浜辺の夏祭り

神坂 理樹人

二十歳の夏

 潮騒の音は規則的に僕の心を苛立たせるように響いていた。


 窓辺に燻る蚊取り線香に誘われた蚊が、力尽きて桟の隙間に落ちていく。


 二十歳の夏。割のいいバイト代とそれから少しの下心に誘われて、僕は海水浴場の海の家で泊まり込みのアルバイトに来ていた。


 最初こそ水着の女の子たちに目移りしていたが、すぐにそんなことなんて気にしていられないほどの忙しさになり、バイト終わりに海で泳ぐなんて気力もなく、今は古い民宿の離れの一番端で月を眺めていた。眠ろうと思っても、こうして波音に安眠さえも邪魔されている。


 普段は客を入れない部屋だけに窓から望む景色も半分は崖に阻まれていてあまりよくはない。サスペンスドラマのラストで犯人が飛び降りるように、僕は崖の上から海に向かって指で軌道を描く。


 物理法則に逆らって指の軌道を崖の上に戻すと、そこに小さな人影が見えた。


「こんな時間に一人で?」


 考えているうちに離れから外に出ていた。別に警備員のバイトをしているわけでもないのに。ただ直前になぞった指先を、あの人影が追っていくようなおぞましさを感じたのだ。


 バイトの先輩に教わった裏道という名の岩肌を登ると、遠くに見えた人影はまだそこにいた。


 浴衣を着た女の子だった。歳は中学生くらいだろうか。真っ黒な髪を結ってお団子にまとめている。月明かりに浮かぶ浴衣は淡い水色の生地にシャボン玉のような輪が描かれている。


 僕の存在に気付いたその娘が、驚いた表情で振り返る。少し背伸びをして化粧をしているのだろうか。頬紅が子供っぽい目元と不釣り合いだった。


 誰もいないと思っていたんだろう。まんまるに開かれたままの瞳で僕の姿をまっすぐに見つめている。


「今日は月が綺麗ですね」


 無言の静寂に耐えられなくて、僕は空に視線を逃してそう言った。何度か聞いた夏目漱石のエピソードを思い出したのは口から出た後だった。


「えぇ、そうですね」


 女の子は僕の言葉を字面通りに受け取ったようだった。空を見上げて彼女の瞳と同じまんまるの月を眺めている。とてもこれから飛び降りるようには見えない。


「どうしてここに?」


「夏祭りを見に来たんです」


「夏祭りなら確か神社の方じゃなかったかな?」


 それも始まるのは来週の土曜日。まだ十日以上も先の話だ。場所も時間もてんで合っていない。


「浜辺の夏祭りがあるんです」


 僕の不思議がる顔に答えるように彼女は小さな声で言った。


「もう一つの夏祭り。そろそろだって聞いたんですけど、今日じゃなかったみたいですね」


 それだけ言うと、女の子は下駄の乾いた心地いい音とともに宵闇の中に消えていった。地元の子なんだろう。月明かりだけの道でも迷いそうな雰囲気は感じられなかった。


 浜辺のもう一つの夏祭り。


 女の子の言ったその言葉だけが僕の心に妙に引っかかった。はじめて聞いたはずなのにどこか懐かしい。しかし、記憶を手繰り寄せようとしても、頭の中で空をつかむばかりだった。


 明日もあの女の子はここにくるんだろうか。あんな切り立った崖で行われる秘密の夏祭り。僕はバイト初日の何かが起こりそうな高揚感が、また胸の奥で火をつけたような心地がしていた。


 翌日、胸の高鳴りで眠れなかった目を擦りながら海の家へと向かった。夜の静けさとは対照的に、太陽の光を受けて白く輝く砂浜は小麦色の艶やかさを散りばめて今日も騒いでいる。


