143. 仮面の令嬢
「しかし、ヴィルジニー嬢はどう思うかな?」
話が終わりならそろそろお暇しようか、と思って立ち上がった僕に、父は言った。
視線で促すと、続けて口を開いた。
「宰相の妻より、王子妃の方がいいと思うかもしれないな。彼女にとってその身分は、一度は逃したもの。再びチャンスが来た、となれば」
「彼女が僕ではなく、フアン王子を選ぶ、と?」
「損得で考えれば、そういう可能性もある」
正直、それは否定できない。
思わず床に目を落とした僕に、父は続けた。
「先程のあの方の様子を見れば、おまえに気持ちがあるのはわかるが」
デジール公爵家のエントランスで、ヴィルジニーが僕にキスしたことだ。
僕はうなずき、父の言いたいことを口にする。
「貴族の結婚は、そればかりではない」
「特に上級の貴族の令嬢は、そういう価値観を叩き込まれている――フアン王子に婚姻の申し出を撤回させたら、彼女から逆に恨まれるかもしれないぞ」
今頃、ヴィルジニーは、デジール公爵から現状を説明されているだろう。
もしもヴィルジニーがフアン王子との結婚に乗り気になっていれば、そのあとで僕が申し出撤回を成功させても、ヴィルジニーは怒り狂うだけだ。
先にヴィルジニーに、意向を確認する必要がある。
彼女が、フアン王子ではなく、僕を選んでくれるか、確かめるのだ。
最悪なのは、ヴィルジニーがフアン王子を選んでしまうケース。彼女は僕のことを、家族や使用人の前でも構わずキスできる程度には好いてくれているわけだが、父の言う通り、貴族の結婚において、好き嫌いは二の次。
フアン王子と結婚したほうがオトクだ、と考えれば、それはソレこれはコレとして結婚に同意してしまうことは十分にありえる。
そういうことを乗り越えて、僕と一緒になってくれる気が、果たして彼女にあるだろうか。
彼女の気持ちを疑っているのではない。
貴族令嬢とは本来、気持ちとは関係なしに結婚する人種なのだ。
その、常識や価値観をぶっちぎってなお、僕と一緒になる選択ができるほど、僕に惚れてくれているのだろうか。
「本人に確かめます」
「それで、彼女がフアン王子を選んだら?」
「心配ご無用。父上との約束は、果たしますよ」
もしそうなって、ヴィルジニーを手に入れられないとなったら、正直、そのあとのことはどうでもいいのだ。
「その時は、マリアンヌ嬢と結婚してもいいかな」
「投げやりでは困る」
「簡単に、はいそうですかと納得したりはしません。ヴィルジニーにはその気になってもらいます」
それを聞いた父は、はばかりもせず呆れ顔を浮かべる。
「全く、エラい自信だな……その情熱を、他のことにも向けてもらいたいものだな」
ヴィルジニーのことだから熱くなれるのだ、と思ったけど、そんなこと父親には言わない。
すぐさま公爵邸に取って返しヴィルジニーを問い詰めたい、という気持ちはあったが、先ほど辞してきたばかりのお宅に間をおかず再訪問するというのもさすがに憚られた。
慌てる必要はないのだ、と、僕は自分に言い聞かせる。
フアン王子の訪問があるなら、正式な返事はその時になるだろう。訪問日程は未定だし、ということはまだ少し先の話だ。ヴィルジニーは用事が済めば学生寮に戻ってくる。話はその時でもまったく問題ない。
それに、ヴィルジニーだって、もう今日の予定はめちゃくちゃになったのだ。さっさと学園に戻ったかもしれない。
王城から学園までの道を、歩いて帰る。若い男だと、馬車を出してもらうのはやはり憚られるような距離だ。
学園に到着した僕は、その足でまっすぐ女子寮に向かった。しかし、いくら異性の出入りを明示的に禁じられていないとはいえ、いきなりヴィルジニーの部屋を訪ねるというわけにも行かないし、そもそも僕はヴィルジニーの部屋がどこなのかも知らない。
そういうわけで、管理人室に詰めている侍女に取次を頼んだが、ヴィルジニーはまだ帰っておらず、そればかりか外泊届が出ている、ということだった。
泊まるつもりがあるとは聞いていなかったが、自宅に帰るのである。別におかしなことではないだろう。
しかし、そうするとヴィルジニーは、明日まで帰らないかもしれない。
たったの一日だが、早く二人で話し合いたいと思っている身としては、長い一日になりそうだ。
いずれにせよ、これ以上女子寮にいても仕方ない。
そう思うと、今更のようにお腹が空いてきた。昼食には少し遅い時間だが、食堂に行けばなにか出してもらえるはずだ。
踵を返した僕はそこで「しつこいのです、あなたは!」という女性の声を聞いて、進めかけた足を止めた。
