ミトラのはっぴーはろいん!

深見萩緒

ミトラのはっぴーはろいん!


 こんばんは。あのー、こんばんは。


 そんな声が聞こえた気がして、俺はテレビの音量を小さくした。土曜日の夜。晩酌をしながら録画しておいたテレビ番組を消化するのが、週末のささやかな楽しみだ。

 こんばんはー。あのー、きこえてますかー。きこえてますよねー。

 確かに声がする。テレビの音じゃないし、外から聞こえてくる声でもない。狭いワンルームマンションではあるが、隣の声がこうもはっきり聞こえるほどちゃちな造りではない。俺は録画を一時停止して、玄関に向かった。

 こんな夜中に、誰か来たんだろうか?

 ドアスコープを覗いてみる。寒々とした外廊下が、ぐんにゃりと歪んで見える。切れかけの蛍光灯の光の中に、しかし来訪者の姿はない。


『あのー、こんばんは』

 さっきよりずっとはっきりと声が聞こえ、俺は思わず部屋の中を見回した。声は明らかに、この部屋のどこかから聞こえた。

 しかし……誰もいない。ベランダも確認したが、やはり無人だ。

 なんだか背筋がぞくぞくしてきた。気のせいだ、変な酔い方をしているに違いない、と納得しようとするが、声はなおも聞こえ続け、気のせいの彼方には振り払えない。

『もうー、わざとむししてますか?』

 ここですよ、ここですってば。

 苛立ちの混じり始めた声は、どうやらベッドの辺りから聞こえてくる。起きっぱなしで乱れたシーツの上を舐めるように見て、俺は「あっ」と声を上げた。枕に近い辺りのシーツが、まるでなにか重量を持ったものが乗っているように、しわが寄ってくぼんでいる。

『きづきましたね! いま、めがあいましたからね!』

 なぜか得意げな声の「なにか」は、ベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねているらしい。正体は見えないが、シーツのしわがそういう動きをしている。

「え……マジで何かいる?」

『いますよ! あっ、さわらないでください! えっち!』

 ちょうど「いる」らしい辺りで、手を動かしてみる。一瞬だけ何かにれたような気がした。妙に柔らかくてぐにっとしている、生き物めいた感触だった。


 ……何かいる。これは確定らしい。見えないけどさわれる、日本語を喋る何かがここにいる。

「夢……だよな? ビールそんなに飲んだっけな」

『ゆめじゃなーい! えいっ』

「いてっ」

 右足のすねに、何かがぶつかった。うずくまるほどではないが、それなりに痛い。

『いまのはね、ずつきです』

「……」

 なんかちょっとムカついた。

 こちとら一週間の労働を終え、ようやくやってきた休日の夜を満喫していた真っ最中なのだ。それを、なんだかよく分からない生き物(生き物なのか?)に邪魔されて、果てはすねに攻撃されるという始末。

「おら」

『ぎゃん!』

 右足を動かしてみたら、上手いことなにかを蹴っ飛ばすことに成功した。そして蹴っ飛ばした先に狙いを定め、干してあったシャツを投げてみる。

 見えないなにかはシャツを被せられ、白い小山となって姿を現す。丸っこいシルエットは、シャツの白さも相まって、子供向けの絵本に出てくる「おばけ」のようだ。


 蹴っ飛ばされたことに憤慨しながら、見えないなにかは上下に跳ねる。そのたびに、白いシャツがぱさぱさとはためく。

『ひどい! ミトラをけりましたね!』

「みとら? お前の名前?」

『なまえじゃないです。われわれのことです。おまえはにんげんだけど、にんげんというなまえじゃないように』

「あー……妖怪みたいな感じ?」

『ちがいますけど、それでいいです』

 適当なやつ。

 相変わらず事態は飲み込めないが、段々と落ち着いてはきた。幽霊とか怪奇現象とかいうものより、ずっと俗っぽく厚かましい「ミトラ」の態度が、俺の警戒心を緩めるのかもしれない。

 しかし、妙なこともあるもんだ。これは一体現実なんだろうか。でもさっき、確かに痛みを感じたし……。


 考え込む俺をよそめに、ミトラは一時停止していた録画番組を勝手に再生し、アイドルの歌に合わせてふらふらと頭(?)を左右に振っている。

『あー、ものにさわれるっていいですね。てれびもすきにみられます。ミトラはおんがくがすき。たのしいので』

「いや……楽しんでるところ悪いんだけど、お前どこから来たんだよ。何しに来た? つーか、どうやって入ってきた?」

『どうやってもなにも……』

 白いシャツがリズムに乗って、陽気にすそをなびかせる。歌に合いの手を入れているらしい。……ちゃんと合ってるし。

『ミトラはずっとここにいます。だからこのうたもしっています。おまえがよくきいている。おまえはこの……えーと、アイドル。みぃたんがだいすき』

「な……っ!?」

 衝撃の真実に、俺の思考は停止する。

 ずっとここにいる? ということは、こいつは俺が隠れアイドルオタクであることも、みぃたんが出ている番組はたとえ数分の枠だろうと欠かさず録画してチェックしていることも、部屋を暗くしてライブDVDを再生しながらペンライトを振り回しライブ気分を味わっていることも、全て知ってるというのか?

