『Ecstatic』

東北本線

家路

 ふと気がついた僕は、ひどい焦燥にかられていた。


 家に帰らなければならない。

 それもできるだけ早く。

 そう。いまは小学校からの帰り道の途中だ。けれど、走ることはできない。手足がうまく動いてくれない。


 身体が強張るくらいの焦りのほかに感じているのは、背後からピストルでも向けられているかのような、苦しいくらいのおぞましい感覚。背中のあたりでムカデや昆虫たちが盛んにうごめいているかのよう。


 振り返ってはいけない。


 それを僕は分かっている。ごぅごぅとした音が、頭の中で響いている。脳みそにもやがかかっているみたいに、その音が僕の思考の邪魔をする。

 背後で誰かが僕の名前を叫んでいる気がするけれど、きっとその靄が聞かせる幻聴に違いない。空耳、というやつだ。


 また僕は気がつく。気がつかされる。


 声が出ない。出そうと思っても、しわがれた喉からは恐怖に震えた呼吸の音がひゅうひゅうとするだけ。


 視界はぼんやりとしていて、外であることは分かるんだけど、住宅街のどこかということぐらいしかわからない。すっかり迷子になってしまっているという自覚はある。でも、とにかく背後から不気味に近寄って来る嫌な感覚から、逃げ続けるのが最優先だ。


 進む歩みが、まるで足に鉛でも入っているかのように遅い。自分の動きをコントロールしづらい。自分の足はそこにあるのに、まるで僕の足じゃない丸太がそこにあるかのようだ。手でも添えた方が上手く動かせるかもしれない。


 自然と僕は両足になにか言い聞かせるかのように俯いてしまう。


 夕暮れに染まるアスファルトが、そんなことなんてお構いなしに無機質な視線で僕を見返している。なんとか一歩ずつそれを踏みしめて、僕は帰路を急ぐ。まわりの家々はぐちゃぐちゃに見えて、僕の知らない造りのものばかり。まるで異世界にでも迷い込んでしまったかのようだ。


 すれ違う人みんなが、僕のことをじっと見る。視界はぼやけたままで、行き交う人々の顔もぼんやりと歪んで見えている。それなのにどうしてか、彼らが僕のことを見ているのがわかる。


 なんだかその姿がとても怖くて、その人たちに助けを求めることすら僕はできないでいた。


 とにかく、早く家に戻らなければならない。たとえここが知らない場所で、自分がどこを彷徨っているのかさえわからない状態だとしても。


 歩みを止めてはいけない。

 背後から近寄る『なにか』に、追いつかれてはいけない。

 けして捕まってはいけない。


 どこかで、夢であってくれればいいのに、と懇願するかのような僕の声が響く。

 あの時もそうだった。いつだったか、家で急に頭痛がして、そのまま病院に運ばれたことがあって。家族が救急車を呼んで心配そうに僕のことを見ていたけれど、僕は頭が痛くてそれどころじゃなかった。痛い痛い、と叫ぶばかりで、家族に言葉なんて返すことができなかった。そういえばあれは、もう何年前のことだっただろう。思い出せない。


「ちょっと。……大丈夫?」


 『なにか』に追いつかれてしまったのかと思って、僕は飛び上がるほどに驚いてしまう。いや、実際に飛び上がっていたかもしれない。胸の鼓動が苦しいくらいに早まって、僕は身体のバランスを崩してしまった。


「おっと、危ない!」


 声からすると大人の男の人だろう。バランスを崩した僕の身体を支えてくれた。

 「すみません」とか「ありがとうございます」とか、何か言いたいのに言葉がでない。もどかしさに声にならない空気が口から漏れ出した。気持ちが表情に出てしまって、顔がしわくちゃになっているのがわかる。


