ファンタジー

アリッサ、あなた(※残酷表現あり)

 F-037、それが彼女に与えられた名前だった。生まれて半年までは人間らしい名前で呼ばれていたのだけれど、覚えてはいまい。自分の番号と、命令に対する承服の仕方と、そして人の壊し方と。彼女が覚えているのはそのくらいだった。哀れ? 少し違う。なぜなら彼女は己を哀れとは思っていない。正しくは哀れという感情を知らないだけだが、同じことだろう。


 F-037はその日、いくらかの仲間と共にアンレッタ砦の防衛戦に加わることを命じられた。「勝たなくていい。時間を稼げ。壊されるまで壊し尽くせ。いいか、帰ってこなくていい」「かしこまりました」彼女らの返事にはわずかの悲壮も恐れも諦めもない。いつものように頷き、いつものように進軍し、いつものように人を壊す、それだけ。死地に赴く軍とは思えない足取りで進行し、到着したのちは命令どおり壊して壊して壊しまくった。剣を振るい、首をはね、四肢を切り落とし、胴を断ち、返り血を浴びて。血と脂で刃の切れ味が鈍れば死体から武器を奪い、利き腕が落とされれば残った腕を使い、壊されるまでずっと。一切の恐れを知らぬ彼女たちの強さは、歴戦の武人をも凌駕した。


 しかし悪魔だ鬼だと罵られようと、彼女らとて人、数には勝てぬ。多くの仲間と同じように、ついに彼女も膝を折り、地に平伏した。壊されたのだ。瞼を落とした彼女は、それでも何も思わない。続く戦の音を遠くに聞きながら、彼女は何の抵抗もなしに闇に身を委ねた。


 幸運だったのは、F-037の傷は致命傷に至らなかったこと、そして倒れた場所が木の陰になっていたこと。彼女たちが倒れれば、敵は恨みと恐れゆえに、形が分からなくなるまでその体を破壊する。現に彼女以外の仲間たちは、方々で肉片と骨と血溜まりとに成り果てていた。発見されれば同じ道を辿ったであろうが、彼女は見つからなかった。幸運とは重なるもので、アンレッタの傍、北東の戦地クオリー平原において敵軍勢力は苦戦を強いられていたため、砦制圧後ほとんどの敵兵はそちらへ急行した。おかげで彼が虫の息の彼女を発見し、そして担いで連れ帰ったことを誰一人見咎めなかったのだ。



 ◇



 F-037は薄暗い上に狭くて埃っぽい小屋の中で目覚めた。粗末な布団の上に寝かされていた。起き上がろうとしたが体は動かない。目だけ動かして周囲を見渡し、部屋の隅に一人の男を見つけた。仲間ではない、彼女らに命を下す者でもない、ということは彼は敵。敵は壊さなくてはならない。けれども、動けない。


「目が覚めたか。ああ、頼むからおれを殺さないでくれよ。あんたたちみたいなのとサシで戦って勝てるほどの腕はないからな。最も、あんたは死にかけてたんだ。まだ動けるほど回復はしてないだろう」


 彼の言葉を、F-037はほとんど理解できなかった。彼女の知らない言葉だらけだったから、首を傾げる。そういうときはこうしろと命じられていた。男は頭を掻く。黒髪、茶色目、浅黒肌、中背、細身、青年。特徴の認識を終える。やはり初めて見る人物であった。敵だと、F-037は思考する。


「ん、分からないのか? そうか、言葉は教えられていないんだな。よし、いいか、分からないときは『分からない』と言え。『分からない』だ」


「かしこまりました」


 男は不快げに目を細めると、一歩、F-037に近づいた。


「かしこまりました、ね。そういう言葉だけは教えられているのか。本当にあの国は性根が腐ってやがる。こんなむごいことをよくも平然と」


「分からない」


「ああ、いいんだ、今のは独り言だから」


「分からない」


「うん、えーと、そうだな」


「分からない」


 困り果てた男は、再び頭を掻いた。F-037はその間に自分の体を見下ろして、利き腕が無くなっているのを知った。体の一部を壊された者は軍へ戻ることを許されない。彼女は唯一の居場所を失った。それでも何かを思うことはない。どこかで壊れなければと、そう意識しただけで。


