第85話 Outro

 まだ着られていなかったウェディングドレスを着て、私はそよぐ風に春を感じながらここであの人を待っている。


 今年の小岩井農場の一本桜は素晴らしい花を咲かせた。

 桜並木も満開の花で県道を彩って、少し風が吹くと初雪の様に散る桜の花びらが私の純白のウェディングドレスの裾を彩ってくれた。

 

 式は人前式にした。

 神様には悪いけど、私たちの大好きな人たちの前でこの景色に愛を誓いたかった。


 目では見えない、耳では聞こえない。

 愛がなければ分からないもの。

 センスオブワンダーを感じ取った宮沢賢治はここをイーハトーブと呼んだ。

 世界で私たちにしか分からない待ち合わせ場所、風鳴りかざなりの森。


 今日、暖はアメリカから帰国する。

 米国獣医外科学専門医の資格とともに。


 宮澤賢治の詩碑の前で私は目を閉じて風鳴りかざなりに耳を澄ました。

 遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。

 風が木々を揺らしている。



「ニャン丸」



 澄んだ風に乗って聞き慣れた声がした。


 私のことをニャン丸と呼ぶのはもはや世界で一人ではない。

 紗有美さんや詩帆はたまにふざけて私をそう呼んだし、あの卒業式の日以来、私は暖の研究室の後輩に大学で会うとと挨拶されるようになった。

 最初はものすごく恥ずかしかったが、暖の人柄なのか、からかう様な響きではなくて、という少しリスペクトを込めた呼び方だった。


 振り返ると、白のタキシード姿の暖が風を纏って立っていた。


「蒼依、ただいま」


「おかえり、暖」


「似合ってるよウェディングドレス。綺麗だよ」


 暖は少し照れながら笑う。


「ありがとう。暖もかっこいいよ。それに、かっこよくなった」


 懸命に努力をしてきた人の顔は、年を取ってなお美しくなるのだ。


「小説、読んだよ。良い話だった」


「うん。これからも少しずつ書いてみるよ」


「背、伸びた?俺のお参りのお陰かな」


「伸びてませんー。ヒールですー」


 久しぶりに会うのにそんな気がしなくて、私たちは声を出して笑った。


「ちょっと待って」


 暖はしゃがんで何か手を必死に動かしている。


「どうしたんですか?」


「ちょっとお花を摘みに」


 何年経っても変わらない暖の姿に私はつい笑って息が漏れた。


 何となく予想はつくのに、やっぱり私はだんだん気になってきて背中で笑う暖の手元を覗こうとしたけれど、前の時にぶつかって倒れた記憶が蘇り、遠目に見るだけにとどめた。


「はい。これ」


 シロツメクサの花かんむりだった。

 私のウェディングドレスと相性がよくて、私の頭で雫石の透明な青い空と溶け合って綺麗に輝いた。


「ありがとう」


「あとこれ。左手出して」

 

 差し出した私の左手の薬指に、暖は少し照れながら指輪をはめた。

 

「婚約指輪、渡せてなかったから」


 左手の薬指にはシロツメクサを模したダイヤモンドの指輪が輝いていた。


「蒼依、愛してる」


「愛してる、暖」


 誓いのキスを風鳴りかざなりが祝福してくれた。


「よし、じゃあ一本桜まで歩こう。みんな待ってる」


 私たちは手を繋いで歩き出した。

 100年前から続いている景色の元へ。

 100年後も続いている景色の元へ。

 

 あの日から忘れられない景色。

 今日また忘れられなくなる景色。

 きっと誰もが心の中にそんな景色を持っている。


 あなたの忘れられない景色を、私たちにも教えてください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スイートクローバー中毒 伊月美鳥 @itsukimidori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