終章

終章



 どうして自分は死ななかったのか。


 健次郎はどうなってしまったのか。無事であろうか。

 竜胆はどうなったのか。

 ふしぎと竜胆は殺されてしまったような気がしていた。

 俺は目が覚めたとき、初芝の埠頭にいた。

 顔や身体のあちこちが酷く痛み、足首には妙な刺青が掘られていた。

 軽装な服を着せられ、ポケットには三万円が入っていた。久しぶりに金を見たし、握った。ざらりとした札の手触りが、妙に現実感を与えてくれた気がする。

 右手に手錠がつけられ、一方の手錠は革の鞄につながれていた。

 鞄の中には手錠のカギとA4の用紙、俺のスマートフォン、そしてどこかの住居のカギらしきものが入っていた。

 用紙には『静かに、孤独に生きろ』と記載され、ずっと下方に見知らぬ都内の住所が記載されていた。

 俺は自分が殺されなかったこと、自分が知っている正常な世界に戻ってきたことを理解した。

 一方で、健次郎がどうなってしまったか、この住所の先に何があるのか、など意味不明なことばかりに当惑した。

 手錠のカギを使って手首の手錠を外した。

 スマートフォンは海に投げ捨てようかと思ったが、やめた。

 メモの意味を考える。


「静かに、孤独に生きろ、か」


 どうして自分は殺されなかったのだろうか。

 その理由をいくつか考えてみたが、それらの考えはうまくまとまらなかった。


 いつ死んでも構わない。


 ポケットには三万円しかなく、今日の宿も定まっていないのだ。

 とりあえず、地獄の淵を歩き続けなくてはいけない、という思いで記載された住所へと向かった。

 タクシー代で約二万円ほど。

 郊外のワンルームマンションだった。

 テーブルの上には認印と住民票、さらにはパスポートが置かれていた。

 それから銀行口座の通帳と銀行印……。

 両方とも見知らぬ名前の人物であったが、写真はまぎれもなく俺だった。

 俺はまさかと思い、玄関を出て表札を改める。

 そのパスポートに記載された苗字が表札には出ていた。


 たぶん、俺は消されたのだ。


 そして新しい俺として静かに生きろ、と悪魔たちは主張しているのだ。

 少しでも騒ぐような真似をすれば、不可思議な力によって抹消されてしまう。


 しばらくベッドの上でそのようなことを考えた。

 スマートフォンは死んでいなかったが、中身のデータはさっぱりと消し去られていた。ためしにスマートフォンの契約状況を問い合わせてみたが……パスポートに記載されている男の名前で登録がされてあった。


 どうやら俺の本名はすでに消し去られ、新しい静かな人生が始まっていたのだ。

 俺は妙な力によって別の誰かに差し替えられてしまった。

 それは俺自身が少年たちを美少女へと変貌させたように、悪魔の手によってなんらかの変化が俺の身にも起きたのだろう。



 妙な当惑の中で一週間を過ごした。


 金が底を尽き、キャッシュカードを使って金を引き出した。

 残金は数万円だけ。

 しかし、不思議なことに数週間後には再びどこかから数万円が振り込まれていた。

 俺は裕福ではないが、決して飢えない金融プログラムの中で生かされているのだと知った。

 試しに異性と接近してみようと試みた。

 出会い系のアプリで女性を募り、二、三人の異性を抱いた。

 考えてみれば、久しぶりに異性を抱いた。特に興奮はしなかったが、後に残るものは感じた。

 三人のなかの一人としばらくは関係を維持し、交際関係に発展しそうになった……が、相手の方から「ごめんなさい、やっぱりダメかも」と断られた。

 理由を問うたが「ごめんなさい」の一点張りで、妙な強張りとも緊張とも違うなにかが彼女をむしばんでいた。

 身体だけの関係からスタートしたのだから、こうした恋愛に発展することは難しいのだろうか。再び身体を求めたが、結局彼女が再び俺に身体を許すことはなかった。

 まるで俺が汚染された人間の亜種かなにかであるように、彼女は「ごめんなさい」といって踵を返し、消えていった。


 それから再就職にも挑戦したが、必ず最終で落ちた。

 驚いたことにアルバイトもすべてダメ。

 日を追うごとに俺は社会から隔絶されたような気がしていた。


 大学時代の友人に電話をしたが、その電話はつながらなかった。

 実家へ戻ってみたのだが……そこに両親の姿はもうなかった。

 妹の行方もわからず、しばらく途方に暮れた。

 どこへ消えてしまったのか、と役所などで戸籍などを探ったが、結局見つけることはできなかった。俺は両親との縁も切れている他人なのだ。なんの縁故があって彼らの個人情報を請求できるというのだ。


 俺は半ばあきらめ始めていた。


 無味無臭の生活を送る。


 一定の金は入ってくる。


 住む場所もある。


 あの紙切れに書かれていた『静かに、孤独に生きろ』という生き方しか残っていないのかもしれない。




 俺は誘い人。

 ときどき『彼ら』の事を思い出す。

 俺が誰からも監視されず、誰からも束縛されていなかった頃の事を。

 美しい少女へと変貌する素養を持った少年たちは、いまどうしているだろうか。

 俺が手掛けた多くの少年たちは、平穏な生活に戻ることが出来たのだろうか。

 そう思う一方で、『そう思ってはいけない』と戒める。


 俺は誘い人。

 カフカが示す『変身』とは異なる脱皮を提供する者。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 少年たちの若さは、驚くほど儚い。

 その生き血を吸い上げる魔物が、この世界には存在している。


 多くを考えてはいけない。


 俺は静かに、音もなく、孤独に暮らしていかなくてはいけない。


 この人生にあるのは過去だけだ。


 俺は誘い人。


 変身を促す触媒に過ぎなかったのだから。

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変身 HiraRen @HiraRen

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