処刑女王マリアンヌ

 中庭には、お花がたくさんある。いろんな色がある。いろんな形がある。いろんなにおいがする。そういういろいろを楽しみながら歩くのが、大好きだった。お母さまといっしょにお話しながら歩くと、もっと楽しかった。けれどきのうと今日はお花なんてちっとも目に入らない。イナエクがあんなことを言うから。お母さまがお父さまとはちがう男の人を好きだなんてこと、あるはずがない。そんなことお父さまが信じるはずがない。しかもお父さまがお母さまを殺してしまう命令をするなんて、ぜったいにあるわけない。イナエクはうそつきだ。ひどいうそつきだ。


「マリアンヌさま」


 うしろから名前を呼ばれたけれど、イナエクの声だったから振り向かなかった。それでもしつこく呼んでくるから、背中を向けたまま言ってやる。


「うそつきのイナエクはきらい。あっち行って」


 イナエクは困っているだろうなと思った。でもぜったい振り向かない。ちゃんとうそだって言ってくれるまでは。


「マリアンヌさま、昨日は申し訳ございませんでした」


「あやまったってゆるさない。きのうのはうそだって言うまでぜったいゆるさない」


「昨日のことは……」


「うそだったんでしょ? そうでしょ?」


 早くうそだと言ってほしい。急いで聞いた。イナエクが答えるまでちょっと時間がかかる。泣きそうになった。


「はい、マリアンヌさま」


 やっぱり! うれしくてほっとして、なみだが一気に出てきた。ふり返ってイナエクのところへ走っていく。ひざのところをつかんで、ぽかぽかたたいた。


「イナエクのばか! だいきらい」


「申し訳ございません、マリアンヌさま」


 まだちょっと怒っていたけれど、許してあげることにする。なみだを手でふいて、いいよと言うと、イナエクは顔を変えないままうなずいた。イナエクはいつも同じ顔をしている。笑わないし、怒らないし、もちろん泣かない。どうして? と聞いたことがある。イナエクは長く生きるとこうなるのです、と言っていたっけ。


 しばらく、イナエクは何も言わなかった。泣きやむのを待ってくれているんだと思って、がんばって早くなみだを止めた。さいごにほっぺをそででぬぐって、イナエクを見上げた。


「止まったよ」


 待っていたように、イナエクが言った。


「では、マリアンヌさま。お母さまがお呼びですので、一緒に行きましょう」


「お母さまが?」


 一週間くらい、お母さまを見ていない。どこか遠くの国へお仕事に行ったと聞いていたけれど、もう帰ってきたみたいだ。早く会いたい。今度はどんなおみやげ話をしてくれるのだろう。砂がいっぱいの国のお話はおもしろかった。またあんな話が聞きたいなあと思う。それに、この前みたいに新しい本を買ってくれているかもしれない。どんどん歩いていくイナエクに、うきうきしながらついて行く。




 お母さまのお話を想像しながら歩いていると、いつの間にか中庭をすぎてお城の北側へ来ていた。はっとする。こっちはだめだ。お父さまがぜったいに入ってはいけないと言っていた。こわいものがたくさんあるからって。あわててイナエクを呼ぶ。


「イナエク、こっちに来ちゃだめなの! お父さまが近づいちゃいけないって」


「今日だけは国王さまもお許しです」


 イナエクはやっぱり止まらない。いつもより速足だ。こわい。少し迷って、でも一人で居るのはもっとこわかったから、置いていかれないようについて行く。来たことがない場所だからか、いろんなものが不気味に見えた。このあたりはお花も咲いてないし、木もない。ぽつりぽつりと立つ建物があるだけで。


「この建物です」


 だいぶ歩いてから、五階建てくらいの建物のところについた。お城とは違って、なにかさみしい感じのする建物だ。かべが黒っぽくて、ツタがたくさんからみついている。その建物のまわりに、見張りがたくさんいた。手に武器を持って。とがった先っぽがぎらりと光る。イナエクがいっしょだから大丈夫だけど、やっぱりちょっとこわい。


「お母さまはこの中にいらっしゃいます」


 イナエクに命令されて、見張りがとびらについたカギを開けはじめた。とびらは小さいのに、カギは大きいし三つもある。時間がかかっているから、その間に建物をもう一度よく見てみることにした。小さいまどが何個かある。けれど全部のまどに黒いさくがあって、中のようすは分からない。お母さまはほんとうにこんなところにいるのだろうか。


「開きました、いきましょう」


 イナエクが開いたとびらの向こうの、暗いところへ進んでいく。入ってはいけない場所のような気がしたけれど、置いていかれるのはこわかったから、勇気を出して進んだ。中は細いろうかが続いていて、行き止まりに階段があった。さっさと上っていくイナエクを追って、階段を上る。明かりが少なくてしっかり足元が見えない。急ぎすぎて、いつも言われているようにドレスを持ち上げながら上るのを忘れてしまった。すそをふんで二回か三回くらい転びかけたあと、ようやく階段が終わった。また細くて暗いろうかをちょっと歩く。階段から三つ目のとびらの前で、イナエクは立ち止まった。上着の中からカギを取り出す。かちゃりという音がしたあと、とびらは開いた。


