わくのなか。
岡本紗矢子
上と下
焦りもあらわに黒板消しを動かしていた日直のもう一人が、もうだめだという顔でこっちを向いた。
「ごめん志方。俺トイレ! あと任せていい!?」
「ああ、いーよー」
「
どうにか作業をやりきり、理科室にカギをかけたとき、しかし隆は「やりすぎた?」と思った。辺りが静かすぎたからだ。休み時間は、みんな次の授業ぎりぎりまで騒いでいるものだが、話し声も足音も聞こえない。
これはやばいと隆は思った。たぶんチャイムが鳴る直前だ。だけど、日直の仕事はまだあった。教室に行く前に、今閉めた理科室のカギを職員室に返さなければならないのだ。
不幸にして、理科室は校舎3階、職員室は1階、隆の教室は2階。遠くて面倒くさい位置関係。隆は走り始めた。
ばたばたと階段を駆け下りる。いつもならつい覗き込む踊り場の鏡も完全スルー。ひたすら下りて、とにかく下りて、1階の廊下に走り出した――と思ったところで、隆は立ち止まった。
何か違う。
違和感は北側の窓の外にあった。1階のはずなのに、なんだか空が近すぎるのだ。晴れ空が山の向こうまで、薄く青く広がっているのが見渡せる。
隆は窓と逆側に視線を移し、部屋の表示を見上げた。
『職員室』とあるはずのプレートには、こうあった。
『3-2』
3年の教室?
見間違いかとひたすらに見つめたが、表示は変わらなかった。廊下の掲示コーナーに、「岩井中 3年2組スローガン 団結と協力!」と書いた布が張られていた。体育祭のとき、クラスごとに作った旗。それは、ここが間違いなく3年2組であることを示していた。
隆は教室の並びを確かめる。
『3-1』、『3-2』。階段をはさんでトイレ、隣に『3-3』。その次は空き教室で、次は『理科準備室』。
そして『理科室』。
さっき出てきた理科室。
(待って。俺……何で3階にいんの?)
ぞわりと悪寒が走った。
隆は階段に駆け戻った。もう一度一気に駆け下りて、1階のはずのところで廊下に出た。
が、あるのはやはり『3-2』だった。
「う……あああ!」
喉から叫びがほどばしり出た。訳の分からない恐怖に、叫ばずにはいられなかった。
「うわあああ! わああああ!!」
隆は叫びに叫び、階段をめちゃくちゃに駆け下りた。
だが、どこまでいっても着く先は3階だった。下っても3階だし、上っても3階だった。
3階しかない。
「……な、何で……」
いったいどれくらい階段を上り下りしたのか、もう分からなかった。
息が切れ、足がガクガクしている。心臓が激しく鳴っている。
隆は踊り場にへたりこんだ。床についた手に伝わるコンクリートの冷たさが、何だかただひとつの現実みたいに思えて、隆は大の字に転がった。ずっと力を入れて抱えていた理科の教科書とノートとペンケースが、そのへんにてんでに散った。
高い天井から、照明がこっちを見下ろしている。
隆は荒い息を吐きながら、しばらくの間、照明と見つめあっていた。
「何だよこれ……?」
つい、呟く。
答える者は誰もいなかったし、隆だって分からなかった。分かっているのは、どうやっても3階にしか着かないということだけ。
こんな話は聞いたことがなかった。いわゆる学校の怪談に階段ネタがないわけじゃないが、夜中に段数が増えるとか減るとか、そんな程度だったはずだ。ゲームのダンジョンなら無限ループの通路とかもある。でも、現実にそんな場所?
――あるわけ……
またパニックに支配されそうになり、隆は飛び起きた。
だめだ、だめだ、落ち着かなきゃだめだ。隆はふるえる手で、さっき放り出した教科書とノートをかき集め始めた。正直何でこうしているのか自分でも分からなかったが、何かしていないとつぶれてしまう気がした。
あとペンケース。
鏡の前に見つけたそれを、つかもうとしたときだった。
何かが聞こえた。
かすかな音。本当に、かすかな。
隆ははっと息を飲んだ。そして、耳に意識を集めた。
――あはは……
――バタバタ……
聞こえる。
――つぎのじゅぎようだるいよねぇ……
――ぉうい、ちゃいむがなるぞ……はゃくきょうしつ……
分かってきた。うねるようなざわめき。休み時間の廊下や教室のそれが、何かに反響しながらやっと届いてくるような。それは、たったひとりの無音の世界に急にさしこんできた、たまらなく恋しい「普通」の気配だった。
音の出所を探そうとして、しかし隆はすぐに気付いた。それが、目の前の鏡の中だということに。
映っていたはずの自分の顔はゆらめき消え、当たり前の休み時間が鏡の中に浮かび上がってくる。連れ立って階段を上る女子生徒。ふざけあいながら下る男子生徒。立ち止まり、鏡で前髪を確かめ、また階段を上がり出す先生。
隆は鏡にかじりついて、それらを眺めた。ああ、人がいる。活気がある。楽しそうで、温かそうな、普通の世界が――。
失敗してもいいと思った。
隆は、鏡に飛び込んだ。
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