泣き声

 収骨室にはすでに誰も居なかった。

 足元に冷気が忍び寄ってきている。

 別室で、骨壷に入った母の遺骨を受け取る手はずになっている。そろそろ行かなければ。

 わたしは、穏やかに笑う生前の母の顔を思い出す。

 女手一人でわたしを育ててくれた、とても優しくて、そして正義感の強い人だった、――ように思う。

 だからこそ、先ほど脳裏に響いた音にわたしは戸惑っていた。

 もう一度自分の思考をたどる。

 そう、あれは小学生の頃だった。

 ボン――。

 ボン――。

 何かを叩くような音だった。

 ――鉄板を叩く音?

 いや、もっと薄くて内部に空間があるようなものを叩いた時の音だった。

 ――鉄の箱……。車のボンネット?

 その時、わたしは車の助手席に乗っていた。

 前じゃなくて後ろ側から聞こえてくる。

 ――多分、これは……。

 後ろの、車のトランクを叩く音。

 でも車は走っていた。だから外から叩いた音じゃない。

 きっと中から叩いた音。

 トランクの中から叩いた音。

 ――どうして?

 小学生のわたしは車に乗っている。

 夕方、母の運転する車の助手席に座っている。

 塾が終わって母に迎えに来てもらったのだ。

 わたしが母に話しかける。

「今日ね、◯◯先生がね――」

 ボン――。

 ボン――。

 背後から音が聞こえた。

「お母さん、何か聞こえるよ」

「うん?」

「ボンボンって、車の後ろに何か入れた?」

「何も入れてないわよ――。気のせいよ」

「そう、本当?」

「本当よ」

 母の横顔に街灯の明かりが反射する。

「なぁに? お母さんが嘘付いてるっていうの?」

 逆光のような効果になって顔が真っ暗になっていた。

 母は笑っている――、のだろうか。

「いじめられたり、困ったことがあったら、すぐにお母さんに言うのよ」

「うん」

 わたしは笑顔を繕った。

 その時、




 ぃぃーーきぃぃーー。

 



 背後から、か細い音が聞こえてきた。

 木製のドアがきしむような。

 でもこんなところに木製のドアはない。

 何の音だろう。




 ぃぃーーきぃぃーー。

 ひぃぃーひぃぃーー。

 ひっひぃーーひっひっひっ。




 違う――。

 これは泣き声だ。きしむ音じゃなく、女の子の泣き声だ。

 弱々しく、しゃくり上げている。

 残響が耳に残る。

 目の前にいたならば、ほとんど泣き疲れていて、きっと顔はぐしゃぐしゃに違いない。

 わたしは戸惑って、母の顔を見上げる。

 表情は相変わらず窺い知れない。

 だけど、

「それで、先生がどうしたって?」

 いつもの調子で母が聞く。

 わたしは脳裏に浮かぶ少女の泣き顔を思考の外に追い出し、必死に口角を上げた。

「うん、先生がね――」

 ――きっと気のせいだ。

 母はそのまま車を走らせる。

 ――きっと気のせいだ。




 ひぃーっくひっくひっ。

 ……してーーーーぇ。

 だしてぇーーーー……ここから、だしてぇーー……。




 どうして母が亡くなった今、その記憶が浮かび上がってきたのかは分からない。

 ――母に話すと気持ちが和らぎ、しばらくすれば不思議とその元凶はなくなった。

 思い返せば、当たり前の話だ。

 なぜならそのあとに元凶いじめっこがいなくなるから。


 わたしは、収骨室の床に淡く映る自分の影を、いつまでも見つめ続けていた。

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収骨室より チューブラーベルズの庭 @amega_furuno

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