「さあ、お母さまはこの中です」


 どうしてお母さまがこんなところにいるの? 聞きたかったけれど、なんとなくいやな予感がしたからやめておいた。大人しく、開いたとびらの中へ入る。一番最初に見えたのは、さっき外で見た黒いさく。さっきはまどのところにあったけれど、今度は部屋のまんなかにある。その向こうに、女の人がいた。お母さまじゃないよ。イナエクに言いかけて、声が出なくなった。女の人は、お母さまだった。けれど、いつものお母さまではなかった。かみの毛がぼさぼさで、きれいなドレスの代わりに黒いシーツみたいなものを着ているし、手のところにはくさりが巻きつけられていて、大きかった目は糸みたいに細くなっていた。なにか、ちがう。こわい。


「お母さま」


 自分でもびっくりするくらい、小さい声しか出なかった。お母さまはちょっと首を動かしてこっちを見ると、にっこり笑った。


「マリア」


 笑って、ものすごい速さでこっちによって来た。がしゃん。お母さまが黒いさくにぶつかって、大きな音がした。すごく痛そうな音がしたのに、お母さまは笑っている。笑っているけれど、こわい。黒いさくをにぎりしめて、お母さまが笑う。ずっとずっと笑う。


「マリア……あいつの子……あいつの……」


 お母さまの笑い声がどんどん大きくなる。いつものきれいな笑いかたじゃなくて、なにか、そう、おばけみたいな笑いかただ。足がふるえる。逃げ出したくなった。うしろに下がろうとすると、黒いさくのあいだからお母さまの手がひゅん、と伸びてきた。手首に巻きつく。痛い。すごい力だ。


「お母さま、はなして」


「あいつさえいなければ、あいつさえいなければ、わたしは」


 お母さまの言っていることの意味が分からない。声は怒っているのに、お母さまはやっぱり笑っている。こわい、こわい、こわい。うしろにいるイナエクをふりかえる。イナエクはいつもの顔でこっちを見ていた。なんで助けてくれないの?


「イナエク、たすけて」


「あいつさえ……いいえ、おまえさえいなければ……マリア、おまえさえ」


「お母さま、やめて、やめて!」


 つかまれたところが痛い。こわすぎて、泣きたくてもなみだが出ない。イナエクがやっとやって来て、お母さまの手をつかんだ。それでもお母さまははなしてくれない。すると、イナエクがまた上着の中からなにかを取り出した。それがぎらりと光って、お母さまの手につきささった。ナイフ。お母さまがぎゃっとさけんでころんだ。お母さまの手ははなれたけれど、代わりにぬるっとするものがついた。うでを顔の前に持ち上げてみる。赤いもの。血。


「あ……」


 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。もういやだ。こんなところ、もうたくさんだ。大声で泣きながら、来た道をもどる。階段でころんで、ぐるぐるころがった。頭が痛い。手でおさえる。また、血。もういやだ。いやだ。急いでろうかを走る。明るいところへ。とびらを出たら、足がかくんとなった。見張りがよって来る。痛い、赤い、こわい。もう、なにも、分からない。




「マリアンヌさま」


 どれくらい時間がたったか分からない。なみだが出なくなったころ、イナエクが声をかけてきた。座りこんだまま、そっちを見る。


「イナエクが言ったこと、ほんとうだったの? だからお母さまはあんなところにいたの? お母さまはどうなるの?」


 イナエクはうなずいた。


「お母さまは、処刑されます」


「お母さま、死ぬの?」


「はい」


 もう悲しいのかどうかも分からなかった。なにがどうなっても、どうでもいいような気がした。だけどはやく帰りたかった。いつもの場所へ。あのあたたかい部屋にもどって、ふとんをかぶって寝るのだ。起きたらきっと、ぜんぶ元通りになっているから。いつものお母さまが中庭で待っているから。


「お城へ帰りたい」


 でも、イナエクは首を横に振った。


「マリアンヌさまの帰る場所は、お城ではありません」


 すっと、イナエクがうでをのばした。指の先にあったのは、高い高い建物。お城とはつながっていない、ぽつんとひとつだけ立った、黒っぽいかべの、さみしい建物。


「今日からマリアンヌさまのお部屋は、あの塔です」


「どうして?」


「国王さまのご命令です」


 手首をつかまれて立たされる。そのまま引きずられるようにして、つれて行かれた。今、目の前で起こっていることぜんぶが、信じられない。頭が真っ白だ。ふりかえると、遠いところにお城が見えた。手をのばしてみる。帰りたい、帰りたい。けれどお城はなみだにじゃまされて、だんだん見えなくなっていく。ちがう、ちがうんだ。これはぜんぶうそなんだ。みんなイナエクのうそ。だって、さっきイナエクはうそだって。だからあしたになったら、またイナエクがうそだって言ってくれる。でもなみだは止まらなくて、見える景色の色がどんどんまざっていく。まざって、まざって、まざって。そしてもう、何にも見えなくなった。