 しかし。彼女はまた首を傾げた。敵は己を壊してくるものだと教えられていたが、目の前の男はそれをしない。腕を組んで、なにやら考え込んでいるだけだ。分からない、とF-037は思った。男の目がこちらを向いたのを機に、彼女は知っているわずかな言葉を繋ぎ合わせて発言した。自発的に何かを喋ったのは初めてのことであった。


「あなた、敵。F-037、敵、壊します。敵、F-037、壊します。あなた、F-037、壊さない。分からない」


「F-037……あんたたちはそうやって呼ばれるのか」


「分からない」


「ああ、ひとまずおれはあんたの敵じゃない。分かるか? おれは敵じゃないんだ。だから、殺さなくていい。おれもあんたを殺さない。あんたもおれを殺すな」


「敵ではない。壊さない。かしこまりました」


「違う。いいか、人を殺すことを壊すと言うな。人は物じゃない。壊すという言葉は間違ってる。それから、なんでも『かしこまりました』って答えるのも違う。いいときは『はい』、だめなときは『いいえ』だ」


「分からない」


「難しかったか。いいよ、ゆっくり覚えていけば。とりあえずおれを殺さないでくれよ」


「かしこまりました」


「だから……いや、今はいいか。とにかく早く元気になれ。もう少し寝るといい。えーと、F-037っていったか。嫌な名前だな。そもそもこれ、名前じゃなくてただの番号じゃないか」


「分からない」


「ああ、うん、今のも独り言だ。だけどここからは独り言じゃないからよく聞けよ。おまえの名前はアリッサだ。F-037じゃない。いいな、アリッサ」


「アリッサ?」


「おれの妹の名前だ。今日からはおまえのものだけどな」


 そのときF-037――アリッサは、人の笑った顔を初めて知った。目の前の男はとても不可思議であったが、だからこそだろう、興味を惹かれた。アリッサ自身がそれをどう感じていたのかは定かではないが、彼女はもう彼を壊そうとは思わなかった。


 ◇


「分からなくたっていい。アリッサ、少しの間おれの話を聞いてくれ。おれはな、おまえと同じベルーラの出身なんだ。七つになるまでは、親父とお袋、そんで妹のアリッサと四人で暮らしてた。本当言うとあんまり覚えてはいないんだけど、とにかく幸せだった。だけどさ、おれたちの村は国境付近のそれも貧しい村だった。見限られるのは早かったよ。次に襲われるのはこの村だっていう局面になっても、待っても待っても国軍はやって来ない。大人たちは自分たちが戦うしかないと武器を手に取った。


 いよいよ敵がやってくるって時に、ようやっといくらかの兵がやって来たんだが、喜んだのはつかの間、そいつらの目的は村の防衛じゃなかった。おれたちの村が敵の手に渡った後、食糧源になったりしないよう先に奪いに来たってわけさ。そしてもう一つ、赤ん坊の回収も奴らの重要な目的だった。あんたたちみたいな戦士を育てるには、物心つく前から訓練を積まないとだめなんだと。虫唾が走るけどな。


 それで……アリッサは、村で唯一の赤ん坊だった。たぶんまだ一つにもなってなかったと思う。強引にアリッサを連れ帰ろうとする兵士を、親父とお袋は必死で止めようとしたんだ。殺すぞと脅されても、二人は絶対に引かなかった。痺れを切らした兵士は、二人を殺してアリッサを奪い取った。変だよな。幸せだったときの思い出はどんどん薄れていくのに、このときのことは全部覚えてるんだよ。


 兵士が使ったのは懐剣で、先に親父を切った。肩から腹までざっくり切られてさ、部屋一杯に血が飛んだんだ。アリッサが大泣きしてたよ。お袋も悲鳴を上げて、それでも胸に抱いていたアリッサは決して放さなかった。だから兵士はお袋も切って……首だったよ。親父のときよりも派手な血しぶきだった。兵士も、アリッサも血まみれになってた。兵士はお袋の死体からアリッサを掴みあげて、最後にこっちを見たんだ。泣き叫びながら、アリッサもおれを見てた。


 馬鹿だよな、おれ。何もできなかった。両親を殺されて、妹が連れ去られようとしているのに、何もできなかったんだ。後悔なんてもんじゃなかったさ。すぐにアリッサを連れ戻しにいこうと思ったけど、村人たちに止められた。一緒にオレーザへ逃げようと言われて。断ることはできたはずなんだ。だけど、おれはしなかった。結局怖かったんだよ。我が身かわいさに妹を見捨てたんだ。最低な奴さ。でも全て忘れてのうのうと生きられるほど、肝が据わってもいなかった。十六まで村人たちに育てられて、それから兵に志願したんだ。もちろんオレーザのな。早く戦争を終わらせないといけないと思った。あんな国潰さなきゃいけないって。それと、もしかしたらアリッサに会えるかもしれないって思ったけど、アリッサはおれなんかには会いたくないだろうな。生きているなら、だけどさ。