『みーぃたん、みーぃたん、はいはいはいはい!』

「やめろぉ! 合いの手を完璧に再現するな!」

 なんだこれ。悪夢か。


 俺は両手でシャツを押さえつける。ミトラはシャツの下でしばらくもごもご抵抗していたが、やがておとなしくなった。

『なんですか、せっかくいいきもちでおどっていたのに』

「うるさい! っていうかお前、ほんと何なんだよ! ずっと俺の部屋にいたってんなら、何しに出てきたんだよ!」

『なにしにっていうか、おしゃべりしたかったので。だってきょうははろいんですからね』

「はろいん…………ハロウィン?」

 ベッド脇の置き時計を見る。日時は……十月三十一日、午後十時。そうか、今日はハロウィンか。

『はろいんは、にんげんでないものがそんざいをゆるされるひ。ミトラはにんちのいきものなので、はろいんのよるはすこしだけ、そんざいかんがますのです』

「認知の生き物?」

『そう。ミトラがふつうにいきられるせかいもあるけれど、それはとおいとおいせかい。このせかいでは、ミトラはみえないしきこえないし、さわれないいきもの。にんちされないいきもの』

 よく分からない。新しいビールの缶を開けながらそう言うと、『まあ、にんげんにはむずかしいでしょうね』と馬鹿にされた。腹がたったので、『ビールのあわ、なめたいです』という頼みを一蹴する。シャツの下からブーイングが聞こえたが、知ったことじゃない。


「それで……とにかくお前は、いつもこの部屋にいるけど、ハロウィンの日じゃないと出てこられないってこと?」

『どうでしょうねー。おまえがもっとミトラをにんちすれば、ふだんからおしゃべりできるかもですが』

「いや、普段は出てこなくていいや。うるさいし」

『なんとしつれいな!』

 憤慨するミトラ。しかしシャツの下からスルメを差し込んでやれば、少しふんふんと匂いを嗅いだのちに食べ始め、すっかりおとなしくなる。かなり御しやすい性格らしい。

『ミトラはずっとおしゃべりしたかったですよ。おまえとはなせたらたのしいだろうなーと、ずっとおもっていましたよ』

「ふーん……お前、友達とかいるの?」

『もちろんいますとも。おまえとはちがいます』

「俺だって友達くらいいるっつーの! つーか、友達ってのもやっぱり、ミトラ?」

『そうですよ。ミトラはどこにでもいますからね。みえないだけで、どこにだっています。ねえねえ、うたのえいぞうにしてください』

「あー、ライブDVD、観る?」

 段々、ミトラという存在にも慣れてきた。シャツの下にいる見えない存在。こいつがずっと同居していたのだと思うと、なんだか気持ち悪いようなくすぐったいような、妙な気分になる。それでも決定的に許しがたい気持ちにならないのは、こいつが人間じゃない、不可視の生き物だからだろうか。


 俺は部屋の電気を消し、ライブDVDを観るときのいつものスタイルにする。ペンライトの色はピンク。みぃたんの歌が始まる。

 ひとりライブごっこをやりたいがために、防音のしっかりしたこの部屋を選んだのだ。誰にも遠慮することなく、みぃたんの歌に合いの手を入れる。時々「みぃたん、かわいー!」などと意味もなく叫んでみたりする。ミトラも叫ぶ。『みぃたん、さいこー!』

 あ、ちょっと楽しいかも。ひとりライブごっこもいいけど、やっぱり他人(人じゃないけど)がいると、本物のライブみたいで盛り上がって良い。ミトラもシャツがめくれてしまうくらい興奮して、飛んだり跳ねたり歌ったり踊ったりしている。

『たのしいですね! いままででいちばんたのしいですね! はなしかけたらへんじがかえってくる! いっしょにうたったりおどったりできる! なんてたのしいんでしょうね!』

 ミトラがどんな姿をしているのか、丸っこいシルエットのほかは何も分からない。けれどきっと今のミトラは、喜びと興奮に目をきらきら輝かせているんだろう。そう確信できるほどの歓喜に満ちた声で、ミトラは笑う。

『たのしいですね! おまえもたのしいですか?』

「まあな」

『それはよかった!』

 考えてみれば、俺は最初から一人のつもりでいたけど、こいつはそうではないのだ。俺という人間と一緒に暮らしながら、話しかけても無視されて、一緒に歌っても認知されない。そういう生活をずっと送ってきたのだ。

