第10話
幼い頃、田んぼだらけだった土地に突然建ったおしゃれな高層マンション。その一室に詰草はお母さんと二人で暮らしていた。子供だけで遊びに行こうものならロビーにいるコンシェルジュに止められてしまうような、一般市民には敷居の高い場所。そして、周りと景観が合わないそのマンションから詰草は飛び降りて死んだ。
詰草の家に行くということはつまり詰草の死んだ場所に行くということだ。そこで亜鳥が何を見出そうとしているのか。私は最後まで見届けなければならない。
「詰草の家には行ったことがあるのか?」
「ん? ない」
「じゃあ何故詰草の家への道を知っているんだ?」
「あんな目立つマンションに住んでる人なんて限られてるから、地元じゃ有名だよ」
私がマンションを指差すと、初めてそこに向かっていることに気付いたように亜鳥は目を瞬かせた。
「あそこか」
「部屋番号知らないけどコンシェルジュいるからなんとかなるでしょ」
畔道の石を蹴りながら進む。太陽を割るようにそびえ立つマンションは酷く気味が悪かった。亜鳥がいなければ絶対に来なかった。ホテルのような大きいゲートをくぐり、私達は目的地に足を踏み入れる。
フロントに居る置物のようなコンシェルジュに「詰草さんの家にお線香をあげに」と言うと、確認作業の後インナーゲートが開けられる。エレベーターは永遠に続くかのような静寂をもたらして、チンと情けない音と共に目的階を告げた。
「亜鳥先行ってよ」
「む……」
怯んだわけではない。足が竦むとかでもない。私の体が「詰草の母親のことが苦手です」と言い張っているだけだ。息子にひとひらの情も見せない女。
冷たい扉の前に二人で立つ。亜鳥がインターホンを鳴らすとしばらくしてか細い声が応答した。
「――はい」
「はじめまして。彰人君の同級生の亜鳥といいます」
玄関ドアが開かれる。私達を出迎えたのはガリガリに痩せ細った女性だった。あまりにも記憶と違いすぎて、詰草の母親だと気付くのに時間がかかってしまった。彼女は歪な笑顔を浮かべ私達を家に招き入れる。
「お邪魔します。自分は彰人君とはクラスが同じで」
「私は、部活が一緒でした」
「そうだったの。彰人もきっと喜ぶわ」
線香の香りが充満する部屋で、二人並んで仏壇に手を合わせる。心が凍りそうだった。亜鳥はまっすぐに詰草の遺影を見つめている。
「彰人くんの部屋をひと目見ても?」
「ええどうぞ。散らかっているけどそのままにしてあるの」
書籍や原稿用紙が散らばる部屋に案内され、私達はただただ立ち尽くす。中途半端に引かれた椅子に、書きかけの原稿。まるで見えない詰草がそこにいるようだった。
「ずっとものを書いている子だったから」と詰草の母親が言う。私は窓に目をやって、詰草の最期を想像した。
小説を書いている途中にふと思い立ったのだろうか。飛ぶことを。
薄暗い部屋の中で亜鳥が肩を落とす。
「まあ……なにもないよな」
写真立てに入れられた写真を見ながら私は頷く。その古い写真には幼い頃の詰草ともう一人の子供が写っている。それを見ると、詰草の母親が思い出したように言った。
「『そら君』」
「え?」
亜鳥が聞き返す。
「あの子が死ぬ前に、『そら君に負けた』って言ってたのよ。この写真に一緒に写ってる男の子ね。昔児童館で一緒だった――」
詰草の母親はそこまで言うと、頭を抑えてふらりと壁に寄りかかった。
「大丈夫ですか」
「ごめんなさい。せっかく彰人のお友達が来てくれたのに、疲れているみたいで」
「……俺たちもう帰ります。お邪魔しました」
亜鳥が私の手を引く。収穫があったのかは分からない。ただ亜鳥の手の力がとても強くて私は泣きそうになった。
▽
畔道を歩いている間、ずっと亜鳥に手を引かれている。まるで生きた獲物を逃がさないようにするみたいに。強い力で捕えられている。
亜鳥は詰草の部屋で何か見つけたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、亜鳥がふと足を止めた。
「お前の言うとおりだった」
「え?」
「最初から俺たちは話をすべきだったんだ。そうだろう――『薊
茜色の空を烏が飛んでいく。逃げるつもりはないのに手を掴む力はどんどん強くなる。