 長いこと戦い続けて、そしてアンレッタに来た。勝ったのはいいが怪我をして、砦に残ったんだ。ほら、ここ。たいしたことないけどな。暇つぶしに行方不明者の捜索をしてたら、あんたを見つけた。ごめんな、最初はちょっと怖かったよ。あんたらすごい強いからな。だけど、よく見たらまだ若い女だった。アリッサはきっとこれくらいの年になってるだろうな、って思ったんだ。それで、気付けばあんたを負ぶってた」


 ◇


 生まれてからずっと、壊すことだけを教えられて生きてきた。壊すことがすなわち、彼女たちにとっての生であった。懇切に介抱されて起き上がれるようになったアリッサは、利き腕を失えど、まだ十分に役目を果たせる力を持っていた。


「アリッサ、敵、壊します。あなた、敵ではない。アリッサ、敵、壊します。ご命令を」


 栗の殻を剥く作業を止めて、男は背後に立つアリッサを見上げた。


「アリッサ、前にも言ったろう。人は壊すんじゃない、殺すんだ」


「はい。アリッサ、敵、殺します。ご命令を」


「オレーザではさ」


 男は再び殻を剥く作業に戻る。爪でひびを作り、上下から力を加えて、二つに割る。そこから黄色い実を取り出して。


「戦うのは、志願した者たちだけなんだ。望んだ者だけが戦地へ赴く。アリッサ、おまえは人を殺したいわけじゃないだろう。殺さなくていいんだ。戦場になんて行かなくていい」


「アリッサ、殺さない?」


「そうだ」


「アリッサ、殺さない。分からない。アリッサ、分からない。ご命令を」


 人を殺さないでいいなら、己は何をしたらいいのか、アリッサには分からない。男は再び振り返った。しばらくアリッサの発した言葉の意味を考えて、視線を彷徨さまよわせる。


「人に命令されててやることは、おまえがやりたいこととは違うよ、アリッサ。やらされてるんだ。自分のやりたいことを見つけるといい。何をしたらいいのか分からないなら……そうだな、おまえくらいの年の女は何をするんだろうか。町で喋ったり、買い物をしたり、そんなとこかな」


「分からない」


「おれも詳しくないんだよ。もう少し元気になったら町に連れて行ってやりたいけど、この近くに町なんてあったかな」


「アリッサ、敵、殺さない。あなた、敵、殺さない?」


「おれ? おれは……そうだな、また殺すかもしれない。早く戦争を終わらせないと」


「あなた、敵、殺します。敵、殺したい?」


「殺したい、はちょっと違うな。好きで殺してるわけじゃない。戦いたいってのが正しいかな」


「あなた、敵、殺します。敵、あなた、殺します?」


「ん、それはそうだろうな。敵だって死にたくないだろうから」


 アリッサは知らない。このとき自分が、眉間を寄せて、眉根を下げて、唇をきゅっと結んだことを。それはそれは悲しそうな顔をしたことを。


「どうした?」


「いいえ、いいえ、いいえ。敵、あなた、殺します。いいえ、いいえ、いいえ」


「アリッサ?」


「いいえ、いいえ、いいえ。敵、あなた、殺します。いいえ、いいえ、いいえ。アリッサ、敵、殺します」


 彼女は生まれてからずっと、壊すことだけを教えられて生きてきたのだ、人に親切にされたことなんて、最初の半年を除けば一度もなかったろう。けれども目の前の男はアリッサに親切にしてくれた。動けぬアリッサを気遣い、食べ物を口元まで運び、包帯を換え、頭を撫でて、人間らしく語りかけ。どこまで彼女が彼の親切を理解できていたのかは分からない。それでも、彼女は認識し始めていた。彼によって広がっていく世界と、彼女の中での彼自身の存在の大きさを。彼が彼女にとって、どれだけ大切であるかを。それを伝える言葉は、ひとつとして持ってはいなかったのだけれど。


