ヒーローはヘタレナルシスト
「ちょーっと、忍びこんだだけなんですって。いやさ、そりゃ最初は金目のものでもいただこうかなって思っちゃったりしましたよ。ほら、魔が差すって言ったりするでしょ? それですそれ。だけど、結局お宝には手え出す前に捕まっちゃったし。だから俺、なーんも盗ってないんすよ。そうそう、忍び込んだだけ。え、何? 水の買占め? なんですかそれ。いやいや、俺馬鹿っすから。そんなお偉い方の小難しい話なんて、聞いたところでこれっぽっちも理解できません。ん? ええ、それはもう反省してますよ。めちゃくちゃ反省してます。見てくださいこの天使のように純粋な瞳を! 嘘なんてついてるようにはとても見えないでしょう。盗みなんてもう二度としませんから。はいはい、全うに働きますよ。ところで、刑罰についてなんですけど。絞首刑? いやいやいやいや。おっとお兄さん、それいい眼鏡っすね。高値で売れそ――いや、さすがのセンスっす。もう俺感激。そのかっこいいタイは奥さんの見立て? え、独身? ああ、これは失礼。お兄さんいい男だからてっきり奥方の一人や二人いるもんかと。へーもう三十路っすか。そろそろやばいっすね。そう言えば前髪も後退し始めて――ああ、俺としたことが、失言だ。どーか気にしないで。え、島流し? いやいやいや。は、しかも南西地方? それ死刑じゃないっすか! もうほんっとお願いしますよお兄さん。おれまだ死にたくないんですって。おまえみたいなクズに生きる資格なんてない? そりゃ聞き捨てならないなあ。どうぞ見てくださいこの美貌! デブで団子っ鼻のお兄さんとは比べ物にならないでしょう。こんなに美しく麗しい男が失われちゃあ世界の大損失っすよ。考え直してくださいお兄さん。世界を救うためだと思って! ここは無罪放免とかどうすっか。大胆な男はモテますよ。蒸し返すな? いや、そんなつもりは。え、刑執行? そりゃねえっすよ。うわ、ちょ、痛いって。おいおいまじかよちょっと待ってくれよ俺が何したってんだ。ちょっいと邪魔しただけじゃねえかよ。だいたいおまえらは宝石のひとつやふたつなくなったって生きるのに困りゃしねえだろ。無視すんじゃねえこの老け顔! い、いてて、ちくしょう、離せ! くそ、おまえなんか一生独身のままハゲて死んじまえ!」
◇
そんなこんなで、俺は舟と呼べるのかも怪しい木の寄せ集めに縛りつけられ、海のド真ん中にぷかぷか浮かんでる。背中の方、つまり懐かしき故郷の方からびゅうびゅう風が吹きつけてきて、軽い舟はどんどん進む進む。快調快調。この季節に吹く風がどの方角を向いているのか、もちろん俺だって知ってるさ。だけど嘆いたところで風向きが変わるわけでもなし。せっかくなのでこのスリル満点の航海を楽しむことにする。
どこを見ても一面青というのは中々壮大な光景で、思ったほど悪くない。しかし、自由に身動きができないのだけは困った。不自由なことこの上ない。遥か東の異国には縄抜けの術なるものが存在すると聞くが、ちくしょう、こんなことなら会得しておけば良かった。あの若ハゲ野郎、肉に食い込むほど強く縛りつけやがって。これじゃ例の、なんていったか、なんちゃら海峡の荒波に呑まれる前に窒息死しちまうぜ。さては俺の美貌に嫉妬したな。全く、ちっちゃい男だ。少しは俺様を見習え。この海のように広い心を持つ俺様を!
