十字路に俯く者

もくはずし

十字路に俯く者

 ふと、立ち止まる。

 そうだ、いつもここで意識がふいに起き上がる。

 何もない帰り道だ。とぼとぼと無意識に歩いて会社から帰宅する私は、それまで何も見ず、なにも考えずにただ帰路を辿るだけだった。だが、この十字路に着いた途端、まるで自我が急に蘇ったかのように頭を持ち上げる。


 なんでもない、住宅街の一角。建売の、まるで無個性な4軒が囲う、どこにでもあるような交差点。通学路になっており、スクールゾーンと停車禁止の標識がもの寂しげに突っ立っている。突然、目が覚めてベッドから体を起こした直後のように体が重くなり、立ち竦んでしまう。

 立ち止まってしまったことによって、空を彩る夕焼けの眩しさに気が付く。こんなに明るいうちに帰れるなんていつぶりだろう、と感慨に耽る。この道を通るときは決まって暗い時間帯だ。朝日が昇る前、もしくは夕日が落ちた後。街灯の明かりのみを頼りに歩く時には気付かなかった発見がある。


 例えば右手に見える家だ。二階の一室、ピンク色のカーテンがかかっている。遠目でよく見えないが柄付きだ。家の前には自転車が並んでいることから、小学校には上がっているであろう女の子がいることが推察できる。庶民派の住宅街だが、辺りでは珍しく庭を全て駐車場で埋めており、3台停められる造りになっている。今は1台しかとまっていないが、なんとなくグレードの高そうな車に見える。上司が乗っていたものの色違いだ。確か新車で700万したとか言っていたような。この家もかなり裕福な家庭なのだろう。

 

 こんなふうに、家の外見だけで家庭の情報がかなり読み取れる。時間に余裕があるとこんな風にぼーっとあたりを見ているだけで楽しめる。そして道端にもまた、別の面白さがある。


 例えば停車禁止の標識が少し折れ曲がっていること。根元の方から傾いていることから、おそらくハンドル操作を誤った車が突っ込んだ跡だろう。足元を見ると花束がポツンと置いてある為、只の物損事故では無さそうだ。視界が悪く、夜歩いているとスピード乗ったままここを通り過ぎる車をよく見る。いつかは起こり得る事故だったのだ。


 あれこれと思索に耽っていると、男子学生が歩いてきたことに気付く。彼はこちらを一瞬見たが、ふいと別の方向を見てしまった。

 人と目が合ったことに、私は非常に大きい喜びを感じていた。長い間誰からも相手にされなかった私が、初めて人として扱われたようだった。彼の眼差しが一筋の太陽光となり、辺りが照らされた。彼に続く道が輝きだし、初めてここから歩き出そうという気分になったのだ。私が始めの一歩を踏み出したとき、彼は突然走り出した。

 


※※※



 近所で交通事故が起こったらしい。人ひとりの一生を消し去った衝撃音は、勉強中だと偽り部屋で本を読んでいた僕でも気が付いたほどだ。窓からは見えない位置であったし、特に興味もなかったのでそのまま本を読んでいたら、そのうち救急車だかパトカーだかのサイレン音が辺りに響いてきて、一層勉強に戻れるような状態ではなくなっていた。

 野次馬の1人として現場を見に行ったのだけれど、正直行かなければよかったと後悔している。僕が辿り着いたころには既に規制線と人込みで、何も見えなかった。その日はただただ寒空の下に身を晒しただけで、とぼとぼと帰宅してそのまま寝た。

  

 次の日、登校ルートにあるその交差点を通ると昨晩の事故の跡があった。遠目にも謎の染みがあちこちに飛散しており、これは直視できなくてよかったと安堵した。その場で立ち竦んで俯いている男性がいる。被害者の関係者だろうか、物悲し気なその背中に近寄っては悪いと言う気持ちが好奇心に勝り、その場は道草を食わずにそそくさと学校に向かった。


 陽も暮れかけている黄昏時。もう日差しは家々に遮られ、空だけがやけに鮮やかな赤色を発している。すこしワクワクして件の交差点に辿り着くと、今朝佇んでいたサラリーマンがそこにいた。髪型と背格好、纏う雰囲気が同じなのですぐに気が付いた。俯いているのは同じだったが、体の向きがなぜか道路側、つまりこちら側を向いていた。