 ◇


 フルシファン暦九三七年、クノウカ王国ケニシカ朝第十八代国王シーリーの御世。クノウカ王国は数年に渡る飢饉により荒れ果て、百五十年近く続いたケニシカ朝も疲弊の兆しを見せ始めていた。そんな中、同年九月三日、イナエク伯爵の密告により第一王妃アンと侯爵フラートの密通が露になる。二人はシーリー王の命のもと数日のうちに処刑され、アンの生んだ王女は不義の子の可能性があるとされた。しかしながら当時王女以外に王位継承権を持つ者はおらず、王女は王位継承権剥奪と処刑を免れた。以後二十年もの間、王女は城の北端にある塔の最上階の一室に幽閉されることになる。王女の名はマリアンヌ、後のケニシカ朝第十九代女王マリアンヌである。この章では、処刑女王と呼ばれクノウカ王国史上最悪と言われる女帝の一生を綴ることにする。


 ◇


 小さい窓の向こう側で、今日も陽が落ちていく。ちょうど四千回目の日没だ。十を数えたとき、百を数えたとき、そして千を数えたその日くらいまでは、次の日没はこの窓の外から眺めたい、きっと眺められると思っていた。今となってはその頃さえも懐かしい。


 毎日、何をするのも億劫だった。しなくてはならないこともなかった。できることもそう多くはない。ここにあるものは、西向きの小さな窓がひとつと、廊下から厳重に見張られた扉がひとつ、粗末な造りのベッドがひとつ、古びた小テーブルと椅子がひとつ、それに質素な衣類を入れた衣装ケースがひとつと、そして歴史書や聖書を並べただけの本棚がひとつ、それだけ。本棚の中身はどれもまったく面白いとは思えなかったけれども、すべて暗誦できるほどに読み尽くした。つまり、もう日没を数えることくらいしかすることがない。


 陽が沈みきる。辺りが闇に染まっていく。窓を離れてベッドに腰掛けた。一日を終えたところで、既に何の感慨もわかない。昨日も一昨日も今日も明日も明後日も何一つ変わらない、色のない時間の連鎖。辛いと感じることも、もうない。ただ、そうして様々な感情を失っていくことは、恐怖だった。自分がどんどん人でなくなっていくようで。




「おいおまえ聞いたか?」


 扉の向こうで見張りの声がしたのを、耳が拾った。そう言えばそろそろ見張りの交代の時間だ。しかし常よりもだいぶ騒がしい。少し耳を傾けてみることにする。


「第二王妃エリーナ様が王子を出産なさったらしいぞ!」


「待望のお世継ぎだな! 城は宴か。おれたちにも酒樽くらい回してもらえないかな」


「それより、お世継ぎが生まれたってことは、だ」


「そうか、ここの警備から解放されるかもしれない。それは嬉しいな」


「ここは楽だが、なにか辛気臭いというか……気が滅入るからな」


 世継ぎが生まれたのか。これで王家に罪人の娘を生かしておくメリットはなくなった。目の上の瘤がようやく取れることになって、城の者たちも一安心だろう。こちらにとっても朗報だ。こんな飼い殺しのような生活から解放されるのだから。たとえそれが死によってだったとしても、この連鎖が終わることに変わりはない。まだ人でいられる間にここから抜け出せる方法があるなら、なんでもいい、それは希望だ。


 残り数回だと思えば、毎日毎食同じの乾パンと、野菜の切れ端だけのスープも美味しく食べられるかもしれない。あと数十分で、食事係の足音と共に食器が揺れる音がするだろう。何年かぶりに、食事が楽しみだと感じられた。


 ◇


 同暦九四七年、前第二王妃のエリーナが出産したことにより第一王妃となる。国王待望の王子だ。名はカナン、英雄王と名高い第二十代国王カナンの誕生である。カナン王子は生まれたその日から見目麗しく、たいそう聡明そうな目をしていたと言われている。カナン王子が生まれたことにより、マリアンヌ王女は第一王位継承者ではなくなったが、シーリー王はまたもや王女の処刑を見送った。当時勢いを失ったケニシカ朝を滅ぼそうとする動きが目立っており、血統を守るため安全策を採ったのだ。


 ◇


 六千を過ぎた頃、日没を数えるのをやめた。無駄に増えていくだけで、むなしい行為だと気づいたから。このまま光も音も匂いもない世界に溶け込んでしまえれば、あるいはあの窓から飛び降りてしまえれば、どんなに楽だろうか。考えなかったわけではない。けれど最後のプライドが許さなかった。様々なものを失ったが、それだけは城の中央を貫く懐かしいあの柱のように、一片たりとも崩れない。かえって、むなしい。


 日が、ちょっと傾く。今日もようやく折り返し地点を過ぎた。この時刻になると、毎日無意識に耳を澄ましている自分がいる。ぱたぱたぱた。今日は聞こえてきた。じゃらじゃら、がちゃりかちゃり。ぎい。視線をゆっくり扉へ移す。開いた扉から、小さい顔が覗いていた。


「姉さま、こんにちは」


 いつものように本を一冊携えて入ってくると、まっすぐ部屋の隅へ向かっていった。後ろから二人の近衛兵が部屋へ入ってくる。いつもと同じく一定の距離を守りながら、ぴったりくっついて。部屋の隅の本の塔にたどり着くと、弟は背伸びして新しい本を塔の天辺に重ねた。そしてこちらを振り返る。


「姉さま、このまえ持ってきた本はちゃんと読んでくれた?」


 顔一杯の笑顔を向けて聞いてくるので、いつも思わず目を背けてしまう。あの目が駄目なのだ。きらきら光る、あのまっすぐな目が。視線を逸らしたままで首を振った。いつもの台詞を言う。


