わくのなか。

岡本紗矢子

上と下

 焦りもあらわに黒板消しを動かしていた日直のもう一人が、もうだめだという顔でこっちを向いた。


「ごめん志方。俺トイレ! あと任せていい!?」

「ああ、いーよー」


 「り!」と一言、彼は理科室を飛び出していく。志方隆しかたたかしは窓のカギをかけ終えると、粉だらけの黒板を拭き直しにかかった。10分たらずの休み時間。そんなに丁寧にやっている余裕はないのだが、先生からクレームが来たら日直やり直しだから、文句が出ない程度には綺麗にしなければならない。

 どうにか作業をやりきり、理科室にカギをかけたとき、しかし隆は「やりすぎた?」と思った。辺りが静かすぎたからだ。休み時間は、みんな次の授業ぎりぎりまで騒いでいるものだが、話し声も足音も聞こえない。

 これはやばいと隆は思った。たぶんチャイムが鳴る直前だ。だけど、日直の仕事はまだあった。教室に行く前に、今閉めた理科室のカギを職員室に返さなければならないのだ。

 不幸にして、理科室は校舎3階、職員室は1階、隆の教室は2階。遠くて面倒くさい位置関係。隆は走り始めた。

 ばたばたと階段を駆け下りる。いつもならつい覗き込む踊り場の鏡も完全スルー。ひたすら下りて、とにかく下りて、1階の廊下に走り出した――と思ったところで、隆は立ち止まった。


 何か違う。


 違和感は北側の窓の外にあった。1階のはずなのに、なんだか空が近すぎるのだ。晴れ空が山の向こうまで、薄く青く広がっているのが見渡せる。

 隆は窓と逆側に視線を移し、部屋の表示を見上げた。

 『職員室』とあるはずのプレートには、こうあった。


 『3-2』


 3年の教室?


 見間違いかとひたすらに見つめたが、表示は変わらなかった。廊下の掲示コーナーに、「岩井中 3年2組スローガン 団結と協力!」と書いた布が張られていた。体育祭のとき、クラスごとに作った旗。それは、ここが間違いなく3年2組であることを示していた。

 隆は教室の並びを確かめる。

 『3-1』、『3-2』。階段をはさんでトイレ、隣に『3-3』。その次は空き教室で、次は『理科準備室』。

 そして『理科室』。

 さっき出てきた理科室。


(待って。俺……何で3階にいんの?)


 ぞわりと悪寒が走った。

 隆は階段に駆け戻った。もう一度一気に駆け下りて、1階のはずのところで廊下に出た。

 が、あるのはやはり『3-2』だった。


「う……あああ!」


 喉から叫びがほどばしり出た。訳の分からない恐怖に、叫ばずにはいられなかった。


「うわあああ! わああああ!!」


 隆は叫びに叫び、階段をめちゃくちゃに駆け下りた。

 だが、どこまでいっても着く先は3階だった。下っても3階だし、上っても3階だった。

 3階しかない。


「……な、何で……」


 いったいどれくらい階段を上り下りしたのか、もう分からなかった。

 息が切れ、足がガクガクしている。心臓が激しく鳴っている。

 隆は踊り場にへたりこんだ。床についた手に伝わるコンクリートの冷たさが、何だかただひとつの現実みたいに思えて、隆は大の字に転がった。ずっと力を入れて抱えていた理科の教科書とノートとペンケースが、そのへんにてんでに散った。

 高い天井から、照明がこっちを見下ろしている。

 隆は荒い息を吐きながら、しばらくの間、照明と見つめあっていた。


「何だよこれ……?」


 つい、呟く。

 答える者は誰もいなかったし、隆だって分からなかった。分かっているのは、どうやっても3階にしか着かないということだけ。

 こんな話は聞いたことがなかった。いわゆる学校の怪談に階段ネタがないわけじゃないが、夜中に段数が増えるとか減るとか、そんな程度だったはずだ。ゲームのダンジョンなら無限ループの通路とかもある。でも、現実にそんな場所?


 ――あるわけ……


 またパニックに支配されそうになり、隆は飛び起きた。

 だめだ、だめだ、落ち着かなきゃだめだ。隆はふるえる手で、さっき放り出した教科書とノートをかき集め始めた。正直何でこうしているのか自分でも分からなかったが、何かしていないとつぶれてしまう気がした。

 あとペンケース。

 鏡の前に見つけたそれを、つかもうとしたときだった。


 何かが聞こえた。


 かすかな音。本当に、かすかな。

 隆ははっと息を飲んだ。そして、耳に意識を集めた。


――あはは……

――バタバタ……


 聞こえる。


――つぎのじゅぎようだるいよねぇ……

――ぉうい、ちゃいむがなるぞ……はゃくきょうしつ……


 分かってきた。うねるようなざわめき。休み時間の廊下や教室のそれが、何かに反響しながらやっと届いてくるような。それは、たったひとりの無音の世界に急にさしこんできた、たまらなく恋しい「普通」の気配だった。

 音の出所を探そうとして、しかし隆はすぐに気付いた。それが、目の前の鏡の中だということに。

 映っていたはずの自分の顔はゆらめき消え、当たり前の休み時間が鏡の中に浮かび上がってくる。連れ立って階段を上る女子生徒。ふざけあいながら下る男子生徒。立ち止まり、鏡で前髪を確かめ、また階段を上がり出す先生。

 隆は鏡にかじりついて、それらを眺めた。ああ、人がいる。活気がある。楽しそうで、温かそうな、普通の世界が――。


 失敗してもいいと思った。

 隆は、鏡に飛び込んだ。

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