右と左

「志方くん。志方くーん。起きなさい。こら」

 ゆさぶられる。肩から、ゆさゆさ。


(……ん?)

 隆はぼんやりした頭の中で考えた。――俺、何してる?

 目の前が暗い。席に座り、机に突っ伏した姿勢。身を起こしながらゆっくり頭を振ると、すぐ横に立つ先生の校内履きらしいサンダルと、茶色のスカートが目に入った。

「……え!? 授業中!?」

「当たり前です! 何を爆睡しているの!」

 クラス全体から笑いが起きた。

 隆はあわてて姿勢を正した。見慣れた2年2組の教室で、隆は自分の席に座っていた。隣で見下ろしているのは国語の先生で、今日の時間割で言うと、国語は理科の次で――。

 頭がよく回らない。

「えっと、先生……俺、最初からずっとここにいましたか?」

「はい? 何それ、寝言なの?」

「……すいません」

「しっかりしなさい。じゃあ続けますよー」

 先生が教壇に戻っていく。

 隆は急いでノートを開いたが、混乱していた。つまり自分は、理科室を出たあと普通に教室に戻った? で、ちゃんと席に座った?

 ということは……。

 隆は脱力しながら頭を抱えた。

「おいおいおい、夢オチかよ……」

「志方くーん。また寝言ー?」

「い、いえっ。すいません!」

 急いで背すじを伸ばす隆に、先生はにやりと笑う。

「さ、じゃあ次、解説行っとこうかな。次は詩ね。67ページ」

 全員が教科書をめくり、教室中にぱらぱらと音が響く。隆もみんなにならったが、なぜか教科書が扱いづらい気がした。

「えーと、この詩はね、まず読んでみて、どういう意味かを考えてみましょうか。これ『かなくわ』って題なんだけど、作者の宮原速水みやはらはやみは『痛手』という題でもいいかと悩んだそうなのね。そのへん考えながら、一度全員で朗読しましょう」

 みんなが最初の息を吸ったあたりで、隆はやっとページを開くのにこぎつけた。何でだか教科書が扱いづらく、中も見づらい気がする。まだ身体が寝ているのか。隆は朗読には合わせず、とりあえず黙読でついていくことにした。


…………………………………………………

かなくわ」 宮原速水


 かの痛手


 波は波

 幹は幹

 しかし

 かなくわと波、幹


 病

 かのぬし

 死ぬ


 病

 かなくわと波

 かのぬし

 死ぬ


 かいなままの子

 軽いままの子

 世のぬし

 死ぬ


 かなくわと波

 世のぬし

…………………………………………………


 隆は思わず首をひねった。何だ、この不可解な詩。意味を考えろと言われても、何が何だか。

「はい、じゃあ解説……あ、先に板書しときましょう。みんなもノートに書いてね」

 先生は黒板に向き直ると、詩を全部ひらがなにして書き始めた。

 解説上、ひらがなにすることに意味があるのだろう。隆もそれにならったが、さっきからの『何か違う』という感覚がふくらむのを止められなかった。教科書が何でか扱いづらいのもそうだし、先生の行動も何か……


 ――違う。


 気づいた。


 先生は、詩を書いている。縦書きで、黒板の、

 だけど隆は違った。隆は何も考えず、。それは当然で、縦書きなら右から書くのが日本語のルールだから。

 教科書が妙に使いづらいのも、左とじで、左から縦書きしてあるせいだ。国語の教科書なら普通は右とじなのに。なぜ今まで気づかなかったのだろう。


 ざわりとした。冷たい汗を感じながらクラスを見回してみて、さらにぞっとした。皆、筆記具を左手で持っている。このクラスに左利きは? いなかったはずだ。


 がたん!

 隆はたまらず立ち上がる。後ろで、椅子が大きな音を立てた。

 先生がゆっくりと振り返った。

「志方くん? どうしたの」

「す、すいません、具合が……その、保健室に行きます」

「保健室? 気分が良くないの? あら大変」

 先生がにっこり笑う。が、隆はぞくりとした。細めた目の奥に宿った光は、暗闇に光ったナイフのように見えた。

「でもねぇ、行けないかもよ」

 先生が、静かに近づいてきた。

「だってね、ここはね。上も下も、右も左も」

「……」

「ねじれてるから」

 だめだ。もういられない。隆はとっさに教科書とノートを抱えて、教室から飛び出した。

 走り出ると、すぐ階段だ。隆は階段を駆け上がる。踊り場の鏡に再び飛び込もうかと思ったが、だがそこには自分が映るだけだった。

 仕方なく階段を駆け上がろうとして、隆は棒立ちになった。

 知らない顔の生徒たちが、道をふさぐように並んでいた。

「ひっ……」

 階段を逃げ戻る。だが、下にも、まったく同じ生徒たちが待っていた。

 まただ。上も2階。下も2階。

 呆然と立ち尽くす隆を見下ろし、あるいは見上げる彼らの口が、一斉に動いた。


『かなのくわ


 かのいたで

 

 なみはなみ

 みきはみき

 しかし

 かなのくわとなみ、みき


 やまい

 かのぬし

 しぬ


 やまい

 かなのくわとなみ

 かのぬし

 しぬ


 かいなでままのこ

 かるいままのこ

 よのぬし

 しぬ


 かなのくわとなみ

 よのぬし』


 隆は耳をふさいだ。

 だが唱和は続く。


『かのいたで なみはなみ みきはみき……』


 言葉は読経のように響き続ける。


『かいなでままのこ かるいままのこ かのぬししぬ……かなのくわとなみ』

 

