第3話 01
残雪の残る谷川岳を飛び越えて越後平野に入り、そのまま日本海へと抜けて針路を北北東へ。
海岸線を右手に見ながらひたすら北上し、
堤ヶ岡を発って、約五時間。秋田県は明天地飛行場に降り立ったとき、時計の針はきっちり十五時を指していた。
滑走路脇に申し訳程度にしつらえられた駐機場にステラを止め、計器に異常がないことを確かめてからエンジンを切ると、夏海はフッと小さく息をついた。
「は~……やっと到着か……」
飛行機の操縦桿を握ってから現在まで、夏海はこれほどの長時間、かつ長距離を一度に飛んだことはない。
道中はいたって穏やかな天候だったが、それでも初めて飛ぶ空域だったために気を詰めて操縦しなければならず、身体の芯にじんわりとした疲れを感じる。
辺りは見渡すかぎりの稲田だった。飛行場の敷地と周囲を隔てる物は何も無く、まるで幅広の農道のような滑走路の周囲で、青々とした苗が吹き渡る初夏の風に揺れている。
ここ明天地飛行場は、この地域で収穫した農産物を出荷するための飛行場で、たまに小口配送の貨物便が降りてくるだけの軽飛行機専用空港だった。
空港施設としては滑走路と狭い駐機場、それにバス停の待合室のようなプレハブの事務所があるだけだ。管制官もいない飛行場なので、夏海は滑走路端にぽつんと立っていた吹き流しを見ながらそろそろと慎重に着陸していた。
夏海は後ろを振り返ると、恐る恐るといった風に声をかけた。
「えーと、明天地飛行場に到着しました、け、ど?」
しかし、返ってくる言葉はない。ただ、黒々としたオーラが押し寄せてくるだけだ。
それどころか、堤ヶ岡を離陸してからの五時間、ほとんど会話らしい会話をしていない。エンジンの爆音が響いているはずなのに雪原のような静寂に包まれた機内で、夏海はひたすら針の筵のような気分を味わってきたのだった。
「そ、そろそろ機嫌を直してくれないかな~、なんてお姉ちゃんは思ってる訳なんですけど……?」
無言。
「あたしも悪気があってやった訳じゃないんだからさ、その辺は努力を組んでくれたらって思うわけなんですが……」
沈黙。
「し、仕方ないじゃん! 『なるべく小さくて軽い物』って言われたらそれでいいかなって思っちゃうじゃんベストでナイスな選択だって考えちゃうじゃん!!」
「黙りなさい大馬鹿」
おお、やっと喋った。
しかし言葉が痛い。ナイフのように鋭い。
ガラスのような十六歳のギザギザハートをどっかり刺し貫かれた夏海は、それでも健気に反論を試みる。
「お、大馬鹿大馬鹿ってね! 馬鹿って言った方が馬鹿なんだよ!? お姉ちゃん、そういう言葉遣いする子は感心しないな!!」
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのよ大馬鹿。姉なら姉らしくもっと頭良いとこ見せてよ大馬鹿」
「うう……アキがどんどん悪い子になってくよ……」
「誰のせいでそうなったと思ってるの大馬鹿。じゃあ聞くけど、あれだけあった味噌は何処に行ったの?」
いま、ステラの最後席に置かれているのは二人の着替えが入ったボストンバッグが一つきりだった。あれほど存在感を放っていた大量の味噌の瓶が入っていた大袋は、今は影も形も無い。
「だ、だからそれは〝わらしべ任務〟で交換したって……!」
「それが、これ!? こんな物のために、あれだけいっぱいあった味噌を全部吐きだしたの!?」
ぽす、とやけに軽い音を立てて操縦手席のバックレストに投げつけられたのは、秋穂の両手ですっぽり包めてしまうほど小さな袋だった。
そうなのである。夏海は大量にあった信玄味噌の瓶を、すべて交換することに成功したのだ。
堤ヶ岡で夏海が向かったターミナルビル、その一階には飛行場職員のための大食堂がある。夏海が乗り込んでいった時、そこではまさに昼のランチタイムに向けた仕込みを始めようとしていたところだった。
信玄味噌に身も心も捧げた女・夏海は、料理長を前にしていかにこの味噌が革命的で素晴らしい物なのかを力説した。煮てよし炒めてよし、いつものレシピにちょいっと加えるだけでアラ不思議、見慣れた野菜炒めが本格的な味噌炒めに!