「ここに来てはいけないと、前にも言ったでしょう。なぜ分からないの」


「どうして姉さまに会いに来てはいけないの?」


 迷惑だと言ってしまうことは簡単だった。今度こそは言おうと決めていたのに、やはり、言えない。声に出そうとすると、言葉は直前で音を失うのだ。結局口をぱくぱくさせるだけに終わって、歯噛みする。もどかしい。最初は気にもならなかった本の塔が、近頃では目障りな数になってきた。これ以上は危ないと分かっているのに、言えない。拒めない。苛立たしい。


「カナルさま、お時間ですよ」


 近衛兵に急かされて、弟が扉のほうへ追いやられていく。こちらをちらりと見て、にこりと笑った。


「姉さま、またおもしろいお話を見つけたら来るね。今日の本はぜったいおもしろいから、読んでね」


 ぎい、ぱたん、がちゃがちゃ、かちゃり、ぱたぱたぱた。それで、もう音は聞こえなくなる。一日一日が千年のように長かったが、あれが来たときだけは一瞬で過ぎていく。腰を上げて、部屋の隅に歩み寄った。新しく積み上げられた本の背表紙を見る。『英雄イーカッコ』。滅びそうになった国を助けた騎士の話だ。やっぱりこの本も、昔お気に入りだった本のひとつだった。あれはそういう本ばかり持ってくる。そしてこの一冊で、あれの身長を越すくらいの塔が三つになった。一冊も手に取ったことはない。その一線は越えられない。これも最後のプライドが邪魔をする。手を伸ばしても、触れはしない。絶対に。




 足音がして、思わず手を引っ込めて扉を見た。そのとき部屋が思いのほか赤かったことに驚く。窓を振り返った。いつの間にか、もう夕暮れどきだ。時間の経過に気づかないなんて、久しくなかった。もう一度扉を見て、耳を研ぎ澄ます。人の声がいくつかする。しかし衛兵の鎧が揺れる音も、食事係が運ぶ食器の音もない。そのはずだ、見張りの交代の時間でも夕食を運んでくる時間でもない。あれも、今日はもう来た。それにあれはこんなに悠然と歩きはしない。声が騒がしくなる。みな口々にお待ちくださいと言っている。見張りの衛兵と食事係、あとは一人とその連れの近衛兵を除いて誰もここを通りたがらない、むしろこの建物に足を踏み入れることすらしたがらないだろうに、誰かがここに来ている。それも、衛兵が敬語を用いるレベルの身分の者が。一体何者か。


「失礼いたします、マリアンヌさま。お部屋に入ってもよろしいですか」


 静かに低く通る声。聞き覚えのある声だと思ったのは、きっと間違いではない。頭を過ぎったいくつかの映像に蓋をして、それから答える。


「どうぞ」


 鎖がこすれる音がし、次いで鍵が開けられる音がした。衛兵はすぐに観念したらしい。鈍い音を立てて扉が開いた。その奥に立っていた男の姿は、記憶に違わない。あの頃と同じブロンド、同じ長身、同じ痩躯。血統にそぐわない貧相な顔作りまでも。けれども懐かしさなど湧くはずがなく、ましてや再会の喜びなんて感じるはずがない。ただ疑問を抱くだけだ。どうしてこの男が、今、ここへ、と。


「大きくなられましたね」


 衛兵に扉を閉じさせてから、入ってきた男はそう口にした。顔色一つ変えず、あらかじめ用意しておいた台詞に、ただ声を乗せただけのような言い方で。そう、昔からこんな喋り方だった。鼻で笑ってやる。


「二十年も経ったからね。おまえこそ老けたわ。今年でいくつ?」


「四十七にあいなります」


「そう。老けたはずね」


 それには答えず、イナエクは視線をすっと横へずらして本の塔を見た。目を細める。


「あれはカナンさまが?」


「そろそろ目障りなの。来ないように言ってもらえるかしら」


 口が勝手に動いた。イナエクは顔をこちらへ戻し、じっと凝視してくる。怪訝な顔をするとイナエクはふっと口だけで笑った。


「ご冗談を」


 その一言に、なぜか無性に腹が立った。こんなにも怒りがこみ上げるなんていつ以来のことか。うまく抑制することができない。辛うじて堪え、目を睨み返して腕を組む。壁にもたれて口を開いた。長居はされたくない。本題を切り出す。


「それで今やずいぶん出世されたあなたが、こんなところへいかなる御用?」


 世から隔てられていようと、扉を守る衛兵同士の話は筒抜けだ。城の状況は知ろうとせずとも知れた。イナエクはまた無表情に戻ると、ほんの少しだけ間を置いて、至極静かに答えた。


「国王様が身罷られました」


 身罷られた。つまり、死んだ。あの男が。


「死因は?」


「はい?」


「死因は何かと聞いているのよ」


「医師はお食事が気官を塞いだのではないか、と申しておりました」


 ふいに腹の底から笑いがこみ上げてきて、しばらくそれに身を委ねた。狂ったように笑い笑って笑う。くだらない。喉を詰まらせたって? それこそ何の冗談。くだらない、くだらない。毒殺されたに決まっている。もう長くは持たないだろうと思っていたが、なんともあっけない。くだらない、くだらない、くだらない。実の娘を血統のために、物のように扱った父親。勝手気ままにふるまった挙句、簡単に殺されてしまうなんて。実にくだらない。


