第五章 六花煌めく

一、踊る左袖

 その日の喫茶店ミルヒは、いつもより繁盛していた。客は皆、荷物を持った若者たちだ。一様に緊張した面持ちで、本を読んだり紙になにか綴ったりしている。普段なら到底ありえない状況に、店主である老紳士が戸惑ったように左目に付けた片眼鏡をいじっている。

 そんな緊張感漂う喫茶店に、右耳にガーゼを貼った書生が入ってきた。随分と伸びてきた髪がサラリと揺れて、硬い空気を解くような柔らかい笑顔が、元気よく花開く。

「暮雪さん、ただいま帰りました! 今日って確か早く閉める日――あれ?」

「嗚呼、敬太郎! 助かりました。ほら、ほら! こちらにおいで」

 訝しげに首を傾げる書生姿の少年に、若者たちの不躾な視線が突き刺さる。書生はそれをもろともせず、手に持っていた袋を老紳士に手渡した。中身は珈琲豆だ。

「おかえりなさい。今日も楽しかったですか? なにか変わったことは?」

「はい、とても! あ、そういえば来月が入学試験なので、阿形と一緒に教授を手伝いましたよ」

「試験? こんな時期に?」

「ええ、制度が変わるんです」

「ああ、大学も4月入学に変わりましたか」

「はい。早い人たちだともうこっちに来てるらしいですよ」

「へえ……」

 老紳士の色違いの瞳が、緊張した面持ちの若者たちを眺める。各々のテーブルをよく見ると、使い倒された問題集や教科書が乗っていた。それを見て、書生がのんびりと口元を緩める。

「懐かしいなあ。僕も8月くらいはあんな感じだったんですよ?」

「おや、それは見てみたかったですねぇ」

「それは、ちょっと恥ずかしいですねぇ」

 穏やかに会話するふたりによって、固まっていた空気が柔らかくなっていく。緊張していた若者たちも、各々が注文していた珈琲やらミルクセーキやらをおずおずと口にする。そのまま隣の席の客に話しかけた若者を皮切りに、いつもの賑やかな喫茶店に戻っていった。

「はあ……それにしても」

「どうしたんです?」

「敬太郎が来てから、一気に客も増えて嬉しいばかりですよ。前はひとっこひとり来なかったんですからね」

「石畔先生は?」

「あれは居候ですから」

 喫茶店の外では徐々に日が傾き、霧が穏やかにかかりはじめた。それを見た若者たちは徐々に下宿先に帰り、先程まで賑やかだった店内にはレコードの音がのんびりと響いている。

 店の扉が、のんびりと開いた。空っぽの左袖が、扉から吹き込んだ風でひらひらと揺れるのが見て取れた。

「こんばんは、まだやっているかな? 珈琲を一杯――おや、高崎の下宿先はここだったか。いいとこ選んだなぁ」

「あれ、教授?」

「いらっしゃいませ。やっていますよ」

「はぁ〜ありがたい!」

かすかに酒の匂いをさせた教授が、ぐにゃりとカウンターに伏せる。それを、書生が驚いたようにそれを二度見した。それもそうだろう。普段の教授は、背筋のしゃんと伸びた、とてもしっかりした大人なのだから。

「どうされました。悩み事ですか」

「はぁ、マスターに言うのもなんですがね、妻の弟が人脈を頼って独逸留学するんですって」

「え、阿形が?」

「聞いてない? あの子なら大丈夫だとは思うんだけど、どうにも心配でねえ」

 老紳士が作り始めたオムレツを羨ましそうに見る教授の目は、どこかぼんやりしている。普段凛々しい教授が酔っぱらっているのを、書生は不思議な気分で眺めた。左袖が教授の動きに合わせてゆらゆらと踊っている。

「そうだ、マスター。別に今日じゃなくてもいいんだけど、調べてほしいのあってさ。お金は払いますよ」

「おや、なんです。珍しい」

「実は、阿形の本家の方で幽霊騒ぎがありましてね」

「幽霊騒ぎ?」

「ええ、いないはずの人がいるとかなんとか、女中が騒ぎまして。義弟がこれから留学に行くってのに困ったもんですよ本当に! 知り合いの教授に相談したら、幽霊やら妖怪なんているものか! 迷信だ! なんて円了の本を叩きつけられてしまいましてねぇ。あ、そうだ。石畔先生は? 近いうちにお会いしたいって思ってるんですが。あの人と医術の話がしたいんですがねぇ。いませんかねぇ」

 早口でまくし立てる教授が、カウンターに五円金貨を置く。それを取った老紳士が、不思議そうな顔で書生にオムレツを出した。梅ジュースの入ったグラスも一緒だ。目を輝かせる書生を教授がにやつきながら眺めている。

「万緑ですか? 今日は見てませんねぇ。昨日どこぞのお宅に泊まるとか言ってたんですが……。まだその人の家かな?」

「へぇ……色男め」

「……ところで、問題の本家はどちらに?」

「ん?ああ、それは――」

 窓の外に輝く凌雲閣が、濃い霧に飲まれていく。教授の革財布から取り出された二枚の乗車券が、透き硝子電笠の淡い赤色に照らされていた。

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喫茶店ミルヒ回想録 鮭碕 @shakesaki

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