女子寮の一階の構造は男子寮とよく似ていて、玄関そばは生徒や来客が使えるロビーになっていた。休日ということもあってか、いまそこは閑散としていて、二人の女子生徒しかいなかった。
立ち上がった方が声の主だろう。美しい艶の
一方、怒鳴りつけられた形の、椅子に座る紅茶色の髪の美少女は、そのぱっちりとした瞳を不安げに揺らして――そこで僕はようやく、そちらの女子生徒がセリーズであることに気づく。
「もうほっといてください!」
長い栗毛の彼女がそう言い、セリーズはハッと我に返った様子で自らも立ち上がった。
「そんなっ……そういうわけにはいきません!」
負けじと、顔を近づけ言うセリーズに、相手は少しばかりトーンを落とした。
「どうして……なぜ
「そんなこと……わたしはただ、あなたの助けになれると思って」
「それが! 余計なお世話だと言っているのです!」
御令嬢方のケンカになど関わりたくなかったが、一方が知り合い、それも“特待生”であるセリーズともなれば、僕の立場でまさか無視して行ってしまうというわけにもいくまい。
僕はこっそりため息を吐いてから、なおも言い合う二人へと近づいた。
「どうされました?」
女子寮のロビーで聞こえてくる男子生徒の声は、二人をすぐに振り向かせた。
「ステファン様!」
「あっ……」
僕を見つけた二人の反応は、まるで対象的だった。
力強い援軍を得た、とばかりに表情をほころばせて、僕の名を呼んだセリーズ。
一方、栗毛の女性は、僕の顔を認めるや、その表情を見られまいとするよう、顔を背けたのだ。
この反応、どうやら彼女の方は、僕のことを知っているらしい。まあ、僕はちょっとした有名人だから、その点は不思議ではないが。
しかし……仮に彼女が顔を背けなくても、その表情は確認できなかっただろう。
なぜなら、彼女はその顔を、白い仮面で隠していたからだ。
顔を仮面で隠している生徒、というのは、実は学園にはそれなりにいる。決して多くはないが、ことさらに注目を集めるほど珍しい存在ではない。顔を隠す理由も様々で、その理由もやはり素顔同様、明かされないもの、明かせないものとされている。貴族ならばそういう事情も当然わかるので、生徒同士がそれを問題にすることもない。
つまりは彼女も、学園内に何人かいる、“仮面令嬢”の一人ということだ。
彼女がつけているのは、目と口の部分だけ穴の開けられた、何の飾り気もない仮面だ。
顔を隠しているだけに、仮面のデザインで個性を出そうとする者もいるなかで、その無機質さは逆に個性的だともいえる。
仮面を見られたくなかったのだろうか、彼女は。
いずれにせよ彼女の方は、僕と話すつもりはなさそうだし……僕はセリーズへと顔を向けた。
「どうなさいました?」
「その……」
セリーズは何度かまばたきをして、彼女の方を伺うようにしながら、口を開いた。
「課外活動にお誘いしていたのです。その……ダンスとマナーに関して、お困りのようだったので」
「別に困ってなどいません」
被せるように、意外にも強い調子で、仮面の令嬢は否定した。
「でも、ミレーユ様は先日も先生に居残りを命じられていたではないですか。課外活動に参加した方々は、わたしもそうですけど、皆さん合格点をもらえて」
「居残り授業で十分、間に合ってます」
「そんな――デュドヴァン先生はろくに指導などしてくださらないではないですか」
「あら、先生批判?」
「そっ、そういうつもりでは……」
「ミレーユ――ミレーユ・ルジア嬢……?」
僕は、不意に想起された名前を口にする。
それを聞いた栗毛の少女は僕を向いて、仮面越しでも見える目をハッと見開いたが、またすぐにその顔を隠すように向こうを向いた。
「――ステファン様が、
そのように発せられた皮肉に、僕は思わず息を呑んでしまう。
彼女のことを思い出すと同時に、彼女が顔を隠す理由も思い出してしまったからだ。
いやむしろ、なぜ今まで思い出さなかったのか――
「ミレーユ嬢、その――」
僕はとっさに動揺を取り繕おうとしたが、上手く行かなかった。彼女の名を呼んだはいいものの、続く言葉は出なかった。
そんな僕をミレーユは鼻で笑い、セリーズへと向き直った。
「とにかく、
「どうして――」
「ヴィルジニー嬢が関わっているものになど、近づくつもりはありません」
ミレーユは横目で僕の顔色を伺うようにしてから、再びセリーズを見て、続けた。
「セリーズ様も、あの方を信用なさるの、やめたほうが良いわ」
「えっ?」
「とてつもなく性悪なんですもの。裏で何を企んでいるか、わかったものではないわ」