 ◇


 アリッサは悩んでいた。男がいなくなってしまうことを恐れ、どうすれば防げるのか、悩んでいた。男は戦地に赴く様子はなかったが、時折小屋から消えた。食べ物の調達に出ていることをアリッサに告げていたが、そのたび彼女は己の中で膨れ上がるよく分からないものに脅えた。不帰の予感。不安だ。彼女はそれが嫌いだった。だから男が帰ってくるたびに瞳を明るくし、同時に次の懸念をした。アリッサの感情は小屋に連れて来られる前とは比べ物にならないほど豊かになっていた。それが悲劇の種になると、一体誰が予想したろう。


「じゃ、アリッサ、いってくるから。留守番頼むな」


 いつものように、男は出かけようとした。アリッサの目が陰る。彼女が人間らしい感情を表しつつあることに、彼は喜びを感じていた。悪魔だ鬼だと恐れられている彼女たちでも、やはり人であると。彼はアリッサと妹を重ね合わせていた。妹が彼のもとへ帰ってくるような心地さえしたのだ。一方、アリッサは次こそは帰ってこないかもしれないと不安を募らせていた。もはや限界値だった。共に行くという選択を思いついてさえいれば、不安な気持ちを伝えられる言葉を持っていたら、あるいはこれからの悲劇は未然のものとなったかもしれない。残念なことに、実際はそうではなかった。


 アリッサは考えたのだ。行って欲しくない、そのためにはどうすればいいかと。言葉で伝えることは以前した。うまくはいかなかった。ならばどうすればいいか。アリッサはなにもできない。壊すこと以外にはなにもできない。男が提げていたダガーが目に入ったのは、ちょうどそのときだった。不運なことにも。


「アリッサ?」


 アリッサはほとんど回復していた。彼女の動きは戦地のそれであった。素早く男の背後に回り、ダガーを引き抜き、そして横一線に。重い音がした。一度、そして二度。赤が迸る。見慣れた映像だった。アリッサを、男を、もげた男の左足を、世界を、染めて、染めて、染めて。


「アリッサ……」


 アリッサの選択は、男の足を落として動けなくさせ、彼女の前から消えることをやめさせる、というものだった。上手く言葉を扱えない彼女には、伝えるために、そうするしかなかった。だが、彼女は知らない。首を撥ねなくとも、四肢すべてを落とさずとも、胴を絶たずとも、人は血さえ流れれば簡単に死んでしまうことを。そして彼女は知らない。その血を止める方法を。アリッサは壊すこと以外、殺すこと以外、なにも知らない。だから彼女は立ち尽くす。赤い世界に、ひとり、呆然と。見慣れた映像だった、しかし、何かが違う。苦しい。息ができない。


「なあ、アリッサ、やっぱりおまえはアリッサだったのか。おれを恨んでいたのか。おれを殺したかったのか」


「いいえ、いいえ、いいえ」


「アリッサ、ごめんな。おまえを見捨ててごめんな。ずっと謝りたかったんだ。アリッサ、おまえに」


「いいえ、いいえ、いいえ」


 いいえ、いいえ、いいえ。いいえ、いいえ、いいえ、いいえ、いいえ。アリッサ、あなた、殺さない。アリッサ、あなた、殺さない。アリッサ、あなた、殺さない。アリッサ、アリッサ、あなた――


「会えてよかったよ、アリッサ。こうなっても、会えてよかったんだ。なあ、おまえ、ちゃんと人だよ。悪魔でも鬼でもない。人だ。ちゃんと笑うし、泣きそうになるし、ほら、こうやって恨むこともできる。なあ、おまえ、人だよ。よかった」


 いいえ。アリッサ、恨まない。いいえ。アリッサ、あなた。


「アリッサ、ごめんな。ごめんな。ごめ――」


 あなた、殺される。あなた、アリッサ、殺される。アリッサ、あなた、殺します。いいえ、いいえ、いいえ。アリッサ、あなた、殺さない。アリッサ、あなた、アリッサ、あなた、アリッサ、あなた。あああああああ。あああああああああああああ。ああああああああああああああああああああああああ。


 男は、じきに、動かなくなった。アリッサは男をひしとかき抱き、決して放さず、ひとり涙した。アリッサ、あなた。その先に続けるべき言葉を教えてくれる人は、もうない。だからアリッサは繰り返す。ただただ繰り返す。アリッサ、あなた。アリッサ、あなた。アリッサ、あなた――


 アリッサ、あなた。

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