 異様な雰囲気に思わず目をそらしてしまったが、なにをしているんだろうという好奇心によって、僕は彼のことを少し覗き込んでしまった。すると彼はぐるんと顔を上げ、僕を見たかと思うとこちらに向かって歩いてきた。土気色の顔から覗く眼球は片方しかなく、服のデザインかと見紛った赤い模様はのは大量の血液。一瞬硬直したが、脳内に鳴り響く警報が動かない体を無理やり走らせた。無我夢中であたりを走り抜け、2回ほど道を曲がったところで振り向くと、どうやら振り切れているようで人影は無かった。

 

 家を特定されないよう、無関係な方向に逃げてきた無意味に利口な判断の為に、日の暮れて真っ暗なこの道をまた引き返さなければならなかった。普段よりも一層重苦しい夜道、歩くたびに曲がり角からまた彼が襲ってくるんじゃないかと思うと気が気じゃない。1時間は歩いたかと思うような道のりを経て帰宅すると、時計は学校を出てから20分と経っていなかった。


 「おかえり拓真。あら、そちらの方は?」


 リビングに入るとキッチンで料理をしている母がこちらを向いてキョトンとしている。背筋にゾワっと悪寒が走ったが、目の前に母がいるお陰か、強気に振り向く。そこには誰も居なかった。


 「嫌だな母さん。だれもいないよ」


 「あれ、おかしいわね。男の人が立っていた気がしたのだけど」


 悪い冗談はやめてよ、と発する声が震えた。駆け足で勉強道具を二階の自室からもってくると、その日は両親の寝室が隣にあるリビングで夜を過ごした。


 その日から、か弱い心臓を締め付けるような日々が始まった。1人でいると、気が付けば人の気配が背後から感じるし、歩き回る足音や何か独り言を喋っているような音が耳元をくすぐる。

 常に誰かと一緒にいないと心細くて気が狂いそうだ。家では常に誰かのいるリビングで行動していたし、学校でもなるべく1人にならないよう誰かと連れ添っていた。

 母親は、「何か雰囲気が変わったわね」としきりに僕の身の回りを気にしてくるが、まさか霊に憑りつかれたなんていう馬鹿げたことを言えるはずも無く、適当に胡麻化していた。クラスメイトにはそれとなく“見える人”がいないかという話題を持ち掛けていたが、生憎僕のツテにはその系統の人間はいないようだった。


 憑りつかれてから3日ほど経った晩だった。珍しく自宅には僕以外いない最悪の状況。はやくても母親が帰ってくる10時ごろまで家には僕1人だ。無理を言って7時まで友人宅にいさせてもらったが、流石に夜は帰ってくるしかない。

 仕方が無いとはいえ自室で勉強する気にもならなかった僕は、いつものようにリビングで勉強していた。ヒタヒタと辺りから足音が聞こえ始め、数学の問題を解く手はすぐに動きを止めた。座っている僕の背後を右に左に。ブツブツと呟く音は、足音が丁度僕の背後を通過するとき、耳元の近くを通る時だけ聞こえる。何を言っているのか全く聞き取ることが出来ない。両手で耳を塞いでみるが、いつも通り効果は無い。

 硬直している僕の体が、いつしかググっと誰かにのしかかられた時のように重くなる。耳元で呟く声がどんどん大きくなっていく。倒れたら何が起こるかわからないと重みに耐えていると、今度は右腕を誰かにガシっと掴まれる感触があった。これは引っ張られたらヤバい奴だ、と必死にもがき振りほどこうとするが、掴まれている右腕はびくともせず、少しずつ前へ、前へと引っ張られてゆく。聞こえる声は怒気をはらんでいるような強い口調になっていき、相変わらず何を言っているかはわからないがまるで耳もとで叫ばれているかのような錯覚を覚える。