「そんな――そんなことありません! たしかに最初は怖い人だなって思いましたけど、でも、わたしのような平民にも優しくしてくださって」
「そう。まったく、考えたものですわよね。それだけのことで自分の株が上がるとわかって」
「ヴィルジニー様はそういう方ではありません!」
遮るように言ったセリーズ。
ミレーユは、気の毒なものでも見るように、その目を細めた。
「知らないから言えるのよ、あなたは」
それから、その目を僕の方に向けた。
「ねぇ? ステファン様」
「ミレーユ嬢。
「わかる?」
僕に見えるのはミレーユの目だけだったが、僕はその感情を失ったような冷たい視線にゾッとする。
「ステファン様に、
僕はとっさに首を横に振ってしまう。
「――ヴィルジニー嬢は、変わられたのです。以前とは違う」
「……どうかしら」
ミレーユはそっぽを向いて、僕はその横顔を隠す仮面に言い募る。
「本当です」
「そういうことを言う人もいるみたいですけど、
またもや絶句してしまった僕に、ミレーユは微笑を浮かべる。
「それに……誰になんと言われようと、
そういって、顔を隠す仮面の頬に触れた。
「忘れられないわ」
話はこれで終わりだ、とばかりに踵を返したミレーユだったが、思い出したように僕を振り返った。
「ステファン様――あんな女と一緒にいるなんて……貴方には、幻滅しているんです」
そう言い捨てて、ミレーユは廊下を奥へと立ち去った。
僕は彼女を呼び止めようとしたが、だが呼び止めて何を言えるのだろうか、と思うと、声が出なかった。
彼女の姿が見えなくなってから、セリーズが言った。
「教えてください、ミレーユ様のこと」
ストレートな物言いに、僕はすぐには応じなかった。
眼鏡のブリッジを中指で押し上げてから、彼女の方を振り返った。
「やめなさい」
「――はっ?」
そんな風に言われるとは思ってもいなかったのだろう。呆気にとられた顔を浮かべたセリーズに、僕は視線を外しながら答えた。
「ミレーユ嬢のプライバシーに関わることです。おいそれと話せることではありません」
僕はそれだけ言い置いて、セリーズに背中を向けた。さっさと出口へと向かう。
「ちょっ……お待ちくださいステファン様!」
セリーズの声が追いかけてくるが、僕は構わず女子寮を出た。食欲は失っていたが、食堂へ向かうつもりだった。
「どうしてですっ!?」
追いついてきたセリーズが、僕のすぐ左後方、という位置で歩調を合わせてくる。
「理由は言ったはずですが」
「そっ……でっ、でも、今のままではミレーユ様は」
「放っておけばよい。貴女が彼女をどうこうする必要、ないでしょう」
「あります!」
確信をもって言うセリーズに、僕は足を止めた。
振り返って首を傾げると、彼女は続けた。
「ミレーユ様は、ヴィルジニー様のこと、そしてステファン様のことを、勘違いなさっています。わたしは、わたしの好きな人のことを、誤解されたままでいたくありません!」
一生懸命に言うセリーズに、なんか主人公っぽいな、などと思ってしまい、僕は思わず苦笑する。
「どうして笑うんですかぁ!?」
「フフッ、いえ……セリーズさんにそんなに好かれていたとは、思わなくて」
「あっ! そっ……それは、その、そういう意味ではなくて、その……」
「いいんですよ、わかってますから」
真っ赤な顔で頬をふくらませるセリーズに、僕はもう一度笑みを浮かべてみせる。
それを見たセリーズは、気恥ずかしげに視線を反らしながらも、続けた。
「それに――誤解が解ければ、課外活動に参加してくれるかもしれません。わたし――同級生の方々とは、やっぱり、一緒に卒業したいって、そう思うんです」
まったく……さすがは主人公、とでもいうか。
なんていうんだろうな、こういうの。お人好し?
「それに、成績のこともそうですけど――女子生徒の間でも孤立しているミレーユ様が、少しでも他のみんなと仲良くなる……課外授業が、そのきっかけになれるんじゃないかって」
損得なしにそういうことを言えるのであれば、尊敬に値するが、しかし――
「しかし、聞いたところで、貴女には何も出来ないと思いますよ」
「それって……どういう」
怪訝に顔をしかめるセリーズに、僕は言った。
「誤解などではないからですよ」
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乙女ゲーの攻略対象に転生した僕は悪役令嬢に恋をする ゆーき @yuki_nikov
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