うわ、なんだ、今の揺れ。地震でも起きたか? いや、海の上に地震ってあるのか。わ、まただ。下から突き上げられるみたいな。ん、そう言えばずいぶん波が高くなっている。上に下に右に左に、面白いように揺れる揺れる。へえ、これが荒波というやつか。意外と小舟の方が耐え切れるんじゃ――うええ、酔った。気持ち悪い。あ、やべえ! 水が入った! おいおい、このままならまじで転覆するねえか。くそ、なんとかしてロープを解くしかない。結び目はどこだよ。あの野郎、ご丁寧に両手首を別の紐で縛っていやがる。ああ、もうやめてくれ! これ以上水が入ったら本当に転覆するって! やばい、まじでやばい。神様どーか助けて。あなたが丹精こめて作ったこの美貌が海の藻屑と消えちまいますよ。はやく助けてください。うわ、くそ、こりゃ駄目だ。どうすりゃいいんだよ。こんなところで死にたくねえよ。ちくしょう、あのデブ貴族野郎! 俺が死んだらハゲと未婚の呪いを末代までかけてやるからな!
◇
海上で嵐に巻き込まれた美男子にその後起こる出来事として最もベタなもの、それすなわち美女との出会い。逆に言えば、大波に流されて砂浜の上で目覚めたとき、そこに美女がいれば俺は美男子だということだ。今さら証明してくれなくたって、そんなの分かりきったことなんだけどさ。綺麗な黒髪のレディ。うんうん、上玉。俺は塩と砂まみれ、ついでにハゲ野郎のロープが一本まだ解けてなくて、背中に木を背負ってるというひどいなりだったが、元がいいから問題無し。ほら、こうやって微笑んでおけばたいていのレディはいちころだ。
「あなたが助けて……え?」
よく見れば、美女は大きな黒い目を湿らせていた。瞼の淵から溢れた一滴が、つつっと輪郭をなぞる。頬に残った跡は今のひとつだけではなくて、ずいぶんと長いこと泣いていたのが分かった。もしかして俺を心配して? なんと心優しい美女なのか!
「俺のために泣いてくださるなんて。お気持ちは大変嬉しいんですが、あなたには笑顔の方が似合います。笑ってください」
とか言っちゃったりして。へへっ、決まったぜ、俺かっこいい。これでこのレディのハートは俺のもの。
「それはできません」
おお、声まで美しい。まるで天使が囁いたようだ。しかし彼女は今なんと?
「できませんと申し上げました」
波に揉まれたせいで耳がおかしくなったのか。右耳を引っ張って、「あー」と声を出して確かめてみる。どうやら正常だ。うん、聞き間違いだな、きっと。
「笑うことはできません」
うん、えーと、そう、彼女はシャイなんだ。だから笑うなんて恥ずかしくてできない。かわいいじゃないか。ああ、でも、また一筋。
「それならせめて泣き止んでください」
「できません」
聞き間違い聞き間違い。
「できませんと申し上げました」
うう、意外とやり手だこの美女。焦らされたほうが燃える男心を知り尽くしていらっしゃる。しかしなんだ? 全然悲しそうじゃないな。息をするように自然と泣いている、そんな風に見える。
「私は雨呼びですから、泣き止むことはできないのです」
「あまよび?」
「雨を呼ぶために、泣き続けるのです。命が枯れるまで」
美女は顔色を変えない。言葉が淡々と控えめな紅の唇から滑り出る。あまりに滑らか過ぎて、言葉の意味を理解しかねそうになった。ええと、要するに、死ぬまで泣き続けないといけない? こんなに美しいレディが? そんなまさか。いや、待てよ。これはまさか。恋に試練はつき物、俺は彼女を救うためにここへ遣わされたのだ! そう、これはイケメンの定め。そしてこの任務を遂行したとき、俺はめでたく彼女と幸せになれる。うーん、すばらしい!