「あのさあ……お前もしかして、結構寂しかった?」

『ミトラがさびしかったかですって?』

 ミトラは踊りながら、声を弾ませながらこう言った。

『ミトラはいつだってさびしいいきものですよ。だからにんげんがすきなんです!』


 夜は更け、ライブDVDも終わりを迎える。ビールもなくなってきたし、ミトラがつまみ食いをするせいで、おつまみもいつもより減りが早い。そろそろお開きだ。

『あー、たのしかった。ミトラはとてもまんぞくしました』

「そりゃあ良かった」

『そろそろはろいんもおわりですね』

「ああ……」

 時計を見る。午後十一時五十分。日付をまたげば十一月。ハロウィンは終わり、人間でないものの領分は昨日へと過ぎ去っていく。

『さわれなくなっても、きこえなくなっても、ミトラはここにいますからね。なかないでいいですよ』

「別に泣きゃしねえけど」

『ひどうい』

 そうだ、別に泣くほどのことでもない。でも……

「少し、寂しいかな」

『おや、にんげんもさびしいですか』

「人間も寂しいよ」

『ふふふ、さびしいにんげん。ミトラみたいですね』

「そうかもな」


 ハロウィンもあと五分……というところで、俺は唐突に思い出した。ライブにかまけてすっかり頭から抜け落ちていたが、ハロウィンといえばアレをやっとくべきだ。

「トリックオアトリート!」

 と言ってミトラに手を差し出せば、ミトラは少し考えて、『とりっくおあ、とり?』とつたなく復唱する。

「知らねーの。お菓子くれなきゃいたずらするぞ。ハロウィンってのは、こうやってお菓子をねだったり、お菓子をあげたりすんだよ」

『えー、いいな。とりっくおあとり!』

「ほい、お菓子」

 柿の種をシャツの下に放り投げてやると、ぽりぽりぽり、と咀嚼する音がする。食べ終えた頃合いを見計らって、再びミトラに「トリックオアトリート!」と言ってやると、シャツの膨らみは困ったようにくねくね動く。

『だってミトラは、おかしをもっていないですから』

「じゃあ、いたずらされろ!」

『きゃー! なにをされますか!』

「そうだなあ……」

 小物入れをあさる。確かここに……あった。右手に握るは油性ペン。

「動くなよ……こうして、こうして……こんなもんかな。よし、いたずら完了!」

『くすぐったかったです。なにをされましたか? ……あっ』

 カーテンを開けると、夜に臨んだ窓は鏡のようになる。そこにはシャツをかぶったミトラの姿も映し出され……白いシャツには黒いマジックで、目と鼻と口が描いてある。ミトラが動くと、まるで白いおばけがゆらゆら笑っているようだ。

『あはは、あははは。おもしろいですね! これがいたずらですか?』

「そうだよ、面白いだろ」

『うふふ、おもしろいです。でもあんまりミトラにはにてないですね。ミトラのめはいつつありますから』

 は? ミトラってそんな、クリーチャーみたいな感じなの? 想像してたのとだいぶ違うんだけど。……まあいいや。

 ミトラはシャツの身体とマジックの顔を得てご満悦のようだ。みぃたんのヒット曲を鼻歌で歌いながら、ゆらゆらゆらりと踊っている。

『ああ、すてきないたずらでした。はろいんさいこー』

「そうだな、ハロウィン最高!」

 シャツに描いた油性の顔が、満足げに微笑んだように見えた。



 ……首が痛い。

 目を開ける。どうやらローテーブルに突っ伏して寝落ちしてしまったらしい。テーブルの上にはビールの空き缶と、おつまみの食べ残し。テレビはライブDVDのメニュー画面を映し出し、つけっぱなしのペンライトが床に転がっている。

「…………夢?」

 朝の光が眩しくて、目がしばしばする。立ち上がって背伸びをすると、身体のあちこちがばきばき鳴った。変な寝方をしたせいだろう。

 十月のわりに、さほど冷え込まなくて助かった。せっかくの週末に風邪でもひいたら最悪だ。……あ、もう十一月か。


 ひとりきりのワンルームマンション。防音がしっかりしているので、俺が立てる音以外はほとんど無音だ。窓を開ける。チュチュチュ、と鳥のさえずりが聞こえる。


 ……コトン。

 部屋のどこかで物音がした。風でなにかが倒れた音だろうか。部屋を見回す。散らかった部屋の隅っこに、くしゃくしゃになったシャツが丸められている。

 それを手にとって広げてみる。黒いマジックで描かれた顔が、にっこりと俺に笑いかけた。


 うふふ。

 どこかで、ミトラが笑ったような気がした。



<おしまい>

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