勢いだけで押しまくる夏海の売り込みに苦笑しながら、長年この飛行場で働いているうちに玉幡の新人飛行士たちの卒業任務にも通暁していた料理長は、バナナの叩き売りのような口上を述べる夏海に逆に問うた。
『それで? その味噌と何かを交換しろってか。お前の持ってるそいつ全部と交換するとして、どんな物ならいいんだ?』
軽くて小さな物なら何でもいい。
そして渡されたのがこの小袋である。何でも小銭の持ち合わせがなかったどこかのパイロットが、残りの代金の代わりに置いていったものらしい。
そのパイロットによれば、小袋の中身はとてつもなく貴重な物で宝石のような価値があり、本来なら昼食の代金にするのは惜しいが仕方なく置いていく、と言ったそうだ。
しかし、しがない食堂の親父にこいつを売る宛てなぞあるはずもなく、乾物倉庫の片隅に仕舞い込んだままずっと忘れていたものだという。
『安心しろ。麻薬とか覚醒剤とか、そういうヤバくて違法なモンじゃない。こいつならすぐにでも渡せるが……?』
果たして自分がはるばる運んできた大量の信玄味噌と、このちっぽけな小袋の中身が釣り合う物なのか、正直夏海でも悩むところがあった。
しかし「軽くて小さなもの」という条件に、これほど見合う物は他に思い付かない。それに「宝石と同じ価値がある」のなら、愛すべき信玄味噌と交換しても充分にお釣りが来るじゃないか──!!
そして夏海は小袋を握りしめてステラへと飛んで帰り、あれほど大量にあった味噌をどうやって交換できたのか半信半疑の秋穂が恐る恐る小袋の中身を覗き込んで……今に至る、という訳だった。
「夏ねえが馬鹿なのは今に始まったことじゃないけど、それにしたって見た目から最低限のモノの価値も計れないなんて思わなかったよ……」
「いやいやいや、もしかしたら物凄いお金に換えられる物かも知れないじゃん。だって宝石だよ宝石。きっと換金したらゴツいガードマンつきで現金輸送車がやってきて……!」
「これのどこが宝石!? こんなオモチャなんか貰ってきて、ガラクタ拾って売りつけた方がまだ価値があるわよ!」
小袋の中から摘み出したそれを掌の上に置いて、秋穂は嘆く。
それはビニールの緩衝材でぐるぐるに包まれた、石けん箱よりもまだ小さな紙箱だった。等間隔に並んだ空気のクッションの間から『TOYCA』のロゴと、黒地をバックに描かれた赤い車のイラストが透かし見える。
念のために中身を取り出してみたけれど、それは何の変哲もない金属製のミニカーだった。これが綺麗に作り込まれていたならまだ少しは価値もありそうだが、秋穂が見てもはっきり判るほど造形が粗雑で、しかも刷毛の目がくっきり浮いているくらい塗装もいい加減な代物だ。
要するに、ガラクタもいいところのオモチャである。もしかしたら本当に、どこかのやんちゃな小僧が気分のままにペンキを塗りたくった物かも知れない。
夏海としてはこれはこれで味があってカワイイと思っていたりするけれど、個人の美的センスが社会的評価と結びつかないことは世の常なのである。
ちなみに美的センスでいうとこの女、美術の授業でバナナと林檎の模写をしたときに、教室を阿鼻叫喚の巷に陥れたことがある。内容について多くは語るまい。どうして林檎に毛が生えていたのだろうか。
「……何なんだろね、そのミニカー。実は物凄いレア物で、プレミア価格がついてる、とか?」
「わたしが知る訳無いでしょ。夏ねえ、玉幡へ最後に持ち帰った物で今回のテストの評価が決まるって事、ちゃんとわかってる? もしこれが貴重なオモチャだとしても、その価値が判るまで待ってたらそれこそ月曜日を割り込んじゃうよ」
「いやー、でも殿堂会のお爺ちゃんズが、それを見て努力賞くらいは出しておこうって思ってくれるかも……」
「………………………………………………………………」
物凄い目で睨まれた。
冗談、ジョーダンだから、と言い訳するが、その頬にぐりぐりぐりぐりとサイコロが捻り込まれる。
「……いい? せめてサイコロ振りだけはちゃんとして。ステラの航続距離と巡航速度から考えても、あと二回はこの明天地から内側をまわるようにしなきゃ、明日の夜までに余裕もって家に帰れなくなる。腕の振り一つ一つに気合いを込めて、絶対にここから遠方を振らないように。判った?」
「ふ、ふぁい……」
頬にメリ込んだサイコロを手に、乗降扉を開けて地面に降りる。
駐機場というより運動場といった方がいい未舗装の広場の真ん中で、夏海は頬をさすりながら周囲を見渡した。
「つっても、誰もいないのにどうしろってのこれ……」
青々とした稲田を渡ってくるそよ風に吹かれながら、夏海は途方に暮れる。
今回の飛行では、次の目的地が決まった段階で玉幡に連絡を入れ、到着までの間に次の指示書が先方へとメールで送られている手はずだった。六つの目的地が書かれた指示書が無ければ、いくらサイコロを振っても次の目的地が決められない。
「まさか、ここで早々とテスト終了ってことには……ならないんだろうなあきっと……」
右手でサイコロをを弄びながら、夏海は深く深く溜息をつく。
今日は秋穂から怒られてばっかりだ。そりゃあたしも馬鹿なのは判ってるんだけどさー、アキもあーいう怒りっぽいとこ直した方がいいと思うんだけどなー、カルシウム足りてないのかな。まるで他人事のようにそんなことを考えている。
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