神さまの生みの親
現世に発現した地獄。ただ茫々と広がる荒地。今や死だけが息づくこの場所に、数年前までは、他に類を見ないほど豊穣な大地が、女神の園と呼ばれた瑞々しい大地が延々広がっていたのだと、誰が信じられただろう。
神はいない。その光景を目にすれば、どれほど尊い僧も、どれほど敬虔な信者も、決まってそう口にした。せざるを得なかった。そうして、神は死んだ。長らく続いた戦乱は、神さえも葬ってしまった。もはや誰も祈らない。信じない。
「神託を受けたのです」
ゆえにその女の言葉を誰一人として信じなかったのは、至極当然のことだった。襤褸の白衣に身を包み、薄汚いロザリオを握って、そういう戯言を吐く女。嘲笑の的でしかない。陛下に会わせてください。そう訴えながら城門まで来ては、衛兵に追い返され。その愚行もそろそろ百を数えようとしていた。衛兵の方がうんざりして、ついに実力行使に出たようだ。白い衣を真っ赤に染めた女は、城門前広場に捨てられていた。もうぐったりしていた。
「死んでんの?」
声をかけたのは、ただの気まぐれだった。そんな格好で倒れられていると、嫌でも昔の記憶が――死んだ友たちのことが呼び覚まされて、ひどく不快だった。女は微かに瞼を震わせて、それからゆっくり少しだけ開く。消え入るような声で返事する。
「まだ……生きて……います……」
「そっか。がんばんな」
助けてやってもよかったが、生憎瀕死の人間をどうにかしてやれるような知識は持ち合わせていなかった。わざわざ厄介ごとに首を突っ込んでくれてやる、そんな義理もない。立ち去ろうとすれば、弱々しい声で呼び止められた。いちいち拾う耳を呪う。
「傷だけ……塞いで……もらえませんか。身体がもう……動かなくて」
「って言われても、オレ医者じゃないし」
「お願いします……何か布を……巻いてくだされば……」
それだけ言って女は気を失った。死んだのかと思って呼吸を確認するが、どうにか息はしているらしい。面倒なことにも。このまま見捨てれば、オレが殺したことになるのだろうか。刺されたらしい腹に目をやる。流れ出す赤が目に痛い。舌打ちしていた。
「死んだってオレを恨むなよ。ド素人なんだから」
長い裾を少しばかり拝借する。砂と埃で汚れていたが、ないよりましだろう。腹を縛ってやってから抱え上げる。予想していた重さの半分ほどにも満たなくて、眉を上げた。見れば、女は痩せに痩せていた。
「あの藪医者、こんな重傷者治せんのかな」
呟いたが、それ以外にどうしたらいいのかさっぱり分からない。腕の中の女は青くなってはいたが、まだ確かに温かくて、仕方ないからオレは足を動かした。
◇
「若い娘はええなあ。どこぞの小汚いこそ泥を治すより、よっぽど腕が鳴るというものじゃ」
軽いとは言っても、人一人担いで走るのは容易なことではなかった。息を切らしながら必死に駆け込んだ廃屋同然のぼろ屋。何事かと寄ってきた藪医者は、しかし開口一番そんな悠長なことを言ったので、思わずオレもいつもの調子で迎撃してしまう。
「黙れエロじじい。猥褻罪に問われてもオレは知らないからな――じゃなくて、本当にやばいんだって。ほら、血、こんなに」
途中で我に返って慌てて女を差し出したが、藪医者は欠けたコップから暢気に茶を啜る。
「わしに掛かればそんなもんいちころじゃ。そこで待っておれ。憎まれ坊主にゃ茶なんぞ出さんぞ」
手近な台に湯飲みを載せて、ようやく藪医者は女を受け取った。途端真剣な顔になる。藪医者が医者に進化した瞬間だ。
「オレ待つ必要ある?」
「いいから待っておれ」
玄関に立ちっぱなしのオレを残して、医者と抱えられた女は奥に消えていった。
◇
「おまえが人助けとは珍しいこともあったもんじゃ」
「ほっとけよ。気まぐれだ」
埃っぽい布団にくるまれた女は、幾分血色を取り戻したようだった。肩の荷が下りた気分だ。藪医者とばかり思っていたが、少し見直した。それは言わないでおくが。
医者はにやりと意地の悪そうな顔をして、なぜか右手をこっちへ延べてきた。とてつもなく嫌な予感がする。オレは一歩、足を引いた。
「なんだよその手」
「お代がまだじゃな」
「なんでオレが払うんだよ」
