第3話 02
吹き渡る青臭い風のなか、遠くから拍子抜けするほど軽いエンジンの音が響いていた。
てっきりコンバインか何かが動いているのかと思っていたら、しばらくして現れたのは荷台にドラム缶を三本も積んだ古い軽トラだった。
二ストロークエンジン特有のぺけぺけぺけぺけ、という音を響かせながら駐機場へと乗り込んできた軽トラは、ボディ全体を軋ませながらステラに横付けするように停車する。
「……あんたが、この赤い飛行機のパイロットさん?」
降りてきたのは、髪を後頭部でひっつめた女性だった。
歳の頃は三十を少し過ぎた辺り、といったところか。オイルで汚れた整備ツナギの上半身をはだけ、腰の辺りで袖を結んでいる。はだけたツナギの下はタイトなTシャツで胸のラインが露わになっているが、そのあたり本人はまったく気にしていないようだ。
切れ長の目はやたらに眼光が鋭く、こちらを頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺め回している。もしかしたら、若い頃にはやんちゃな方向で相当に鳴らしたクチなのかもしれない。
見た目からして怖いお姉さんの登場に、夏海は直立不動になって応えた。
「はいっ! ステラエアサービス、パイロットの天羽夏海です。中に乗ってるのは妹の秋穂っていいます」
「明天地飛行場、業務担当の沢石京子だ……っていっても、ここの業務はこのあたりの町会の持ち回りで、今日はたまたまあたしが担当だったってだけだけどね」
そう言って肩をすくめる。そういう仕草一つ一つが様になる女性だった。
沢石と名乗った女性は砂利を鳴らしながらステラへと近付くと、腰に手を当ててその高翼を見上げる。
「珍しい飛行機だね。ここじゃまだ見たことがない」
「あ、はい。ステラ……三式連絡機っていう古い機体で、これを使ってるのはウチの会社くらいじゃないか、って思います」
「ふーん。整備はあんたが?」
「いえ、ウチの爺ちゃんが、弟子と二人で」
夏海の説明を聞きながら、沢石は胴体を撫でたりエンジンカウルの隙間から中を覗き込んだり、とステラの各部を興味津々に見てまわっている。
その背中を見ながら、飛行機が好きな人なのかな、と夏海は思った。
「よく手を掛けられてる……あたしは車の整備士だけど、機械を扱うのは飛行機も車もどちらも同じだからね。どれだけ念入りに整備してるのかは、見るだけで判るよ」
「元々はスクラップみたいな有様だったんですけど、爺ちゃんがコツコツ直してくれた機体なんです。乗り慣れた機体だからどこをどうすれば良いかは判ってるけど、何しろボロボロだったから新しく作り直したところも多かった、って聞いてます」
「乗り慣れた? 爺さんもパイロットだったのかい?」
「最初は爺ちゃんが運送屋やってた頃に乗ってた機体だったんですけど、爺ちゃんが運送屋を引退した後は父さんが乗ってたんです。でも父さんが死んで、そこからずっと格納庫の裏で放りっぱなしになってて……だから、これに乗るのはあたしで三代目ってことになりますね」
夏海の言葉に、中腰になって胴体の下を覗き込んでいた沢石が頷いた。
「なるほど、家族三代で、か……そりゃあ想いが籠もってるのも判ろうってもんだね。いい飛行機だ」
「あ、ありがとうございます。その、沢石さん」
「京子でいい。苗字で呼ばれるのはあまり好きじゃない」
「わかりました……京子さん」
夏海の素直な言葉に、沢石、改め京子は初めて笑顔を浮かべる。どこかトゲトゲした印象なのに、笑うと意外に子供っぽい無邪気さが覗く女性だった。
京子は整備ツナギのサイドポケットに手を入れると、几帳面に折り畳まれた一枚のメモを取り出した。
左手の指だけでそれを開くと、夏海に差し出してくる。その時初めて、夏海は彼女の薬指に銀の指輪が光っているのを見て取った。
「玉幡飛行場から送られてきたメールをプリントアウトしたものだよ。あんたたち、随分と遠いところから来たんだね」
「……中を見ても?」
「特にメールには見せちゃいけないって書かれちゃなかったけどね」
てことは、堤ヶ岡のあの係官は単に盛り上げ好きであんな寸劇をやってのけたのか……何となく暇つぶしのネタに使われたような気分だ。
夏海はメモを受け取ると、その文面に目を走らせた。
どうやらメールの必要な部分だけを抜き出して印刷したらしく、そこには六つの数字と地名が書かれているだけだ。頭の中に日本地図を思い浮かべながら、その地名を一つ一つ想像の地図上に当てはめていく。
すぐに、見なきゃ良かった、と思った。
「…………あちゃー…………」