 視線を上げて、ぼやけている男の人に目の焦点を合わせようと試みる。

 そんなことはしなきゃよかったと、僕はすぐに後悔した。


 目の前の彼はスーツを着ているようだった。それは歪んだ視界でも判別できた。


 しかし、その左足。いや、足だけじゃない。左手も、顔の左側の部分も、そのすべてが失われていた。

 まるっきり無いのだ、彼の左半分が。それでいて大怪我をして血が流れているわけじゃない。まるで以前からそういう生き物であるかのように、僕の目の前に立っている。

 到底、人間の姿とは思えないその顔が、心配そうな表情を浮かべて僕を支えていた。


 これは『なにか』じゃない。それはわかる。でも、こんなおぞましい化け物の隣で涼しい顔をしていられるやつなんていない。

 逃げないと。すぐに逃げないといけない。

 頭ではわかっているのに、身体がいうことを聞いてくれない。踏み出したい足がなかなか前に出ない。冷たい汗が頬をなぞる。


「うわっ!」


 ようやく足が動き出した。動き出してくれればその歩みを全速力で進めるだけだ。

 僕はスーツ姿の妖怪が支えている手を振り払って、歩道を急ぐ。背後から呻くような、怒っているような声が聞こえたが、僕はそれを無視して前へ、前へと進んだ。


 声が後ろから聞こえなくなっても安心なんてできない。流れる住宅街の風景の色がさらに暗くなっていく。

 夜が近づいてくるように、『なにか』も確実に、僕に近づいてきている。

 それが、僕にはわかる。

 足を前に。右足、左足、右足、左足、と。


 バカな。そんなバカなことあっていいはずがない。


 また、僕は気がついてしまう。その事実に、僕は息を呑んだ。


 伝染うつっている。


 消えてしまっている。いつからだ?いつからなかったんだ?


 僕の右足は。


 歩みが止まる。流れていた景色が停止する。止まらざるを得ない。だって、僕の右足がどこかにいってしまったんだから。


 どこに。なぜ。どうやって。どうして。


 僕はぎゅっと目をつむった。

 思考が支離滅裂になり始める。一度そうなってしまうと、なかなか元には戻れない。心臓は危険を認識してドクドクと鳴りやまないし、靄がかった頭の中は打開策をひとつも提示できない。混乱は頭のてっぺんあたりにある極地に向かって突き進み、身体が震えるくらいに全身の毛穴が逆立っていた。

 叫びたいのに、声を口から出すこともできず、僕は目頭に熱が帯びるのを感じていた。


 涙が目に浮かんで、僕は右手でそれを拭おうとする。


 ない。


 感覚がない。


 目を開く。


 ない。


 右手が、ない。


 いやだ。こんなの嘘だ。右足だけじゃなく右手も消えてしまった。

 僕の身体が、どんどん消えていく。さっき見た一本足の気味の悪いスーツの妖怪に、僕もなってしまった。自分で自分を見ることはできないけれど、きっと僕の顔も右半分が失われてしまっているに違いない。


 なんで。なんで僕がこんな目に遭わなくちゃいけない。僕がなにか悪いことでもしたというのか。

 まだ生まれて9年しか経ってない、小学生のこの僕が。

 悔しさと恐怖でアスファルトに膝をつきそうになる。


 頭の中で台風の音のような、地鳴りのような、怖ろしい何かが呻くような音がゴゴゴ、と聞こえた気がした。


 近い。

 確実に近づいてきている。

 捕まったら終わりの『なにか』が。

 闇がゆっくりと空間を侵食するように、それは確実に、僕を飲み込もうとジワジワと向かってきている。

 この足じゃ僕はもう歩くことができないというのに。

 ここできっと、僕はよくわからない怖ろしい『なにか』に追いつかれてしまう。

 今から歩き出しても、もう遅い。

 ゾクゾクとした背中の蠢きが、潮騒のように押し引きを繰り返している。


 それでも。


 と、僕は片方の足に力を呼び戻そうと試みる。


 それでも僕は逃げなくちゃいけない。

 家に帰らなくちゃいけない。


 夕陽に映る道はまるで、でたらめに血液でも零したかのように真っ赤に染まっている。

 僕から後ろに伸びている影もきっと、一本足になってしまっているのだろう。


 すぅっと、身体が動いた。


 左足の歩みに合わせて、僕の視界に見えていない足が、まるでそこにあるかのように動いている。

 僕は再び、前に向かって進み出すことができた。


 一本足でなんて歩いたことがないから、平衡感覚が取りにくい。

 いまの自分ができる最大限の速度で足を動かす。それはやっぱり速さとしてはまるっきり遅いのだけれど、また歩き出すことができた喜びが、僕の全身を駆け巡った。


 ああ、これで家に帰ることができる。

 僕は確信する。


 この道を進めば、家に帰ることができる。振り返らずに家に帰りさえすれば、この不安や恐怖から確実に解放される。

 目が覚めるように現実に戻って、身体も元に戻って、温かい家族が僕を家の中に迎え入れてくれる。

 お腹が空いた僕に、温かい手料理をお母さんは出してくれて、お父さんが微笑みながら、今日は学校でどんな勉強をしたか僕に聞いてくれる。僕はそれに笑顔で応えて、友達のゲンちゃんと休み時間に遊んだ話をするんだ。


 家には白と黒の幕が壁一面に貼られていて、線香の嫌な臭いが鼻をついて。


 あれ?