「死ぬ、か……はは」

 気力が失せようとしていた。

 隆は壁に背をつけ、ずるずると滑るように座り込んだ。

「俺、ここで死ぬのか……?」


 くすくす。

 繰り返し響き渡る詩の中に、先生の笑い声が混じり込んだ。


「そうよ、死ぬのよ」


『よのぬし……』


「あなたはね、捕まったの。枠の中に捕らえられたの。ここに落ちた人は今までたくさんいてね。皆、出られなくなってこのとおり」


『かなのくわとなみ よのぬし……』


「上も下も、右も左も、ねじれてる世界なの。もう出られない枠の中。この詩は、ねじれの呪文で、落ちた者たちの誓いなの」


 そうなのか。隆は目を閉じる。

 上も下も、右も左も、ねじれたこの世界で。

 出ることもできず、疲れ果てて。

 死ぬのか。


――死ぬのか……?


 ふっと、頭の中に光がさした。

 「死ぬのか」。しぬのか……『かのぬし』……?


 隆は目を大きく開いた。『ねじれている』のがこの世界なら、この詩も『ねじれている』のではないか。もしこの詩が呪文なら、ねじれを正したら、何かが変わるのではないか。

 隆はわんわんと響く詩の唱和から必死に意識をそらし、さっき抱いてきたノートをあわただしく開いた。

 ねじれを正す。上と下、右と左。

 それなら……


 隆は読み上げた。一行ずつ、尻から逆に。

 何ということか。それもまた、詩だった。


『わくのなか


 でたいのか


 みなはみな

 きみはきみ

 しかし

 きみ、みなとわくのなか


 いまや

 しぬのか

 ぬし


 いまや

 みなとわくのなか

 しぬのか

 ぬし


 このままでないか

 このままいるか

 しぬのよ

 ぬし


 みなとわくのなか

 しぬのよ』


「あら志方くん、国語の成績良かった? 意味、分かったでしょ」

 くすくす。先生の笑いは止まらない。

「絶望の詩でしょ。ぬしあなたは死ぬのか? そう、死ぬ。死ぬのよ、皆と枠の中……ね?」


 違う。違う違う。隆は思う。

 まだ違う。まだ何かある。


「俺は……死にません」

「無理よ。枠の中に落ちた者は、もう戻れない」


 そんなことはない。隆は首を振る。

 「帰りたい」、強い欲求が襲ってきた。

 強く思う――帰るんだ。本当の世界に。このままじゃ嫌だ。絶望を希望に変えるんだ。すべてのねじれを正すんだ。

 上と下、右と左。


「……『しぬのよ』……」

 隆は呟くように読み始めた。

 まだやっていないこと。

 詩を一行ずつ反転し、なおかつ、一番最後から読む。


『死ぬのよ

 皆と枠の中


 ぬし 死ぬのか

 このまま居るか

 このまま出ないか

 ぬし 死ぬのか

 いまや皆と枠の中――』


 そうだ。隆は今、「皆と枠の中」にいる。

 

『しかし』


 しかし――。


 『君は君

 皆は皆』


 そうだ。「皆は皆」。

 一緒じゃなくていい。同じ枠にいなくていい。


『出たいのか』


「……出たい」


 隆は呟く。そして叫ぶ。


「出たい、出たい出たい! そうだ、この詩の題は『痛手』だ。『かなくわ』じゃない、『出たい』だ!」


 その途端、目に見えているものすべてが明るく輝いた。


 眩しい。目が開けていられない。

 だけどその光は温かかった。

 世界が一気に生き返ったように思えた。


***


「志方? おい、どうした?」

 気づいたとき、隆は踊り場で、腰を抜かしたように座っていた。高い窓から薄いオレンジの光が差し込み、頭上に屈みこむ人の顔を陰にしていた。

「先生……」

 見上げたところにあったのは、担任の先生の顔だった。彼は心配そうに隆を見つめていたが、隆が立ち上がるそぶりを見せると表情をゆるめた。

「お前、5時間目のあとからいなかったって国語の先生が。いったいどこにいた?」

 隆は思わず泣きそうになった。確信できる言葉だったからだった――戻れている、と。

 戻れている。枠から出たんだ。

 顔をゆがめた隆に気づき、担任がまた心配そうに顔になる。

「おい、本当にどうした」

「すいません……大丈夫です。ちょっとその、熱出して悪夢を見ていた感じで、覚めて安心したというか……。でも大丈夫です」

「何だ。気分が悪かったのか」

「はい、まあ」

 担任は特に追及せず「そうか」と言うと、隆の肩を軽く叩いた。

「ま、良かった。下校時間になるからすぐ帰れよ」

 軽く右手首の時計を指し示す。5時半。笑顔で頷くと、担任は「じゃあな」と手を振り残し、階段を下りていった。

 隆はまず頭を下げてそれを見送り、同じように下に向かう。2階の教室で身支度し、そして無事に1階に。

 校舎を出た。出ることができた。生まれ変わったような気持ちで、隆は外の風を感じた。


 校門の完全閉門は6時だが、部活はだいたい5時終了だ。他にもう生徒はおらず、校門をくぐるのは隆だけだった。

 気持ちは軽かったが、あまり一人ではいたくない。誰か一緒に帰れるような奴が残っていたらよかったのに……と通学路から校舎を振り返ったとき、隆はふと、先生が右手首に時計をつけていたのを思い出した。


 時計って、普通は利き手と反対につけるものだけど。

 ――先生の利き手、どっちだったっけ?

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わくのなか。 岡本紗矢子 @sayako-o

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