自宅にて
すきま風が吹きそうなボロアパートへと帰宅する。
ドアを開けると、玄関にはくたびれたオヤジが倒れていた。
……これは比喩表現ではなく、文字通りに疲れ果てた父親という意味である。
僕はそれを見て、何度目か分からないため息をついた。
「……親父、起きろよ。布団で寝た方が良い」
僕は眠りこけている父親を起こし、どっこいしょと肩を貸す。
「お……おぉ……すまんな、シンジ君」
親父はかろうじて目を開けると、しゃがれた声で呟いた。
別に親父は酔っているわけではない。僕は物心ついた時から、父親が酒を飲んだのを一度も見たことがない。親父はただ本当に疲れ果てて、玄関で寝てしまったのだ。
僕は部屋の隅に一度父親を下ろすと、薄っぺたい布団を敷いた。
「布団ひいたよ。服は脱いでから寝な」
「……おお、いつの間に」
親父はモタモタと服を脱いで布団に潜り込むと、そのまますぐにイビキをかきはじめてしまった。世間は休みの今日も、明け方から工場で時間外勤務をして来たのだろう。本当にご苦労なことであった。
「…………」
このままではおそらく近い将来、親父は過労死する。
だから僕には、金が必要なのだった。
この家には、気が遠くなるような借金があるのだった。
今日知ったことだが、不愉快の代価は段ボール一杯で一万円らしい。
しかし奇跡の代価は、スプーン一杯で家が買えるほどの値段だった。
「……夕飯、作っとくか」
いつ親父が目を覚ますか分からないが、起きた時にすぐに食べられるようにしておいてあげたい。僕は冷凍庫からまとめ買いの業務用鶏肉を取り出し、もやしと炒めることにする。というか迷う余地もなく僕達の夕飯はたいていこれだった。バリエーションをつけるほど食費をかけられないからだ。我が家で許されている贅沢は、僕の学費だけだった。
鳥もやし炒めもはや無意識のうちに作りつつ、僕は考える。
「……四万円か……」
一日の短期バイトとしては、あり得ないほどの入りであった。
そういえばそろそろ親父の安全靴を新調した方が良い。僕が買わないと親父は底がすり減っても履き続けようとする。それで怪我をしたら元も子もない。あとは携帯電話が壊れた時のための積み立てを少し……。そんなことに金を使いたくないが、今どきは携帯電話がなければバイトの連絡すら受けられないのだ。
「いや、明日も行けばもう四、五万円は稼げるわけだし……」
どれほど不愉快で薄気味悪いバイトだろうと、貧乏の苦痛には代えられない。頂けるものを頂けるなら、明日だろうと明後日だろうと(今週は月曜も含めて三連休だ)行ってやる。それでたまには親父にも、上手いもんを食わせてやりたい。そう言えば、そろそろこの包丁も切れ味が悪くなってきた。やけに切れ味が悪い。明日のバイト代が入ったら新調するか、研ぎ直さなくては。
そんなことを考えながら、僕は解凍した肉をぶつ切りにしようとする。それにしても切れない。やけに切れ味の悪い包丁を何度も鶏肉へ振り下ろしながら、僕はやっと気づいた。
僕が握っていたは、あのハンマーだった。
「ぇぅえっ!?」
僕は悲鳴をあげて、手にしていたハンマーを投げ出す。
ゴトンとそれが落ちた先では、まな板の上の鶏肉が無惨に叩き潰されていた。
「なんでっ……なんでなんでなんでなんで……」
なんでなくなったはずのハンマーが、うちの台所にあるのか。
僕は鶏肉を切るつもりで、ずっとハンマーで叩いていたというのか。
まるであの人形達にしたみたいに。
その時であった。
“………ィ……”
背後から雑音が聞こえた。
いや、これは雑音というより……。
“………イ………ィ……”
“……ぃィいぃィぃィイィイ”
“……痛イ……”
声だった。
暗闇から、不気味な声が、聞こえた。
「ひぃっ」
開け放したままの襖の向こう側だった。
親父が寝ている部屋の暗がりから、それは確かに聞こえた。
どこか不自然な、しかしそれは確実に『声』であった。
“……ぃタぃ……”
“……痛ィ”
“イたぃ” “痛イ”
“ィたぃ” “ぃタイ” “ぃ痛ぃイ”
“ィタぃ” “ぃ痛いぃ”“ぃイタぃ” “ぃタぃ” “痛いィぃーー”
それは蟲のざわめきのような怨嗟だった。
折り重なる小さな声、しかしただ一つとして同じものはない。
大人も、子供も、男も、女も、それ以外の声すら混じっている。
親父が寝ているため、電灯は消したままであった六畳間。台所の古びた明かりは、かろうじて入り口付近に四角い薄明かりを落としているのみである。
つまり部屋の八割は、闇であった。
その声の主……主達は……その闇の中に潜んでいるようだった。
“イたぃ” “痛イ” “ィたぃ”
“……痛ィ” “イたぃ” “痛イ” “ィたぃ” “ぃタイ” “ぃ痛ぃイ”
“ィタぃ” “ぃイタぃ” “ぃタイ” “ぃ痛ぃイぃイタぃ” “ぃタぃ”
「親父っっ!!」
僕は必死になって暗い部屋に飛び込むと、電灯のスイッチのあたりをめちゃくちゃに叩いて電気をつけた。何度か手をひどくぶつけた後で、僕はやっと蛍光灯を点けることに成功する。
そしその白い光の中で、僕が見たものは。
「イたぃ、痛イ、ィたぃ、ぃタイ、ぃ痛ぃイ、ィタぃ……」
大きく目を開けたまま、様々な声色で寝言を言う父親の姿だった。
今度こそ僕は、心臓が止まりそうになった。
「親父っ! 起きろっ! 起きろ起きろっ!!」