 ようやく笑いが鎮まって、一息ついた。ちらりと、あれの顔が浮かんだ。あれは泣いているだろうか。もう笑えなかった。イナエクが黙ってこちらを見ている。気づいて、頭を振ってその顔を追い出した。改めてイナエクの垂れ下がった目を見て、聞いた。


「国王陛下が身罷られて、それでどうしておまえがここへ? 遣いの者を寄越せばいいでしょう」


「お話があります」


「ええ」


 イナエクはそこでまたじっくり間を取った。こちらの目を離さない視線は、何か探るような、試すような。


「次の国王はあなたです、マリアンヌ王女」


 うっすらと、予想はしていた。飼い殺していた王女を有効活用する手段が、ようやく見つかったらしい。けれども、その押し付けがましい条件を呑む必要はない。そんなことのために、この生き地獄を今まで耐えてきたわけじゃない。都合よく国王に祭り上げられるくらいなら、殺してくれたほうがまだいい。ふふ、と小さく笑った。


「どなたの意向かは知らないけれど、お断りするわ。大体私は第二王位継承者。それもいつ王位継承権が剥奪されるか分からない立場のね。第一王位継承者は他にいるでしょう」


 聞き終えると、イナエクはゆっくりと首を横に振った。


「いいえ、あなたが国王陛下になるのです」


 言い切った。やはり腹が立つ。こんなに腹の立つ男だっただろうか。記憶違いかもしれない。あるいは勘違いかもしれない。考えてみれば、あの母親の一件からおかしかったではないか。あのときの記憶は途切れ途切れではっきりしないが、国王の命令だったにしてもイナエクの行動はひどいものだった。幼い頃の自分は、ずっと騙されていたのだろう。無理もない、あの頃は人の本質を見ることをしようとしていなかったから。人に裏があるなんて、考えたこともないくらい無垢な頃だったから。ちょうど、今のあれのように。


 その根拠は、と短く聞いた。イナエクはすらりとよどみなく答えた。やはり、あらかじめ決めておいた言葉を諳んじているようだ。


「私はあなたさまが四つの頃から国王さまにお仕え申し上げておりました。あなたがいかに聡明でいらっしゃるかは、よく存じております」


「それはありがとう。でも、いいえ、だからこそ断るのよ。こんな時代に国王なんかになったらどうなるか、分からないほど馬鹿じゃないわ」


 力を失ったケニシカ朝は、いまや風前の灯も同じだ。それを皆分かっている。城には次の王座を狙う者が溢れていることだろう。亡き王のように、殺されるのがオチだ。


「はい、あなたはよく知っていらっしゃる。だからこそ」


 イナエクはちらりと本の塔に目をやった。いやらしい目だ。どくり、と左胸が脈打つ。過ぎったのはあの大きくて澄んだ目。浅い息が漏れた。


「あなたが国王陛下になられるのです」


 私の知ったことではないわ。言葉は喉元まで迫りあがって、けれども遂に音にすることはできなかった。あれを目の前にすると言葉が出なくなる、そのときと同じ症状。代わりに、詰めていた息を吐き出した。ゆっくりと。自然と口が緩んだ。自嘲。始めからこのイナエクの手のひらの上で踊らされていた。腹立たしいけれど、もうどうにもできないことを理解する。


「いいわ、分かった。おまえの好きなようにするといい」


 吐き捨てるように言った。男が薄く笑む。


「御意に」


 イナエクに背を向けて、窓から空を仰ぐ。闇に塗りつぶされた空の奥のほうで、十六夜の月が青く輝いていた。そっと目をつむる。明日からの日没は、この窓から眺めずに済む。全部諦めた後にこんな形で願いが叶うなんて、皮肉もいいところだ。力なく浮かべた笑みはガラスに映り、青い月に吸い込まれていった。


 ◇


 九五六年九月七日、第十八代国王シーリー逝去。夕食の最中唐突に苦しみ始め、そのまま息を引き取った。医師の検死では食物を気管に詰まらせたことによる窒息死だったが、何者かの手によって暗殺されたのではないかという意見も当時から多かったようだ。国王急逝により次期国王を即刻定めなくてはならない事態になったが、城の者は誰一人うろたえなかった。第一王位継承者カナン王子が王位を継ぐことを疑う余地はなかったからである。カナン王子はまだ幼かったが、近い将来賢帝になることは明らかだった。しかしながら既に述べたとおり、第十九代の王位を継いだのはマリアンヌ王女である。これには諸説あるが、中でも有力なのが宰相イナエクと王女が暗に手を組んでいたという説である。マリアンヌ王女はシーリー王崩御の三日後即位し、ケニシカ朝始まって以来の女帝が誕生した。ここから、処刑女王の統治が始まるのである。


 マリアンヌ女王は即位以降積極的かつ厳しい改革を進めた。税の引き上げにはカインド公爵を始め貴族の者も反対する者が多かったが、それら過半数を謀反の罪として処刑、残りを幽閉した話は有名である。反対する者を次々と処刑していく強行な政治は、長年幽閉されていた恨みの発散でもあったのだろう。国の財政はマリアンヌ女王即位後二年で改善されたが、平民や貴族の間では女王への不満が高まっていた。