亜鳥がこちらを振り向くのを私は黙って見ていた。その表情に興味があった。一体どんな目で私を――薊そらを、詰草の幼なじみの『そら君』を見るのか。
意外にもその顔に浮かんでいたのは困惑、そしてほんの少しの後ろめたさだった。
「私の名前知ってたんだ」
「ああ」
「そう。私は薊そら。詰草の幼なじみ。詰草の母親には男の子だと思われてた。昔は今よりボーイッシュな子供だったから。でも、それがどうかした?」
「俺はお前に嘘をついた」
突然何を言い出すかと思いきや、亜鳥は聞いてもいないことを白状し始める。
「詰草を死に追いやったのは、多分俺だ。俺なんだ」
「まさか。どうしたの急に」
「俺は詰草の死の真相を暴くと言って、本当はお前を探していた」
「な、何? 私を……どうして」
「さっき、全てが繋がった。――『野草結び』を書いたのはお前なんだろう、薊」
ざあっと生温い風が田んぼを駆け抜ける。それは私達の髪を掬っていなくなった。とうに脱力した手は強く掴まれながらトクントクンと脈を打つ。
乱れた髪をそのままに私は笑った。
「どうして分かったの?」
▽
これは私と詰草の賭けだった。
百人一首で私に負けた詰草は札をビリビリに破った。そういう奴だった。どうしても、我慢ならなかった。歌人としての矜持だ。私は詰草を罵倒した。
「和歌を軽んじてる人にいい小説が書けるわけない!」
そして、そんな怒りで肩で息をする私に詰草は笑って言ったのだ。
「じゃあ勝負しよう。そら。和歌を重んじる君はさぞ上手い小説も書くんだろう。互いの分野で賞を獲った方の言うことを聞くってことでどう?」
そんな奴だったから。だから、私は本当に、詰草彰人のことが、嫌いだった。
▽
「俺は詰草が死んだ日、あいつと揉めた。それは『野草結び』のことが原因だった」
亜鳥はポツリポツリと、少しずつあの日の踊り場で起こった出来事を明かし始めた。
「あの時俺は『野草結び』の受賞を祝っただけだった。それが詰草の命に関わる地雷だったと気付かずに。詰草は俺の胸倉を掴んで怒鳴りつけてきたよ。あれを、『
「そして詰草彰人の名を語って『野草結び』を書いて、コンクールに出した人物を探していた? 詰草の死の原因となった、その人物を」
亜鳥に続いてそう言うと、少しだけ手の力が緩んだ。
「俺は、詰草の死が俺のせいじゃないと思いたかった。だから、より罪が重い者を探していたんだ。お前じゃないといいと思っていた。でも本当は、最初からお前しかいなかったんだ」
首を傾げる私に亜鳥は続ける。
「最初からお前だけ、あの作品を『
口を挟む必要のない、完璧な推理だった。
私と詰草の愚かな賭けに巻き込まれたかわいそうな亜鳥は、自分のせいで詰草が死んだと罪悪感を抱いていたらしい。
「私も亜鳥と同じだよ。詰草が死んだ原因が、私でなければいいと思ってた。だから知りたかった、他に理由がないか探したかった。詰草が死ぬに値する合理的な原因がほしかった」
「どうして詰草の名前で『野草結び』を?」
「賭けだったから」
私が詰草彰人の名で文芸コンクールに。
詰草が薊そらの名で俳句コンクールに。
そういう愚かな賭けだった。詰草が自分の作品も同じ文芸コンクールに出していたことは知らなかったけれど。
「賭けって、一体何を賭けてたんだ? まさか命を、」
「まさか! 私が勝ったら詰草が筆を折る。詰草が勝ったら――ふふ、私に恋人になれって。馬鹿でしょ。それであいつ、負けて死んだの」
「人は恋で死なない。本当のことを言え」
「あは、亜鳥! それって最高の皮肉だよ」
喉の奥から乾いた笑いが込み上げてくる。詰草は愚かだったと同時にずる賢かった。私を手に入れるための理由がほしかったのだ。賭けに負けるはずがないと決めつけて。
だから、『野草結び』を読ませた時の詰草の表情は忘れられない。
『これは詰草彰人の最高傑作だ。将来小説家になれたとしても、きっともう、俺はこれを超えることはない。――だから、諦めるよ。きみを。そら、好きだった』
その言葉は目を閉じると蘇る。ふとした瞬間に自動再生される呪いがかかっている。
「安心して。詰草が死んだのは亜鳥のせいじゃないよ。全部私のせい。言ってやったんだあ。私、あいつに。賭けに勝って、私の『野草結び』が受賞して、プライドズタズタにされて茫然自失した詰草に」