「一、青森県・三本木飛行場。二、岩手県・後藤野飛行場……こいつが届いた時から思ってたけど、何だいこの数字と地名は?」
夏海の横からメモを覗き込みながら、京子は首を傾げている。
どうやらメールには、この数字と地名が意味するところは何も書かれていなかったようだ。
「あたしたち、商業パイロットに向けた最終テストの途中で……目的地に着いたらその都度サイコロを振って、次の目的地を決めなきゃなんです。それを四回繰り返したら玉幡に帰れるんですけど、このステラって足が遅いし航続距離が短いから、あんまり遠くへ行っちゃうと明日中に戻れなくなるかもなんですよね……」
「は~、そりゃまた……」
京子は目を丸くしながら、
「何とも面倒臭いことをやってんだね、あんたたち」
いやまったく、その通りだと思う。
最初はただ甲府盆地の外を飛べて浮かれていた夏海だったが、堤ヶ岡から約五時間という長時間の飛行をこなした疲労もあって、ようやく今回の任務の厄介さに気付きはじめていた。
何より、このルールは精神に来るものがある。
ただでさえ初めての空域を飛んで緊張の連続なのに、この次はいずこへ向かわされるのか判らないという状態はずっと薄いベールがかかっているような漠然とした不安があり、二つが合わさってキリキリと胃を締め付けてくる。
今回は後席の秋穂が気象情報を参考に飛行経路の設定や燃料計算をやってくれているが、もしこれを一人でぜんぶしなきゃならなかったとしたら、どれほど大変なことだったろう。まだ自分は妹の言うとおりにステラを飛ばしているだけだが、実際に飛行経路を考えている秋穂はこの何倍も大きな不安と戦っていたはずだ。
少しばかり申し訳ない気持ちになりながら、夏海はステラを見上げて……ギクリ、と凍りつく。
秋穂が、ステラの側方窓に張り付くようにこちらを見下ろしていた。視線から強烈な圧力を感じる、凄まじいばかりの表情だった。
ボソボソと動く口元はプレキシガラスに隔てられて何も聞こえないが、何を言っているかは聞こえなくても判る。
──一を出すな、一を出すな、一を出すな、一を出すな……!
「……あれ、妹さんかい?」
つられてステラを見上げた京子が、呆れたような声を上げる。
「ええ。たぶんサイコロで一を出すな、って言ってるんだと思います……」
「一、というと青森か……確かに、この中じゃここだけ山梨から離れる方向だね」
はあ~、と大きく溜息をついて、夏海は肩を落とした。
こうなれば何としても一だけは出さないようにしなければ。ここで青森なんか行くことになったら、またぞろ不機嫌オーラを背後から浴び続けながら操縦していくことになる。それどころか、玉幡に帰り着けてもしばらく口も聞いてくれなくなるかも。
夏海は右手に握りっぱなしだったサイコロを目の前にかざした。
「京子さん、今からサイコロを振るんで、出た目は京子さんが見て貰えますか」
「そりゃ構わないけど、どうして?」
「……見る勇気がないから」
ぼそり、とした夏海の言葉に、京子は苦笑しながら頷いた。
背後から妹の視線をギリギリと感じながら、夏海はサイコロを構える。大きく振りかぶってから、やはり思い直して下手に構え直した。
一よ出るな、一よ出るな、一よ出るな、一よ出るな!
「──てやっ!!」
夏海は空高くサイコロを放り投げた。
まるでシュークリームのような断雲がぽこぽこ浮かんだ初夏の大空をバックに、複雑に回転しながら小さなサイコロが飛んでいく。
──お願い、一だけはナシで!!
てんてんと地面を転がっていくサイコロの行方をまともに見ることができない。夏海はぎゅっと目をつぶり、胸元でしっかりと両手を組み合わせて、もしかしたらどこかにいるかも知れないサイコロの神様に祈った。
吹き渡る風に乗ったのか、ずっと遠くまで飛んでいったサイコロに京子が砂利を鳴らしながら歩いていった。地面の小石にまぎれてしまったか、しばらく周囲をきょろきょろ見回していたが、やがて膝に両手を当てて上から覗き込む。
あっ、という小さな声。
結果を聞かなくても、出た目が判った。
「…………………………………………一、だね」
にょわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
ステラの機内から響き渡った奇声とも悲鳴とも取れない声に、夏海はもはや背後を振り返ることもできなかった。
ステラエアサービス フライトログ 有馬桓次郎 @aruma_kanjiro
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