 ◇


 自室に戻れるようになったときには、もう日付が変わっていた。重いドレスを引きずりながら明かりの灯る廊下を歩く。扉の前に人影が見えた。立ち止まる。後ろの近衛兵に合図を送ろうとして、動きを止めた。


「こんな時間に、何の用かしら」


 近づきながら、声をかける。半分だけしか血の繋がらない弟。それの奥の兵の表情から、もうずいぶん長いこと待っていただろうことがうかがい知れた。弟はちらりとこちら側の後ろの近衛兵を見やってから、目を合わせてきた。


「姉さまを待っていました。話したいことがあって」


 似合わない、暗い顔をしていた。話の内容は大体検討がつく。兵に部屋の扉を開けさせた。


「お入りなさい」


 先に入ってから、弟を促した。お付きの兵に止められたが、弟は迷うことなく入ってくる。兵に扉を閉めさせた。無駄に豪華な扉は重いだけで何の役にも立たなかったが、防音能力だけは優れていよう。これで部屋の中の会話は外の衛兵には届くまい。弟は部屋を見渡すと、部屋の隅で目を留めた。本が積み上げてある場所。昔、塔へ弟が一冊一冊運んできた本たちだ。少し、その表情が緩んだ。


「あの本、北の塔から持って来てくれてたんですね」


「運んであったのよ」


 いかがいたしましょう。そう聞かれて、あれだけ目障りだと思っていたのに、運んでおいてと答えた。自分でもいまだに不思議でならない。


「読んでくれましたか」


「いいえ。一冊も」


 いまだに一冊も手に取っていない。手に取れない、いや、取りたくないというのが、きっと正しい。


「それで、話とは?」


 派手なマントを脱ぎ捨てながら、黙りこんでしまった弟に聞いた。椅子を引いて座る。扉の前に立ったまま弟はちょっと俯いて、それから顔を上げた。意を決したように。


「姉さま、どうしてあんな政治をするんですか?」


「あんな政治?」


 やはり、とだけ思った。


「国民は処刑政治と呼んでます」


 知っていた。弟の目を見る。まっすぐに見ることはどうしてもできないが、何を考えているのか何を言いたがっているのか、そういう探りの目でなら正面から見返すことができる。最も、そんなことしなくても弟が何を言いに来たのか、それくらいは分かるのだけれど。


「私は私が正しいと思った政治をしているまで」


「姉さまが正しいと思ってこんな政治をしているとは思えない」


 こういう言葉を、なんの迷いもなく言ってしまうところが腹立たしくて、苦手だ。


「知ったような口を利くのね」


 弟は何かを言いかけて、一度口を閉じた。そして視線を横へずらして、本の山を見る。


「姉さまが塔にいた頃、なぜ自分が何度も会いに行ったのか、その理由を知っていますか」


「いいえ」


 基本的に言動全てが分かりやすいタイプだったが、今回はその話を持ち出す意味を図りかねた。思わず首を傾げてしまう。


「見つけたんです。家庭教師に読めと押し付けられた本の中に、姉さまが挟んでいたものを」


 知らないと即答しかけて、思いとどまる。ずいぶん昔の話だったが、思い当たることがあった。


 ――お母さま、もしわたしが王様になったら、この国のみんなが楽しくなるような国にしたいなあ。


 ――マリアは優しいわね。


 目を伏せて、しかし、首を横に振った。弟の目を見て、あえてそっけない口調を選んで言う。


「記憶にないわね」


 悲しそうに眉を下げた弟から、もう一度、目を逸らす。耳から声が入ってきた。


「古い羊皮紙に、小さい子供の字で書いてありました。『みんなしあわせな国になればいい』と。自分も似たようなことを思ってました。だけど周りは、選ばれた者だけが幸せになれるだとか、自分が恵まれているならそれでいいだとか、そういうことばかり口にする。だからその羊皮紙を見つけたときは、すごく嬉しかった。これは誰が書いたのかと問い詰めて、姉さまのことを聞き出しました。自分に血の繋がった姉がいると知って、しかもその姉がこれを書いたんだと知って、居ても立ってもいられなくて、すぐに会いに行った。あの言葉を書いた姉さまの理想の政治が、今の政治だとは到底思えない。どうしてこんな政治をするんですか」


 むきになった様子の声に、一瞬だけ、心が揺れた。ぐらり、と。引き寄せられるようにして目を戻すと、弟が泣きそうな顔をしているように見えて、また揺れた。ぐらりぐらり。吸った息が震えた。今喋ってはいけない。思ったけれど、意に反して口が動いた。


「その紙が挟まっていた歴史書に、二人の暴君が出てくるわね。キイガナ朝のスルギワ第二代国王とドーイモーデ朝のインゴー第八代国王。暴君だの極悪だのとひどい書かれようだったけれど、私もきっと、あんな風に書かれるのでしょうね」


 揺れる。大きく揺れる。駄目だ、これ以上は。倒れてはならない。あの柱が倒れたら城が崩れてしまうように、これが倒れてしまったら崩れてしまう。今まで積み上げた全てが。目を閉じる。見えた闇に心を埋める。


