カゲフミ
山南こはる
前編
その怪物の名前は
彼がつけた名称だ。本名は知らない。もしかしたら他に名前があるのかもしれないが、あいにくそれを覚える余裕はまったくない。
黒い怪物だった。
やつの足は早い。恐ろしく早い。足音のしない四つの足と、影に溶け込むような闇色の毛。やつは狩りをする生きものだ。肉食動物を捕食する。口の中に牙を隠し、足の中に爪を隠し、そのギラギラかがやく一対の目で、獲物である彼の背中を見つめている。
そこにいるのは分かっていた。
振り返れなかった。
たぶん彼が振り返れば、影踏丸は一気に間合いを詰めてくるだろう。そのギラギラかがやく瞳に、獲物を捕食する肉食獣特有の微笑みを浮かべて。
やつは怪物だ。間違いなく怪物だ。
いるのは分かっている。棒になった足を懸命に動かして前へ進む。首が硬直する。うなじにやつのするどい視線を感じる。
夜闇が道に落ちていた。
竹と藪の生い茂った雑木林。点々と存在している街灯のうちの、ひとつがチカチカと明滅して闇を切り取っていく。さして長くはないが、心霊スポットとして有名なトンネル。
ただの真っ暗闇を映しているカーブミラー。硬直した首をゆっくりと持ち上げると、鏡越しに影踏丸と目が合った。
そこにいるのは分かっている。
やっぱり、振り返れなかった。
「……っ!」
走った。
やつの足は恐ろしく早い。彼が走り出すのと同時に、しなやかな四肢が夜の黒い道を疾走しはじめる。
トンネルに踏み込む。明るいうちは大したことのない長さのトンネルが、何も見えない暗闇の中では信じられないくらい長く感じる。水はけの悪いアスファルトの上を、彼と影踏丸が駆け抜けていく。
彼の靴底が泥を踏んだ。足がすべる。手がすりむけるのもかまわずに、体勢を直して走り続ける。
影踏丸は間違いなく彼の背後にいる。空気が抜けるような鳴き声が、かすかに耳元に届く。やつのするどい爪が、ギザギザに並んだ牙が頭に蘇る。やつは肉食獣だ! 怪物だ! バケモノだ!
もう、振り返ろうだなんて考えなかった。
ただひたすらに、走った。
恐ろしく長いトンネルの先に、光が見えた。生い茂った竹藪と白いガードレール。やっぱりチカチカしている街灯と、ぶつけられて根元から曲がったカーブミラー。
何台ものの車が屠られた、魔のカーブ。
「……」
息が切れた。泥を踏んだスニーカーの底がまだすべる。教科書を入れてきたカバンが重い。
それでも影踏丸は一向にスピードを落とさず、彼の後ろを付かず離れずの距離で追跡を続けている。振り返らなくても分かる。やつの漆黒の毛皮は夜の空気と同化して、彼の皮膚の上を恐怖と憎悪でなでていく。
なんで、よりによって。
なんでこんな暗い日に、よりによってやつと会ってしまうんだろう。
背後に車の気配を感じる。それでも足を止めるわけにもいかず、彼はひたすら出口に向かって走り続ける。
車が彼を追い抜いていく。ヘッドライトがトンネルの壁を照らしていく。やつの影が彼と同じかそれ以上のものになって、スプレーの落書きの上に落ちて流れていく。
とがった耳と、針金のようなひげ。狩りをする生きもの特有の、しなやかな筋肉。
「っ!!」
もう、ダメだと思った。
トンネルの上を通る電車の音も、車のクラクションも、竹藪の虫の声も、何ひとつ聞こえなかった。心臓の音しか聞こえない。はげしく高鳴る心臓の横で、影踏丸の鳴き声が静かに響き渡る。
蒸気機関から吐き出される水蒸気の音に似ていた。
他人には感じられなくとも、彼にとっては絶望の呼び声だった。
走った。
今度こそほんものの全力疾走だった。カバンについたキーホルダーがぶんぶん飛び跳ね、開いたチャックの隙間からペンケースや財布が転がり落ちていく。そんなものにかまっている暇はなかった。影踏丸はすぐ背後まで迫っている。
足が恐怖でもつれる。冷たい鼻水がのどの方に逆流していく。気管支がヒューヒュー悲鳴をあげている。首はやっぱり硬直したままで、それでもほんの少し横目で振り返ると、やつの夜闇にかがやく黄金の瞳と目が合った。
やつはすぐそばまで来ていた。
振り返ってしまった。
もう彼の運命は決まったようなものだった。きっとやつの餌食になるのだろう。黒い毛皮ととがった爪。肉を食べるためのギザギザの歯。世の中にはあんな怪物を愛でる輩がいるらしいが、彼にはまったく理解できない。
やつの姿を想像する。皮膚が恐怖でかゆくなる。憎悪がどうしようもなくくしゃみを呼び起こす。やつの黄金色の目。太陽の下で見れば愛らしいはずの目が、今は夜の狩人となって彼のうなじを刺して磔にする。
振り返ったのがまずかった。
もう、逃げられない。
「がっ!?」
緩んだ左の靴ひもを、右足が踏み。バランスを崩す。投げ出されたカバン。学生服の左ひじに穴が開く。体を起こす余裕すら与えられずに、影踏丸は彼を前にして立ち止まった。
舌なめずりをする音。
やつは狩りをする肉食獣だ。
硬直した首を無理やり動かして、空を仰ぎ見る。気味悪くかがやく満月の下、影踏丸は実物よりもずっと大きな影となって、憐れな獲物を
振り返ってしまった。
振り返らなければ、逃げ切れたのかもしれないのに。
「――っ!!」
影踏丸の前足が、彼の学生服の背中を踏む。
思いの外柔らかな足の裏が、彼を絶望の境地へと突き落としていく。
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