「俺が必ずあなたを救ってみせます!」
ふふん、しょうがないから感謝してやるよハゲ眼鏡。お陰で俺はこんな美女を手に入れることができるぜ! くそ、でもやっぱり解けないなこれ。どんだけ強く縛ったんだよ。
◇
男に二言はない。俺みたいないい男は特に、一度言ったことを覆してはならない。そう、俺は彼女を救うと言った以上、必ず救わなくてはならないのだ。しかしこの任務の難易度の高さときたら頭痛がしてくるほどさ。なあ、ちょっと聞いてくれ。思ってた以上に厄介なんだって。いくらあの女の子が綺麗で細くて清楚で色白で俺のタイプであろうと、これはさすがにきついぜ。
彼女は自称したとおり、雨呼びと呼ばれる巫女なんだそうだ。近くの村から毎年ひとり選出されるらしく、雨を呼ぶために水だけを飲んで死ぬまで泣き続けなければならない。その上もうじき洞窟の奥の祠に閉じ込められて、二度と出てはこれないんだと。しかもその洞窟には、誰かが雨呼びを助け出したりできないようおぞましい数の化け物で守られてるときた。こりゃないわ。お手上げっす。
何かやれるとしたら、洞窟に連れて行かれる前だろうな。だけどあの娘、村へ戻るなり見るからに屈強そうな男たちに守られてて……いや、俺だってそれなりにやれるんだけどさ、どう考えたってあれは無理。一人ならまだしも、いや、一人でも御免こうむるのに、なんだよ常時十人って。ガードが固いにもほどがあるぜお嬢さん。俺だって命は惜しいんだ。分かってくれ。すまないな。
しかしイケメンに二言は許されない……! なんとかしてあの別嬪さんを助け出さないと。んん、待てよ。そう言えばあのデブハゲ、水の買占めがなんたらと言っていなかったっけ。ええと、なんつってたっけなあ。「おい、風向きが変わった! 水を買い占めないと!」うんうん、そう、確かこんな感じで始まってたな。「何事ですか、お坊ちゃん」そう言えばあいつお坊ちゃんとか呼ばれてたな。ぷぷっ、三十路手前のくせにお坊ちゃんなんて馬鹿じゃねえの。「風向きが変わったんだよ! 雨雲は南西に流れる。雨季が終わるんだ! こうなったら次の雨季まで雨は降らない。分かったら早く水を買い占めろ!」そうそう、ここまで聞いたときに俺、くしゃみしちまってさあ。それで捕まったんだ。いや、それは今どうだっていい。それより、そうだ、あのアホ、雨雲は南西に流れるって言った。南西、俺が流された方角だ。例の荒波でどっちの方へ流されたかなんて分かんないが、風は確かに吹きつけてくる。この風が、もしかしたら雨雲を運んできてくれるんじゃ? 伝統とか儀式とかそんなの学のない俺にはちっとも分かりゃしないけど、放っておいても雨って降るもんだろ。そんなもののために、あんなかわい子ちゃんが泣き続けなければいけないなんて、世の中間違ってるぜ。やっぱりここは俺の出番だ! 盗みは俺の十八番。あいつらガチムチ十人衆の目を上手く盗んで、あの子をさらってやろうじゃないか! 燃えてきた。なんたって俺はイケてるメンズ、神様に愛された男、ヒーローになるために生まれてきた男さ! おまえと違ってな、三十路坊ちゃん。よっしゃ、やってやるぜ!
◇
思ったんだ。別に力ずくじゃなくたって、村人たちを説得すればいいんじゃね? 俺天才。ああ、神はなんと不公平! 俺には飛びっきりの美貌だけではなく大いなる智をも与え賜うたようだ。てなわけで、説得を試みた。しっかしここは砂っぽいな。家も、これは藁でできてるのか? 隙間風がすごそうだ。食べ物も服もすげえ質素だし。あっちの大陸の村は、隅っこの田舎でもこんな貧しい暮らしはしてないだろうにな。
「あの、雨呼びの巫女の別嬪さんのお話なんですけど」
「なんだい? 明日祠に行かれるらしいねえ。ありがたやありがたや」
若い頃は美人だったかもしれないが、残念、今となっては。時の流れとは無常なものですな、ばあさん。
「やめさせることはできないんすか? 雨なんて放っておいても」
降るって。最後まで言い切ることはできなかった。へ、へへっ、い、いや、俺さ? う、生まれて初めて妖怪ってのを見たよ。こんな怖えんだな。は、ははっ、やべえ、漏らしそう。なんだよこの顔。さっきまでの平和ボケっぽい顔はどこ行ったんだよ。目がくわって。髪の毛逆立ちそうじゃねえか。怖い。まじ怖い。
「あ、あは、あはは。お、おお、俺、何調子乗っちゃってんですかね。ほ、ほんとすんません」
俺はヘタレじゃない。断じて違う。だがここは撤退させてもらおう。主人公がこんなところで死ぬわけには行かないからな!
