後編
あの怪物を餌付けしようだなんて考えが、そもそも間違いだったのだ。
「ねえ、この子、かわいいよね」
まだ彼が子どもで彼女がこの街にいて、そして影踏丸が小さな小さな生きものだったころのことを、ぼんやりと思い出す。
「捨てられちゃったのかな?」
大きくなった結果、こんな怪物になったのだから、捨てられたのはとうぜんだったのかもしれない。
でも彼も彼女も影踏丸もまだ子どもだったのだから、そんなことは夢にも思わない。
「わたしたちで飼おうよ」
そう言う彼女の目はワクワクとウキウキにキラキラかがやいていて、彼女が好きな彼としては、とてもイヤとは言えなかった。
「……うん」
彼も彼女もまだ小さくて、影踏丸はもっとかわいい名前で呼ばれていたはずで。
彼女が引っ越していって、彼はこの通学路をひとりで通るようになって。影踏丸はどんどん大きくなっていって。次第に彼ひとりでは手に負えなくなっていって。
無責任だったと思う。
残酷な話だったと思う。
かわいかった。影踏丸は文句なしにかわいかった。
それでも彼にとって、影踏丸は怪物だった。自分を捕食しないと分かっていても、近くにいるだけで皮膚が粟立った。猛烈に熱を持ってかゆくなる。鼻水が止まらなくなる。悲しくもないのに涙がボロボロ出てきて、目が真っ赤になる。次第にだんだん息苦しくなって、それはいつしか影踏丸への恐怖へと塗り替えられていった。
「この子、何が好きかな?」
「この子、ツナ缶食べられるかな?」
「ごめんね、うちはマンションだから、君は飼えないの」
そう口にする彼女の声が、かつては小さな生きものだった影踏丸の面影が、頭の中に去来していく。
水はけの悪いアスファルトの上、大きな水たまりに月明かりが反射している。投げ出された彼の手を、何かを求めるように影踏丸がペロペロとなめている。ザラザラした舌の感触が懐かしい。彼が影踏丸から逃げようとしても、影踏丸はずっと彼のことを覚えていた。
もう振り返る必要はなかった。
影踏丸は彼のことを、かつて小さな生きものだったころ、餌をくれた彼と彼女のことを、永遠に忘れないだろう。
彼が大きくなって、
彼女が転校していって、
そして影踏丸が大きな黒い怪物になって。
「……なあ、お前」
彼は影踏丸を見上げた。
「俺、今日はなんも持っていないんだ」
まるで彼の言葉が分かるように、影踏丸はシュンとしてしっぽを揺らす。彼の毛を吸い込んだらしく、彼ははげしいくしゃみとじんましんに襲われる。
「……だからさあ、どいてくれよ」
「……ニャアン」
「今度、ちゅーる買ってくるから」
「ニャアン」
黒い毛皮。するどい牙と隠された爪。とがった耳と針金のようなひげ。意外と柔らかな足裏と、暗闇にかがやく瞳。肉食獣のしなやかな筋肉。
やつらは狩りをする。やつらは一部の人類にとっては敵だが、人類の味方だ。やつらが穀物庫からねずみを追い払ってくれた時から、漁港で魚を分け与えた時から、やつらは人類とともにあった。
「俺、アレルギーだって言ったじゃん」
「ニャアン」
「だから俺はお前のこと、飼えないって言ってんじゃん」
「ニャアン」
飼えない怪物を餌付けするのは良くないことだと、彼は思う。
でもほんとうは自分と彼女と影踏丸と、こうやって通学路でいつまでも笑い合っていたかったはずなのだ。
狩りをする、かがやく瞳の肉食獣。
世間一般では、やつら怪物のことを『猫』と称す。
カゲフミ 山南こはる @kuonkazami
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