「おまえが連れてきたんじゃろうが。有り金全部出せ」
前言撤回。誰が見直すかこんな奴。勢いよく手を払ってやる。ぱしっと小気味よい音が鳴った。
「ふざけんな。あの女から取ればいいだろ」
「聖職にある方から金など恐れ多くていただけん」
鼻で笑ってみせる。
「何が聖職だよ。神さまなんていないんだろ」
「もしかしたらおわすかもしれん。罰が当たるのはいやじゃからな」
「だったらただ働きだな」
「こちとら商売じゃからそういうわけにはいかん。いただいとくぞ」
見覚えのありすぎる布袋が医者の手の中にあって、慌てて腰のベルトに手をやったが、そこにいつも挟んであるはずの財布がない。すぐに取り返そうとしたが、医者は余裕の顔でオレを避けると、してやったり顔で笑んだ。
「待て、全財産とかねえよ! ぼったくりにもほどがある。返せよ」
「安いもんじゃろう。人の命は金じゃ買えん」
急に真面目な顔を装って言ってくるが、全然説得力がない。もう一度抵抗してみたが、やはり無駄に終わる。空を切った腕がむなしい。
「覚えとけよこのもうろくじじい。二度とこんなところ来るもんか」
「前にも聞いたなその台詞。相変わらず口が減らん」
腹立ち紛れにぶつけた言葉もさらりと返され、怒りのやり場がない。三日分の仕事でようやっと潤ってきた頃だというのに、これではまた今日も働き尽くめになる。大損だ。気まぐれでお節介なんてするもんじゃないと、ここにきて心底後悔した。神さまとやらがいれば、なんなんだこの仕打ちはと呪ってやるところだ。
「その女にオレにいつか恩返せって言っとけよ」
「これしきのことで恩を着せるのか。小さい男じゃ」
「誰のせいだよ!」
吐き捨てるように言って、オレはぼろ屋を後にした。懐はこの上なく寂しくなったが、不思議と気分は軽く、身体の奥が少し温かいような気がした。
◇
「助けてくださって、ありがとうございました。本当にありがとうございました。私がこうして生きていられるのも、あなたのお陰です」
数日後、街中で出会った女は、何度も何度も繰り返し礼を言ってきた。もういいと何度も言ったのだが、しつこく付きまとってくる。こいつのせいで全財産は取られるし、邪魔で盗みはできないし、もう散々だ。人助けなど二度とするものかと思う。しかし、どうにもひとつ気がかりなことがあって、オレは今なお後を追ってくる女に向き直った。
「あんたさ、神託がどーのと毎日熱心に城まで通ってたらしいけど、その割りには神さま神さま言わないのな」
少し驚いてから、女は緩やかに微笑んだ。
「人を救えるのは、人だけですわ」
「じゃあ、あんたは神さま信じてないんだ?」
「神は、おわすかもしれません。でもきっと、見ておられるだけです」
「それなら、神託受けたってのは嘘かよ」
「私が神託と信じる限り、それは神託なのです。民がいると信じれば、そこに神はおわすのです。信仰とは、そういうものですわ」
「何が言いたいのかさっぱりなんだけど」
「民は信仰を失い、絶望しました。私が受けた“神託”は、民を絶望から救い、希望を与えること」
「オレの頭がおかしいのか、あんたの頭がおかしいのか、どっち? やっぱり分からねえよ」
「さあ……どうでしょうね」
女は謎めいた微笑みを浮かべた。どこかの女神像そっくりな、なんだか憎らしい笑い方だった。
◇
しばらくして、城下町はある噂で持ちきりになった。
――死んだはずの女が生き返った。神に遣わされた聖女に違いない。
こうして死んだはずの神は再びこの世に生まれることとなったのだが、オレとしては、なんだか腑に落ちないのである。
「人間って単純だよな」
結構真剣な感想だったのに、医者はあろうことか、笑い飛ばしやがった。
「ええじゃないか。わしもおまえも聖女さまの命の恩人、ともすると神さまの生みの親じゃ。出世したもんじゃ」
「生みの親がぼったくりの医者にコソ泥じゃあ、神さまも浮かばれねえな」
徐々に活気を取り戻していく人や町や大地を見る分には、まあ、気分が悪いというわけではないのだけれど。
【短編集】はてなしの空 If @If_
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