僕がバンバンと肩を叩くと、ようやく父親の目に光が戻ってくる。
ゆっくりと僕の顔に視線が合い、口を開く。
「おぉ……どうしたんだシンジ君。もう朝かい?」
「…………いや……いや、別に……」
父親のあまりに普通な様子に、少しだけ胸を撫で下ろす。
僕は迷った末に、こう話した。
「ちょっと変な寝言だったから、起こしたんだよ」
「ん、そうか。そりゃあ、心配かけたな」
「体調、悪くないか?」
「いや、別に風邪とかひいてないけどねぇ……」
どうやら本当に何でもない様子だった。
あまりに暢気な様子の父親に、僕は拍子抜けしたぐらいであった。
「それなら、別にいいんだけど。もうすぐ夕飯出来るから」
「おう、そりゃあ悪いなぁ」
「出来たら声かけるから、もうしばらく休んでたら良いよ」
そう言い残して、僕は明かりをつけたまま台所に戻ろうとする。
するとそんな僕に向けて、親父は言った。
「ねえ、シンジくん」
「ん、なんだ?」
すると、親父は僕にこう尋ねたのだった。
「そこに飾っていた人形は、どこに行ってしまったんだい?」
親父は虚な瞳で、何もない部屋の隅を指さしていた。
● ●
その晩は一睡も出来なかった。
眠れば何か恐ろしい事が起きるのではないかと、そんな気がして仕方なかった。
僕は足を抱えて震えながら、一晩中親父の様子を見張っていた。
幸いにして、その後は父親の身に奇妙なことはおきなかった。日が登り、部屋の中に朝日が差し込んだ時は安堵で涙が出そうになった。
「行ってらっしゃい……」
当然のように休日も働きに出る父親を見送り、僕はやっと疲労感に身を許した。そして泥水に浸るような全身の重さの中で、僕は悩んでいた。
今日、行くべきかどうか。
無論、行かない方が良いに決まっている。
どんな良い儲けだろうと、あの恐怖には代えられない。
しかし……。
「…………」
僕は息を呑みながら、下駄箱を開ける。
そこにはガムテープでぐるぐる巻きにした例のトンカチが隠してあった。
昨日の出来事が夢ではないという、まごう事なき証拠であった。
「……これ、どうすれば良いんだ」
不吉なオーラを放つそれを、この家に置いとくのも不安だった。
これをこのまま置きっぱなしにして大丈夫なのだろうか。これで今日火葬場に行くのをやめれば、それで大丈夫なのだろうか。それともこのハンマーが、昨日の異常現象を引き起こしたのだろうか。
「…………置いておくのは、論外だ」
とは言え、ただどこかに捨てるのも何か不安だ。
一番マシに思えるのは、これを今日火葬場のあの部屋に返してきてしまう事だ。こっそり置いて、それでトンズラしてしまうのが一番良いように思える。
そうしてしばしの懊悩の末、僕はそのトンカチを新聞紙で厳重にくるんで家を出発した。
● ●
時間が早いせいか、幸いにしてあのオッサンは不在であった。
僕は事務室の前を通り過ぎると、そのまま通路の奥に向かう。あの部屋の前にハンマーだけ置いてきて、引き返してしまうつもりであった。
だが僕はその目的の場所で、信じられないものを見てしまった。
「……うそ……」
例の鉄扉が、開いていたのだった。
なぜか南京錠が外れて、半ばまで扉が開いていたのだった。
「なんで……そんな……」
あのオッサンが鍵を開けっ放しなどするはずがない。
卑怯なほどに人形達に怯えていたオッサンだったが、結果的にもう僕には彼の様子こそが正しかったとしか思えない。そんなオッサンが、こんな恐ろしい不用心をするわけではないからだ。
ではつまり、部屋の中に別の人がいるのだろうか。
そう思って僕は、部屋の中を覗き込み、
「うぅっ……」
死ぬほど後悔した。
部屋の奥から漏れ出てきたのは、ほとんど物理的な圧迫感を感じるほどの悪臭であった。憎悪、殺意、苦しみ、怒り……そんな負の感情を凝り固めたような臭いが、部屋の奥の棚から放たれていたのだった。
僕は死ぬほど後悔する。
いったい僕はなぜ、こんなところに来てしまったのか。ハンマーぐらい、その辺のドブにでも捨ててしまえばよかった。それより早く、一刻も早くここから離れなければ……。
そう思って、きびすを返した時であった。
「おう、坊主。よく来たっさ」
気づけば後ろに、あのオッサンが立っていた。
「こんな朝早くから仕事始めるなんて、熱心さな」
本日も現れた僕を見て、明るい表情を浮かべていた。
一方で僕はその様子を見て動揺する。何を暢気に言っているんだ、このオッサンはは。この部屋の異常事態が分からないのか。この不吉の限りを臭いにしたような、腐臭のごとき悪臭が彼には分からないのだろうか。
僕は必死になって、オッサンに言おうとする。
「ち、違います。ぼ、僕は今日はただ……」
そう言いかけたところで、しかし別の声が聞こえたのだった。
「どうも、昨日は来られずご迷惑おかけしました」
それは鈴の音を思わせる、朗らかな少女の声であった。
「君谷ほたる、と申します」
「本日はよろしくお願いしますね、お兄さん」
いつの間にか僕らの側に、一人の女の子が立っていたのだった。
それは美しい銀髪をした、雪のように白い少女であった。
不気味の谷のほたるさん 人形焼奇譚編 白木レン @blackmokuren
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