◇
村人の協力が得られない以上、やっぱり俺が頑張るしかない。だがピンチはチャンスとかいうのは、いったい誰が言いだしたのか。その言葉を全面的に信じて、今日まで、つまり美女が祠に連れていかれるこの瞬間まで待ってみたが……どこにチャンスがあるってんだよ! いや、違うって。踏ん切りがつかなかったわけじゃないんだよ。ちょっと怖かっただけ、いいや、下準備が大変でさ。しかし、相変わらず筋肉馬鹿のお兄さん方が十人うろついてるし、あの子も何の抵抗もせずに泣き続けてるし、さらにはもう祠の岩門のすぐ前まで来てしまった。これぞまさに絶体絶命の危機ってやつっすね。そろそろ笑い事じゃないな。わりと真剣にやばい。どうしましょ。
ヒーローというものはだいたいピンチになると、新しい能力に目覚めたり、いきなり何かに覚醒したり、もしくはありえないほど幸運な天の助けがあったりするもの。これだけ美形な俺なら、十分ヒーローの素質、この絶望的な状況を何とかできる素質があるってわけだ。ここは一か八か、やってみるか? 大丈夫、いくらなんでも死にはしないだろ。なんたって俺はあの荒波を越えてきた男だ。神は俺様の味方! さあ!
木陰から飛び出した瞬間、洞窟から響いてきた大音量に鼓膜が破れそうになった。なんだこれは。例の化け物の声か? なんつー大きさだよ。こんな声を出せるってことは、つまりだな、それにふさわしい大きさの体を持ってるってことだ。うわー、そういうのまじごめんだわ。あの子は? ああ、さすがに怖がってる。あんなに青ざめて。男たるもの、やるときにはやらねばなるまい。ちょうど筋肉塊軍団も洞窟の中に気を取られていやがる。ぬき足さし足しのび足。盗賊稼業で磨いた無音かつ華麗なこの足運びをとくと御覧あれ! ほーらほら、誰も気付かない。後十歩。五歩。三歩。いける。このまま。
「なんだ貴様!」
おいおい、ねーよ! このタイミングで気付くとか信じらんねえ! 上手くいったかもってうっかり期待しちまったじゃねえかよ! くっそ、やばい。仕方ねえ、こうなりゃ強行突破だ。くだらない儀式のために死ぬことはないぜお嬢ちゃん。うっわ、ほっそい手首だな。何日食ってないんだ? ここから逃げた後にはなんか食わせてやるから。だからはやく逃げようぜ。さ、走れよ。足動かすんだよ。死にたくないだろ。まだ若いのに人生諦めてどうすんだよ。うぐわ、痛い。痛いって。くそ、ふってえ腕だ。外見だけじゃないんだな。首絞まる窒息する死ぬって。いやむしろ絞まる前に折れる。ええ、ちょ、何突っ立ってんのお嬢さん。この俺様自ら体を張って助けに来たんだぜ!
「逃げろよ!」
だから絞めすぎだって。俺の美声が掠れてるじゃないか! それより早く逃げろ。ほら、一人そっち行きそうだから。
「走れ!」
黒髪美女は潤ませた目を見開いて、一歩、二歩と下がった。そうだ、そのまま走れ。
「早く!」
びくりと肩を上下させて、もう一歩。そして。よし! え、何、なんで羽交い絞めに変わってんの? なんかすごい嫌な予感するんだけど。ちょいちょい、正面に立つなよ。あの子が見えなくなるじゃないか。うわ、何拳握っちゃってんの! それどうするつもりだよ。ぐへ、待て、そんな振りかぶったら死ぬ。あああ、待て、思いとどまってくれ。止めてくれ!