「……なんて?」
亜鳥の声色は酷く落ち着いていた。私を刺激したくなかったのかもしれない。私は何度か浅く息を吸って、亜鳥の問いに答えた。
「あんたなんか大嫌い」
そう、まっすぐに亜鳥を見て言ったから、あの鉄仮面の亜鳥が珍しく複雑な表情をした。
「サスペンスごっこはおしまいだね。詰草が死んだ原因は、私。あいつが馬鹿にしていた私があいつよりもいい小説を書いて、プライドをへし折って……そしてあいつを振ったから」
「誤魔化すなよ、人は失恋で死なない! 薊、俺は諦めない。お前が語らなくても詰草が死んだ本当の原因を突き止めてみせる」
そんな亜鳥の必死さに、私はほんの少しだけ救われる気持ちになった。亜鳥が他の理由を探してくれているうちはまだ私の罪が確定されないような気がして。
▽
亜鳥は目を閉じ腕を組み、詰草彰人が昔語る『野草結び』を聞いていた。
「詰草が酷い失恋をしたことは理解した。で? まだ続きがあるんだろう、あいつが死にたいと思う程の出来事が。どうなんだ詰草――いや、薊」
アイスティーの氷が溶けてゆくのを黙って見つめながら、詰草彰人――薊そらはひとつため息をついた。
「亜鳥は恋人いる?」
「は? いや」
「好きな人は?」
「いないが……詰草の話になんの関係がある。誤魔化すなよ」
十年前もこうやって煙に巻かれたのを思い出し、亜鳥は語気を荒くする。しかし薊はそんな亜鳥に対して、怒るでもなく哀しむでもなく、ただ平坦な声を返した。
「だったら亜鳥には一生分からないだろうね」
「まさか詰草は本当にお前に失恋したというだけで死んだと? 本気でそう言いたいのか?」
「他に理由があったのなら、当時亜鳥が暴いてくれていた。そうでしょう?」
亜鳥は信じられないものを見るような目をして息をのむ。
人間は失恋如きでは死なない。亜鳥の十年変わらないその考えが覆ろうとしている。
「千年前から人は恋で死ぬ。だから歌詠みは恋を詠むの」
歌人の彼女が今こうして詰草彰人を名乗り小説を書き続けている理由は詰草への償いで、亜鳥の前で懺悔するのは罪悪感からだ。
残酷な答えに辿り着き、亜鳥は呆然と薊を見つめた。
「お前のせいじゃない」
薊は黙っている。亜鳥は深いため息をつき、項垂れた。
「お前も俺も詰草も、みんな間違えていたんだ」
彼女の大嫌いには確かに怒りや恨みの感情がめちゃくちゃな配合で込められている。しかしその中にはほんのひと匙の愛が確かに込められていることを十年前の亜鳥は理解していた。
しかし、詰草はそうではなかったのだ。
自分の文学を否定され続け、詰草を許せず言葉を間違えた薊。
薊の言葉を額面通りに受け取った詰草。
失恋で人は死なないと思い込んでいた亜鳥。
「大嫌いだった。でも唯一の存在だった。死んでほしいわけじゃなかった」
「分かってる」
幸せに向かってただ道なりに進もうとする詰草の足元に、ひとつの草結びがあって、詰草は足を取られて転んだ。その草を結んだのは、薊の放った強い力を持つ呪いの言葉だった。
十年越しに詰草彰人の死の真相に辿り着いた亜鳥はしばらく目を閉じてから、真正面の薊を見る。そしてようやく視線が合うと、何かから解放されたような晴れやかな笑顔を目の前の人物に向けた。
「お前が一生罪を背負うなら、俺も一緒に詰草を死なせた償いをする。だからもう泣くな。もう詰草彰人をやめていいんだ、薊」
アイスティーの色はすっかり薄まっている。グラスの縁からするりと結露が伝い、薊の零した涙と混ざった。
亜鳥は机に置かれた細い手に己の手を重ねる。
亜鳥の目の前の詰草彰人は、「ありがとう」とだけ言って、ただ綺麗に微笑んでいる。
▽
夢を見た。後悔をなぞるように再現される夢。私は紺色のセーラー服を着て、目の前にはあの日のままの詰草がいる。
詰草の声はもう思い出せない。それでも私が言うべきことは、十年前から同じなのだった。
「ごめんね詰草。気持ちは嬉しいんだけど付き合えないよ。だって私、昔からあんたのこと大嫌いだから」
(了)
野草結び 三ツ沢ひらく @orange-peco
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