「自覚しているのなら、どうして」


 そっと目を開いた。光の中に、弟がいる。そう、それでいい。息を吸う。今度は震えなかった。


「確かに、私は暴君よ。私が死ねば皆が喜び、強引で残虐な国王だったと未来永劫語り継がれていくことでしょうね。私も好きで血に染まっているわけじゃないわ。それでも私は……正しいとは言えないけれど、何を犠牲にしてでも守りたいもののために、私の理想の政治をしている。おまえに口出しはさせない。私が間違っているというのなら、おまえの力でどうにかしてみなさい。これで話は終わりよ。下がりなさい」


 一刻も早く、話を終わらせたかった。もう動揺させられたくなかった。だからこそ、即位以降は弟をこの部屋に入れなかった。もう二度と入れるまい。早く出て行けというメッセージには気づいたはずなのに、弟は食い下がる。


「まだ質問の答えを聞いてません」


「言ったでしょう、私は私の理想の政治をしていると」


 嘘は言ってない。だから早く。早く出て行って。


「それは答えになっていない」


「話は終わりと言ったはず。おまえも処刑されたくなければ、早く下がりなさい」


 立ち上がって弟に背を向けた。窓に向かって歩いていく。弟はしばらく動かなかったが、その後歩く音と扉の開く音がした。もうぱたぱたとは歩いていなかった。ほっとする。胸が縮むように痛んだのは、気のせいだ。


 もう一度、目を瞑った。耳に、あれが初めてあの部屋に来たときの音が蘇る。騒ぐ兵、ぱたぱた走る音、ぎいと開く扉、カナルって言います、マリア姉さまですか? そして、あの目だ。誰にも分かるまい、あのときのあの感情は。だから、ここで屈するわけにはいかない。


 窓から空を見る。東向きの窓に変わって以来、日没は見えなくなった。代わりに日の出が見えるようになったが、今度はゆっくり眺める時間がなかった。日の出日没どちらにしても、今度こそ本当に残りの数はそう多くはない。あと、少しだ。




「陛下」


 あれが去ってしばらくして、扉の向こうから兵が張り上げた声が聞こえてきた。なにやら焦った様子だ。入りなさいと、扉の向こうに聞こえるよう大きな声で言った。扉が開かれる。


「何事?」


「イナエクさまが……」


 その先は、聞かずとも分かった。先日交わした会話を思い出した。


 ――今後のケニシカ朝にとって有益な人材は幽閉、有害な者は処刑。誰がどちらであるかの判断はおまえに任せるわ。私より詳しいでしょう。


 ――承知しました。


 ――前から聞きたかったのだけれど、おまえがケニシカ朝存続のために奔走するのはなぜ? 私はおまえがいて助かっているけれど、おまえにメリットはあるの? このままだとおまえも道連れよ。


 ――先帝に大恩があるゆえ、それに報いたいがゆえでございます。


 ――損な性格ね。本来なら次の王座に最も近い存在だったでしょうに。


 ――それはあなたさまも同じでしょう。


 ニヤリと笑ったイナエクの顔を、よく覚えている。最初で最後の人間らしい表情だった。あのときには既に覚悟を決めていたのだろう。人のことは言えないけれど、本当に損な性格だ。その性格のせいで命を縮めた。


 役目を終えたときにひっそり消える。なかなか粋ではあるが、残された側としては心細い。しかし、こちらももうすぐだ。先に役目を終えた友を、どこまでもケニシカ朝に忠実な臣下を、労い、見送るとしよう。


「葬儀の準備を」


 兵を下がらせた後月を見上げていると、泣きたいような気分になったのも、きっと気のせいだ。


 ◇


 九六〇年六月、マリアンヌ女王はワイヘにて蜂起したピース教信者たちを、謀反罪による処刑という名目のもと大量虐殺した。これがワイヘの大処刑である。二万人強の人命が失われたと言われている。この事件が、カナン王子を奮い立たせるきっかけとなった。血が流れるたび女王を諌めようと努力してきた王子だったが、遂にその切なる声が届くことはなかった。王子は自ら政治をすることを心に決めたのである。


 ◇


 話があります。言った弟の目を見て悟った。今日で終わる。悟っても、何も変わらなかった。いつもと同じ時間を過ごして、それで約束の場所に向かった。城の西、屋上。階段まで兵に送らせ、後は一人で行くことにする。長いドレスの裾を持ち上げながら、長い階段を上った。約束の時間を少し過ぎていたから、弟はもう来ているだろう。扉を開けると、傾いた日が目に飛び込んできた。まぶしい。そして、暖かい。そうだ、日の光はまぶしくて暖かいものだった。長く忘れていた。はるか昔の中庭を思い出す。あの頃はまだ、自分も光の中にいた。


「姉さま」


 日の光を一番受ける場所に、弟は立っていた。大きくなった。初めて見たときは、まだ腰に届くほどの身長だったのに、もう抜かされそうだ。年も、ちょうど少年を終える頃になっていることだろう。


「この間の姉さまの言葉を……姉さまの真意を、考えていました」


 光を背に受ける弟の表情は、見えない。声は静かで、よく響いた。弟は左腕に持っているものを持ち上げた。一振りの剣。鞘から刃が、ゆっくりと引き出される。刃は日をまとって、この上なく美しい。