硬い拳が鳩尾にめり込むのを見て、めちゃくちゃ痛くて、息苦しくなって、それから何も分からなくなった。
◇
目が覚める。木の格子。また牢屋。いや、四面を格子で囲ってるから、これは檻と言うべきか? 今度はどこに流されるやら。ガチムチたちが外から俺を見張ってる。思いっきり殴りやがって。あの子はちゃんと逃げられたのか。
「ここにいます」
右側から綺麗な声が聞こえてきた。ああ、そんな。結局この子も捕まってしまったのか。とんだ無駄骨だった。俺も美女も助けないなんて、神様は何やってたんだよ。
あれ。そう言えば、この子、泣き止んでるんじゃ? 相変わらずの無表情だったが、涙はしっかり止まってる。おお。
「止まってしまったんです。驚いて」
彼女は、目を伏せた。長い睫が影を落としている。本当に上玉だな。笑ってくれるともっといいんだけどさ。
「もう泣けないんです。どうやって泣いていたのか分からなくて。私が泣かなければ、雨は降らないのに。雨が降らないと、みんな死んでしまうのに。私のせいで死んでしまうのに」
辛そうな目は、それでも涙を流さない。流しすぎて、枯れ果ててしまったのかもしれなかった。そんな顔するなよ。せっかく美人なんだから。それに、大丈夫さ。
「雨は降るよ」
「え?」
「あんたが泣かなくても、雨は降るんだ」
檻の中から、天を仰ぐ。腹立たしいくらいの快晴だが、大丈夫、風は流れてくる。雨は降る。必ず降る。ほら、ひとつ。遠くに雲がある。そのうち雨くらい降るさ。
「でも……」
美女が、ますます俯く。だから大丈夫だって。くそ、また縄をかけられてる。美女にはないのに、なんで俺だけ。これがなければそっと近寄って抱きしめてあげられるのによ。ん、なんだ? あのいかつい顔のおっさんは。こっちに寄ってくる。え、ちょっと待てよ、手に持ってるのは、それ、なんの冗談だよ! そんなに尖った木、何に使うんだ。物騒なものははやくしまえって。いや、こっち来んな!
「罪人の血で、過ちを濯ぎ、全てを正そう」
言葉が難しいよ、おっさん。何言ってるのかさっぱり。とりあえず武器しまおうぜ。俺は平和的な解決を望む。美女が、血相を変えてわなないた。
「長老、お待ちください。どうか、罰は私だけに。この方は遠い地の者です」
「ならぬ。罪は罪。罪人は罰を受けねばならぬ。無論、おまえも。よそ者を受け入れたのが、そもそも誤りであったな」
白い喉が、こくりと上下した。こんなに怖がってるのに、もしかして俺を助けてくれようとしたのか? やっぱりいい女……というか、これ、本気でやばくね? あれ、明らかに槍だろ。木でできたのは初めて見たけど、あれだけ尖ってりゃ十分目的は果たせそうだ。殺される。くそ、本当に死ぬのかよ俺。どうなってんの神様。名を残すような死に方ならまだしも、これじゃあただ無様なだけじゃねえか。美女も助けられなかったし。
檻の扉が開く。ガチムチ軍団の一人が入ってきて、先に俺をひっ捕まえた。くそ、最後まで抵抗してやるぜ! 腕に噛み付いてやる。横っ面を殴られた。痛え。俺の美顔に傷が残ったらどうしてくれるんだ! どうすりゃいいんだよ。なあ、デブ貴族、あんたまだ優しかったんだな。頼むからせめて島流しにしてくれよ。そんなんで刺されたら絶対痛い。わ、急に離すなよ。おっさんの足元に投げ出された。万事休すか。くそう、俺まだあんなことやこんなことしたかったのにさ。美女と。
あ。今の風。気のせいか? いや……あ、また。間違いない。この重くて湿気た匂い、これは。
「待ってくれおっさん!」
「ならぬ」
「いや、無駄な殺生は良くないって! ほら、風。雨の匂いだ!」
「罪人と交わす言葉は持たぬ」
「黙れこの堅物! いいから大人しく待てよ!」
木槍が振り上げられる。うげ、まずい。後もうちょっとでいいんだよ。あの雲が近づいてきてる。さっきは遠すぎて分からなかったけど、大きかったんだな。あれが雨を降らしてくれる。もうちょっと、あとちょっと。雨の匂いを連れた風が、だんだん強くなってきた。冷える。これは来る。あと少しだけ、時間を稼ぐんだ。しかしどうやって? 転がってみるか。ん、なんだ。背中に当たるものが。うっわ、まだあのデブ貴族の縄解けてなかったのかよ! 木が背中に括りつけられたままだ。これじゃ転がれない。んん、待てよ。これ、使えるんじゃないか。あ、やべえ、槍が振り下ろされる! ちくしょう、もうどうとでもなれ!