「浜辺の夏祭り、か」


 一晩経っても僕の頭の中はその言葉が泳ぎ続けている。どうしてこんなにも気になってしまうのか。その理由さえもまだはっきりとはしなかった。


「お前、それどこで聞いた?」


 僕のつぶやきを耳ざとく拾い上げた先輩が耳打ちする。


「昨日、浜から見えるあの崖で」


「誰に?」


「誰って、地元の子っぽい女の子でしたけど」


 先輩の顔が険しくなる。


「今年もあるのかよ。どんな子だった?」


「今年も、ってどういうことですか?」


 僕の顔がただの興味本位には見えなかったんだろう。先輩は休憩時間に人気のない防砂林へと僕を誘った。


 海水浴客でいっぱいの砂浜から少し離れただけなのに、世界が変わったように静かだった。潮風が砂を飛ばして並木の葉に当たる音が続いている。


 人気がないことは一目でわかるというのに、先輩は警戒するように周囲を見回して、声をひそめてこう言った。


「毎年自殺する奴がいるんだ。あの崖から飛び降りて」


「そんな。あの女の子が自殺するって言うんですか?」


「それはわからない。けど、去年も一昨年もその前も中学か高校くらいの女の子が急に飛び降りるっていうんで地元じゃ有名さ。決まって浜辺で夏祭りをやってあるから見に行く、と言って出かけたまま帰ってこないんだ」


 話している間にも先輩の顔色は悪くなっていった。自分の働いている近くで人が死ぬなんて気持ちのいいことじゃないだろう。


「僕の泊まってる部屋からあの崖がよく見えるんですよ。時々気をつけて見るようにしますよ」


「いや、それもな」


 先輩は僕の提案に眉を寄せた。少し悩むように考えた後、僕の目を見てゆっくりと口を開く。


「あの崖で死ぬやつはいつも誰かと一緒に夏祭りに行くっていう話だ。でも毎年自殺者は一人しかいない」


「それってつまり?」


「もう一人は幽霊だって噂もあるんだ。幽霊が毎年一人、生贄を連れていくんだってな」


 先輩の顔がこれほどこわばっていなければ、僕も夏にぴったりの怪談話だと笑って返しただろう。でも少なくとも毎年自殺が起きる、それは嘘か本当かわからない怪談じゃなく、先輩にとっては事実だった。


 僕はそれ以上話を聞くこともできず、そこで話を切った。どうせ波の音で眠れないのだ。ぼんやりと来るかもわからない人影を追っていた方がいくらか眠気にも誘われるだろう。


 その日から仮住まいの部屋の窓から崖を見つめるのが僕の日課になった。


 月明かりの夜はよく見えた。小雨が降る日は散歩がてらにあの崖まで歩いていった。何日か通っているとあの女の子が通ったであろう近道も見つけることができた。


 それでも当の本人はあれから一度も姿を見ていない。


「やっぱり先輩の考え過ぎだったんじゃ」


 あのくらいの年頃なら友達にからかわれてありもしないお祭りを楽しみにしてやってきただけかもしれない。


 八月のよく晴れた夜だった。いつもより少しばかり風が強く、波の音が不規則に聞こえていた。砂が舞っているのか窓から見えるあの崖がいつもよりざらついて不鮮明に見える。


 指先で崖の上をなぞるとノイズが入ったテレビのように輪郭が歪んでいるような気がする。


「行ってみるか」


 大きな波の音は僕を寝かせてくれそうもない。もはや通い慣れたあの崖まで行くことくらい面倒に感じることはなかった。


 旅館を出てすぐに脇道に入る。小さな柵を飛び越え、踏みならされた獣道を登っていくと、浴衣姿の背中が見えた。


「あ、君!」


 声をかけた瞬間に黙っていればよかったと思った。僕がいたら彼女は今日飛び降りるのを諦めるだろう。でもそれは根本的な解決にならない。踏み出そうとした瞬間に止めてあげる方が何倍も助けになるはずだ。


