幕間 大正十年二月十四日
大正十年二月十四日。その日の喫茶店ミルヒは、いつもより甘い匂いがしていた。普段のミルクの香りよりも甘い、頭が少し痺れる気もする甘ったるい匂いだ。
そんな妙な香りに違和感を覚えながら、この家に下宿する書生は、喫茶店部分に続く従業員専用口を開けた。甘い匂いがより一層濃くなる。カウンターの奥のキッチンから、カチャカチャと何かを混ぜる音がした。
「暮雪さん?」
「おや、敬太郎。おはようございます」
「おはようございます……」
カウンターの奥からひょっこりと顔を出した老紳士は、この喫茶店の店主だ。左眼に着けた片眼鏡の紐が上機嫌に揺れる。目元に笑い皺が寄って、また甘ったるい匂いがした。
この老紳士からほんのりと甘い匂いがするのはいつものことだが、今日はより一層甘い匂いがする。それにぼんやりする書生を、老紳士が慌てた様子でふんわりと抱きしめた。
「敬太郎? どうしました? 何か悪い夢でも?」
ひんやりとした手が、頭の上を焦ったようにするすると滑る。妙な照れくささを覚えた書生は、老紳士の肩口に顔を埋めた。普段とは違う甘い香りが、より一層濃くなる。
「おや、今日はいつもより甘えん坊ですね」
いつもより機嫌の良い老紳士が、頭をのんびりと撫でる。それにうっとりする書生を、店の入口から入ってきた着流し姿の下駄男と学生服の青年が引っ剥がした。
「おい、朝からイチャイチャするな」
「何だこの匂い……」
「何って、チョコレートですけど」
「そんな高級品が何で大量にあるんだよ! 匂いがひどいぞ換気しろ爺!」
ぼんやりする書生を引きずって、下駄男が窓を思いっきり開ける。冷たい空気が入り込み、頬に当たった。さらさらと髪が揺れるが、ぼんやりしたままだ。
「おや、お前には言われたくはないのですが。ほら、敬太郎を返しなさいよ」
「お前の甘ったるい匂いに当てられたんだよ!」
「田端さんたち一応そういう関係だろ? どこまでいった?」
「行為が全てではないでしょう? ハグしたくらいです。万緑、希仁、お前たちけっこう助平ですね」
「お前らが無欲すぎるんだよ……」
からかうように笑いながら、老紳士が甘い匂いを発するエプロンとベストを脱いだ。それを書生から一番遠いところに置いて、ソファでぼんやりする書生の前にしゃがみ込む。ひんやりとした手で頬を優しくつつくと、書生が驚いたように目を見開いた。
「あ、あれ? 暮雪さん?」
「すみません。お前には刺激が強すぎましたね」
「あの、僕は何を?」
「ちょっとボーッとしてただけだ」
「あれ、石畔先生と阿形だ。おはようございます。なんでここに?」
「すごい匂いだったからな」
呆れ顔の下駄男が、キッチンにある大量のチョコレートを指差す。山と積まれたチョコレートは、半分くらい湯煎され、様々なスイーツになっていた。
「なんでチョコレートなんだよ」
「今日は西洋だとバレンタインでしょう? 敬太郎にあげるプレゼントを作るついでに、商品開発ですよ」
「商品開発がついでかぁ」
「あれ、バレンタインは薔薇かジュエリーかメッセージカードじゃなかったか?」
「それももちろん用意してますがね、敬太郎に甘くておいしいものを食べさせたくて」
照れ笑いを浮かべた老紳士が、書生の前にチョコレートケーキを置く。掌ほどの大きさをした、小柄なホールケーキだ。表面には金粉があしらわれ、甘い香りと共に微かにベリーの芳香が漂う。老紳士に促された書生がフォークを差し入れると、表面がパリンと割れてベリーのコンフィチュールがさらりと流れ出た。それにチョコレートを織り交ぜたスポンジケーキに絡め、一口頬張る。ビター、ミルク、ベリーと三層になった甘酸っぱい幸せは、あっという間に書生の口の中に消えていった。
「へえ、美味そうだな」
「一番美味しくできたものを出したのでね。敬太郎、どうです?」
「これ、大好きです!」
ふにゃふにゃに頬を緩ませた書生が、幸せそうに笑う。それを、老紳士が愛おしそうに見つめた。
ついでとばかりに出されたチョコレートムースケーキを食べる下駄男と青年も、一様に幸せそうな顔をしている。
「これ、婦女子にモテるな……!?」
「その前に勉強しような? 希仁」
チョコレートムースケーキを食べ終わり下駄男に引きずられていく青年を見ながら、書生はゆっくりと最後の一口を食べ終えた。それを、食後の珈琲を持ってきた老紳士が笑顔で見つめる。
「暮雪さん、とても美味しかったです。ありがとうございます」
「ふふ、敬太郎の幸せそうな顔が見れて満足です。花束とお前に似合いそうなネクタイピンもあるのですが、受け取っ――」
「喜んで!」
被り気味に反応した書生に、老紳士が吹き出す。甘やかな香りの喫茶店に、楽しげな笑い声と、照れくさそうな抗議の声が響いた。
この数十年後、日本ではチョコレートを渡すバレンタインが偶然にも流行りだす。それに便乗してまた、チョコレートケーキを作っていちゃいちゃするふたりがいるとかいないとか。それはまた、別のお話。
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