「これで、いいんですよね」


 落ちた鞘が、からんと無機質な音を立てた。右腕にはしっかりと剣が握られている。背をぴんと張って立つその姿は、幼い頃一番大好きだった物語の主人公、英雄イーカッコのイメージそのままだと思って、ちょっと笑った。


「ちゃんと、分かったのね」


 北の山から吹きおろす風が、髪をさらう。顔にかかった一筋を払って、一歩、近づいた。弟は動かない。


「さあ、どうぞ。幼いあなたが憧れた英雄のように、悪を打ち滅ぼすといいわ」


 もう一歩、踏み出す。弟が身じろぎした。目を細めて笑う。


「できないの?」


「姉さまは、間違ってる」


 小さい声が言った。風にさらわれてしまいそうなほど、小さい声が。


「どうして、こんなことを」


「あなたには、分からない。あなただけには絶対に」


 どんどんどんどん白に変わっていく世界で、そんな地獄の中で、あなたのあの目がどんなに輝くか。その目がどれほど私を救ったか。私があの日失くしたものを、全部持ったままの、純粋でどこまでも美しい目。それを持つあなただけには、分からないでしょう。たとえどれだけ間違っても、どれだけ犠牲にしても、どれだけ罪を犯しても、それだけは絶対に傷つけたくなかった。そう、間違っている。分かっていた。分かっていても、やっぱり、あなたの目はどこまでも温かくて。あなたには分からない。その温かさが、どれだけ優しくて、どれだけ残酷だったか。


「どうしたの? 早く殺しなさい」


 すべての感情を排した、音だけの声で言った。弟は動かない。日が傾いていく。もうすぐ日没の頃だ。


「これしか、ないんですか。本当に、これしか」


 ようやく、弟は声を絞り出した。分かっているくせに。微笑んでみせる。答えの代わりに、促した。


「さあ」


 一歩近づいて、おもむろに、弟は右腕を振り上げた。高々と掲げられた剣。でもそれは震えていて。ふらりと、弟の腕から力が抜ける。からん。剣が地面に横たわった。


「できません」


 声が、泣いていた。ああ、やっぱり。イナエク、やっぱりおまえの思うとおりにはならなかった。最後だけは私の勝ちだ。ふふ、と笑う。この子には、血は似合わない。こうなって良かった。心のどこかで、こうなることを知っていたけれど。


「英雄失格ね」


「こんなの、英雄でもなんでもない。こんな風に守られても、嬉しくなんかない。それならたとえ夢半ばに終わったとしても、姉さまと一緒に理想の政治を目指したかった」


 そういう道も、あったのかもしれない。滅びかけた国で、脆い塔のその頂点で、共に生きていくという道も。けれども、おまえは知らないから。みんな、おまえみたいな人間ではない。野心を持った人間が、どんなに鋭い牙を剥くか。そんな人間たちの中で生きていくのに、どれほどの武器が必要か。それをおまえは知らないから。だけど私はおまえに知って欲しかったわけじゃない。知ればあの目にも影が差す。それだけは絶対に許せなかった。だから、私が武器を取った。おまえのためじゃない。私の中の、唯一の光のために。そのためなら何だってできた。今後永遠に笑われることになろうとも、誰から憎まれるようとも、構わなかったし、構わない。


「誰も、おまえのためにしたわけじゃない。私はわたしのためにやったことよ」


 言いながら、剣を拾い上げた。重い。こんなに重いものを持てるようになったなら、もう大丈夫でしょう? おまえの目が、いつまでも明るいところだけを見ていられるわけじゃないことは、おまえも知っているはず。暗いところを巡っても、いつも同じ場所に帰って来られれば、それでいい。今のおまえなら、それができるでしょう。


「私に後悔はない。だからあなたは、あなた自身の役目を果たしなさい」


 これ以上語らなくても、あなたには分かっている。私の仕事は終わった。あとはあなたのやるべきこと。ふふ。先帝に負けず劣らず勝手な自分がおかしい。勝手ついでに祈っておこう。願わくば、あなたが永遠に光の中に在らんことを。

 剣を両手で握る。鈍く光る切っ先は橙。弟の背中で、日が沈んでいく。世界に、赤い光が満ちる。舞った血が、橙色の世界に消えていく。姉さま、と叫ぶ声が、こだまのように何度も何度も耳で繰り返された。弟の顔が見えた。泣いていた。私のために、泣いてくれていた。その顔がだんだん光の中に消えていく。ああ、それでいい。




 姉さま、今日も本を持ってきたよ。




 私の中の、たったひとつの幸よ。


 ◇


 九六〇年九月、カナル王子は女王マリアンヌを暗殺することに成功する。マリアンヌ処刑女王の統治の終わりとカナル王の即位を誰もが喜んだ。こうしてクノウカ王国の悪夢の時代は終わりを告げる。マリアンヌの葬儀は行われなかった。その亡骸も王族の墓には埋められず、城の北のイシミサ山に捨てられたと言う。またその翌年からマリアンヌ暗殺の日は歓喜の日とされ、毎年クノウカ王国全国民が悪夢の終わりを記念し宴を催す習慣は今なお残っている。全知の神は、血にまみれた非情の女王にふさわしい末路をお与えになったのであろう。


 『クノウカ王国の歴史 第四巻ケニシカ朝』 第十三章「処刑女王マリアンヌ」 フルシファン暦一八七七年 シキレ=ヒストリー著

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