 女の子は少し身を縮こめながら振り返ったが、僕の顔を見て安堵したようだった。


「前に会ったお兄さんですよね。先生だったら、怒られるかと思いました」


 あの月明かりだけの夜に一度会っただけなのによく覚えていたものだ。先輩からの話を聞いていなかったら僕ははっきりと顔を思い出せただろうか。


「今日はどうして?」


「夏祭りを見に来たんです」


 彼女はまっすぐな目でそう言った。嘘をついている様子もない。でも僕は部屋の窓から見たこの先の風景を知っている。お祭りなんてあるはずがないことを。


 女の子は足場の悪い崖への道をわらじですいすいと登っていく。地元の子なら通い慣れた道なのだろう。まるで浮いているように軽やかな足取りだった。


 先を行く女の子の背を追いかけて、歩みから小走りになる。足下の石に何度かつまづきながらも崖の上に飛び出す女の子を必死に追いかけた。


「……そんな」


 丸い提灯の明かりに目が眩んだ。焼きそばの露店から焦げたソースの香りが漂ってくる。ザラメの溶けた甘い香りが追いかけてきて、僕は口に溜まった唾を飲みくだした。


 夏祭りだった。そこにあるのは幼い頃の夏の思い出に深く刻まれた楽しい記憶によく似ていた。露店が並び、遠くにお囃子が聞こえる。その通りの真ん中を女の子がはしゃぎながら歩いていた。


 ありえない。こんなことは。


 僕は今日も部屋の窓からこの崖を眺めていた。いつもと変わらない、寂しい何もない場所だったはずだ。それが、たった数分のうちにお祭りが始まるだなんて。


 それにぼんやりと覚えていた違和感の正体がようやくわかった。ここには僕と女の子の二人しかいない。お祭りなら地元の人たちが集まってくる。出店にも店員がいて、客引きの声も上がるはずだ。ここにはそれが一切ない。


 どこか、本来は来てはいけないような場所に迷い込んだような感覚。きらびやかな提灯の明かりとは対照的に体が震えるような冷たさがあった。


 女の子の背中を追う。このまま目を離したらどこかに吸い込まれて消えてしまいそうな怖さがあった。


「待って!」


 声をかけても女の子は振り向きも止まりもしない。縁日の通りを一人まっすぐ歩いていく。


 はっとした。その先にあるものは目的の屋台でも神社の本堂でもない。ここは僕が毎晩見つめていた崖の上。女の子の歩く先には地面の終わりがあるだけだ。


 手を伸ばす。歩き続けている彼女は僕の手がそこに届く頃にはもう前へと進んでいる。手だけでは届かない。全身を投げるように飛びかかると折れそうなほど細い体に抱きついた。


 もう、足は地面に立てなかった。


 体は真っ逆さまに落ちていく。眼下には真っ黒な海。腕の中の女の子は寂しそうに笑っていた。


「やっと、迎えにきてくれた」


 近づいてきた水面に僕の顔が映る。僕も笑っていた。生気のない目で口角を上げている僕は底冷えするような恐ろしさがあった。


 違う。僕が欲しかったのはこんな結末じゃないのに。


 二人の体が夜の海に沈む。不思議と苦しさはなかった。僕の腕から解け出た彼女がゆっくりと水底に沈んでいく。その姿を恍惚として僕は見下ろしていた。浮きもせず、沈みもせず。


 当たり前だ。


 だって僕は、とうの昔に死んでいるのだから。




 目が覚めると、僕は民宿の離れの布団の中にいた。長い夢を見ていたような気がする。それなのにその内容はすっかり覚えていなかった。


 外は雲ひとつない晴天。今日も砂浜は活気に溢れているだろう。夏の熱気に当てられて、燃えるような出会いに期待してしまう。


 運命の歯車が軋む音を立てて回り出すような心地がする。窓の外を眺めながら大きく伸びをすると、夢のことなど頭からすっかり消えていた。


 僕の二十歳の夏はまだ終わらない。


 ふいにどこかで、夏祭りのお囃子の音色が聞こえたような気がした。

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浜辺の夏祭り 神坂 理樹人 @rikito_kohsaka

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