赤い本②

 その大聖堂には長い歴史を持つ図書館があった。

 光の差し込まないそこは静寂に満たされ、紙をめくる音まではっきりと聞こえる。

 ほのかなランプの灯りの元、若い助祭は本が傷まぬように薄い革手袋をはめ、慎重にめくり、目を走らせ、もう一冊の本に覚え書きを書き込んでいた。


 穏やかな時間が流れ、走らせていたペンが上がった。それはコトリと置かれ、赤い本は閉じられる。表紙には金の刺繍ししゅうで『ある旅人の足跡』とあった。

 ほーっと長い息をつく。

 小柄な助祭は立ちあがるとランプと赤い本を持ち、柔らかな足音で歩いた。図書館の奥にいる司祭の元へと。

 近寄る助祭に気づいた司祭は写本作業の手を止めて顔をあげた。


「どうしましたか?」

「解析が終わりました」

「後ほど報告書を出してもらうとして、あなたの所見を聞かせてください」


 机に置かれたランプの火が揺れた。

 指を組む司祭を前にして、助祭は緊張した面持ちで唾を飲む。


「まず、真実か否かですが、恐らくどちらも正解でしょう。戦争、疫病など史実と重なる点が多く、公式記録にない歴史の穴を埋める情報がいくつも見つけられました。恐らく、歴史を塗り替えられる内容もです」


 そこでいったん区切り司祭の反応を伺う。続けなさい、という言葉を聞いてから再び口を開いた。


「その一方、吸血鬼や呪い師、不老の旅人も書かれています。こちらを真実と断言する自信はありません。……たとえ実在していたかのように描かれていたとしても、です」

「なるほど。他には?」

「え?」

「まだあるのでしょう? 思うまま話しなさい。前にも言いましたが考えられる仮説を羅列し、検証し、除外する。それが真実への道だと」


 助祭はうつむき、話すのをためらっているように見える。その手は握りしめられており、こめかみに一筋の汗が流れた。

 静かに待つ司祭が見たのは強い光を宿す目だった。その光は灯りを反射しているからだけではない。


「一点、歴史と食い違っているところがあります。枢機卿すうききょうヴァルター・リスト。教会発足から現在まで、全ての枢機卿は記録に残されています。しかし、そこに彼の名はありません。存在しない人物なのか、それとも……」

「それとも? 安心しなさい。ここで聞いた話は私の胸の内に留めておきます。神の名に誓って」


 司祭は右手を上げて誓いを立てた。教えに厳格な彼が神に誓ったのであれば、命が脅かされても口を開く事はない。

 助祭はすっかり汗ばんでいた手のひらを祭服で拭いた。


「それとも、記録を抹消されたか、です」

「そうなると枢機卿を追う手がかりはありませんね」

「いいえ、手がかりは疫病発生時、領主婦人アメリーが治めていた町にあります。その町にある古い石像。疫病の被害者を弔う像ですが、作られたのは疫病発生よりかなり後です」

「それが何か?」


 助祭は確固たる意思をもって続ける。その目は探求者のそれだった。


「本に記述された枢機卿の事件。その事件にかかわっているのがアメリーの孫であるクリスタ、元聖堂騎士のカール。二人はその町を治める現領主の祖母と祖父です。石像は二人の子が生まれた後に作られた。そして石像の裏に掘られている寄贈者の名はヴァルター・リスト。偶然にしては出来すぎです。恐らく枢機卿の記録だけが抹消されたのでしょう。枢機卿の不祥事は教会にとって都合が悪すぎますから」

「助祭、あなたは隣国の情報をどうやって知り得たのですか? 彼の地は遠い。現地に行けるような休暇はありませんでしたが」

「調べを進める内に多くの人と知り会いました。私は彼らの助けで、この地にいながらにして旅人の足跡をたどれました」

「なるほど。あなたは表面だけではなく奥深くまで読みとったのですね。それも私の想定をはるかに超えて。素晴らしい。では本をこちらに」


 助祭はやや緊張した面持ちで司祭の手に赤い本を置く。本は傷がないのを確認された後、引き出しにしまわれた。


「お疲れさまでした」


 司祭はそれだけ言うと写本作業に戻る。拡大鏡を介してかすれた文字を読み取り始めた。

 これで終わり。そんな態度に助祭は動揺する。知ってはいけない情報に触れてしまった。教会という組織において、それが禁忌にあたるのでないか、そんな不安があっただけに司祭の言葉を受けて目が泳いでいた。


「は? それだけ?」


 思わず素の言葉を発した助祭に冷ややかな目が向けられる。


「何か?」

「あの、えっと、これで終わり、ですか?」

「そうですが。あなたが出した中間報告から歴史家が動き出しています。これは十分すぎる成果です。何か不満でも?」

「あるに決まってるじゃないですか!」


 助祭は机に両手をたたきつけた。静かすぎる図書館に大きな音が響く。ランプがぐらりと揺れて倒れそうになったが司祭がそっと支えた。

 厳しい目が向けらていれるが、激高する助祭は止まらない。


「枢機卿が問題を起こしたなんて知られたら大不祥事ですよ! しかも、もみ消した痕跡まであって! それを知った私まで消されるかと冷や冷させられて! そんな事はいいんです! あれからギルと呪い師がどうなったんですか! ……これでも気になってるんです」

「気になりますか? 知れば、少々厄介な事になるかもしれません」


 脅しともとれる言葉など、お構いなしに助祭は声を張り上げた。


「それが何だって言うんです! ここまで来て止まるなんてありえません! 私は真実を求めます!!」


 鼻息を荒くする姿を見て司祭は口端を上げた。

 僅かな間に落ち着きつつある助祭の顔が次第に青ざめていく。頭に血が上っていたとはいえ、とんでもない暴言を吐いたと自覚しつつあった。


「あ……あの」

「それがあなたの立場を危うくする事になっても? 教会を盲信するあなたにはこくかもしれません」

「それでも、です。それが教会にとって都合が悪いのは想像できます。しかし、私は知ってしまった。止まりたくありません」


 そうは言うものの、助祭は力なく視線を落としていた。不安を抱いている。教会の闇の中で生きてきた司祭には、それがよくわかった。

 立ち上がり細い肩に手を置く。


「あなたの熱意はわかりました。それと、神聖なる教会図書館で大きな声を上げないように」

「……はい。すみませんでした」


 司祭は引き出しを開け、赤い本を取り出した。先ほどの本ではない。そこには『旅人たちの足跡』とあった。


「書ききれなかったので二冊目です。まだ途中までしか書かれていませんが、これをあなたに。続きは任せます」

「これは! 続きとは一体――」

「うわさをすればなんとやら。話は彼から聞いてください」


 図書館の扉がきしむ音を長く響かせながら開いた。

 司祭は挨拶代わりに手をあげる。助祭は驚きで口を開けたまま固まった。

 扉の脇にあるランプが来訪者の影をかたどる。


 その影は、つば広帽を持ち上げた――

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呪われし不老の旅人、世界を癒す。 Edy @wizmina

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