」


 熊谷教授は声のトーンを落として言った。確かに地下の洞窟群の入り口上部に開けられた穴には、錆びた鉄の突端が覗いていた。


「やはりあの説は正しかったんですね」


 こうなると私もさすがに興奮して、そう返した声はつい上ずっていた。管理者によるとここはちょうど地上の洞窟群の真下に当たるらしい。いったい古のオルファンの人々は何のためにこんな複雑な建造物を作ったのだろうか。


 さらに通路の奥へ進んでいくと、突如前方を歩いていた熊谷教授が「ううん」と頓狂な声を上げた。私が何事かと思ったときには既に教授は小洞窟の一つへ飛び込んでいた。


「見たまえ斎藤君。この洞窟より先は、曼荼羅も仏の肖像も描かれていないぞ」


 確かに教授の言う通り、あれだけ熱心に描かれていた曼荼羅や肖像が、教授のいる洞窟より以後はパタリと途絶えて、ただ岩肌を露出しているだけになっていた。


「これは不思議ですね」


 地上数百の洞窟に絵画を施し、地下通路の入り口を大きな仏像まで作って隠蔽するような人々が、この地下洞窟に関しては仕事を途中で放り出してやめてしまったのだろうか。そう考えるとどうも不自然な気がした。それは教授も同じなようで、その毛深い達磨のような濃い顔をしきりにしかめながら、洞窟の内部をジロジロ検分していた。


「こういう考えはどうだ、斎藤君」洞窟の壁面に触れながら教授が言った。「ここはかつて寺院というだけでなく、オルファンの罪人たちを閉じ込めておく刑務所のような存在でもあった。そして当時の人々はその罪人たちに社会奉仕をさせる手段として、壁面に曼荼羅や肖像画を描かせた。そうすればここの洞窟以降、絵が描かれていないのも説明できる。ここの以降の洞窟には罪人が収監されることが無かったまま、千仏洞は監獄としての役目を終えたのだ」


「なるほど。面白い説ですね。とはいえ罪人たちに皆、あんな高度な絵画を描く技術が備わっているとは、やはり私には思えませんが」


 私が少し考えて所感を述べると、教授は「ふむ」と言ったきりまた黙り込んで、再びあちこちの壁面に触れては、その梟のような目をぎょろつかせ始めた。


 そのときだった。おそらく教授がどこかに触れた振動がきっかけで、錆びついた鉄格子が音を立てて下ろされた。私が思わず飛びのいた時には、格子の先端は床に空いた穴に寸分違わず入り込み、熊谷教授は一瞬にして洞窟内に幽閉されていた。


「熊谷教授、今助けます」


 私たちは焦って、案内人と管理者と三人で協力し、鉄格子にとりついてそれを押し上げようとしたがびくともしない。だが当の熊谷教授は、そんなことに構いもせず、洞窟の奥の壁面とにらめっこをして何かを考えているようだった。私はその姿に若干呆れながらもなんとか教授を救出しようと、さらに足腰に力を込めた。


「こ、これは。おい、斎藤君はやくしろ。今すぐだ」


 すると急に熊谷教授が焦りだした。「わかってます。ですがこの鉄格子が重くて」私はいっそう懸命に鉄格子を押し上げようとし、顔を真っ赤にした。だが教授はその言葉を聞いて、「何を言ってる。鉄格子なんかどうでもいい。ビデオカメラだ。はやく回せ」と興奮しきった様子でまくし立てた。


 奇妙に思って顔を上げ、私は自分の目を疑った。なんと奥の壁面に触れた教授の左手が壁の中に取り込まれて絵になっているのだ。信じがたいことだが、そう表現する他に、今の状況を説明する適切な手段を私は持たなかった。呆気に取られた私はその場でまるで石のように固まった。


「はやく。ビデオカメラだ。はやく記録してくれ」


 熊谷教授は目を血走らせ、口から泡を飛ばしながら叫んだ。その間も教授はどんどん壁にめり込んでいき、そのめり込んだところから順に絵画となって壁へと広がっていく。一方の私は教授の言葉で我に返り、リュックサックから慌ててビデオカメラを取り出そうとした。いや、我に返ったというのは間違っているかもしれない。本当に我に返っていたならまず熊谷教授を助けようとしたはずだ。だがこの時は、あの場の誰もが正気を失っていた。叫び続ける熊谷教授、必死にビデオカメラを探す私、ただ呆気にとられる案内人と管理人。


「これはすごい。歴史的大発見だ。世界が変わる大発見だ。私の名は永遠に歴史に刻まれる。誰も成し遂げたことがない発見だ。斎藤、はやくビデオカメラを出してくれ!」


 熊谷教授はもう左肩まで壁に取り込まれていた。私はようやくリュックサックの奥からビデオカメラを取り出すことに成功し、慌てて画面を横に開いた。だが私は極度の機械音痴で、録画ボタンがどこにあるのかわからない。あたふたしているうちに熊谷教授はもう首まで取り込まれ、取り込まれながらもなお叫んでいた。


「やったぞ。これで私は学会で栄達する。この現象を論文にまとめて報告すれば、もう私を顧みない研究者などこの世にはいなくなる」


 教授は恍惚の表情を浮かべながらそんなことを言い、どこか遠くを見つめながら顔にだらしない笑みを浮かべていた。だがちょうど顎のあたりが壁に取り込まれ始めたとき、その恍惚の表情がにわかに曇った。


「あれ。だが私がここで絵になってしまったら、いったい誰が論文を書くんだ?」


 それが熊谷教授の最後の言葉になった。次の瞬間、教授は完全に壁に取り込まれ、そこには立派な仏の肖像画が完成していた。元教授だったその仏は柔らかな天衣をまとい裳を履いて、どっしりと中空に胡坐をかき美しい来迎印を結んでいた。しかし顔の毛深さや、血走った眼は教授の特徴そのもので、さらにその顔には、壁に取り込まれる直前の教授の絶望の表情が、そっくりそのまま反映されていた。


 この段に至って私はようやくボタンを見つけ、放心状態のまま一応ビデオカメラの録画を開始した。熊谷教授。大学での良き同僚だった熊谷教授。野心に燃えていた熊谷教授。常に知識を追い求めていた熊谷教授。いまや仏となった教授の背面からは、まるでこぼしたコーヒーがカーペットに滲むように、複雑な曼荼羅の文様がじわりじわりと浮かび上がってきていた。

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