 仏壇の天井を見上げると、お父さんとお母さんの白と黒の温度を感じない写真が、泣いている僕を見下ろしていて。


 なんだろう。この記憶は。


 おかしい。なんでこんな記憶が頭の中から出てくるんだろう。お父さんもお母さんも死んでなんかいないのに。


 僕は頭を振った。

 そのせいで身体のバランスが崩れる。


 夕焼けに染まった街並みがゆっくりと反転しはじめる。ぼやけた視界が一瞬で横になって、僕は消えてしまったはずの右腕に、激しい痛みを覚えた。


 悲鳴をあげたつもりだったが、喉を切るような空気が口から出てきただけだった。痛みに顔が歪む。


 家に帰ってからのことを考えるには早過ぎた。油断してしまった。少しだけ、自分を安心させてしまった。

 色を失った死者の両腕が、信じられない速さで僕に向かって伸びてくる感覚が肩の辺りを襲う。びりびりとした苦痛に近いそれが、階段を一段、また一段と昇るように強くなっていく。


 まるで誰かの悲鳴にも似た、耳をつんざくような音が道路に響く。車のブレーキが背後で叫んでいる。


 続いてバタンッ、と勢いよく車のドアが開閉される音。


 何人かの人間が、なにか叫びながら地面を鳴らして近寄ってくる。その一人に、背後から肩を叩かれた。


「ああ、柴田さんっ!見つかってよかったあ!柴田さん!大丈夫ですか、柴田さんっ!」


 後ろから肩をつかまれる。

 やめてくれ。僕を振り返らせないでくれ。なにか、誰か、よくわからない怖ろしいものが、僕を追いかけてきているんだ。だからこのまま放っておいてくれ。僕をこのまま逃がしてくれ。僕を家に、帰してくれ。

 僕を、振り向かせないでくれ。


 大人の男が肩を強く引く力に、小学生の僕はこれ以上、抗うことができなかった。

 ぐいっと引かれ、ひるがえるように振り返った僕が見たものは――――――――









「では、柴田さんのカンファレンスを開始します」


 まるで運動着のような緑色のユニフォームに身を包んだ男が口を開くと、会議室に座った他の緑色たちも配られた資料をめくった。紙が擦れる音が、部屋に響く。


「びっくりしましたねえ。大事にならなくて本当に良かったですよ」


 メガネをかけた女性が、呆れ返ったように間延びした声を出す。


「まさかアルツハイマーに脳血管性の認知症もある車イスの方が、急に歩き出して施設を抜け出すなんて思いませんよ。軽度のパーキンソンでまともに歩けないはずだし、失語症で口もきけない。右半側空間失認もあるんですよ?」


 身を乗り出したのは細身の男で、資料をめくりながら早口でまくしたてた。

 その声を遮るように、でっぷりとした女性が厳しい瞳を資料に向ける。


「前回の回診で、精神薬の処方をドクターが減らしていたことを、職員が伝え忘れていたのが問題よね。手元の記録にもあるけれど、薬が減ってこの一週間ほど、行動が活発になってたみたいだし。気を付けなきゃいけなかったわよね」


 顎に手をあてて話を聞いていた並ぶテーブルの一番奥に座った男が、ゆっくりと首をかしげた。


「柴田さんって、ここの老人ホームに入って何年目だっけ?」


「ちょっと待って下さいね、施設長。ええっと、……五年ですね。最初はアルツハイマー型の認知症だけだったんですが、一昨年に脳梗塞をやってしゃべれなくなっちゃって。右側の半側空間失認もその時の後遺症でした。パーキンソン病の診断は……、ちょうど去年の今ごろにドクターから受けてます」


 すぐに隣の進行役の男性が応じる。

 その答えに、施設長と呼ばれた男は目頭を揉んだ。


「ふむ……」


 ひとつ、彼はため息をつく。


「それにしても、柴田さんはいったいどこに向かっていたんだろうねえ。いまはどうなの?」


 その質問に、テーブルの向こうで若い女性が微笑みながら言葉を紡いだ。


「いつものように家に帰りたいって言ってます。骨折した右肩にギブスをはめたままですけどね。……認知症のせいで相変わらず、いくつ?って聞くと9才って教えてくれますよ」

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