 「もうやめてくれ! 邪魔だ! 消えてくれ!」


 思わず出た叫び声。パタリと持ち上がっていた腕は机に落ち、押さえつけられていたと思っていた体に自由が戻っていた。呟く音は聞こえなくなったが足音はヒタ、ヒタと鈍いペースで離れていくのが聞こえた。



※※※



 この子はとてもいい子だ。非常に勉強熱心で、年頃の男にしては親の言う事にも素直だ。自分の部屋を持っているのに勉強はリビングで行うことがほとんどで、もしかしたらかなりのさびしがり屋なのかもしれない。

 歩くのは比較的遅く、学校に行く際はかなりの頻度で後ろを振り返る。友達を待っているようには見えないが、なにかトラウマでもあるのだろうか。内容についてはよくわからないが、飛び交っている単語を掴むに学校ではよくオカルト系の話をしているようだ。


 そして偶に私を見てくれる人が、この子以外にもいたりする。この子の母親は訝し気にこちらを睨め回してくるが、やはり初めてこの子と目の合った時ほどの衝撃は無かった。どこへ行ってよいやら、途方に暮れていた私のオアシスであるこの子の許は決して離れないようにしようと心に決めていた。


 今日は珍しくこの子が1人で勉強している。しかしよくない。母親がいないのをいいことに、問題を解く手が止まっているようだった。そんなことでは私のように、うだつの上がらない大人になってしまう。日の出前から夜更けまで働いて、月の手取りが16万円。常に上司からは怒鳴られ、後輩からは顎で使われる。私がもっと高いランクの大学に入れてさえいれば、と考えてしまう。この子にはそんなみじめな目にあってほしくなかった。


 勉強をしろ、手を止めるな、参考書を見ろ。言っても言っても聞いてはくれない。こうなったら多少の実力行使も厭わない。彼に覆いかぶさり、右腕を掴む。必死に抵抗しているが、力は私のほうが上らしい。か弱く振り回そうとする右腕をがっちりと抑え込み、ノートのほうに引き寄せる。ペンを持て、手を動かせ。


 「縲後b縺√※縺もうや?驍ェ鬲斐□?√??豸医∴消え縺上」


 私の体は深い悲しみに飲まれた。理解できる断片を拾い集めても正確な意味を為すことが出来なかったが、彼の強い感情が私を飲み込んで行った。

 それは紛れもなく、私に対する言葉だった。内容全ては分からないが、兎に角強い感情。私を拒絶する強い感情が流れ込んでくる。それを捉えると、途端に悲しい気持ちになった。 初めて認めてもらえた彼に、私は取り返しのつかないことをしてしまったようだ。もう彼は私を許してはくれないだろう。いくら私が彼に好意を抱いていても、彼はそうではないのだ。

 もうやめにしよう。彼には私は必要が無いようだ。むしろいないほうが良い。恩人ともいえる彼に、これ以上迷惑はかけられない。これまでも、私がいることで友人や両親から心配されていたような気配があった。もうやめにしよう。

 私は彼の許を離れると、歩いて行った。どこへかはわからない。そうだ、会社だ。いや、まず家か。そうだ、自宅へ帰る途中だった。帰らなくては。



※※※



 あれから不思議なことは何も起こらなくなった。足音も声も聞こえなくなったのだが、当分はやはり怖いので人がいる場所にいる習慣をやめることはできなかった。しかし、事故があった交差点。避けて通っていたあの場所にうっかり足を運んでしまった今、はっきりと僕が開放されたことを知った。

 彼はまた、ここに佇んでいる。次の日も、その次の日も。僕にしか見えていないようだが、今でも彼はそこにいる。



※※※



 ふと、立ち止まる。

 そうだ、いつもここで意識が不意に起き上がる。

 何もない帰り道だ。とぼとぼと無意識に歩いて会社から帰宅する私は、それまで何も見ず、なにも考えずにただ帰路を辿るだけだったのだが、この十字路に着いた途端まるで自我が急に蘇ったかのように頭を持ち上げる。

 向こうから人が歩いてくる。目を合わせちゃいけない気がして、また顔を伏せる。これでいい、とよくわからない行動を思考が肯定する。

 そう、私は帰るのだ。そのためにここにいる。

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十字路に俯く者 もくはずし @mokuhazushi

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