妄想日和

歩道橋で下を見下ろしている男性に見覚えがあった。眼鏡はたぶん彼なりの変装のつもりだろうけど、彼の放つオーラは隠しきれていない。彼は私の応援している水泳選手の西崎透≪にしさきとおる≫に違いなかった。


こんなところで見かけるなんて。ここら辺に住んでいるのだろうか? それとも実家がこの近くとか?


そんなことはどうでもいい。私は西崎選手のファンなのだ。こんなチャンスに遭遇して声をかけずにいられるわけがない。ただ、彼の顔がやや沈んでいるのが気になった。


私は勇気を振り絞って、


「あのう。西崎透選手ですよね?」


と歩道橋を登ると彼の背中に声をかけた。

彼はゆっくりと振り返って、私を見た。正確には見下ろした。

うわあ、背が高いなあ。


「はい。西崎です」

「私、西崎選手のファンなんです!お会いできて嬉しいです!」

私の言葉に西崎選手は照れたように笑って、

「ありがとう。俺もとても嬉しいです」

と言った。でも、笑ったのは一瞬で、また硬い表情になってしまう。


「何か悩み事でもあるんですか?」


私はおずおずと尋ねた。西崎選手は少し驚いたように目を大きくして、私をまじまじと見た。きっと話していい相手か見定めてるのだろう。私は無害なアピールのために笑ってみせた。


「その……。思うようにタイムが伸びないんです。こんなことは初めてで、どうすればいいか悩んでいるんです」


私は、


「ちょっとお時間頂けますか?」


と言って笑った。


「え?」


戸惑う西崎選手の手を掴む。そして引っ張るようにして歩道橋を降りた。


「ちょ、ちょっと」

「私、ここの近くに住んでるのにあの観覧車乗ったことがないんです。一緒に乗りましょうよ!」


夕暮れにライトアップされて光る観覧車を指差す。観覧車まで歩いて行く途中、自販機で飲み物を買った。私は大好きなココア。西崎選手はミルクティーだった。


温かいボトルが手をじんわりと温める。西崎選手の心も温められたらいいのに。


勢いできてしまったけれど、観覧車の中に二人きりになると流石に緊張してきた。西崎選手も黙っている。


数分経つと観覧車が段々と高度を上げて、陽が落ちたばかりの海のようなグラデーションブルーの空の下、人工的な光が輝きを増していく。


「……綺麗ですね」


ため息のように声が漏れて、西崎さんも頷くのが見えた。

光の一つ一つに何人もの人がいるはずなのに、それはとてもちっぽけに見えて。


「私たちも普段はあの中の一つで暮らしているんですよね」

「そうですね」


私の言葉に西崎さんが感慨深そうに返した。


「西崎さんは今までに挫折をしたことがありますか?」

「いえ、実は俺、ないんです」

「そうですか。私は、挫折ばかりの人生で。でもそれで雑草のようにたくましくなった気がします」


私の言葉に西崎さんは笑った。


「雑草、ですか?」

「はい。私、どうしても入りたかった会社があったんですけど、面接で落ちてしまって、就職浪人してるんです」

「そう、なんですか?」

「はい。でも、私、諦めません。そこに入りたいので、もう一度受けるつもりなんです」

「諦めない……」

「そうです。

私、西崎選手のブレストのフォーム大好きです。大きくかくのにスピードがあって、無駄がない。足も力強く蹴って伸びる。そして、泳ぎ終わった後の満足そうな笑みが大好きです」

「……ありがとうございます」

「だから、西崎選手の泳ぐの見られなくなるのは嫌です」

「……」

「まだ初めての挫折なんでしょう? 世の中、この光だけの人がいるんですよ? 皆んな挫折しても歯を食いしばって生きてるんだと思います。大丈夫です。これを乗り越えればもっと西崎選手は強くなれると思います。ってなんか偉そうですね」


西崎選手は私をじっと見つめて、


「いえ、とても心に響きます」


と言った。



「同い年の西崎選手が頑張ってるのを見ると私も頑張ろうって思えます。まだまだこれからですよね。私たち」

「そうですね」


西崎選手がしっかりうなずくのを見て、私は安堵の笑みを浮かべた。

ふと西崎選手が思いついたように、


「なんか、この光景を見てると、『銀河』って曲が頭に流れてきます」


と言った。


「あ、それもしかして、三人ユニットのキシメンの曲じゃないですか?」

「え? そうです!」

「私、西崎選手にファンレターと一緒にCD送ったんですよね~、キシメンのアルバム」

「トレーニングの時にでも聞いてくださいって、あれ、あなたからだったんですか?!」

「はい、そうです! 本当に聞いてくださってるなんて、嬉しいな!」

「普段聞かないタイプの曲ですが、かっこいいなと思って最近よく聞いてるんですよ」

「良かった!」


「すみません、名前を聞いてもいいですか?」

「私のですか?」

「はい。手紙は残してあるんですが、名前は覚えてなくて」

「吉村です。吉村明日香」

「吉村、明日香さん」


西崎選手は噛みしめるように私の名前を繰り返した。


「明日香さん。また会ってもらえますか?」

「え? はい!もちろん私は嬉しいですけど……」

「明日香さんとこうしてまた観覧車に乗りたいです」

「はい!」


私は嬉しくて満面の笑みをみせた。


「俺、まだやれます。頑張ります!」

「私も頑張ります!」


私と西崎選手は握手を交わして別れた。スマホには西崎選手のメルアドが入っていた。



****



「明日香、何一人でにやにやしてるの? お母さん仕事に行くからあなた片付けしてから行きなさいよ?」


バタバタとスーツ姿の母がバッグを手に玄関の方に歩いて行く。


「えー、私もこれからパソコン教室なのに」

「お父さんも仕事だし、春香も学校行ったし、あなたは就職浪人してるんだからそれぐらいしなさい」

「そういうことだ。悪いな。行ってくるな」


父と母が出ていくのを見送り、私は残った朝食を食べながら、先ほどの妄想を思い返す。



憧れの西崎選手。同い年で、私が就職浪人してるのに、日本記録を更新してる凄い人。

でも、彼だってきっと悩むことあると思うんだよなあ。


私は後片付けをさっさと済ますと、自転車に乗ってパソコン教室へ向かう。途中でポストを見つけて自転車を停めた。


「CD聞いてくれるといいなあ」


西崎選手へのCD入りのファンレターをポストに投函して、拝むように一度手を合わせた。

そして、私は再び自転車にまたがった。


                    了


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誰かの日々のかけら(非恋愛短編集) 天音 花香 @hanaka-amane

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