衝撃と同時に、何か冷たいものが頬に触れた。今際の幻か? 指を持ち上げる。濡れた。水。水? 空を見上げる。まだ晴れている。ああ、なんだ、やっぱり幻覚か。俺は死ぬんだな。うん、まあまあの人生だったけどさ、もうちょっと長生きしたかったぜ。だけどおかしいな、全然痛くないじゃないか。もしかしたらもう死んでるのか? ん、なんだ、あったかいな。お、美女だ。美女が俺を抱えあげている。くっそ、やっぱ夢か幻か。あの子が俺に抱きついたりはしないしな。しっかし、なんでみんなして空見てるんだよ。ああ、この美女、また泣いてる。そうか、血まみれの俺を見て涙を……いや、違う。目から流れてるわけじゃない。ほっぺたから浮き出たような……汗か? いやいや、こんなとこから汗って出てくるのか? わ、冷て。なんだよ。もう死ぬんならはやく逝かせてくれよ。ん?
「雨が……」
ひらりと、白い腕が持ち上げられた。手のひらが上を向く。そこに、ぽつりと、一滴。雫、水滴――雨粒。雨だ。雨が降ってきた。日の光を受けて、きらきら、きらきら。宝石が散ってるみたいだ。ほんと、まるで夢見たいな光景じゃないか。
「雨?」
「雨だ」
「日が出ているのに、雨?」
「天気雨だよ。五年前にあった。風にのって、あっちから雨が流れてきたんだ」
「本当に、これ、雨だよな」
「雨だ……雨だぞ」
「雨が降った!」
ガチムチたちが、互いに抱き合って喜び始める。うわー、せっかくのシチュエーションが台無し。あんまり見たくない風景だなこりゃ。そういえば俺、なんで生きてるんだ? 確かに槍、当たったんだけど。全然怪我してないし。さては本当にデブ貴族の縄で縛られた木が役に立ったのか? なんという幸運。さすが俺様、さすが主人公にふさわしい色男!
「ありがとう……ありがとう」
黒髪もろ俺のタイプ清楚美女が、抱きしめてくる。やっぱりこうでないとな。苦労した甲斐があったぜ。これで俺の人生はばら色。美女を救った英雄という名声とともに、こんなに綺麗な子を手に入れることができたんだから。しっかし、なんだ。なんか力、強くねえ? そう言えば、縄、どうしたんだよ。檻の中に千切れたロープがある。ええ、この美女、自力で縄を? なんつー力。い、痛い。頼むよ、もうちょっと力緩めて……いてててて。というか、こんだけ力あるなら俺が助けなくたって、その気になればガチムチ集団からも逃げ出せたんじゃ? い、いや、細かいことは気にすまい。うん。怪力でも美女は美女。お、泣いてるけど笑ってる。可愛いなあ。よし、このノリで結婚とかしちゃう? うへへ。
◇
ところがどっこい、人生とはそう上手くいかないものでさ。本当信じられねえ。なあ、聞いてくれよ。あの美女、幼馴染とできていやがった。まあ、そらそうだよな。あんな可愛い子、周りが放っておくわけがない。しかしなんだよ、こんながんばったのに何の見返りもねえのかよ。相変わらずデブ貴族の縄は解けないし、もう散々さ。いいや、待てよ、もしかしたらあれ以上の麗しい女が俺を待っているのかもしれない。よし、旅に出るか。なんたって俺は世界一の男、俺を待つ美女たちがこの世界にはきっと溢れているんだ。待っていてくれレディたち、今会いに行くからな!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます